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悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り) [kazg創作集]

昨日は、インフルエンザの予防接種を、生まれて初めて試してみました。
肺癌手術後の経過観察でお世話になっている病院の主治医の先生が、ちらりと勧めてくれたのが12月の診察の時でした。
私は、これまで接種の経験がなかったので、その場では辞退しましたが、周囲にちらほら患者も発生し、自身、肺機能の低下には自覚がありますので、罹患によって深刻な事態を招くのもイヤなので、わずかでもそのリスクを軽減できるのならと、昨日の診察のついでにお願いしてみました。一方、昨日は定期的な経過観察の診察で、本来の主要テーマに関しては、X線撮影では経過に異常なしとのこと。
ついでなので、インフルエンザの予防接種を依頼して、その手続きを進めている途中、看護師さんが「料金のことは聞いておられますか?」。
私「???」
「この病院では5000円超かかりますが、町の一般の医院等では3000円ほどでやってもらえます。どうされますか?2000円の差は大きいですからね。」とアドバイスがありました。
やや思案しましたが、ちょうど血圧の薬も切れかけていたので、かかりつけ医を訪ねることにし、そこで接種もお願いすることにしました。
というわけで。昨日は病院のはしごで、ほぼ一日がつぶれました。

インフルエンザと言えば、これまでに、家族も周囲も、自身も、A型、B型両方とも、幾度か罹患の記憶があります。最近は、タミフル、リレンザなどの特効薬のおかげで、瞬く間に嘘のように熱も下がり、苦痛も少ないまま回復する経験をしていますので、危機意識は薄らいでいますが、それは体に抵抗力があればこそで、肝心の肺機能がダメージを受けている状態では、万一が心配ですからね。


ところで、インフルエンザの季節になると思い出す古い記憶があります。ちょうど、世間では入試がたけなわの今の季節です。当時は、センター入試も共通一次(これも古い?)もなく、1~2月に私大の入試、3月に、一期校、二期校と国立大の入試がありました。今の時代のように、いろいろな形態の推薦入試や、AO入試などといったものはなく、推薦入試といってもごく一部の例外的な入試制度でした、一発勝負が基本でしたね。

高三で、まさに「受験生」だった私は、勉強の手を休めて(と言うとかっこいいけれど、あんまりまともな勉強をしていたわけでもありません。)、「体力づくり」のために、エキスパンダー運動と、踏み段昇降運動とで汗を流していました。すると突然、ズキズキと激しい頭痛に襲われ、寒気でがたがたと体が震えてきました。
その数日前でしたかね、ある先生の授業中の雑談で、「風邪などは、弱気になると負けてしまう。自分なんかは、熱い風呂に入ってかーっと汗を流して、卵酒を飲んで風邪を追い出す。風邪具するなんか飲まなくても、すぐに治る。」というような話(ディテールはあいまですが)をされていたのを思い出し、やってみました。熱~い風呂に入って、汗をかーっと流すと、、、、ますます寒気がひどくなり、頭痛も激しくなってきました。
耐えられず、翌日医者に駆け込むと「流感だろうな。」という診断。「流感」という言葉は、現在では聞かなくなりましたが、「流行性感冒」。普通の風邪と区別して、インフルエンザ様の感冒をそう呼んだのでしょう。
熱い風呂に入った事を告げると、とんでもないこととたしなめられました。


人間は、肉体からできていて、精神力・気力だけではいかんともしがたいという、唯物論的鉄則を、痛感した一こまでした。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などという言葉が好きな子どもでしたがーーー。


薬を服用しながらの受験行は、私にとっての忘れがたい試練でした。その頃まで、私は、自分自身の天運というか、運気というか、運勢というようなものに、妙な自信を持っているところがあって、自分はいつも何かに護られていると、無条件に感じているところがありました。今で言う自己肯定感情を、さまざまな行動のエネルギーにしていたといえます。

ところが、この時期の、病み上がりの心身状況での不本意な受験行と、私大受験の相次ぐ失敗に、それはこっぴどく痛めつけられてしまったわけです。
その頃の心情を、後に振り返って、再現ドラマ的に歌にしてみたことがありました。

今から二〇年ほども前に勤務していた高校の、受験を控えた生徒達に、担任としてのメッセージのつもりでプリントにして配ったものです。


 遥かなる日々
        
A 京の街の路面電車の女生徒の
      白き歯並びゆかしかりけり

B 地下街の人ごみの中さまよいぬ
          前途(
みち)急ぎ行く人装いて

C この街の幾千人の雑踏の
      ただの一人も我を知るなし

D 自害せし三島由紀夫の一冊を
     繰りつつ受験の宿に眠れず

E 受験場のダルマストーブのゴウゴウと
      燃える音のみ耳にさわりて

F 英文字は目に踊れども意味なさで
        脈音痛くこめかみをうつ

G〃熱のせい〃の言い訳をすでに準備してる
         その心根のうとましいこと
 
H 合格者の名の並びたる新聞に
      あるはずもなき我が名捜しをり
 
I 発表の日は過ぎたるを
    習性(
さが)のごと郵便受けを探る未練よ
 
J かばかりのことに動ずる汝(な)なるかと
        問えど鏡のわれは黙しをり

K はじめから覚悟してたと涼しげに
        笑うつもりの顔がこわばる

L 本当は僕の心はズタズタです
        助けてくれと叫びたいです

M 劣等のそしりに深くうなだれて
     おっしゃるとおりと泣かましものを

N 学歴にとらわれる人を醜しと
       言い来(こ)し言葉も強がりに似ん

O “どこへ行くの”とこだわりもなく問う人の
             言葉の端も我を鞭打つ

P 人生に早や疲れたる人のごと
         うらぶれて吾は受験に旅ゆく

Q 飽くほどの長き道程(みちのり)たどり来て
       汽車は土佐路に我をはこびぬ

R 「地の果て」と溜め息もらす友もあり
           南国高知は雲厚くして

S 高校の先輩と名乗る人あまた
          宿訪ね来てしばし和みぬ

T 快く土佐の言葉は耳うてど
         異邦人(とつびと)我の孤独いや増す

U この土を
  維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや
 
V 帰り来ていよよ土佐路は恋しかり
          再び見んことなしと思えば

W 幾たびも間違いならんとたしかめぬ
            我が名宛なる祝い電報

X これしきのことにと恥づれど
   我ならず「ゴウカク」の文字霞み見えたり

Y 呪われの受験生の名の解けし日よ
           イヌノフグリの花の愛しさ


 注 A~Oは、関西の私大受験に失敗した顛末。38度を越える発熱のせいと言い訳をしながらも、ショックは大。辛うじて合格をくれた一校は、第3志望ゆえに、「行こうか浪人しようか、不本意ながらもやっぱり行くんだろうな」という、忸怩たる思い。 近所のおばさんの、「あんた、どこへ行くん」の言葉にも、心は傷付くのでした。
 P~Yは、国立受験の顛末。当時は1期校・2期校の時代ですから、いよいよ3月の話。都落ちのつもりで受験したそこに、是が非でも入りたい気持ちになっていただけに、合格は、正直うれしかった。          


 5年ばかり前の現代文の授業で、短歌を扱った機会に、当時の高校生に短歌を創作させました。その際の動機づけとして、私がつくってみたのがこれです。受験生であった頃の自分を、ほろ苦く、また甘酸っぱい懐かしさとともに思いだすような、中年男の感性が交じっているかも知れませんが、極力、誇張や美化は避けて当時の自分を客観視してみたつもりです。
 いま、その「受験生生活」真っ只中にある諸君に、説教や教訓話を垂れることがどんなに空々しいことかを、私は十分知っているつもりです。当事者自身の痛みや重苦しさは、当事者自身のものでしかないことを、私自身忘れてはいないつもりだからです。
 そうであればこそ、しっかりそれを引き受けて、へこたれずに頑張ってくれ、と、私は過去の自分に呼びかけるようなつもりで、皆さんに「頑張れ」を言いたいのです。
 また、すでに努力の甲斐あって自己の進路を確定した諸君には、改めて「御苦労さん、おめでとう」と言いたいのです。そして、これからこそが、君自身が独り立ちして切り開いて行くべき人生本番だということ、それに向かって自分を値切らず、心おきなくぶつかっていって欲しいということを、お願いしておきたかったのです。


拙劣ながら懐かしい、古い記事を今再読してみながら、時代背景についての説明が、今ではもう少し必要かと思えてきました。

(Aの歌について)

当時の京都には路面電車が走っていました。町中をのどかに走る路面電車の情景は、しっくりと古都になじんでいました。たまたま乗り合わせた白い歯並びが印象的な女学生の姿もエレガントで、さすが「京女」の土地柄と、こころひかれるものがありました。
後に、この路面電車は赤字経営、クルマの走行の邪魔、地下鉄化の方が近代的、などの理由で、70年代の終わり頃廃止されたようです。今となっては残念なことです。

B・C・Dの歌は、受験前夜のつれづれに、大阪の地下街を彷徨しました。乾燥した冷たい風の吹きつのる街角は、たくさんの人々が行き交う雑踏でしたが、 それがかえって孤独を募らせました。立ち寄った書店で、銀色の派手な表紙の三島由紀夫作品集「花ざかりの森」を買って流し読みしましたが、没入できず、かといって眠りにもつけず悶々とした不眠の夜を送ったことでした。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1968/09/17
  • メディア: 文庫

  E・F・G。当時の受験会場は、石炭ストーブがごうごうと音を立てていました。暖かいのは結構なのですが、熱のある体には苦痛なほど、顔と頭だけが熱せられて、冷静な思考ができませんでした。ちょうど脳手術後の今のレベルくらいの、脳の回転力だったかも知れません。

H~Oは、受験での失敗体験に、私がいかに傷ついたかの記録です。打たれて強くなるとか、悔しさをバネにとか、いろいろ言いますが、できればこんな試練は経験しない方が望ましいのではないかと思います。

個人情報の観点からは、とうてい容認できない事態でしょうが、当時の新聞には、大学ごとの合格者氏名が、堂々と掲載されていました。合格者は、新聞を見ることによって結果を知ることができますが、新聞に掲載されない場合は、掲載漏れではないかとか、追加発表があるのではないかと、なかなか未練が断てません。

P~Y は、国立大受験記。
四国の高知。最初の印象は、空気が臭いということ。実は当時、反公害の運動の歴史の中でも注目される「高知パルプ」という製紙会社が、工場そばの江の口川という小川に、工場排水を垂れ流し、そこから高知市内の中心部を流れて浦戸湾に至るまでの川水を真っ黒に汚染していたさなかのことでした。
当時は、今の中国の状態ほどではないものの、全国で野放しの公害垂れ流し状態がありました。そのため、工場地帯に近い大都市には住みたくないという心情が、当時の私などには根強くありました。それだけに、都市から遙かに離れたこの地方で、まさかこんな公害に出会おうとは思っても見ませんでした。その意味で、私の第一印象は、かなり気が滅入るものでした。

でも、受験を終えて帰宅した後になって、土地にまつわる歴史や文化、風土を、改めて認識するにつれて、憧憬する気持ちが強くなっていきました。Wの歌の「我が名宛てなる祝い電報」というのは、私大入試で結果がわからずやきもきした経験から、今度は合否電報を依頼していたのでした。今なら、ホームページ上に合格者の受験番号が発表され、発表時間と同時に合否が確認できるわけで、時代は変わったものです。


 今日の鳥です。

まず、ミヤマホオジロ。

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アトリ。なにかをくわえています。
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