そういえば、大阪が会場だったっけと、今更気づくのもうかつと言えばうかつです。
「なみはや」ということばがしっくり意識に刻まれていなかったのですね。
車の中で、ぼんやりと、そうか「浪速」を訓読みしたのかと気づきました。
あとで調べてみますと、正式名称は「大阪府立門真スポーツセンター」で、1997年の「なみはや国体」(夏季大会)のメイン会場として建設されたそうですね。
大阪には、一時期「なみはや銀行」という銀行も存在したそうです。なにぶん田舎者で、知りませんでした。
ウィキペディアの知恵を借りて「なにわ」を調べてみると、こうありました。
なにわは、大阪の古称・古地名(古代から使われ、呼ばれている地名)。漢字では「難波」「浪速」「浪花」「浪華」、万葉仮名では「奈尓波」「奈仁波」などと表記される。
ちなみに、次男の車のナンバープレートは、ひらがな書きの「なにわ」です。
ところで「枕草子」にこんな場面があります。
「清涼殿の丑寅(うしとら)の隅(すみ)の」という長い章段です(能因本・第20段、三巻本・第23段)。
清涼殿は、宮中にある天皇の御殿で、その丑寅の方角(北東)にある部屋が舞台です。ここに、この日も、清少納言が仕える憧れの中宮定子と、一条天皇、そして定子の兄である大納言・藤原伊周(これちか)らがいて、従者や女房たちが側にはべっております。
陪
膳つかうまつる人の、男(をのこ)どもなど召すほどもなく、わたらせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と、仰せらるるに、目は空にて、唯おはしますをのみ見奉れ
ば、ほとど継ぎ目も放ちつべし。白き色紙(しきし)おしたたみて、「これに、ただ今覚えん古き事、一つづつ書け」と仰せらるる。
外に居給へるに、
「これは、いかが」と申せば、「疾(と)う書きて参らせ給へ。男は言(こと)加へ侍ふべきにもあらず」とて、さし入れ給へり。御硯とりおろして、「とくと
く、ただ思ひまはさで、難波津も何も、ふと覚えん言を」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面(おもて)さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。
【解釈】
お食事の配膳係の方が、食膳を下げる男たち(蔵人)を呼ぶ間もなく、帝(一条天皇)がおいでになった。
(中宮定子様が)「お硯の墨をすりなさい」とおっしゃるが、私の目はうつろで、ただいらっしゃった帝のお姿だけを拝見しているので、うっかり墨ばさみと墨の継ぎ目を外してしまいそうになった。
(中宮様は)白い色紙を折り畳んで、「これに、今思い浮かぶ古い昔の歌を、一つずつ書いてごらん」とおっしゃった。
御簾の外にいらっしゃった大納言(伊周)様に、「これはどのようにすればよろしいでしょうか?」と申すと、(大納言は)「早く歌を書いて差し上げなさい。男があれこれ申し上げるべき状況でもございませんので」と、色紙をこちらに戻してこられた。
(中宮定子様は)お硯私の方へ差し出して、「早く早く。何も深く思い悩まずに、難波津(なにわづ)でも何でも、ふと思いついた歌を」と強いなさいますので、どうしてそんなに気後れしてしまったのか、もう顔までも真っ赤になってしまって頭が真っ白になってしまいましたわ。
清少納言は、著名な歌人であった清原元輔(もとすけ)の娘であり、彼女の曽祖父(祖父との説もある)は、『古今和歌集』の代表的歌人、清原深養父(ふかやぶ)
でした。ですから、彼女の和歌の素養は、その生い立ちからして群を抜いたものがありました。でもその故に、かえって、特別のプレッシャーも持っていたよう
で、彼女が残したとされる和歌はわずかです。
しかも、中宮定子に対しては比類のない憧れと敬愛の念を抱いており、その前では、とても和歌の素養をのびのびと発揮するような心の余裕はなかったのでしょう。
「難波津でも何でも、ふと思いついた歌を書いてごらんなさい」という定子の言葉は、いたわりを込めた思いやりでしたが、清少納言の緊張はほぐれるものではなかったようです。
ところでこの「難波津」とは、古今集「仮名序」に、王仁(わに)の作として紹介されている
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
の歌をさします。
「難波津に、咲いたよ、この花が。今はもう春になったので、咲いたよこの花が。」というような意味になります。「この花」は、桜ではなく梅の花だと伝えられています。
応神天皇の後継を巡って、3年間も譲り合いが続いたあと、仁徳天皇が難波高津宮で即位したことを祝って、百済(くだら)の王仁(わに)博士が、梅花にこの和歌を添えて奉ったと伝えられているそうです。
この歌は、前述の古今集「仮名序」に「手習ふ人のはじめにもしける」とあるように、古来、お習字の手本として用いられ、誰もが欲知っている歌とされていたようです。
この歌にちなんで、現在、大阪市には「此花区」と「浪速区」が存在しますね。また、「難波」と書いて「なんば」と読む地名もあって、ややこしいです。
古
くは、『古事記』に、神武天応が東征するくだりで、「浪速(なみはや)の渡(わたり)」を経て白肩津(しらかたのつ)に停泊していたところ、登美能那賀須
泥毘古(とみのながすねびこ)の攻撃を受け苦戦するエピソードが語られていますし、『日本書紀』にも、浪速(なみはや)は浪花(なみはや)とも言ったが、
今はなまって難波(なには)と言うとの記述があるそうです。
「なにわ」より「なみはな」のほうが古い呼び名だなんて、知りませんでした。
お後がよろしいようで。