この伝統を受け継いで、平成8年、平成12年には「歌舞伎専門職員」を採用するなど、町を上げて保存と振興に取り組んで来たのだそうです。
私も前々から 「横仙歌舞伎」の名は知っておりましたが、田舎の農村に細々と伝わってきた、地味で稚拙な素人芝居の有様を、根拠もなくイメージしておりました。しかし、それは、偏見に満ちた先入観というものでした、
会場の大ホールに入ってみますと、定員480名という大会場が一杯の観客で埋まっています。
元NHKアナウンサーの葛西聖司さんの軽妙な司会で、最初に登場したのは「こども歌舞伎教室・歌舞伎音座お囃子隊」による「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」。
三番叟を舞う3人の女子中学生の、凜としてなお艶のある舞姿もお見事。背後に居並ぶ三味線、鼓、その他のお囃子も、堂に入ったもので、完成された「芸」の魅力に圧倒されました。
舞台には、観客から次々と投げ上げられるおひねりが あちらこちらに散らばり、微笑ましいムードのうちに幕が閉まります。
この日2番目の演目は、横仙歌舞伎保存会による「絵本太功記十段目尼ヶ崎の場」、保存会の十八番演目だそうです。
この演目についてウィキペディアにはこう解説してあります。
『太
閤記』の主人公は勝者である太閤豊臣秀吉だが、『太功記』の主人公は敗者である明智光秀である。本作はその光秀が本能寺の変で織田信長を討ってから、天王
山の合戦で秀吉に破れて滅ぼされるまでの、いわゆる光秀の「三日天下」を題材にし、『川角太閤記』や『絵本太閤記』から多くの逸話をとり、先行する『三日
太平記』[1]を下敷きとして書かれたものである。寛政9年 (1797)
から編を重ねて最終的には5年間で7編84冊を刊行した『絵本太閤記』は、当時大評判をとっていた読本で、本作もその人気に便乗するかたちで同時期に書か
れている。
構成は、光秀が謀反を決意した天正10年6月1日から、秀吉との戦いに破れ小栗栖の竹薮で落武者狩りの土民の手によって落命す
る同13日までを、実録風に一日一段で描く異例の多段式(人形浄瑠璃は全五段で書かれることが多い)。これに「発端」がついて、実際には十四段構成となっ
ている。
全段通じての山場は十段目「尼ヶ崎の段」。逆賊の汚名を着ることになった光秀が、誤って自らの手で母親を刺し殺してしまい、そこ
に戦場で深手を負った息子が戻ってきて、味方の敗北を伝え息絶えるという、悲壮感が追い打ちをかけるような名場面。歌舞伎では初演以後は専らこの十段目の
みが上演されるようになり、「太功記」といえば「十段目」だったので、やがて本作のことを『太十』(たいじゅう)と通称するようにもなった。
あらすじ
主君・尾田春永から辱められた武智光秀は、ついに耐えられなくなって謀反を決意しこれを討つ。一方、高松城主・清水宗治と対峙していた真柴久吉は、これを知ると宗治を切腹させ、急ぎ小梅川(史実の小早川)と和睦を成立させる。
だ
が光秀の母である皐月は、これに怒って家出してしまう。光秀は腹を切ろうとするが諫められ、久吉を討つため御所に向かう。尼ヶ崎に皐月は引きこもるが、光
秀の子・十次郎とその許婚である初菊ととも祝言をあげ、十次郎は出陣する。その時ある僧が宿を求めていたが、後から来た光秀はこれを久吉と見破り、障子越
しに槍で突いた。だがそこにいたのは皐月であった。そこへ瀕死の十次郎が帰ってくる。もはや戦況は絶望的である。皐月も十次郎も死んでしまい動転した光秀
の前に久吉と佐藤正清が現れ、後日天王山で再び会うことを約束し、去っていく。
稽古を積んだ役者の演技、舞台衣装、小道具、背景、、、、どれをとっても、息を飲むできばえです。画竜に点睛を加えているのは、熱演の義太夫と三味線の完璧さ。これを聞けただけでも、来た甲斐がありました。
これだけの舞台を完成させるには、日頃の修練とご準備が大変だったろうと推察されます。しかも、おのおのの方々がボランティア的に自分の時間を割きながら、たびたび集い合っては、一つ一つ積み重ねるように築き上げていかなければならない。その意味では、優れて地域の人間関係づくり、「コミュニティ」づくりに関係している、というようなことを考えさせられました。
そして、連想したのは、たとえば学校の文化行事、文化祭などのとりくみが、規模はミニチュアながらも、共通した性格を帯びているように思えました。ミニチュアとはいいましたが、それはある種、子ども達の生き方や人生を揺さぶるような、ダイナミックな感動の体験を生み出すこともしばしばありますから。
と思いながら、亡くなった畏友H氏を思い出していました。
彼の趣味は、いささか古風なところがあって、若い頃から歌舞伎を観に、京都や東京によく出かけていましたっけ。そのエピソードも含めて、彼のことは、この記事やこの記事で偲びましたが、高校教師であった彼は、在職中、クラスづくりや文化行事に情熱を傾けて、つねに斬新な試みを重ねていました。その苦労が、彼には楽しみであったのでしょうが。
その一つに、ある年の文化祭のクラス発表で、気が進まず別の出し物を提案する生徒の存在をも尊重しながら、 歌舞伎の「勧進帳」を、見事に成功させたとりくみがありました。彼の逝去を惜しむ「追悼会」では、そのとき、富樫を演じた教え子の女性が、その時の思い出を交えて、心にしみるスピーチをしてくれました。
思い出しついでのメモで恐縮ですが、私も編集の一員に加わって編んだ追悼文集に、私はこんな言葉を寄せました。
高校教育における文化祭行事は、生徒たち自身が、「文化」という看板を掲げた一つの「非日常」のとりくみ、とりわけ仲間同士の人間的な(従って文化的な)交流・軋轢・葛藤とその解決の過程の経験を通じて、未来の主権者=地球市民たるに必要な自治のちからを身につけていく、最大・絶好の機会といえます。それゆえ、その根底には、生徒自身の自主・自立のちからを信頼し、それを最大限発揮できるよう、心を砕き、必要なサポートを臨機応変に提供できる教師集団の存在が強く求められます。
地域の文化行事にこれを置き換えてみると、「それを最大限発揮できるよう、心を砕き、必要なサポートを臨機応変に提供できる」自治体行政の前向きな姿勢がが強く求められます。ということにもなるでしょうか?
とっぴんぱらり。