昨日の記事の続きです。
「連作」短歌をもう少し、載せておきます。
「連作」短歌をもう少し、載せておきます。
追憶の歌 Iさんを偲ぶ(2) ――葬儀に参列して―― 初恋の人のごとくに慈しみ 語りいませし伊那の里辺ぞ 恋人の名を呼ぶがごと語りありし 伊那の里辺に眠れるか今は |
追憶の歌 Iさんを偲ぶ(2) ――葬儀に参列して―― 初恋の人のごとくに慈しみ 語りいませし伊那の里辺ぞ 恋人の名を呼ぶがごと語りありし 伊那の里辺に眠れるか今は |
Iは昭和39年に東大を卒業して国語の高校教師の資格を得て、I県、長野県、S県の教員試験を受け合格しました。 東京都は学生運動をしていたのが知られてるから採用されないだろうと受けなかったのです。 彼は私の希望をきいてくれI県を選んで内定を受け赴任高校も決まっていました。 H高校でした。 私は両親の側で暮らせるのが嬉しくてひとりで高校を見に行ったり、私は水戸の保健婦学校に進学することにして願書を取り寄せたりしていました。 ところがです。3月ももうじき終わるというときに突然I県の教師の内定が取り消されたのです。 学生運動が知れたのでしょう。 それで彼は長野県の教育委員会に就職依頼をしました。 当時は「でも、しか先生」と言う言葉がありました。 高度成長期の日本、先生になりてがなく先生になる人を「先生にでもなるしか仕様がない人、先生しかなれない人」と言って小馬鹿にしていたのです。 今では信じられません。姪は5年間も臨時採用で働き、ようやく本採用の小学教師になつています。 長野県に3月の末というのにまだ国語の教師の席が二つも残っていたのです。 |
夫の在宅死を私は深い悲しみの中で、なにかほっとする不思議な気持ちになりました。 それは在宅ターミナルを選んで、良い死に方をさせてあげたという安堵でした。 病院での死を今まで沢山みてきました。親切な看護をしているという自己満足をしていたのですが、患者さんの気持ちを理解しないで、いろんなニーズを我慢をさせていたのだと気づきました。 「生命の質と生活の質」がもう治療法のない患者さんにとっては、いかに大切かを身をもって体験したのです。 このブログを読んでる娘から「お母さん、そういえばお父さんはすこし状態の良い時に、しきりにお母さんに「マイウエイ」の曲をピアノで弾くように言って、何度も弾かせて聴いていたでしょう。あれを聴きながらお父さん涙を流していたのよ」と言ってきました。 そうだった。忘れていた記憶がよみがえってきました。 居間にピアノがあって私はポロンポロンといった程度ですがピアノをひいていました。 あるとき「マイウエイ」の曲をひいて夫に聞かせました。 夫はその曲をとても気にいって何度も「おい、マイウエイもう一度弾いてくれ」と言って何度も聴きたがりました。聴きながら涙をながしていたなんて、娘から始めて聞きました。 私は弾きながら夫の短い生涯を想い、涙が流れてとまりませんでした。 夫は自分の死を分かっていたのですね。 一月ほどの在宅ターミナルでしたが濃密な家族との絆をもち、毎日の往診で入院中と変わらない医療を受け、そして意識のなくなる二日前まで入浴をさせることができたなんて、夫は誰も経験しない良い在宅ターミナルを送ることができたのではないかと思います。 |
東京の喧噪厭ひし君なりき げにや伊那路はみどりやさしも 緑濃き飯田の街は雨に濡れて ゆかしさまさるも君はいませず 緑なす林檎並木を打つ雨を すがしと見つつ君を送りぬ 騒がせてすまんなと照れて笑いつつ 今しも君の出でまさむ見ゆ |