しばらくご無沙汰しました。

22日(火)は、年金裁判の公判を傍聴してきました。傍聴席が満杯でした。

折しも、国会で年金カット法案が強行されようとしています。スガ官房長官は、「年金カット法案」の呼称を「誤ったレッテル貼り」と難癖を付
「いたずらに将来世代にツケを回すという無責任なものではなく、現在の受給世代にも少しずつ譲っていただきながら、公的年金制度の持続可能性を高めて、将来の給付水準の確保を図っていく」などと強弁しています。将来世代のために現在の受給世代に譲っていただくなどと、もっともらしくおっしゃっていますが、それはできの悪い詭弁というものでしょう。現在の受給世代に耐え難い我慢を押しつけることを皮切りに、結局のところ将来世代に至るまで年金レベルを切り下げようというのですから。安心できる年金制度を確立することは、現在の受給世代の要求であるにとどまらず、「将来世代」のための切実な課題でもあるはずです。

23日(水)は、一番下のゼロ歳児の孫とその母親(私の長女)を連れて、田舎の老父母の家へ行き、野菜をどっさりもらって帰りました。白菜も大根も、お店で見ると驚くほどの高値がついていて、迷った挙句買わずに帰ることがままあります。

寒いので可愛いキノコ帽子を着せようとしますが、異物と感じるのでしょうか、いやがってすぐに脱ぎます。

 

 

その夜は、長男家の女の子(姉)が6才の誕生パーティというので、お呼ばれしてケーキをいただきます。

前歯の乳歯が抜けて、生え替わろうとしています。はやいものです。

24日(木)は、アルバイト仕事を終えてから、大阪の孫のもとへ向かいました。
ママが4日ほど出張なので、留守の間、ちょっとお手伝いです。
ばあばはパートが抜けられないので、じいじの身軽さが便利です。
高速バスを利用して、夜の到着ですから、朝の保育園送りはママ、迎えはパパが夜8時頃済ませていました。
私が着いたpm10時頃にはまだ、姫も目が冴えていて、ひとしきり興奮して遊び、深夜の就寝になりました。聞くと、平生から、こんな様子だとか。都会の共働き世帯の子育ての定めでしょうか。通常、保育園迎えは、ママが仕事を終えて8時、パパの帰りが深夜になることも多く、その後家族団らんのひとときを楽しめば、子供も必然的に夜型生活になりがちでしょう。働き方改革は、労働者の命と健康、人間らしい生活のためばかりでなく、子どもの健康な成長のためにも不可欠の課題と痛感します。
祖父母が近くに住んでいればまだしも、いくらかの援助もできましょうが、核家族状態での子育て環境は、すこぶる過酷と言わなければなりません。
翌朝、つまり25日(金)、さすがに寝起きが悪く、保育園行きを渋りました。できればじいじが送りと迎えを買って出るところでしたが、仕方なく、パパが出勤前に送ることにし、じいじもそれについていきました。
別れ際には泣き顔です。聞き分けが良いようでも、甘えたい盛りの3歳児ですから機嫌を損ねるとてこずります。聞けばこんな後ろ髪ひかれる朝の別れが多いとのこと。全国津々浦々に繰り返される、子育て世代の朝の光景なのでしょう。
さて、その日のお迎えはというと、じいじがつとめましたが、孫は喜びはしゃぎ、コンビニで買ったあんパンも食べて、パパの会社帰りまで、天使のように上機嫌でした。

 


この日の昼間、ポッカリとわがものになった自由時間をどう扱うか、、。

午前中は洗濯など家事手伝いに少々時間を費やし、お昼ごはんがてら、プチ観光をたのしむことにしました。
行き先については、取り立ててよいアイディアも浮かばず、前々から私の脳には、大阪といえば大阪城という具合に刷り込みができていまして、例の2007年の脳動脈瘤手術を終えて、最初の検査日の帰りにも、海遊館と大阪城を訪ねたものでした。
ところで、孫の住まいは地下鉄鶴見緑地線の沿線にあります。大阪城に向かおうと、最寄りの地下鉄駅構内を歩いていると、NHK大河ドラマ真田丸ゆかりのスポットの観光ポスターが貼られていて、玉造駅下車すぐの三光神社、心眼寺などが紹介されていました。気ままなぶらり一人旅の気軽さで、にわかに思い立って、ここをたずねてみることにしました。

 
 


三々五々道をゆく観光客について、行き着いた三光神社には、真田の秘密の抜け穴なるものがありました。

 

 

 

 

すぐそばに幸村の銅像がありました。
 

関東でも初雪のニュースが伝えられる冷え込みが日本列島を襲う中でしたが、抜けるような青空に恵まれ、境内、参道は、色づいたイチョウやモミジが色鮮やかでした。

 

 
 
 
 
 
 
落ち葉の降り敷く小道を、そぞろ歩きしていますと、何やら無数の墓碑が並ぶエリアに出ました。
 
 
 
案内掲示板を見ると真田山陸軍墓地だそうです。
 
 
 
明治以来の戦死者、戦病死者をまつってあるようです。
詳しい解説があることを知りました。ごしょうかいさせていただきます。)
 
 
大小の墓碑、顕彰碑が立ち並ぶ中に、戦病死者の合同慰霊碑が並んでいました
明治三十七、八年戦役 戦病死者 合葬碑と刻んであります。
一番大きく立派なものは「将校同相当官」のものだそうです。
 
続いて、准士官、下士、兵卒とだんだん小さくなっていきます。
 

 
 
 
 


 
 
階級ごとに別の石碑が建てられ、しかもその大きさ立派さが見事にランク付けされていることが、軍隊内の序列の露骨さを感じさせ、死後までも差別がつきまとうことに、改めて衝撃を覚えたことでした。
 
 
次の目的地、心眼寺は、少し距離があり、途中道にも迷いつつ、ようやく到着。

 
 
 
お寺のたたずまいは、城壁の面影を残しているようです。
 
 
 
 
幸村の墓もここにありました。
 
現在の私立明星学園のグラウンドあたりが、真田丸が置かれた跡地だと言われます。
グラウンドを背に真新しい顕彰碑が建てられていました。
 
 
 


近隣の案内図によると、清水谷高校という学校が近くにあるようでした。学生時代の友人がその出身でした。教職についた後に、教育実践史を学ぶなかで、生徒の自治力形成を重視した民主主義教育の実践が豊かに積み重ねられた高校であったと知りました。校門だけでも一目見て帰りたい、と歩きまわりましたが、行き着けませんでした。残念。

玉造駅から一駅電車で移動して、森ノ宮下車。大阪城に向かいます。

このあとの「大阪城ぶらり旅」のもようは、 機会があればまた後日に譲るとして、今日はここまで。

どっとはらい。