先日のこの記事で、木曾殿(源義仲)の最期の場面を話題にしました。
源義仲は、源頼朝の従弟にあたり、幼時、父・義賢が甥の源義平(悪源太)に殺されたあと、乳母(めのと)の夫である中原兼遠により、木曾の山中にかくまわれ成長したと伝えられます。
治承四年(1180)、後白河天皇の第三皇子である以仁王の令旨により、平家追討の挙兵をし、北陸道を経て真っ先に入京します。
その功績をたたえて、後白河法皇は、義仲に「朝日将軍」の称号を与えますが、次第に、軋轢が生じてきます、田舎者丸出しの粗暴な振る舞いが京の公家達の反感を買ったうえ、皇位継承問題にも口を出すなどに立腹した後白河法皇は、義仲平家追討の院宣与えて都から遠ざけ、一方で、密かに鎌倉の源頼朝に義仲追討を命じます。
寿永三年(1184)、義仲は、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍勢に追われ、悲劇的な負けいくさの末、粟津の松原(滋賀県大津市)で最期を遂げました。