入院一週間が経過します
午前中の胃カメラの結果を見て、夕方には退院の予定です。ただし、ぬかよろこびになっても泣かぬよう、予定は未定と言い聞かせておくことにします。
昨日の夕景は、なかなかみごとでした。




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 病室雑話の続きです。

(2)縁は異なもの

先日のこの記事でご紹介したOさんのお話で、淡い知識がハタとよみがえりました。同和鉱業(株)の前身は藤田組といい、その創始者が、実は藤田伝三郎でした。

私の出身地は県北部の美作地方ですが、地場産業の乏しいその地において、往時は従業員3,000名をかかえ、地域経済に少なからぬ影響を与えていたのが、同和鉱業柵原(やなはら)鉱業所(=柵原鉱山)でした。

 

ウィキペディアにはこうあります。

柵原鉱山(やなはらこうざん)は、岡県久米郡美咲町(旧柵原町)にあった、黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。岩手県の松尾鉱山とともに日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山であった。

柵原鉱山は、硫化鉄鉱を主に産出し、それは農業用肥料「硫安」(硫酸アンモニア)の原料として用いられました。採掘された鉱石は、同社が建設、運行する片上鉄道を利用して、海辺の町備前市片上まで運ばれました。片上鉄道は、市民の通勤通学の足としても親しまれていました。
私の生家の近所にも鉱山に働く人は多く、父も大叔父もまたその一人でした。父は、若い頃肺病を患ったせいもあって、坑内労働ではなくて、地上で営業の仕事に携わっていました。その分、賃金は割安であったようですが、坑内労働に比べて健康を害することも免れてか、米寿を過ぎて健在です。禍福は糾える縄の如しの一例でしょうか。

子どもの頃、父に連れられてその職場を訪ねたことも何度かありました。あるときは、昭和天皇の行幸で、遠くから小柄な姿を人の背からのぞき見たことも、記憶にあります。

大叔父の家は片上鉄道の沿線にありましたので、これに乗って鉱山との間を行き来したこともありました。

往時は地域経済の柱でもあったこの鉱山でしたが、工場排出ガスから安価、簡便に硫黄を取り出す技術が開発されて硫化鉱の需要が激減したこととあいまって、円高のあおりで輸入鉱石とコスト的に太刀打ちできなくなったことなどから、合理化縮小のすえ、現在は閉山となっています。

合わせて、片上鉄道も市民に惜しまれながら廃線となっています。 

鉱山と片上鉄道の紹介がこの片上鉄道保存会のサイトに詳しいのでご紹介しておきます。

http://www.ne.jp/asahi/katatetsu/hozonkai/index.htm 

また次のサイトでは、鉱山閉山の模様が動画で紹介されています。

http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004090621142437654

 

先程胃カメラの検診が終わりました。

深刻な病変はない模様、ということで、晴れて退院と決まりました。

昨日の夕食以来絶飲食でしたので空腹を思い出しましたが、喉の麻酔のせいで、食事は一時間後。もう少しの辛抱です。

今日の記事はここまで。

次からは自宅パソコンで更新できると思います。やれやれ。