今朝の地元紙「山陽新聞」web版に、こんな記事がありました。
 特例の解消を名目とした年金額の引き下げは生存権の侵害で憲法違反だとして、岡山県の 年金受給者56人が国の減額決定取り消しを求めた訴訟の第1回口頭弁論が4日、岡山地裁(善元貞彦裁判長)であった。国側は「特例の解消は合理性があり、
違憲ではない」などとして請求の棄却を求めた。

 原告弁護団によると、計4091人が39地裁に提訴している全国訴訟の一つ。岡山では今年秋、物価や賃金の伸びよりも年金給付を低く抑える「マクロ経済スライド」を巡る訴訟も起こすという。

 意見陳述では、原告代表の東都支男さん(77)=総社市=が「年金受給者の中には食費やタクシー代に困り、親族付き合いもできない人がいる。高齢期にも
人間の尊厳が保たれる社会を望む」と訴えた。弁護団の則武透弁護士は「年金減額の根拠とされる物価下落は、パソコンや家電製品といった消費財が要因で、食
品など生活必需品の価格は下がっていない」と主張した。

 年金額は物価変動などを踏まえて毎年度見直されるが、物価が下落しても特例で減額しなかった時期があったため、本来より2・5%高い水準で支給されていた。この状態を解消するため、政府は2013年10月~15年4月に計2・5%減額した。

 訴状では、年金水準は憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するには程遠く、さらなる減額は受給者の生活を破壊すると主張。引き下げ前と引き下げ後の差額を請求している。

(2016年07月04日 21時43分 更新

この口頭弁論、私も傍聴することができました。35℃超えの猛暑の午後でした。大勢の傍聴希望者と、原告の方々で、裁判所ロビーは一杯で、エアコンも効かないほど。「暑いね」が挨拶の言葉となりました。新見市、津山市といった遠方からも、顔見知りの方々がいらっしゃっていました。前日の退職同業者の会合でお目にかかったばかりの方も、何人もお見かけし、心強いことでした。傍聴席88人という設定で、希望者がそれを上回りそうという見通しでした。遠方からの方、健康面その他の困難を押して参加しておられる方に、優先権を譲るつもりでおりましたが、開廷10分後に、報道席に2席の空席があることから、追加入場の取り計らいがありました。あぶれて扉前に待機していた面々が、譲り合いながらも、それではと、私も旧知のHサンと二人、入場させてもらいました。
空席はというと、傍聴席最前列の報道席。しかも、私の案内された席は、妙齢の女性記者さん二人に両脇を挟まれた「特等席」でした。記者さんの、ノートにペンを走らせる音が気になりながらも、原告代表と弁護団長の陳述を間近で聞くことが出来ました。
この裁判については、以前この記事↓に書きました。
「年金裁判」は何に貢献するか?の巻

そのあと、紆余曲折がありました。この年の一〇月二日、被告(国)側が、広島地裁への「移送」を申し立て、11月末には、岡山地裁が「移送」を認めました。素人の私たちには耳慣れない言葉ですが、「行政事件訴訟法」の規定の解釈をもてあそんで、「お上にたてつく輩」に嫌がらせを加えているとしか思えません。
弁護団はこう陳述しています。
 2. 当初、本件話訟は原告らの老齢厚生・基礎年金保険の各年金額を減額する改定決定の取り消しを求める訴設として起こされました. それは、
原告らが本件訴訟提訴前に行つた再審査請求の裁決書に添付された被告の教示示文書に取消訴訟は「お住まいの地域の地方裁判所に提起するとができます」と書かれていたからです。
原告ら岡山県民にとって. 「お住まいの地域の地方裁判所」 とは岡山地裁を意味することは明らかです

3. ところが、不当にも被告は、本件訴訟を広島地裁への移送を申し立て、本件訴訟の開始を妨害lしました。原告らは、移送申立に反対の意見を述べました。
しかし.残念なことに、岡山地裁が移送申立を認める決定を行い、これに対して原告らが抗告しました。 高齢でかつ国山県全域に散らばっている原告らが広島地裁まで赴いて裁判を受けねばならないことになれば.、事実上裁判を受ける権利を失うことを意味するからです。
このため、原告団は、「取消訴訟」から「給付訴訟」に訴えの変更を行い、岡山地裁での裁判にこぎ着けました。つまり、「憲法違反の年金減額処分の取り消し」を求める裁判から「2013年10月から2014年9月分までの1年間の差額の請求」を求める裁判へと、切り替えたわけです。
「給付訴訟」の審理は、解釈の余地なく、地元地裁で行なうことができるからです。
口頭弁論終了後、原告団、弁護団、傍聴者、報道関係者が弁護士会館に集まって開かれた総括会では、記者さんから、「取消訴訟」なら成果が全年金者に及ぶが、「給付訴訟」では、裁判で争った原告だけが益を得る事になるのかという質問がありました。
則武弁護団長は、年金引き下げという国の決定を違憲だと判断させる裁判なので、勝利すれば、国はその決定の変更を求められる。そのことで、結果として全年金受給者、全国民に益は及ぶ、その意味で、原告の皆さんは、全国民のために代表してたたかっている事になる。このような裁判を「政策形成訴訟」と呼ぶ。その典型例が、地元岡山で戦われた「人間裁判」=「朝日訴訟」だ、と解明されました(メモなしの、話の記憶頼りのまとめですので、不正確ですが)
則武さんは、裁判冒頭の意見陳述の終わりに、朝日訴訟を引いてこう訴えておられます。
 14.最後に、かつて、この岡山の地で、朝日茂さんが立ち上がって起こされた 「人間裁判」 朝日訴訟のことを述べさせて下さい。 朝日訴訟では、
第1審の東京地裁の浅沼裁判長は、 朝日茂さんが病の床にあった早島の結核療養所まで赴き、 3日間にわたり検証や朝日茂さんへの尋問などを実施しました。
浅沼裁判長は、 岡山を立ち去る際に 「意法は絵に描いた餅ではない」 と述べたそうです。そして、昭和35年10月19日、月額600円の生活保護基準を憲法2
5条違反とした画期的な浅沼裁判長の東京地裁判決が下されます。 この浅沼判決を受けて、朝日茂さんは「真実をふかく見きわむ浅沼裁判長 四年の審理に我は謝すべし」
との歌を詠みました。
その朝日訴訟ゆかりの地である岡山の裁判所で、今再び、憲法25条の存在価値が問われているのであります。 どうか、裁判所におかれては、原告らに生活保障を十全のものとするために、真実を見極め、審理を尽くされることを期待します。
思わず、目頭が熱くなりました。
朝日訴訟については、前述の「年金裁判」は何に貢献するか?の巻でも少し触れました。
以前、小林多喜二を話題にしたこの記事で、岡山県出身の作家右遠俊郎さんについて書きました。
またまた3月15日の蘊蓄、の巻
この記事で引用した略歴に、「1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。」とあります。
その、『小説朝日茂』は、克明な資料と取材に基づいて、淡々と抑制的な筆致で綴られたルポルタージュ的な「小説」ですが、ページページに深く胸を打たれ、涙を催さずに読むことはできませんし、同時に極限の状況下でも、人間の示しうる尊厳、勇気、高潔に、はげまされずにはいられません。

小説 朝日茂

  • 作者: 右遠 俊郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本



第一審の判決場面を引用します。

 現地検証・現地公判のあと、年内になお二回の公判が開かれ、朝目側証人の有力な証言、たとえば、第十回公判の参議院議貝木村禧八郎の証言、第十一回公判の労働科学研究所員藤本武の証言が続き、茂は弁護士たちの意見と同じく、勝訴へのかなり確かな感触を得るのだが、訴訟というものは始まるときも待たせるが、終わりがけもなかなかすっきりとはけりがつかない。結審したのは第十三回の公判、翌一九六〇年の三月十六日であった。そのとき、弁護士たちの見通しでは、判決は六月頃だろう、とぃうことであった。折から<安保反対>の高潮が全国に渦巻いているときであった。
茂はラジオで<安保反対>の高鳴りを聞きながら、胸を熱くし、いくらかは焦りながら、指折り数えて判決の出る日を待つていた。が、判決は六月になって遅れることが知らされた。重症の身で三年、不服申し立てからでは四年を、血を喀きながら命ながらえてきた茂には、判決の遅延はひどくこたえた。
茂の病状が急に悪化した。流動血痰の量がふえ、心悸亢進、食欲不振が続いた。危機の予感に焦燥が燃え、茂は浅沼裁判長の白いマスクの上の目の優しい印象を忘れ、裁判所はわしが死ぬのを待っているのか、とあられもなく口走りたい衝動に駆られるのだった。
茂は半ば覚悟を決めて遺書を書いた。が、どうしても判決だけは見たいという執念で、危うく持ちなおした。周囲のものは愁眉を開いた。日本患者同盟や対策委貝会は茂の病状を憂えて、裁判長に判決を早く出してもらうように要請した。暑い、夏も終わろうとする頃、判決は十月と知らされた。もう延びることはないようであった。
一九六〇年十月十九日、判決を待って茂は朝から待機してぃた。新聞記者たち、カメラマンたち、地元山陽放送の放送記者たちが、.茂の部屋に詰めかけてぃた。茂はうっすらと不精ひげをロのまわりにたくわえ、詰めかけた人たちとなごやかに談笑していた。
茂は秋になって体調を取りもどしていた。みんなの見ているまえで、昼食をすませた。午後二時、療和会の事務所に、山陽新聞からの速報が入ったらしく、その知らせを持って療和会の書記が病室に飛びこんできた。

「勝った」
と彼は言った。 病室に居合わせた人々は一斉に茂の顔を見たが、どっと湧くようなことはなかった。まだ書記の「勝った」が信じられなぃらしく、さらにその続きを聞こうとしていた。が、書記にも、「勝った」内容は説明できなぃのであった。
山陽新聞の記者がすぐに席を立って出てぃった。電話をかけにいったらしく、まもなく病室に帰ってくると、朝日茂の完全勝訴であることを告げた。何でも、国は憲法第二十五条に違反していると断じているらしい、と彼はつけくわえた。そこでやっと病室のなかがどよめいた。茂は思わず暗ればれと笑った。
さっそくマイクが茂のロ元に突きつけられた。茂は別に用意していたわけではなぃけれど、よどみなくしゃべりはじめた。 「ありがとう。みなさんのおかげです。私は内心では、民主主義の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし正面きってそういえば虚勢にきこえるのでいままであまり言いませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文をみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守るものであることを、裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮を抜きにすれば当然勝つはずだったんです」
それから三十分ほどして、日本患者同盟のウナ電が入つてき、午後三時にはラジオが朝日茂の勝利を報じた。それによれば、「現行の保護基準は、生活保護法にもとり、健康で文化的な最低限度の生活を保障した憲法第二十五条の精神に反する」という内容のものであり画期的な判決である、ということだった。
(中略)
茂は今日の感慨を忘れずに残しておこうと思い、薬包紙に鉛筆で短歌三首を書きとめた。
<われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと>
<血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ>
<真実をふか<見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すべし>

感動のクライマックス!と喜べないところが、現実のしぶとさ、国家権力のあくどさというもの。民主国家を標榜する我が国の裁判所は、三権分立の建前にもかかわらず、上級審へ行くほど行政権力へのおもねりが甚だしく、上級審ほど低級である点は、今も昔も変わらぬようです。
「朝日訴訟」においても、1963年11月4日、厚生省は朝から通用門のすべてを閉ざして、要所に守衛を配置し、東京高裁と道路を隔てた日比谷公園には100人を超える武装警官が待機するものものしい警戒のもと、東京高裁は一審の判断を覆し国側勝利の不当判決を下したのでした。
『小説朝日訴訟』からいま少し引用します。

 茂のもとにその知らせが入ってきたのは午後二時であった。待機していた記者たちに、茂は開口一番、「少しは、負けたような深刻な顔をせにゃあぃけんでしょうかな」と言ってみんなを笑わせた。それから一呼吸おき、居ずまいを正し、真顔になってしゃべりはじめた。
「残念です。いったい裁判官は、こちらの提出した資料を入念に検討したのでしょうか。憲法の理念を正しく理解すれば、わたしの主張は認められるはずです。裁判官の良心を疑わずにはおれません。あきらかに国家権力、池田自民党政府に屈従し従属したものです。一般の人は国家権力のあくどさを知っていただきたいと思います。
この不当な判決は、社会保障の拡充を要求し、憲法の民主的条項の完全実施を要求する人民への裏切り行為です。この裏切り行為はかならず新しい日本人民によって裁かれることでしょう。
今度の判決は今後たたかううえでの盛り上がりを作ってくれたと思います。波があってこそたたかいは前進すると思います。 わたしはからだを大切にし、
何年かかろうと最後の勝利を得るまでたたかいぬくっもりです。 私は断じてこの不当な判決を認めません」
短いコメントであったが、茂は話しているうちに、さすがに無念の思いがこみあげてきて、声に痰がからみ、からだは熱くなり、息が大きくはずんだ。
記者たちが帰つたあと、心を許しあった仲間が三人残った。みなうつむいて、涙をこらえているような暗い顔をしていた。その三人を見まわしながら、茂は普段の調子にもどり、しんみりと語った。
「わしはなあ、ちっとも悲観しとらんで。そういやあ、また強がりいうとるように思うじゃろが、ほんまじゃ。ほんまに悲観しとらん。ただなあ、最高裁の判決までたたかいぬけるかどうか、そう断言できんところがあるんじゃ。これから三年、訴訟を背負うて生きつづけにゃならんか思うと、しんどいんじゃ」
茂が判決の全文を読んだのは一週間ほど経つてからだった。茂は丁寧に読んでから、まず、小沢文雄という裁判長は奇妙な論理をもてあそぶ人だと思つた。
たとえば、彼は長い判決文のなかで、「以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、 しかしなお概観的に見て、
本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得なぃ」といっている。別なところでは、「頗る低額に過ぎる」けれども、違法とは断定できないといい、そして、これを結論にしているのだ。
茂には、「いかにも低額」、「頗る低額」だが、「違法とは決しかねる」という論理が、どうしてものみこめなかった。が、やがて茂は気づいた。簡略化してぃえば、低額は合法、ということになる裁判長の論理には、一つの前提があるとぃうことに。それは、「当不当の論評」と「違法を論証すること」は別のことがらだ、という考え方である。そこから、不当だが合法という判断は、遊びの形式論理であるとしても、容易に出てくる。
それにこの裁判長は、厚生大臣の定めた日用品費六〇〇円が違法であるという、決定的な理由だけを見つけようと終始している。そして、一つの項目ごとに、違法であるとは断定しがたいと断じ、それを連ねてゆく。彼は決して、それが合法であるという論証はしない。彼は「疑わしきは罰せず」を日用品費に当てはめた。
何のことはない。この裁判長、初めから、違法ではないという結論を設定しておいて、それを論証するために奇妙なロジックをあやつり、 事実や証言を都合よく引用、挿入しただけのことである。彼ならばたぶん、遊びとして、違法であるとぃう結論を設定して、それを論証せよといえば、ほぼ同じ長さで充分にやってのけたであろう。
では、なぜ彼が、違法ではないという結論を決めたかといえば、それはただ、厚生省の準備書面による脅しに屈服し、「自已抑制」しただけのことである。その証拠に、日用品費六〇〇円が違法ではないという、彼が挙げた理由は、すべて厚生省から学んだものばかりであり、一千万人に近いボーダーライン層の存在、納税者の感情、国民の生活水準、国の財政などを考量する必要があるとしてその決定は厚生大臣の自由裁量に属する、とぃうことにしてしまった。
それでぃて、小沢裁判長は、新聞各紙のインタビューに、生活保護基準は「違法すれすれだった」と語っている。その談話にも茂は嫌な気がした。実際には原判決を破棄し、朝日茂に敗訴をいいわたしておいて、世間向けには「違法すれすれ」などと、少しは生活保護患者の苦しみも分かるようなそぶりをする。そこが卑しい、と茂は思った。「違法すれすれ」などといわれても、厚生大臣の違法が解除された以上は、生活保護患者は「生命すれすれ」で生きるほかなぃのである。 十一月二十日、朝日訴訟中央対策委貝会、弁護団、朝日茂は一致して、最高裁へ上告した。

1964年2月14日、原告の朝日茂さんは上告審の途中で亡くなり、養子夫妻が訴訟を続けましたが、最高裁は、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下しました。
しかし、朝日茂さんのみずからの命をけずってのたたかいは、政府の政策に確かな影響を与え、その権利のための闘争は、今なお輝きを増し、私たちを励まし続けています。
法学館憲法研究所のサイトに以下の記事がありましたので、引用・紹介させて戴きます。
 「人間裁判」 ― 朝日茂さんの壮烈な“権利のための闘争” 

しかしながら、政府は、裁判の過程で1審判決に強いショックを受け、その翌年に生活保護基準を30%以上引き上げ、以後も改善して行きました。裁判の役
割は司法の場だけでなく、政治や行政にも生かされることを国民は学びました。人権とは、国民が闘い取るものであるという憲法12条、97条の精神を文字ど
おり命をかけて実践した朝日さんをしのぶ「人間裁判の碑」が朝日さんの地元の岡山県・早島町に建てられています。今年も2月の命日に恒例の碑前祭が行われ
ました。「朝日茂さんに内在し、その血を吐く苦闘、鮮烈な生き方、勇気ある思想、人間的な立ち振る舞い、やさしい息づかいなど細部にふれて、現代に生きる
一人ひとりが明日に向かって生きる希望と励ましを受け取る」(手記「人間裁判」解説・二宮厚美)。

 日本全国憲法map岡山編

「人間裁判」とまで呼ばれた「朝日訴訟」は、最終的に原告が敗訴という結果に終わってしまいましたが、他方で、先にも述べたように法的権利としての「生存権」論の形成に多大な影響を与えたばかりではなく、裁判支援運動の隆盛と共に、1960年代から70年代にかけての政府による福祉政策の一時的な見直しに
貢献していった点は注目されます。けれども、現在の政府による度重なる増税や福祉切り捨ての諸政策、そして生活保護の適正化という名の下に生活が困難な人に対しても保護を受けさせず餓死にまで至らせてしまうような福祉行政の実態に目を転じるとき、朝日さんが命を賭してまで戦い抜こうとした「朝日訴訟」から学ぶ意義は、今なお大きいといえるでしょう。


岡山には「朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝える」ことをめざして、

が設立され、活動をすすめておられます。
前述の総括会で、ある参加者が発言されました。「朝日訴訟は、一人だけで立ち上がったすばらしいたたかいだった。しかし、私たちの年金訴訟は、岡山56人、全国では4000人を超える原告と、その支援者とが立ち上がった、未だかつてないたたかいだ。」
「原告死亡により終結」という無念な結末を許さず、すべての国民が安心して暮らせる年金制度を求めるこの取り組みは、若者たちの未来を守るたたかいでもあります。

ベストセラー「下流老人」の著者藤田孝典さんが、そのブログにこう書いておられます。

 

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

  • 作者: 藤田孝典
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: 新書

闘う下流老人たちー全日本年金者組合の地道で熱心な取り組みー 

「若者 VS 高齢者」の終焉を目指したい>


しかし、このような高齢者の取り組みに対して、若者や現役世代は冷ややかな反応だ。


「今の高齢者は恵まれている」、「自分たちの老後はもっと大変なんだから我慢するべきだ」など、高齢者への支援が十分とは言えない。


いわゆる「若者 VS 高齢者」である。


わたしはすべての人がいずれ高齢者になり、年金や生活保護を活用することになる時期が来ることから、現在の高齢者に年金制度を悪化させないように守ってほしいと思っている。


声をあげて減額をストップさせてほしい。そうしなければ若者世代の将来の年金も守ることはできないからだ。


非正規雇用拡大、雇用の不安定化のなかにいる若者の年金受給額は壊滅的に低額であろう。


すでに年金をかけていても、それだけでは生活ができない世代がこれから先は延々と控える状況だ。


だからこそ、全日本年金者組合の取り組みから、「下流老人」対策や社会保障の在り方について、一緒に考えていただきたい。


高齢者の問題は自分たちの明日の問題であり、生活の根幹にかかわる問題といえるだろう。



全くその通りと、思わず膝を打ったことでした。



昨日の記事でご紹介した退職同業者親睦団体の「作品展」には、枯れ木も山の賑わいと、私も出品させて戴きました。

「ちひさきものはみなうつくし2016」

 
 
 
 


「緑雨の智頭」
 
 
 
 
 
 
今日はこれにて。