昨日今日と、基本的に孫守から「解放」されて、自由時間を得ました。とはいえ、この暑さでは、どこへもお出かけする気も起こりません。
少しだけ朝散歩をと、7時過ぎに家を出て歩き始めましたが、もう強い日射しです。
蝉の声が、朝から最高潮です。
アブラゼミ。
クマゼミ。
これはカワセミ。(2番煎じのオソマツ)
レンズが18mm-250mmズームですので、望遠が足りません。大幅トリミングします。
マクロレンズを主に使うつもりで歩いたのですが、こんな時に限って望遠レンズを用意しなかったことが悔やまれます。
露の雫も、日射でかなり蒸発してしまっているらしく、わずかしか見つかりません。もう少し早朝に歩かなくてはいけません。
フヨウ。
キバナコスモス。
タチアオイ。
やはり散歩には、望遠系が必須ですね。
ウチワヤンマ。
250mmではちょっと遠いです。
トリミングします。
アカトンボ。アキアカネでしょうか?
ノートリミング画像はこの程度。
トリミングします。
稲の葉に止まっていました。
逃げた後をよく見ると、脱皮の後でしょうか?
アカトンボについては再三記事にしてきました。古いところでは、忘れ得ぬ故郷(ふるさと)永遠(とわ)に赤とんぼ(2013.9.23
一 夕焼、小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か 二 山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)摘んだは まぼろしか 三 十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた 四 夕焼、小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先 三木露風は、数え年七歳で母と離れ、可愛がってくれた「姐や」も嫁いでゆき、寂しい幼少年時代を送ります。 この歌について、後に作者自身、こう語っています。 「思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう。幼年の時故郷にいない者は稀である。幼年と故郷、それは結合している。であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである。 私は多くの思ひ出を持っている。「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった。 「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。」(露風 「赤とんぼの思ひ出」 『日本童謡全集』 より) 夫の放蕩がもとで離婚し、故郷の愛児と別れて生地の因幡に去ることになった露風の母は、後に、鳥取県の生んだ女性解放運動の先駆者として知られる「碧川かた」と言う女性でした。ウィキペディアの記事 (中略 ) 「赤とんぼ」の歌にまつわる、次のエピソードも忘れられません。 《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。 当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。 「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」 母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。 「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》(朝日新聞2008.9.20記事) | ||
砂川闘争の話題は、次の記事でも書きました。
赤とんぼと桑畑とムクドリと。
今日も、ブラックベリーがこんなに採れました。
果実酒はつくっているのですが、子どもにも提供できるように、ジュースにしてみました。桑の実サワーシロップ(酢+砂糖)とブレンドしてみました。
これにさらに果実酒をブレンド。
やはり、大人味でした(笑)。
気づかずにいるとこんな巨大キュウリが出来ました。
30cm定規と比べています。
金瓜も採れましたが、貧相。
今日はこれにて。