「湯郷温泉」のことは、過去のこの記事にも少しだけ登場します。
68歳おめでとう、日本国憲法さん、の巻
万緑の中や孫の歯生え初むる パクリ
故旧相和す刻愉快節分草(こきゅうあいわすときゆかい せつぶんそう)
ダイサギ ゴイサギ ダイゴ帝? 岡山県の美作地方には、「美作三湯」と呼ばれる温泉があります。「奥津温泉」「湯原温泉」「湯郷温泉」の三つです。
ちなみに「美作」は難読地名の一つで、「みまさか」と読みます。過去にこの記事を書きました。
寂れたる師走の里や塔朱し
抜粋します。
「みまさか」と読める人は、以前は、相当に地理や歴史に詳しい人に限られました。最近はスポーツに詳しい人、特に女子サッカーに興味のある人なら、おなじ みの地名になりました。「なでしこジャパン」の宮間あやさんが属する岡山湯郷Belleの、ホームグラウンドは、岡山県美作ラグビー・サッカー場 ですから。
「美作」の地名の由来について、平凡社「世界大百科事典」 第2版にはこうあります。
みまさかのくに【美作国】
旧国名。作州。現在の岡山県北東部。東は播磨,西は備中,南は備前,北は因幡,伯耆の諸国に接し,中世末まで播磨国佐用郡石井(現,兵庫県佐用町石井)を含む。
【古代】
山陽道に属する上国(《延喜式》)。713年(和銅6)4月,備前国から英多(あいた)(現,英田(あいだ)),勝田(かつた∥かつまた),苫田(とま た),久米(くめ),大庭(おおば),真島(ましま)の6郡を分割して設置された。備前守百済南典,同介上毛野堅身らの申請によるといわれる(《伊呂波字 類抄》)。
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また、ウィキペディアにはこんな記事があります。
美作市(みまさかし)は、岡山県の北東部に位置し、兵庫県および鳥取県と境を接する市。2005年(平成17年)3月31日に勝田郡勝田町、英田郡美作町・大原町・作東町・英田町・東粟倉村の5町1村が合併して発足した。
また、県内の市の中で最も人口が少ない市である。 |
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「美作三湯」について、ネット上に
こんな紹介記事がありました。
世界大百科事典内の美作三湯の言及 【奥津[町]】より
…吉井川上流の山間地に位置し,谷底に水田があるほかはすべて山林で,かつては山地を牛の放牧地に利用したが,今日では植林が進んでいる。奥津温泉(単純泉,40~43℃)は湯原,湯郷(ゆのごう)とともに古代から美作三湯(みまさかさんとう)として知られる。女性が《奥津音頭》に合わせて足踏み洗濯をする風習があり名物になっている。…
【湯郷[温泉]】より
…岡山県東部,英田(あいだ)郡美作(みまさか)町にある温泉。奥津温泉,湯原温泉とともに美作三湯の一つで,美作地方の観光の一中心となっている。吉野川西岸にあり,江戸時代には津山藩主の森氏,松平氏の保護を受けた。…
【湯原[町]】より … 中心集落の湯本は近世,大山詣の宿泊地としてにぎわった。美作(みまさか)三湯の一つである湯原温泉の町で,湯原,郷緑(ごうろく),野谷(のたに),足(たる),真賀(まが)の5温泉がある。最も著名なのが湯原温泉(単純泉,35~52℃)で,歴史は10世紀にさかのぼると伝えられる。…
※「美作三湯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 |
奥津温泉については、直木賞作家藤原審爾の代表作「秋津温泉」のモデルになった場所として、以前も何度か触れました。いちばん新しいところではこの記事にこう書きました。
啓蟄雑話
「秋津温泉」は藤原審爾の原作を吉田喜重監督、岡田茉莉子・長門裕之主演で映画化したものでした。
藤原審爾については、古い記事にこんなことを書きました。
烏の群れを印象的に描いた作品として、藤原審爾「鴉五千羽夕陽に向う」をあげたくなります。
藤原審爾は、1952年に「罪な女」で直木賞を受賞した小説家で、純文学からサスペンス、任侠ものまで、幅広い作品を残しています。映画化された作品も50を越えています。彼は、幼時に両親を失い,岡山県の祖母のもとで育ちました。映画化もされた出世作「秋津温泉」は、岡山県「奥津温泉」を舞台にしています。
彼の作品は、バラエティ豊かで、それぞれ読みごたえがありますが、「狼よ、はなやかに翔べ」「熊鷹・青空の美しき狩人」「怒りて猿よ山を揺すれ」などの動物小説の魅力は、特筆ものです。
教育・社会の、今日的な問題を鋭く洞察した『死にたがる子』『落ちこぼれ家庭』『結婚の資格』なども、今なお色あせることはありません。 | その藤原審爾について、先日訪問した備前市加子浦歴史文化館の「文芸館」にはこんな紹介がありました。
「藤原審爾」(1921〜1984)
岡山県備前市片上で生れ、閑谷中学から青山学院に進んだが 病気のため中退し岡山市に疎開。文学を志し、同人誌「曙」を引継ぎ発行。 文学界に発表した「練る煉獄の曲」で認められ、奥津温泉をテーマにした「秋津温泉」が出世作となった。昭和27年「罪な女」で「直木賞」受賞。 社会的テーマを追い時代小説・推理小説も書き、作品は多数。 日生には魚と風光を求めて良く来訪。日生の甚九郎の小説を書くこと、日生に別荘を建てたい等の話が具体化しているとき、亡くなられた。 |
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奥津温泉には、私自身、かつて同僚たちの親睦旅行で一度だけ宿泊したことがあります。こじんまりとして心くつろぐ、山あいの鄙びた温泉の風情は、特筆すべき極上の味わいを感じさせてくれました。その奥津温泉がある鏡野町の中心部は、二十世紀の終わりに、「苫田ダム」の湖底に水没しています。当時の長野県政
が、住民の反対を押し切って強行した悪政のひとつです。
過去のこんな記事で触れました。その後、奥津温泉がどのような変化をたどり、現在どのような状況にあるのか、確かめる機会がないまま今日に至っています。
悠久の時はみどりに抱かれて
足守の先は吉備路の紅葉かな 湯原温泉については、
岡山県湯原温泉郷公式ホームページにこんな紹介があります。
湯原温泉は、自噴する温泉が数多く存在し古くから人々に利用されていました。特にこの地域は、古墳時代より「たたら製鉄」の盛んであった所で史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)が多く存在します。たたら場には多くの人手が必要とされ300名から1000名以上の集団で作業を行っていました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用が行われて湯原もその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。
湯原温泉が歴史的に登場するのは、豊臣秀吉の五大家臣である宇喜多秀家が母である「おふくの方」の湯治場を開設したと言う記述からです。「おふくの方」は、妖艶な美貌だったと伝えられています。生まれはこの地方で戦国の数奇な人生の中、羽柴時代に秀吉の側室となった方です。秀吉は、おふくを寵愛しその結果、秀家が秀吉の五大家臣まで上り詰めたと言われます。「おふくの方」が病になった際、秀家は、療養の地として湯原に湯屋を調えました。
西の横綱 湯原温泉
湯原温泉は、昭和56年に「露天風呂番付」で西の横綱にランクされました。露天風呂番付は、行司に野口冬人氏(旅行作家、温泉評論家)、勧進元に暁教育図書編集部でまとめられたものです。選考基準は、利用の有料・無料、公共性、管理、周辺環境などです。 |
ここには、3年前、家族がここに宿泊して、私の還暦を祝ってくれました。
その時の写真を貼っておきます。
砂湯が名物です。
特別天然記念物オオサンショウウオの生息地としても知られています。
旅館の窓からこんな景色が見えました。山深さに心引かれます。
さて、一方、今回宿泊した湯郷温泉で
すが、私にとっては、高校時代毎日自転車通学した経路の上にあり、身近すぎて有り難みを感じることが少ないきらいはあって、私自身これまで、温泉の湯につ
かったことはあっても宿泊したことはありませんでした。今回は、両親も高齢化して遠出を控える気持ちもあって、近いところですまそうと考えたのでした。し
かし、いざ宿泊予約を試みようとすると、大型連休中とあってか、どの宿も満杯らしく、ヤド探しに手こずりました。たまたま、以前娘が友人と泊まったことが
あるという旅館に空き室があり、やっとの事で予約ができました。
美作三湯の中では一番、里に近く、高速道路による近畿地方とのアクセスも比較的至便なので、その点「俗化」の傾向が強いように思われますが、十分に山深いことは間違いありません。
旅館から見る朝景色です。
朝から青空が広がっています。
郷土作家のあさのあつこさんが、「作州色」の空と呼ぶのはこんな色でしたっけ。彼女、現在お住まいはもう少し北寄りの、姫新線林野駅の近くですが、かつて少女時代はこの湯郷にお住まいだったはず。
杉林です。花粉の時季は過ぎていますが、見ているだけで鼻がむずむずしてきそうです。
ヒヨドリが見えます。
旅館の庭園散歩としゃれてみます。
五階の部屋から見下ろすとこんな風情です。
旅館のなかにこんなレトロなコーナーがありました。
宴会場は、広間貸切のちょっとした団体様ご一行です。
従姉妹同士で記念撮影。パチリ。
所狭しと駆け回ります。
次の日は、いつも素通りするだけの町ゆっくり散歩してみました。
まずは
鉄道模型館&レトロオモチャ館に入場。子どもの日で、子どもは特別に、無料でした。
ちゃんと切符にはさみを入れてくれます。
大きい子から小さい子まで、飽きることなく遊べます。
「まだここにいる!」とぐずる保育園児を無理矢理説得して、今度は、
現代玩具博物館・オルゴール夢館に向かいます。本格的なコレクションと、「学術的」な解説に時間を忘れます。
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おもちゃツアー ●
オルゴールコンサート その後、スーパーでお弁当や総菜を買い、老父母の家に集まって昼食会にしました。
玄関に並んだ靴の数が、「大家族」を物語っています。
今日大坂にUターンした次男一家は、先ほど無事着いたと連絡がありました。あすからまた、彼らの日常が始まります。
今日はこれにて。