閉所に拘束されて気分が悪くなった友人もいますが、私は、この検査には慣れてしまって、うとうと居眠りをしているうちに終わりました。
結果を聞くのは来週です。
検査が終わり、待合室のテレビを見ていたら、「 安保法案、与党が単独で委員会採決を強行」とやってました。想定されたとおりの成り行きなので、驚きは薄いですが、どの世論調査を見ても、法案への疑念や反対意見がうなぎ登りに増え、内閣支持率も急速に下落しているもとで、しかも安倍さんご本人も、「まだ国民のみなさまのご理解が進んでいないのも事実」と認めながら、なぜそこまで15日採決にこだわりますかね。7月15日が、安倍首相の祖父・岸信介元首相の退陣の日で、そのリベンジのため?まさかね。
16日(木) 台風が近づいています。我が地方でも、午後に警報が出され、影響も拡大しています。アルバイト仕事の方も、手隙になって、早めに家に帰りました。
帰り際のカーラジオで、ちょうど衆院本会議の模様が中継中でした。
これで法案は参院に送られ、たとえ採決に至らなくても、「60日ルール」で衆院で
再議決→可決・成立というシナリオでしょう。元々、昨年暮れの総選挙で、与党が三分の二を獲得した時点で、どんな法案であってもこの方法でごり押しできる条件を得たわけですから、今更驚くわけにも行きません。
それを作ったのは国民=選挙民であって、一概に政府のせいとは言い切れないとも言えますが、ただし、国民が主権者であるのは、選挙の時だけではありません。国民主権・民主主義ていうのは、選挙で白紙委任して、あとはお任せというシステムではないですからね。
駆け足の備忘録でした。
13日(月)の記事の補足です。
私のブログでも、これまで何回か「蟹工船」や、その作者小林多喜二に触れたことがありました。
たとえば、こんな記事。
2013-12-24
2014-02-02
2014-02-10
2015-02-20
2015-03-05
2015-03-15
去年の2月に書いた
「凍雪(いてゆき)のなお屋根覆う多喜二忌か」という記事にこんなことを書きました。再掲します。
2月20日は、多喜二忌。 去年の京都新聞2月21日付記事を引用します。
「おい地獄さ行ぐんだで!」。数年前ブームになった小説「蟹工船」の冒頭だ。きのうは作者小林多喜二が29歳で没して80年の命日だった▼虐殺だった。非合法 の共産党に加わっていた多喜二は特高警察に捕まって拷問を受け、亡くなった。変わり果てた遺体の胸をなでながら老母は「どこら息つまった。何も殺さないで もええことウ」と泣いたという▼国会議事録を調べると、宇治市出身の衆院議員山本宣治が多喜二が死ぬ5年前、国会で思想犯に対する違法な拷問を追及してい る。しかし政府は「断じてこれ無し」と否定した。山宣自身は翌年、右翼に暗殺された▼多喜二の遺体は山宣のいとこの医師安田徳太郎が検視した。「死因は心 臓発作」という当局のうそを暴こうと同志たちは大学病院に解剖を依頼したが、圧力で断られた。弔問客は片端から逮捕された▼作家松本清張は「時代を象徴し た死」と評した。この年、日本は国際連盟を脱退し、京都大で滝川事件があった。治安維持法違反で拘束され、死亡した人は約1700人という。多喜二が受け たすさまじい暴力とこの数字を見合わせたとき背筋が冷たくなる▼21歳のとき恋人に宛てた手紙の一節はいう。「闇があるから光がある」。無数の犠牲の上に 自由と人権が保障された今の世がある。蟹工船を再読しつつ、光のありがたさをかみしめる。 [京都新聞 2013年02月21日掲載]
多喜二のお母さん、小林セキさんは、多喜二の代表作の一つ「党生活者」にも、特高警察に追われる愛息を心配して思いやる純朴な、等身大 の老母として登場し、そのいいじらしさ、けなげさ、気丈さが涙をさそいます。
また、三浦綾子さんの「母」という作品も、このセキさんの目を借りて、多喜二を、そして彼が生きた時代を描いた佳作です。
(中略)
この辺まで書きかけて、そうだ、昔、高校生向けの学級通信で、多喜二忌を話題にしたことがあったっけと、探してみました。 ありました! SHARP製のワードプロセッサで書いた文章を、後にtextファイルに変換して、保存していた物です。コンピュータといえば、NECの9801~9821といったシリーズが全盛の頃で、私には敷居が高い気がして、近づくのを敬遠していました。 今考えても、ワープロ専用機は、私レベルの仕事にとっては、不足のない優れもののツールだったと思います。 (中略) 話をもどして、昔の学級通信の記事はこんなものでした。
あー またこの二月の月か きた ほんとうに この二月とゆ月 いやな月 こいを いパいに なきたい どこい いても なかれ ない あー ても ラチオで しこし たしかる あー なみたか てる めかねかくもる
一九六一年、八八才で亡くなった小林セキさんの遺品の中から、上のようなたどたどしい鉛筆がきの、一枚の紙片が見付かった。解読すると、次のような意味になるのだろう。
ああ、またこの二月の月が来た 本当に、この二月という月が、 いやな月、声を一杯に泣きたい どこへ行っても泣かれない ああ、でも、ラジオで 少し助かる ああ、涙が出る 眼鏡が曇る
小林セキさんとは、「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家、小林多喜二のお母さんだ。読み書きのできない小作農の娘として育ったセキさんは、五七才 の手習いで、「いろは」から字を習い始めたという。一九三〇年“治安維持法違反”で投獄された我が子・多喜二に、自分で手紙を書きたい一心で。 翌三一年、出獄後に書いた作品「独房」の中で、多喜二は、主人公にこう語らせている。
「俺達はどんなことがあろうと、泣いてはいけないそうだ。どんな女がいようと、ほれてはならないそうだ。月を見ても、もの思いにふけってはいけないそう だ。母親のことを考えてメソメソしてもならないそうだーーー人はそういう。だが、この母親は、俺がこういう処に入っているとは知らずに、俺の好きな西瓜を 買っておいて、今日は帰って来る、明日は帰って来るといって、食べたがる弟や妹にも手をつけさせないで、しまいにはそれを腐らせてしまったそうだ。俺はこ こへ来てから、そのことを小さい妹の、仮名交じりの、でかい揃わない字の手紙で読んだ。俺はそれを読んでから、長い間声を立てずに泣いていた。」
治安維持法を振りかざす天皇制政府・軍隊・警察権力は、「国体」の変革、すなわち絶対主義天皇制から民主主義への変革の志向を“最悪の罪”とみなして、 死刑を含む重刑と凶悪なリンチによっていっさいの民主的・進歩的運動と言論の封殺をはかった。(そして、その歩みの先には、無謀な侵略戦争が待ち受けてい た。)
この弾圧を逃れるため、地下活動(非公然活動)に入って執筆活動を続けていた多喜二は、詩人今村恒夫と共に特高警察に捕らえられた。そして、激しい拷問 によってその日のうちに殺害され、変わり果てた姿となって母親と再会することになった。一九三三年二月二〇日のことだった。
検察当局は、死因を心臓麻痺と発表。遺体の解剖を妨害し、二二日の通夜、二三日の告別式の参会者を片端から検束し、火葬場まで警戒を解かなかった。通夜 に供えの花をもって行き杉並署に検束された作家・宮本百合子は、「(小林多喜二のところへ来た人達で)留置場は一杯になっていた。少なくとも、女の室は満 員だった」と記している。 遺体のひきとりから葬儀の一部始終に立ち会った作家・江口渙は、通夜の席でのお母さんの姿を、次のように書きとどめている。 「こみあげてくる悲しさに耐え切れなくなったものか、お母さんは、小林の顔や髪になおも涙を落としながら、抑えきれない心の悲しみを、とうとう言葉に出して訴える。
『ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや、子供のときからあんなに泳ぎが上手でいただべにーーーー心臓麻痺なんて、嘘だでや。嘘だ でや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて、いきがつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべか。いきのつまるのが、いきのつまる のがーーーああ痛ましや。』 お母さんはなおも小林多喜二のからだを抱きかかえてはゆさぶり、また揺さぶっては抱きかかえる。そして、あとからあとからあふれでる涙に顔を一面ぬらしながら同じ言葉を訴えていたが、突然、 『これ。あんちゃん。もう一度立てえ!皆さんの見ている前でもう一度立てえ!立って見せろ』と前身の力をふりしぼるような声でさけんだ」
それから、三十年近くも、毎年毎年、二月が来るたびに、眼鏡を曇らせて悲しみにくれた老母の無念を、私は思わずにはいられない。ああ、またこの二月の月が来た。 奇しくも今年の二月、しかも多喜二忌の直後に、昭和天皇の「大喪」とやらが、百億円の巨費を投じて国家的行事として催されると言う。数十万人にのぼる治安維持法犠牲者、そして、無数の多喜二の母たちにとっては、複雑な思いの二月となることだろう。
読み返してみて、この学級通信の文章を書いたのが、昭和の終わりの年だったことが思い出されます。早くも、四半世紀を過ぎたわけですね。
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今年の3月5日(山宣忌です)の記事(
2015-03-05)にも同様のことを書いた後、こんなことを付け加えました。
以前、高校生向けに、こんな授業用プリントを作りかけましたが、実際には用いることなく終わり、未公開の反故となりました。 この際ご紹介させてください。
次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 (中略) 解答用紙 組 番氏名
問一 文章中の傍線部a~zのカタカナは漢字に直し、漢字の読みを施せ。
答 省略
問
二 傍線部①「山宣」は、「やません」と読み、戦前の労農党代議士のニックネームである。彼は、唯一人、帝国議会で治安維持法改悪に反対したが、それを憎
まれて1929年三月五日、右翼に襲撃され.暗殺された。彼の墓碑には、「山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持している から」という演説の一節が刻まれている。彼の姓名を正しく漢字四文字で書け。
答 山本宣治 問三 (1)傍線部②蟹工船は小林多喜二の小説の題名だが、その冒頭の書き出し部分を示せ。
答 おい地獄だ行ぐんだで!
(2)また、これからどこへ行こうというのか?端的に示せ。
答 水揚げしたタラバガニを船上で缶詰に加工するための「蟹工船」に、低賃金・無権利の労働者として乗り組んで、オホーツク海のカムチャツカ半島沖海域に向かい、そこで命がけの過酷な労働に従事しようとしている。(あらまし、このよう内容が答えられていればよい。)
問四 傍線部③の空白部分に適切な語を入れ、慣用表現を完成させよ。
答 敷居が高い
問五 傍線部④「こういう処」とはどういうところか?文章中の最も適切な語(漢字二字)で答えよ。
答 独房 |
ご時世柄、「偏向教育」のレッテルが被せられかねませんが、私は偏向とは思いません。文章をちゃんと読み取る力と、ものを考え、自分で判断するための教養の基礎を養う上で、十分許容される教材だと信じます。精選された、極上のものと言うつもりはないですがね。
でも、いかんせん、主として授業時間のゆとりがないという理由で、反故にしました。いや、実は、内心、現在の高校生に受け入れられず、冷ややかにスルーされることを恐れる思いもあって、使用を躊躇したのです。
でも、18歳選挙権が現実のものとなった今は、歴史、社会、政治について、自ら理解し判断する力を養い、そのための客観的材料を、ますます精選して、教材として提供することが、以前に増して重要になっていると思います。
「マスコミを懲らしめる」なんてことを平気で考える人達ですから、政府の方針をそのまま伝えないような不逞な教員は、教壇から排除したいと思うのでしょうがね。
晩年、多喜二の時代を静かな筆致で描いた「銃口」が思い出されます。その悲劇を繰り返したくありません。
その三浦綾子さんが、多喜二の母を題材に書いた「母」は、母性を描いた古今東西の名作の中でも、特筆すべき佳作だと、私は思います。
母 (角川文庫)
- 作者: 三浦 綾子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/06
- メディア: 文庫
多喜二自身が描いた“母”像をもう一度ご紹介しておきます。
だが、この母親は、俺がこういう処に入っているとは知らずに、俺の好きな西瓜を買っておいて、今日は帰って来る、明日は帰って来るといって、食べたがる弟や妹にも手をつけさせないで、しまいにはそれを腐らせてしまったそうだ(「独房」より) |
昨日は検査の後、炎天下の畑を見てきました。
ジャガイモを少し掘り、トウモロコシを少し収穫し、サツマイモのまわりの草取りをしましたが、暑さにへこたれました。
期待していたスイカの蔓が、枯れてしまっていました。
もっと大きくなるかと待っていましたが、仕方がない。小玉西瓜サイズを、とって帰りました。
真っ黒い皮の、大玉に育つはずの品種でしたが、さしずめ、ハンドボールくらいの大きさですかね。
でも、みずみずしくて、孫たちには好評でした。
すでに容量オーバー気味ですので、観劇の感想を箇条書きにします。
①冒頭を「おい地獄さ行ぐんだで!」で始めて欲しかったです。
②過酷なオホーツクの海が、みごとに演出されていて、船酔いしそうなリアルさでした。
③少しずつ目覚めていく労働者群像、類型化を脱することの難しさを感じます。
④
スターリンの酷さが白日の下にさらされた今となっては、「労働者の故郷・ソビエトロシア」の幻想を信じ、あこがれる若者の造形は、歴史事実ではあったとしても、無惨を感じ、シラケを覚えます。村山知義さんが、当時の歴史的条件のもとででソ連の存在を好意的に描いたとすれば、それは、納得できることです。
が、仮に彼がいまも存命であったとしたら、いまの時点で、同じ描き方をしたでしょうか?いや、多喜二がいまも生きていたら、、、なんて、とりとめのないこ
とをあれこれ思いました。
⑤自分たちを守ってくれるはずの帝国海軍の駆逐艦が、銃剣を持って守ったのは、国の権益と資本家の利益、銃剣を向けた相手は虐められてきた労働者たち、このリアリティは、今日にも通じます。
「俺たちの味方は、俺たちしかいねンだゾ。」このリアリティもまた。
現在の「俺たち」は、当時以上にばらばらに寸断され、「味方」が見分けづらくなっているかも知れませんが、、。
⑥ソーラン節。良いです。
このような場面で、みんなが歌える歌って何でしょう?
「レ・ミゼラブル」でも、「カサブランカ」でも、「ラ・マルセイエーズ」の出番です。「ラ・マルセイエーズ」はフランスの国歌ですが、「君が代」が同じ役割を果たせるとは思えません。
「砂川闘争」では「赤とんぼ」だったそうですね。
今の時代、平和と民主主義を希求する「俺たち」がみな、自然に口ずさみ、励まされ元気づけられる歌は、何でしょうかね?
今日はここまで。