「子どもたちを戦場に送るな」と発言するような教師がいたら密告せよとそそのかす、自民党HP「密告フォーム」は、「一億総密告社会(総チクリ社会)」の「創生」をねらう本性をあらわにしたもので、こっそり文言を差し替えても取り繕うことはできません。

連想から読み返してみた「二十四の瞳」の話題に今しばらくおつきあいください。長い引用は避けたいと思いつつ、またまた引用です。

教え子たちが六年生になった頃、大石先生は教師を続けるかどうかの悩みにさらされます。子どもたちは口々にこう将来を語るのです。


 「ぼくは、中学だ」

竹一が肩を張るようにしていうと、正もまけずに、
「ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって、曹長ぐらいになるから、おぼえとけ」
「あら、下士官……」

不自然にことばを切ったが、 先生の気持ちの動きにはだれも気がっかなかった。月夜のかにとやみ夜のかにをわざわざ持つてきたょうな正が下士官志望は思いがけなかったのだが、
かれにとっては大いにわけがあった。徴兵の三年を挑戦の兵営ですごし、除隊にならずにそのまま満州事変に出征したかれの長兄が、 最近伍長になって帰つたことが正をそそのかしたのだ。
「下士官を志望したらな、曹長までは平ちゃらでなられるいうもん。下士官は月給もらえるんど」
そこに出世の道を正は見つけたらしい。すると竹一も、まけずに声をはげまして、
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコに負けるかい。すぐに少尉じゃど」
吉次や磯吉がうらやましげな顔をしていた。竹一や正のように、さしてその日のくらしにはこまらぬ家庭のむすことはちがう吉次や磯吉が、戦争について、家でどんなことばをかわしているかしるよしもないが、だまっていても、やがてかれらもおなじょうに兵隊にとられてゆくのだ。

その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退して世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄にっながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことをしる自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえしらずに、
いなかのすみずみまでゆきわたった好戦的な空気につつまれて、 少年たちは英雄の夢をみていた。
「どうしてそんな、軍人になりたいの?」
正にきくと、かれはそっちょくにこたえた。
ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぼど下士官のほうがえいもん」

「ふ-ん。 竹一さんは?」
ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん」
「そうぉ、そうかな。ま、よく考えなさいね」
うかつにもののいえないきゅうくつさを感じ、 あとはだまって男の子の顔を見つめていた。正が、なにか感じたらしく、
「先生、軍人すかんの?」
ときいた。
「うん、漁師や米屋のほうがすき」
「へえーん。どうして?」
「死ぬの、おしいもん」
「よわむしじゃなあ」
「そう、よわむし」
その時のことをを思いだすと、いまもむしゃくしゃしてきた。これだけの話をとりかわしたことで、もう教頭に注意されたのである。
「大石先生、あかじゃと評判になっとりますよ。気をつけんと」
--ああ、あかとは、いったいどんなことであろうか。この、なんにもしらないじぶんがあかとは--

寝床のなかでいろいろ考えつづけていた大石先生は茶の間にむかってよびかけた。

(中略)

「わたし、つくづく先生がいやんなった。三月でやめよかしら」
「やめる?なんでまた」
「やめて一文菓子屋でもするほうがましよ。毎日毎日忠君愛国……」

(中略)

「 一年から六年まで、わたしはわたしなりに一生けんめいやったつもりよ。ところがどうでしょう。男の子ったら半分以上軍人志望なんだもの。 いやんなった」
「とき世時節じゃないか。おまえが一文菓子屋になって、戦争がおわるならよかろうがなあ」
(中略)
やがておちついてふたたび学校へかようようになったが新学期のふたをあけると大石先生はもう送りだされる人であった。「惜しんだりうらやましがる同僚もいたが、とくにひきとめようとしないのは、大石先生のことがなんとなく目立ち、問題になってもいたからだ。それなら、どこに問題があるかときかれたら、だれひとりはっきりいえはしなかった。大石先生自身はもちろんしらなかった。 しいていえば、 生徒がよくなつくというようなことにあったかもしれぬ。
それから数年、大石先生の身にも世の中にも、大きな変化がありました。


 腹をたてて教職をひいたあのときとはくらべることもできないほど、世の中はいっそうはげしくかわっていた。日華事変がおこり日独伊防共協定がむすばれ、国民精神総動員という名でおこなわれた運動は、寝言にも国の政治に口をだしてはならぬことを感じさせた。戦争だけを見つめ、戦争だけを信じ、身も心も戦争のなかへ投げこめとおしえた。そしてそのようにしたがわされた。不平や不満は腹の底へかくして、そしらぬ顔をしていないかぎり、世渡りはできなかった。 そんななかで大石先生は三人の子の母となっていた。 長男の大吉、二男の並木、末つ子の八津。
そんなある日、今度小学校に入学する長男大吉のためにランドセルを買って、バス停でバスを待っていた大石先生を見つけて声をかけてきたのは、ちょうどこの町の公会堂でとり行われていた徴兵検査を受けるために通りかかった教え子たちでした。大石先生の思いは複雑です。


 けもののように素つ裸にされて検査官のまえに立つ若者たち。 兵隊墓に白木の墓標がふえるばかりのこのごろ、若者たちはそれを、じじやばばの墓よりも関心を持つてはならない。いや、そうではない。大きな関心をよせてほめたたえ、そこへつづくことを名誉とせねばならないのだ。
なんのために竹一は勉強し、だれのために磯吉は商人になろうとしているのか。子どものころ下士官を志望した正は、軍艦と墓場をむすびっけて考えているだろうか。にこやかな表情の裏がわを見せてはならぬ心ゆるせぬ時世を、仁太ばかりはのんきそうに大声をあげていたが、仁太だとて、その心の奥になにもないとはいえない。
あんな小さな岬の村から出たことし徴兵適齢の五人の男の子、おそらくみんな兵隊となってどこかのはてへやられることだけはまちがいないのだ。 ぶじ帰ってくるものはいく人あるだろう。もうひとり人的資源をっくってこい……そういって一週間の休暇をだす軍隊というところ。生まされる女も、子どもの将来が、たとえ白木の墓標につづこうとも、案じてはならないのだ。男も女もナムアミダブツでくらせということだろうか。どうしてものがれることのできない男のたどる道、そして女はどうなるのか。

一本松のバス停では、帰りの遅い母を、長男大吉が待ちかねていました。


「かあちゃん、なかなか、もどらんさかい、ぼく泣きそうになった」
「そうかい」 .
「もう泣くかと思ったら、ブブーってなって、見たらかあちゃんが見えたん。手えふったのに、かあちゃんこっち見ないんだもん」
「そうかい。ごめん。かあちゃんうっかりしとった。おおかた、一本松わすれて、つっ走るとこじゃった」
「ふーん。 なにうっかりしとったん?」
それにはこたえずつつみをわたすと、それが目的だといわぬばかりに、
「わあ、これ、ランドセルウ?ちっちゃいな」
「ちっちゃくないよ。しょってごらん」
むしろ大きいぐらいだった。 大吉はひとりでかけだした。

「おばあ、ちゃ-ん、ランド セルウ」
すっとんでゆきながら足もとのもどかしさを口にたすけてもらうかのように、 ゆく手のわが家へむかってさけんだ。

肩をふって走ってゆくそのうしろ姿には、 無心にあすへのびようとするけんめいさが感じられる。そのかれんなうしろ姿のゆく手に待ちうけているものが、やはり戦争でしかないとすれば、人はなんのために子を生み、愛し、育てるのだろう。砲弾にうたれ、さけてくだけてちる人の命というものを、惜しみ悲しみとどめることが、どうして、してはならないことなのだろう。治安を維持するとは、人の命を惜しみまもることではなく、人間の精神の自由をさえ、しばるというのか…。

走りさる大吉のうしろ姿は竹一や仁太や正や吉次や、そしてあのときおなじバスをおりて公会堂へあるいていった大ぜいのわかものたちのうしろ姿にかさなりひろがってゆくように思えて、めいった。 ことし小学校にあがるばっかりの子の母でさえそれなのにと思うと、 なん十万なん百万の日本の母たちの心というものが、どこかのはきだめに、ちりあくたのように捨てられ、マツチ一本で灰にされているような思いがした。

お馬にのったへいたいさん

てっぽうかついであるいてる

トットコトットコあるいてる

へいたいさんは大すきだ


気ばりすぎて調子っぱずれになった歌が、家のなかからきこえてくる。敷居をまたぐと、ランドセルの大吉を先頭に、並木、八津がしたがって、家じゅうをぐるぐるまわっていた。孫のそんな姿を、ただうれしそうに見ている母に、なんとなくあてつけがましく、大石先生はふきげんにいった。

「ああ、ああ、みんな兵隊すきなんだね。ほんとに。おばあちゃんにはわからんのかしら。男の子がないから。でも、そんなこっちゃないと思う…」
そして、

「大吉ィ!」と、きつい声でよんだ。口のなかをかわかしたような顔をして大吉はつっ立ち、きょとんとしている。はたきと羽子板を鉄砲にしている並木と八津がやめずにうたいつづけ走りまわっているなかで、
大吉のふしんがっている気持ちをうずめてやるように、いぃきなりせなかに手をまわすと、 ランドセルはロボットのような感触で、しかし急激なよろこびで動いた。長男のゆえにめったに受けることのない母の愛撫は、満六歳の男の子を勝利感に酔わせた。にこっとわらってなにかいおうとすると、並木と八津に見つかった。
「わあっ」
押しよせてくるのを、おなじようにわあっとさけびかえしながら、ひっくるめてかかえこみ、「こんな、かわいいやつどもを、どうしてころしてよいものか。わあっ、わあっ」
調子をとってゆさぶると、三つの口はおなじように、わあっ、わああと合わせた。
そこにどんな気持ちがひそんでいるかをしるには、あまりにおさない子どもたちだった。

戦場に送りたくないのは、愛おしい我が子も、教え子もおなじです。


 天皇の名によって宣戦布告された十二月八日のそのずっとまえに、その年の入営者である仁太や吉次や磯吉たちは、もうすでに村にはいなかった。出発の日、いくばくかの餞別にそえて大石先生は、かつての日の写真をハガキ大に再製してもらっておくった。 もう原板はなくなっていた。竹一のほかはみななくしていたので、よろこばれた。
「からだを、だいじにしてね」
そして、いちだんと声をひそめ、
「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」

すると、きいたものはまるで写真のむかしにもどったような素直さになり、磯吉などひそかにな涙ぐんでいた。竹一はそっとに横をむいて頭をさげた。吉次はだまってうつむいた。正はかげのある笑顔を見せてうなずいた。仁太ひとり声にだして、.

「先生だいじょうぶ、勝ってもどってくる」
それとて、仁太としてはひそめた声で「もどってくる」というのをあたりをはばかるようにいった。もどるなどということは、もう考えてはならなくなっていたのだ。仁太はしかし、ほんとうにそう思っていたのだろうか。まっ正直なかれには、おていさいや、ことばのふくみは通用しなかったからだ。仁太だとて命の惜しさについては、人後におちるはずがない。それを仁太ほど正直にいったものは、なかったかもしれぬ。かれはかつての日、徴兵検査の係官のまえで、甲種合格!と宣言されたせつな、思わずさけんだという。
「しもたァー」

みんなが吹きだし、うわさはその日のうちにひろまった。しかし仁太は、ふしぎとビンタもくわなかったという。仁太のその間髪をいれぬことばは、あまりにも非常識だったために、係官に正当にきこえなかったとしたら、思ったことをそのとおりにいった仁太はよほどの果報者だ。みんなにかわって溜飲をさげたようなこの事件は
、ちかごろの珍談として大石先生の耳にもはいった。
その仁太は、 ほんとに勝ってもどれると思ったのだろうか。
ともあれ、でていったまま一本のたよりもなく、その翌年もなかばをすぎた。ミッドウェーの海戦は、 海ぞいの村の人たちをことばのない不安とあきらめのうちに追いこんだ。ひそかに「お百度」をふむ母などをだした。仁太や正は海軍に配置されていた。平時ならば徴笑でしか思いだせない仁太の水兵も、 ぃったまま便りがなかった。
仁太はいま、 どこであの愛すべき大声をあげているのだろうか。

〈中略)

そうして、 さらにさらに大きなかげでつつんでしまうのは、 ぃっのまにか軍用船となって、 どこの海を走っているかさえわからぬ大吉たちの父親のことである。その不安をかたりあうさえゆるされぬ軍国の妻や母たち、じぶんだけではないということで人間の生活はこわされてよいというのだろうか。じぶんだけではないことで、発言権を投げすてさせられているたくさんの人たちが、もしも声をそろえたら。
ああ、そんなことができるものか。

「子どもたちを戦場に送らない」「だれの 子どもも ころさせない」と声を上げることが許される今、それが可能な間に、声を広げ、声をそろえたいものだと、改めて思います。

話題がもう少し次回に続きそうです。



投票日の7月10日に散歩した自然保護センターでこんな鳥を見ました。

遠くの森の中の豆粒ほどの点を、大幅トリミングで拡大表示してみます。







撮影時はわからなかったのですが、写真で見るとキセキレイでしょうか?

カワラヒワが、三々五々、水浴びを楽しんでいました。







下の写真はクリックすると大きな画像になります(フォト蔵)。



水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg

水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg

水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg

水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg

水浴びするカワラヒワ posted by (C)kazg


今日はこれにて。