SSブログ
<
あれやこれやの知ったか話 ブログトップ
前の20件 | -

宇喜多直家を探る、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

朝の常山です。


S0663239


散歩道の途中、麦飯山の辺りから朝日が昇るのが見えます。S0164053


今、水田が広がり、長い農道が続いている平野は、干拓によって作られたもので、以前は海でした。従って、常山も麦飯山も、かつては海に面して聳えていたのでしょう。


R0019006


岡山市の岡山シティミュージアムのHP 中に収められている、デジタルアーカイブに、歴代岡山城主の紹介が載せられています。その冒頭に、「創築者」として、宇喜多直家の名が見えます。


ukita


部分的に引用します。


■生い立ち
享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県邑久郡邑久町)の砥石城に生まれる。家門は在地領主。6歳のとき、祖父の能家が西隣の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害すると、父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡・同笠加を転々とする。この間に父が病没し、天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢され、数々の戦功を挙げる。永禄2年(1559)、岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍の口城を攻略。
   
宇喜多直家木像 写真
宇喜多直家 写真提供:光珍寺     (木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)
■岡山開府
永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)、この完勝をもって完全に「戦国大名」となる。翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城。これが岡山城の前身となり、「城下町・岡山」の歴史が幕を開けた。

■織田軍へ帰参
力をつけた直家はついに主家・浦上宗景と対立するが、宗景はもはや直家の敵ではなく、天正5年(1577)滅亡。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対抗して毛利氏と結ぶが、のち信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により波乱の生涯に幕を閉じる。直家は正攻法よりも権謀術数を多用したため「戦国の梟雄(きょうゆう)」とおそれられるが、裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がったその実力は、異彩を放っている。


宇喜多直家といえば、「梟雄」「謀将」等々と評され、非情でダークなイメージがつきまといますが、上の引用文からもそれが窺われます。文章の端々に、「暗殺」「謀殺」「奪」「権謀術数」などというまがまがしい文字が踊っています。その相手は、岳父(妻の父)であったり、元の主君であったり、姻戚、同盟者であったり、みずからの利のためには情も理もお構いなしの残忍さを発揮しています。兄直家の補佐を勤めた弟宇喜多忠家が、「兄の前に出る時は、警戒して鎖帷子を身につけていた」と、後に述懐するほどだったとも言います。


先日から話題にしている、美作の三星城主後藤勝基もまた、その1人でした。


第92回オール讀物新人賞受賞作で、第152回直木賞候補作 「宇喜多の捨て嫁」( 木下 昌輝著)は、政略によって後藤勝基に嫁した於葉(直家の四女)にスポットライトを当てています。


AMAZONの「商品の説明 」欄から一部抜粋します。


内容紹介

権謀術数によって勢力拡大を図った戦国大名・宇喜多直家によって、捨て駒として後藤勝基に嫁がされた四女・於葉のこの物語を、篠田節子選考委員は「女性視点から決して感傷的にはならず、最後まで緊張感が緩まず、リーダビリティは高いが通俗的ではない/時代小説の様式に則りながらも、随所に独特の表現が光る」、同じく森絵都選考委員は「海千山千が跋扈する殺伐とした世を背景に、一筋縄ではいかない人物たちが迫力たっぷりに絡み合う、緊張感のあるそのストーリー展開には貫禄をも感じた」と高く評した。
本書ではほかに五編の短編を収録。いずれも戦国時代の備前・備中を舞台に、昨日の敵は味方であり明日の敵、親兄弟でさえ信じられないという過酷な状況でのし上がった、乱世の梟雄・宇喜多直家をとりまく物語を、視点とスタイルに工夫をこらしながら描く。(後略)




この三星城がある場所から十数キロ南へ下ったところに、茶臼山という小山があり、その頂きにこのような建物が見えることを.過去記事で話題にしたことがありました。


ふるさとはいづこも花は盛りなり骨折の父癒えゆくらしも(2017-04-11)


2017-04-11T21 58 02-58b67


束の間の出遭いゆかしや寒ゆるむ(2014-01-31)


tyausuyama

赤磐市周匝(あかいわしすさい)にある茶臼山(城山とも呼ばれます)です。
赤磐市のhp にはこうあります。

吉井川の清流のほとり、空を衝くように茶臼山がそびえ立つ。
備前軍記によると戦国時代に山城があったと記録され、市の史跡になっています。
四季を通じて楽しめる山頂に、城型展望台とともに高瀬舟舟宿を移築し、大型竪穴遺構を推定復元して人びとに親しまれる公園にしました。
所在地:赤磐市周匝15-6
電 話:086-954-1366
営業時間: 10:00~17:00
定休日:月曜
駐車場:10台
トイレ :有
アクセス:山陽ICから車で約60分
美作ICから車で約40分


戦国時代の山城という認識はありましたが、少し調べてみると、これまた宇喜多直家にゆかりがあったようです。


「角川日本地名大辞典33岡山県」から該当箇所を引用してみます。


ちゃうすやまじょう  茶日山城<吉井町>
中世の山城。赤磐郡吉井町周匝に所在。築城時期は不明。天文初年頃,浦上宗景配下の諸城の1つに周匝村城の笹部勘二郎の名が見える(備前軍記)。笹部氏は吉井川上流地域を押える任務をもってこの城に居城していた。 天正5年の天神山城落城後, 浦上宗景の家来であった国人や名主層が宇喜多直家に反旗を翻し,笹部氏もこの一党に与し, 天正7年この城も直家の攻撃を受け,勘二郎とその息子は討死して落域,以後自然と廃城となった。


「赤磐郡吉井町」は平成大合併以前の呼称です。同じ吉井川の下流に位置する天神山城(和気郡)を居城としていた浦上宗景にとって、この茶臼山城は、地理的にも要衝としての役割を持っていたようです。


天神山城についてのウィキペディアの解説を少し引用します。


天神山城(備前国)

ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。

永禄7年(1564年)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567年)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。

天正元年(1573年)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。

天正2年(1574年)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。

天正3年(1575年)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580年)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。


三星城落城が天正7年、茶臼山城落城も同年。怒濤のような直家の進撃です。


このあたりの事情を「岡山県の歴史」(山川出版社)は、こう要約しています(p169)。


備前国内で宇喜多直家の勢力が拡大し、備中・美作から毛利の勢力が進出するようになると、 これに対処するため浦上宗景は信長の権勢にたよるようになったが、直家は天正五年二月、浦上宗景の本拠天神山城攻略に成功し、宗景は播磨にのがれた。こうして、宇喜多氏は直家のとき、ついに、主家浦上氏を備前国から追いだし、備前・備中東南部・美作東部を手中におさめて強大な大名勢力となったのであった。

宇喜多直家はさらに播磨へ兵を進めたが、宇喜多・毛利の連合勢力が強大化することを厄惧した織田信長は同五年十月、羽柴(豊臣)秀吉を山陽道に派遣した。秀吉は黒田孝高の姫路城に本拠をおいて、天正七年にかけて宇喜多勢を播磨から駆逐した。
直家は天正七年になると、羽柴秀吉と講和して、毛利氏と結んでいた三星城の後藤勝基を攻め滅ぼし、同年十一月には織田信長に帰属して、これまで同盟していた毛利から離反することになった。




わが居住地ナードサークの近辺にも、宇喜多直家にまつわる事蹟がいろいろと残されており、過去記事でも、何度か話題にしてきました。 たとえばこんな記事。鯉のぼりの伝承、の巻(2016-04-30)


  以前、ブログを始めたばかりの頃、こんな記事を書きました。
濁りなき緑を肺に満たしてん(2013-08-20-1 )    

戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。
八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。

(中略)   

「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)については、さらに古いこの記事逆さ児島富士 (2013-08-06)で概略を記しています。

富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。

常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。
本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。
平成15年11月11日 玉野市教育委員会
「常山合戦案内」板より

この常山合戦について、常山のふもとにある豊岳山久昌寺のホームページ「豊岳山久昌寺」「常山女軍常山城と久昌寺」」という記事があり、こう書いておられます。

天正三年(1575年)六月四日、常山城(城主・上野隆徳)は総勢七千ほどの毛利勢によって完全に包囲され、落城の時がせまっていました。
そして六日の朝には総攻撃が始まり、それと同時に逃げ道には火が放たれ退路も断たれてしまいました。
翌日早朝には城内で最後の酒宴が催され、一族いさぎよく自害しようと申し合わされたのです。
一族の自刃の修羅場が展開する中で、隆徳の妻(備中松山城主・三村元親(もとちか)の妹で名を鶴姫と伝えられています)は男に負けない武勇の持ち主で、「敵を一人も討たないでやすやす自害するのは口惜しい」と鎧を着け上帯を締め長刀を小脇に抱え、敵前におどり出ました。
それに従い『遅れてなるものか』とばかりに侍女たち三十四人がそれぞれ長刀をとり、敵の中に飛び込み、大いに奮戦しました。
しかし圧倒的多数の敵勢に対しては、彼女達はあまりにも無力で、一人また一人と討ち取られ次第に少なくなってゆきます。
奮戦の後、鶴姫は「父・三村家親から与えられたもの」と国平(くにひら)の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して再び城中に消えていきました。
そして、念仏を唱えたあと、口に刀をくわえ、前に倒れこむように突っ伏して、壮絶な最後を遂げたのです。
それを見届けた後、城主・上野隆徳も腹を十文字に切って果てました。
それぞれの首は、当時毛利氏を頼り、備後の鞆(浦(とものうら・現在の福山)にいた没落将軍・足利義昭(織田信長に京都から追放されました)のもとへ送られたということです…。
(『備前児島と常山城』…北村章著・1994年山陽新聞社発行、ほか『備前軍記』『備中兵乱記』等を参照)

(中略)

常山合戦の後日談として、地元には、こんな伝承が伝わっているそうです。

1575年6月の常山城城落の時、主、上野高徳は6歳になる末の娘「美余」を、客として城に滞在していた長谷井半之進盛之という武士に託し、ひそかに城を脱出させ た。半之進は常山城の東に約3キロ離れた池ノ内の地にのがれ、武士を捨てて帰農し、姫を育てながら、ひっそりと暮らした。
姫は、半之進の息子半九郎実之と共に成長し、後にこの半九郎と結婚し、一男一女を得た。
この姫に男の子が生まれると、常山城主の血につながると見なされて危険であると考えた村人たちは、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生まれてもこれを隠すため、鯉のぼりや絵のぼりをたてないようにしたという。その風習は、400年を経た現在も続いているとのことだ。
なお、市の重要文化財に指定されている「道清夫婦の墓」は、半九郎夫婦の墓のことである。


  

また、もう少し最近では、ムルデルの干拓堤防、の巻(2016-12-12)にも補足記事を載せています。


「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。

むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。

むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>
中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田(ママ)忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。


前述の「岡山県の歴史」(山川出版)にはこうあります。


全国統一をめざす識田信長にとって、中国地方制覇は毛利氏を残すのみとなり、宇喜多氏は織田信長配下として毛利との最前線におかれることになった。
このため、天正八~九年のころ、岡山県内では、毛利勢と宇喜多勢との戦いが各地で行われたが、このうち最大の合戦は天正九年八月の八浜(玉野市八浜)での両軍の激突であった。この戦いは備前南部の制海権をめぐる一戦と位置づけられるもので、中国地方制覇をねらう織田信長にとってとくに重要な意味をもつ戦いであったと考えられる。 当時児島は 島で、瀬戸内の沿岸航路は児島の北の内海を連島(倉敷市連島)へ抜けていた。

毛利方は備前児島に兵を進め、 麦飯山(玉野市大崎)による穂田元清に援軍を送って、宇喜多方と激しい戦いを展開した。村上水軍を動員した毛利のため宇喜多軍は総崩れとなり、戦況立てなおしに奔走していた総大将宇喜多与太郎基家が流れ弾にあたって戦死した。退却のさい、能勢・馬場・岸本・小森・粟井宍甘・国富の七人の奮戦で毛利の追撃をかわした語は「八浜の七本槍」として知られる。結局この合戦は、この後、陣形を立てなおした宇喜多方の勝利でおわった。この戦いで戦死した与太郎基家は八浜と 大崎の境に葬られたと伝えられるが、いつのころからか、この地に祠がたてられ、「与太郎様」とよばれて足の神様として信仰を集めている。
直家が五三歳の生涯を開じたのは八浜合戦前の天正九年二月であったが、その死はおよそ一年間伏せられた。直家の跡をついだ嫡子八郎が当時一一歳であったことから、直家の弟忠家が後見することになり、 のち八郎は羽柴秀吉の一字をあたえられ宇喜多秀家と名乗ることになる。


八浜合戦は1582(天正10)年のことです。ここに直家が登場せず、弟の忠家の名が見えるのは、直家は既に没していたためです。


ウィキペディアには、直家の死についてこう解説しています。


天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。 その死はしばらく隠されたといい、天正10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。


「備前軍記」にはこんな記述がある由。


或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ


膿まじりの出血が酷くて、それを拭い取った衣類を川に流していたのを、川下で拾う者がいたが、ある頃から衣類が流れてこなくなったので直家は死去したのだろうと人びとが噂し合ったのだというのです。さしもの「梟雄」直家も、悪性の病には敵わなかったもののようです。


聞きかじりの知ったか話、今日はここまで。


nice!(26)  コメント(2) 

桃尻考、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

アジア人留学生相手の日本語学習でこんなプリントを使いました。も

という書き出しからして以前書いた記事とまったくソックリでした(汗)


立春も近いと言うに、、、の巻(1)(2018.01-31)


節分にちなんで、の巻(1017.02-03)


ですので、最初の構想を軌道修正して、昨年の記事を一部分だけ引用してご紹介することにします。


上級者を対象に、過去記事◇福は内 福は内とて 春待たるを元にこんな問題もつくってみました。(注 実際のプリントでは、本文には、ふりがなを振っています)

次の文章を読んで後の問に答えなさい。

節分と言えば、「枕草子二二段」に、「すさまじきもの」という章段があります。

「すさまじ」という古語は、現代語のニュアンスとはかなり異なり、「興ざめだ」とか。「殺風景だ」とか訳されます。くだけた言葉で言えば、「しらける」「ドッチラケル」という感じでしょうか。
すさまじきもの、①昼吠ゆる犬。春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。稚児亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地火炉。②博士のうち続き女児生ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。③まいて節分などは、いとすさまじ。(以下略)
【現代語訳 】 しらけちゃうもの。昼間っから吠える犬。春の網代。(網代は、宇治川などで行われた伝統的な漁法「網代漁」で用いる漁具。川中に立てた杭に、竹や木で編んだ仕掛けを設置し、氷魚(鮎の稚魚)なんかを獲った。これって、ゼッタイ冬のもの!)
三、四月頃に着ている紅梅襲の衣。季節外れでダサイったらありゃしない。
飼ってる牛が死んじゃった牛飼。 赤ん坊が死んじゃった産室。 火をおこさない角火鉢。いろり。 博士が、次からつぎへ女の子を産ませているの。方違えに行ったのにごちそうをしない所。まして節分の方違えにごちそうしない家などは、どっちらけでやんなっちゃうわ。
註 「旺文社古語辞典」にはこうあります。
かたたがへ(方違へ):(名詞)「かたたがひ」とも。陰陽道で、外出する際、天一神 ・太白神・金神などのいる方角をさけること。行く方角がこれに当たると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家
(「方違へ所」)に泊まり、そこから方角を変えて目的地に行く。=忌み違へ。「─にいきたるに、あるじせぬ所(=ゴチソウヲシテクレナイ家)」
「あるじす」という言葉は、「主す」。方違え先の主人が、ゲストをご馳走してもてなすという意。「方違え」にまつわる風習であったようです。同じ「旺文社古語辞典」は、「節分違へ」をこう説明しています。
せちぶんたがへ(節分違へ):(名詞)節分の日に行う「方違へ」。平安時代、節分に「方違へ」をする風習があった。「─などして夜ふかく帰る」枕草子298
節分(せつぶん/せちぶん)は、「季節を分ける」意で、もともと各季節の始まりの日=「立春」「立夏」「立秋」「立冬」のそれぞれの前日をさしました。立春は1年のはじまりとして特に尊ばれたため、次第に、もっぱら節分といえば春の節分のことをさすようになりました。
問1 ①「昼吠ゆる犬」が興ざめである理由を次の文の( )に適切な語を入れて説明しなさい。
◎犬は( ) 吠えるのが似つかわしいと考えられるから。
問2 ②「博士」の家に女児ばかり生まれるのは、なぜ興ざめなのか、次の文の に適切な語を入れて説明しなさい。
◎その時代、博士は( ) だけが継ぐことのできる官職だったから。
問3 ③「まいて節分などは、いとすさまじ。」とありますが、作者は、節分にはどうあるべきだと考えていますか、簡潔に答えなさい。

「日本語」の習得に役立つかどうかは別として、日本文化への関心は刺激できるかも、と思って、考えたのですが、、、。
一時間目、教室へ行ってみると、席には中国人の男子学生ひとりだけ。春節の時期でもあり、帰省中の学生もあろうかと覚悟はしていましたが、出席ひとりとは想像を超えていました。
ちょっと気落ちして、プリントではなく自分のやりたい自習をするかと水を向けてみましたが、プリントをやるといいます。しばらくして、もうひとり、中国人女子学生があらわれ、このふたりと2時間の授業、節分のプリントにつきあってもらいました。

ひきつづき、別クラスの2時間は、10人ほどをあいてに、同じことを繰り返しました。

費やした労力に比べて、「達成感今少し」の悔やみが残りますので、腹いせにここに紹介させていただきました。 


この記事を書いたこと自体忘れていましたが、ファイルフォルダの中に、過去プリントの原稿が見つかったので、今年も何気なく授業で使ってしまった、という次第です。学生の興味や関心、日本語能力とはかけ離れた、ほとんど私の自己満足に終わりました(汗)


ところで、このプリントでの、ケーハクな「現代語訳」は、お察しの通り、橋本治さんの「桃尻語訳」風のおしゃべり口調をパクって真似たものです。お恥ずかしい。正統の現代語訳が堅苦しくよそよそしくなりがちなところを、読者の感性に近づけることができようかと、当ブログの過去記事でも、時々まねしてみたことがありました。

その橋本治さんが、先日亡くなられたと言います。

数々の追悼文が、ネット上でも寄せられていますが、そのうち特に目に止まったものをメモしておきます。

一つは,内田樹さんの追悼文3編。

追悼・橋本治3

これが一番最近書いた橋本治さんについての文章である。去年の1月に『98歳になった私』の書評を頼まれて書いたものである。 ...

2019-01-29 mardi


追悼・橋本治その2

橋本さんについて書いた文章はいくつかあるけれど、そのうちから三篇を選んで追悼のために採録することにした。 これが二つ目。...

2019-01-29 mardi


追悼・橋本治

橋本治さんが亡くなった。 今日(2019年1月29日)の15時9分だと伺った。 私にとっては20代からのひさしい「アイド...

2019-01-29 mardi


 


こんな文章から始まります。


橋本治さんが亡くなった。 今日(2019年1月29日)の15時9分だと伺った。 私にとっては20代からのひさしい「アイドル」だった。最初に読んだのは『桃尻娘』で、「こんなに自由に書くことができるのか」と驚嘆して、それからむさぼるように、橋本さんのあらゆる本を読み漁った。 何年か前についに念願かなってお会いすることができて、『橋本治と内田樹』という対談本を出すという幸運に恵まれた。 その後、『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞を受賞したときには、橋本さんが選考委員を代表して、「授賞の理由」を語ってくれた。 20代からのあこがれの人が、僕の作品を解説してくれたのである。 謝辞のためにマイクの前に立ったときに「いま、橋本治さんが、授賞の理由についてお話ししてくださいましたけれど、これはアマチュアバンドが自費出版で出したCDが音楽賞をもらったときにジョン・レノンがその曲のコード進行について解説してくれたようなものです」というよくわからない比喩を使って感動を伝えたことがある。 橋本さんにははかりしれない恩義を感じている。


もう一つ興味深いのは、「本と雑誌の知を再発見 literax」のこの記事。



追悼・橋本治が安倍政権と日本会議が語る「伝統」を喝破


今月29日、作家の橋本治氏が肺炎のため死去した。70歳だった。橋本氏といえば、東大在学中につくった「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーの駒場祭ポスターで注目を浴び、女子高生の一人称で綴られた1977年発表のデビュー作『桃尻娘』(講談社)は大きな話題を呼んだ。

小説、評論、エッセイ、さらに古典と幅広く活躍してきた橋本氏だが、じつは折に触れて安倍政権と、その政権運営や安倍首相の発言に疑問を抱かない国民について批判してきた。たとえば、2014年に安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した際には、安倍首相の相手の質問に答えない姿勢と、それに対して批判が起こらない状況について、こう言及していた。

〈尋ねられたことに対して向き合わない。その代わりに近似した別の「自分の思うこと」だけを話して、議論は終了したことにしてしまう。なにかは話されたけれども、しかし疑問はそのままになっている。「なんかへんだな?」という思いが残るのは当たり前ですが、どうやら日本人は、そのこと自体を「おかしい」とは思わなくなっているらしい。少し前までなら、「答えになってないぞ!」というヤジが飛んだようにも思いますが、いつの間にか日本人は「答えになっているかどうか」を判断することを忘れてしまったようです。〉(朝日新聞2014年7月8日付)

こうした状況はいまも変わりはないどころか、ますます悪化するばかりだが、さらに橋本氏は、安倍政権や日本会議が語る「日本」や「伝統」についても、痛烈な批判をおこなっていた。

このことについて、本サイトでは2016年2月に記事にして配信した。今回、以下に再録するので、あらためて橋本氏の鋭い指摘を一読いただきたい。
(編集部)

以下略



「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーは、当時の学生たちの心性に深く根を下ろしている、ヤクザ的、任侠的、浪花節的な、ウエットでひとりよがりなヒロイズムを感じさせ、高校時代の私にとっては、なかば惹かれる気持ちとともに違和をも感じさせるたものした。
そのコピーが,橋本さんの作であることは、今回の逝去の報道を通して初めて知った次第で,うかつなことでした。ベストセラーとなった『桃尻娘』(講談社)は、ちょっと迎合的な匂いが鼻について、距離をおいて見ておりましたが、最近ではその「迎合的」 文体を,誇張してパクって使って いるのですから、なにをか言わんやですね(懺悔) 。ここにお詫びして,ご冥福をお祈りいたします。


ところで、「桃尻娘」「桃尻語」の「桃尻」とは、ピチピチと張った、うら若い娘さんのピンク色の臀部を思わせる語として流通しているように思いますが元はずいぶん違った意味の言葉です。


《桃の実の尻(実際は頭)が、とがっていてすわりの悪いところから》

1 馬に乗るのがへたで、尻が鞍の上に安定しないこと。 「―にて落ちなんは、心憂かるべし」〈徒然・一八八〉

2 尻の落ち着かないこと。 「日々に港口へ催促しつつ、―してぞ居たりける」〈読・近世説美少年録・二〉 [補説]近年、本来の意味から外れ、丸く張りのある尻を「桃尻」ということが多くなっている。 (goo辞書より)


1 番の「徒然草」の用例は、高校の教科書でもおなじみですね。


今日は写真がありません。ではまた。


nice!(34)  コメント(4) 

沙羅双樹の花の色、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

昨日の記事にご紹介した故Hさんが、連続18回続けたという「平家物語講座」の第一回で配付した資料に、こんなものがあったようです。


下が、昨日の記事の終わりで話題にした、釈迦入滅の時を描いた「涅槃図」です。
「小学館デジタル大辞泉」の解説を引用します。

 ねはん‐ず〔‐ヅ〕【×涅×槃図】
釈迦が沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で入滅する情景を描いた図。一般に、釈迦が頭を北、顔を西、右脇を下にして臥(ふ)し、周囲に諸菩薩(ぼさつ)や仏弟子・鬼畜類などが集まって悲嘆にくれるさまを描いたもの。涅槃絵。

「平家物語」冒頭のおなじみの一節に「沙羅双樹の花の色」とあることの解説資料と思われます。この木については過去記事にも何度か取り上げています。

故旧あい集いし森の青胡桃


 庭にはシャラ(ナツツバキ)のツボミもふくらみ始めていました。
この花は、咲いたらその日のうちに散るのだそうです。
DSCF0446_R.JPG
 
 先日訪ねた半田山植物園でも、シャラの木を見つけました。
 
P6089055.JPG
 
P6089053.JPG
 
 平家物語冒頭の、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」と描写されるのが、「沙羅」ですね。
釈迦入滅の時、その床の四辺にあった沙羅樹がたちまち枯れて白色に転じたと言われます。
日本ではこの「ナツツバキ」を「沙羅」と呼び、庭木として植栽しますが 、釈迦入滅を見届けた「沙羅」の木とは別種だとも聞きます。

六月の花 紫陽花 総集編


  途中、倉敷市藤戸寺を通ってみました。平家物語ゆかりの寺で、沙羅(ナツツバキ)で有名な寺ですが、六月の三日間だけ客殿を開放し「沙羅の花を観る会」が催されるのだそうですが、今年はあいにく開放期間終了との掲示がありました。
藤戸寺については機会を改めて記事にするとして、今日は朝日を浴びた紫陽花の花だけをアップします。
_K527238_R.JPG

 


ナツツバキの花の画像も、何度か掲載しました。



先日この記事で三徳園を訪れたときには、実がなっていたので、珍しいと思って写してきました。

小鳥の森がアブナイ?の巻



ところで、上の記事で、「藤戸寺については機会を改めて記事にする」と予告しながら、3年以上前のこのお約束が、まだ果たせていません。
以前も何度か記事を借用させていただいた 「岡山の風 郷土史」
の別サイト「岡山の風 風景・歴史・伝説」下津井 「源平合戦ゆかりの地」という記事があります。少し引用させていただきます。

 源平合戦ゆかりの地

 源平時代、四国の屋島を拠点に瀬戸内の制海権 (海上交通路の支配等) を掌握していた平家は、  ここ下津井に城(下津井古城:下記) を築き、当時、吉備の穴海 (現、瀬戸内海)に浮かんでいた児島を、源氏の攻撃に対峙する前線拠点にしました。

 1182年、九州大宰府を経て、四国屋島(現、屋島東町) に行宮(あんぐう:行幸時、政変時などの仮宮)を置いた平家の主君、安徳天皇の御座船が下津井に入港。

 1183年、児島半島の西、高梁川の河口にある乙島、柏島間の海峡で日食を利用した作戦により、平家が源氏に勝利。   (水島合戦)

 1184年、十数隻の船団を組み、下津井港に攻めてきた反乱軍(源氏に寝返った阿波・讃岐の兵士)を平家が、下津井港沖で撃退。(下津井合戦)

 同年、本土と児島を隔てていた吉備の穴海(現、瀬戸内海)の浅瀬を馬で渡る作戦により、藤戸(現、倉敷市藤戸町)に陣を敷いていた平家に源氏が勝利。(藤戸合戦)

 同年秋、平行盛が、ここ田之浦 (当時、備前壇ノ浦) に布陣、源氏の大軍を迎え討ちましたが、 源氏方の武将、佐々木三郎盛綱に敗れ、屋島に逃れた後に壇ノ浦の合戦で討死。


藤戸合戦と飽浦

   藤戸合戦時、藤戸の東対岸(現、岡山市南区飽浦辺り)に陣を敷いていた源氏方は、船が揃わなかった為に平家を攻めあぐねていましたが、一ヵ所だけ馬で対岸まで渡ることができる海の道が在ると、近くの漁師から教わった佐々木三郎盛綱らが先陣をきり馬で対岸へ渡り、源氏方に大勝利を納めるきっかけをつくりました。(平家物語「藤戸の渡し」)
 この後、檀ノ浦の合戦に至ります。

 その功績として佐々木三郎盛綱は、将軍 源頼朝から児島全土と小豆島一帯に及ぶ広範囲な領地を与えられ、 佐々木氏一族は飽浦の地に居城(現、高山城跡 )を築き、 盛綱は、地名にちなみ 「飽浦三郎」と名乗りました。
 

々木三郎盛綱に関しては、「笹無山」伝説として知られる次のようなエピソードがあります。これはかつて「マンガ日本昔話」でも放送されました。
あらすじまとめサイトから引用してご紹介します。

 あらすじ

昔、備前の国藤戸という寂しい漁村に漁師の親子が住んでおりました。息子の名は「与助」と言い、大変な孝行者でした。

平穏に暮らしていた親子でしたが、源平の合戦が激化して平家が一の谷に逃げてきたことから、源氏の兵が藤戸の村に陣をかまえるようになりました。

ある冬の冷たい雨が降っていた晩のこと。与助が一人で漁にでかけ船で準備をしていると、甲冑姿の鎧武者が現れて「浅瀬の場所」など内海について詳しく聞いてきます。

与助は、丁寧に侍たちの質問に答えてやりました。浅瀬の場所を聞いた侍たちは、さらに分かりやすいように「瀬踏み」をして欲しいと頼み、与助は断るわけにもいいかずに、冬の冷たい海に裸になって入り、浅瀬に目印の竹をつける作業を手伝いました。

ところが、その作業が終わって与助が漁に戻ろうとすると、大将の佐々木は「このような下郎はどこで誰に漏らすやもしれん」と口封じのために与助を斬りつけたのです。

漁師仲間が内海に浮かんでいた与助を見つけ、母親が駆けつけた時には既に与助は冷たくなっていました。あとから与助を切りつけたのは「佐々木」という武将であることがわかりましたが、母親にはどうすることもできませんでした。

「与助が一体何をした…おのれ佐々木」
母親は何を思ったのか裏山に駆け上ると「佐々木憎けりゃ笹まで憎い。佐々木よ与助を戻せ」と言いながら笹の葉を引きちぎりはじめました。

母親は全身血まみれになっても笹の葉を引きちぎり続け、とうとう広かった裏山の笹はひとつ残らず葉を引きちぎられてしまいました。後にこの話を聞いた佐々木は、流石に己の行為を悔いたのか写経をしたり、与助の霊を慰めるためお堂を立てたりしました。

裏山の笹はそののちも全く生えることはなく、村人はこの山を誰ともなしに「笹無山」と呼んだそうです。

(投稿者: もみじ 投稿日時 2012-8-6 15:23)



 ユーチューブの動画はこちら。

22 【まんが日本昔ばなし】 笹無山 - YouTube


「笹無山」と呼ばれる山は、いまも藤戸寺近くの街道脇に存在し、案内板が掲示されています。倉敷市公式観光サイト倉敷観光webのこのページに、詳しい紹介がありますので参照ください。

藤戸寺について、ウィキペディアはこう解説しています。

 寺伝によれば、この地に寺院が建立された由来は以下の通りである。寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(705年)に千手観音像が海中から浮かび上がり、それを安置したことに始まる。その約30年後、諸国を巡っていた行基により安置してあった千手観音像を本尊とし天平年間(729年 – 748年)に寺院を創建した。
寿永3年(1184年)12月、源平合戦の藤戸の戦いで戦功を挙げた佐々木盛綱は、戦後、この寺院の周辺である児島郷を領地として拝領し、戦乱で荒廃した寺院を修復したとされる。
盛綱は合戦の際に若い漁師が道案内をしたことで武功を立てたが口封じのために殺害したと言われる。その漁師の霊と合戦の戦没者を弔うために当寺院で大法要を営んだと伝えられている。
この伝説は謡曲「藤戸」として能の演目の一つとなっている。以後、毎年、藤戸寺土砂加持法会において盛綱とともに供養されている。(太字は引用者)

今日はここまで。

nice!(33)  コメント(6) 

「渦虫」と「蝸牛」の三題噺後編、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

前回記事に「渦虫」と「蝸牛」を間違えた話題を書きました。
それがきっかけで、古い記憶が呼びおこされました。
「渦虫」でも「蝸牛」でもない「呉牛」は、過去記事(たとえば下の記事)に「畏友Hさん」「H氏」という名で何度か登場する、4年前に亡くなった友人の俳号でした。(私のブログには、別人のHさん、H氏、H君も登場しますので、混乱があったらお詫びします。)

自由なる友や何処を旅すらん


初盆や逢うて寂しき目覚めかな
西行も浮かれこそすれ花爛漫


西行の碑を抱くかに咲き初めし


亡き友を偲ぶ会あり燕来る


私は長いこと、早とちりでこれを「蝸牛」と錯覚し、句作の遅さをみずから嗤って「カタツムリ」に擬してそう名乗ったのだと思い込んでいました。彼の死後、大変な思い違いに気づきました。
辞書によると、「呉牛」とは、かくのごとし。

 《中国、呉の地方に多くいたところから》スイギュウの別名。


昔、ベトナム旅行で写したこの牛が、水牛でしょうか?
「呉牛喘月」という四字熟語があるそうです。

 ごぎゅう-ぜんげつ【呉牛喘月】の意味

新明解四字熟語辞典

  1. 過度におびえ恐れることのたとえ。また、疑いの心があると、何でもないものにまで恐れや疑いの気持ちをもつたとえ。暑い呉の地方の牛は月を見ても暑い太陽だと思い、喘あえぐ意から。▽「呉」は江南一帯の地。「喘」は息が切れて苦しそうに呼吸すること。「呉牛ごぎゅう、月つきに喘あえぐ」と訓読する。

彼は、悠揚迫らぬ大人の風格を備えた大らかな人物と、若い頃か傍目には見え、彼を知る誰しもが、そうしたなエピソードを語りつつ彼を偲んだものでしたが、彼自身は、みずからの繊細さ、ナイーブさを、深く自覚しておられたのかと、改めて感慨を覚えたことでした。
彼を亡くして程なく、彼を悼んで、県内外の多彩な方々が追悼文を寄せてくださり、彼の遺稿と合わせて「追悼・遺稿集」を編むことになり、その編集のお手伝いしたことがありました。自身もこんな追悼文を寄せました

 初盆に寄せて kazg
退職記念に始めた私のブログ記事から一部抜粋して、追悼の言葉とします。今年のお盆の記事です。(注2013年の記事です)
 (1)
今朝方の夢で、久しぶりにH氏と逢いました。
気心の知れた何人かの顔ぶれで、テーブルを囲んで、なにやら座談めいたことをしています。議論が白熱するというわけでもなく、沈滞するというわけでもなく、穏やかに、快い時間が過ぎていました。
いつものように、H氏は、要所要所で緩やかに発言し、気の利いた味のある意見を陳述します。それを、周りもいつもの通りに受け入れ、話題が快く展開していくのです。
「健在そうですね。これなら、また一緒に○○(地名ですが、どこだったか。)へもいけますね。」と私が言うと、周りも同感らしく一様に頷き、H氏自身も、まんざらではない様子。
もちろん私もみんなも、彼が癌で闘病の末、この4月に肺炎をこじらせて急逝した事実を重々承知した上で、そう思っているのです。通夜でも葬儀でも、さらぬ別れを惜しんだばかりなのに、こんなにあっけなく再会がかない、しかも、また以前のように、弥次喜多の旅さえもできそうだと、うれしく思っているときに、目が覚めたのでした。
そういえば、丁度お盆。彼にとっては初盆で、もうこの近くに帰ってきているのかもしれません。合掌  
初盆や逢うて寂しき目覚めかな

(2)
H氏への追悼の思いは、何らか書きとめておかなくちゃと思いながら、気が進みませんでした。
初盆でもあるので、少々メモを残しておきましょう。
ちょっと昔、H氏が中心になって、「平家物語」とか「西行法師」とか「小野小町」とかにちなんだ史跡や碑を探訪する「ツアー」が何度か企画されました。伝承のみで信憑性が定かでない「史跡」もふくめて「眉唾ツアー」と彼は名づけて、老若男女を楽しませてくれました。
私は、決して熱心な参加者ではなく、冷やかし半分に、一ノ谷などを訪ねた「須磨・明石の旅」に混ぜてもらって、「明石焼き」を堪能したこととか、炎天下「小町姿見の井戸」(倉敷市)とか、「小町の墓塔」(総社市清音黒田)などの埋もれた「史跡」を、汗を拭き拭き訪ねたことなど、いくつかのシーンが細切れに思い出されるに過ぎません。その旅の企画立案者であり、ツアーコンダクターであり、解説者・チューターであったH氏が、いつも一番楽しそうでした。
運転免許を持たず、車を運転しない、というのは、地方都市の住人としては、奇特な存在でしょう。(そのくせケータイは、持ってましたよね。必ずしも、文明嫌い、便利さ嫌いというわけではないんだ。いや待てよ、懐に扇子と日本手拭い、髭剃りには日本カミソリ、布団では中山式快癒器、多羅尾伴内を気取るファッションセンス、○万円という高級帽子etc.という志向は、やはり古典派ではありますね。)
車を持たない彼の機動力は、抜群でした。20代のある週末、「国鉄」の駅ホームでバッタリ出会い、どちらへ?と聞くと、京都の歌舞伎公演を観にいく途上とか。あの年齢から、歌舞伎趣味でした。東京の歌舞伎座へもひょいと足を伸ばす。前述の歴史探訪も、必ず事前の下見(これが彼にとっては本番?)を欠かさなかったそう。
旅行や遠距離移動は、苦にならなかったようです。用務で県外に出かける機会などあれば、併せて行きたい場所に足を伸ばして来るようなことが、しばしばあったようです。私などは億劫者ですので、点と線の移動で済ませてしまうことが多く、見習いたいと常々感じることでした。
1年余り前の大腸癌の手術後の、療養と抗がん剤治療の期間も、彼は隙を見ては高野山周辺を訪ねたそうで、そのポジティブな行動力には頭が下がる思いでした。
亡くなる直前、お見舞いしたときは、酸素吸入器を自分で着けたり外したりという状態ではあったものの、「重篤な大病」という様子は見て取れず、むしろ回復も間近という風にさえ感じられる気丈さで、それに油断してついつい長居してしまいました。心には密かに、次の旅の構想が広がっていたのかもしれません。文字通り「自由」になった今頃、どのあたりを愉しく旅しているのでしょうか?
病床で、彼は、冗談めかして「遺稿集」に取りかからなければならないと言っていました。目次・構想はあらかたできていて、あとは過去の「書院」(ワープロ)のデータをパソコンの文書に変換しながら、まとめたい。が、痛み止めの注射のせいで、始終うとうとしているので、この眠気と戦ってパソコンに向かうべきか、今は体力の回復を待つべきか悩んでいると、冗談半分に漏らしていました。
私は、「とにかく今はしっかり養生して、体力回復を先行させ、肺炎の治療を成功させて、あと気長に抗がん治療に向かいましょう。気長に、ゆっくりと」等と、当たり障りのない言葉を掛けるしかなかったのですが、まさかそのあと数日にして病態が急変して、帰らぬ人になろうとは思ってもみませんでした。
思い返せば、2007年の私の脳動脈瘤手術のあと、共通の友人であるUさんと自宅に見舞いに来てくれました。見舞う側と見舞われる側が、こんな風に逆転する場面など、夢想だにしませんでした。何しろ、彼の方が2歳も若いはず。お子さんもまだ学生だし、順番が違うでしょ。と、しきりに悔やまれてなりません。
彼の直接の死因は、肺炎。その背景に、転移した肺がんがありました。
彼を見送った4月の時点では、よもや私に、同じ病名が宣告されようなどと、誰が思いつくことができたでしょうか。でも、私のは、まさしく初期でしてね、あなたの苦痛や不安に比べたら、雲泥の差なのですよ。
ただ、病気が病気だけに、侮ることなく、「終活」の心構えだけは整えておきたいのですがね。なかなか、煩悩に勝てません。たとえば、きゅっと冷えたビール!(正確には発泡酒ですがね)
終活を心に期せど酒旨し

上の文章に登場する「共通の友人であるUさん」は、Hさんの幅広い文章や作品を拾って、「遺稿集」を編集する中心をになってくださいました。厳選したものを冊子に編んだのですが、冊子に収まりきらなかったものを惜しんでCDに焼き、親しい人たちに配ってくださいました。それに触れると、改めて悲しみが蘇るので、敢えて机の片隅に放置したままにしておりました。
「呉牛」を思い出したのをきっかけに、そのCDを探ってみました。
内容は、彼が精魂込めて発行しつづけていた学級通信や、教科通信、教育研究会などで発表した実践記録や報告、文化祭等の行事に向けて、生徒はもとより職場の同僚にも熱心に発行した「啓蒙」プリント、市民相手に連続講義した「平家物語」講座の資料、教職員組合の熱心なリーダーとして活動してきた彼の本領が発揮された手書き職場新聞(後に、「書院」版も)などなど、きわめて多彩で、在りし日の面影を彷彿とさせるものばかりです。
いや、それらに耽溺するのが探索の目的ではありません。お目当ては、「呉牛」の作品が収められた冊子。彼の職場で催されていたという句会での作品を集めて、彼の手書き文字で印刷製本され発行された句集がそれです。第一集から第三集までの句集から、「呉牛」の作品がすべて、CDに収められていました。
その句集は、生前、彼からリアルタイムで見せて戴いた記憶がありましたが、正直、斜めに眺めただけで、味わうこともせぬままで、感想を伝えることも論を交わすこともないままに終わりました。
第一集に、秋を詠んだ句が掲載されています。ちょうど、これからの季節と思うにつけても、また、若かりし日の「呉牛」氏の姿がありありと脳裏に思い浮かぶに付けても、感慨ひとしおの思いにとらわれました。
1ページ分だけコピーしてご紹介します。端正な手書き文字から、その人柄が偲ばれます。


句集の片隅に、次のような小文が付されていて、彼一流の含羞がほほえましく懐かしく思われたことでした。

自他共に認める完璧主義者の彼が、締切を前に、推敲に推敲を重ねて句作に励んでいる様子が思い浮かびます。歩みののろさをカタツムリに擬して「蝸牛」と号したか、との私の錯覚も、あながち的外れではないのではと、居直ってみたりもするのです。いやいや、そう言えば、「牛」も歩みののろいものの代表格でしたか?
第三集に付された次の小文は、だめ押しの感があります。

締切の間際まで、句作に励んだ彼が、実人生においては、なぜこうも早々と完結を遂げてしまったのか。締切までにはまだまだ、存分の猶予時間があたえられていたはずではなかったか、と悔やまれてなりません。
最後にもう一句。




これはわかります。
涅槃図についての蘊蓄は、以前、彼から聞いたことがあります。
孫殿の誕生待つや誕生寺の記事で、こんなことを書いています。

 4月に亡くなったH氏が企画・引率して実施していた一連の文学史跡巡り(誰言うとなく「眉唾ツアー」と呼ばれていました)の一環として、真夏の誕生寺を訪ねました。宝物館で「八百屋お七」の振り袖をみて、数奇な縁(えにし)に感嘆したものでした。Hさんは、ついでに、宝物館に展示されている涅槃図を前に、流麗な独特の口調で、釈迦入滅にまつわる蘊蓄を語ってくれたことを、今更のように思い出します。

宝物館に収められた涅槃仏

涅槃図 には 迦様 の入滅(死) を嘆き悲しむ菩薩や仏弟子たちとともに、十二支の動物のほか、鬼や象や鶴や孔雀など様々な 鳥獣が描かれており、ムカデまでが釈迦を悼むために駆けつけたというのです。
百の足に、わらじを履いて駆けつけるのは大変だったでしょうね、いやいや、これは別の落語ネタでした。
Hさんの蘊蓄話は、なお続きます。
昔から涅槃図に猫が描かれることはなく、猫は鼠にだまされて、釈迦の死に間に合わなかった。ゆえに猫は、ネズミを恨んで仇として追いかけるようになった、というのです。
十二支に猫がいない理由と、よく似た言い伝えですね。ところ変われば品変わるで、干支に猫が出てくる国もある(ベトナムではウサギの代わりに猫が登場するようです。留学生もそう言っていました)し、お寺によっては猫が描かれる涅槃図もあるそうですね。
今日はこれにて。

nice!(26)  コメント(2) 

「渦虫」と「蝸牛」の三題噺前編、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

トックリヤシ 様のブログ

ナイチャーオジイの海日記


の9月2日付けの記事海のアイドル(1724) 石垣島 米原リーフ下の冒頭に、「扁形動物門 渦虫綱 ヒラムシ目」の「ニセツノヒラムシ科 で和名無し」というキュートな海中生物のお写真が紹介されていました。
この「渦虫綱」を、「カチュウ」綱と読んだ私は、軽はずみに、カタツムリのなかまかな、とひとり合点してしまっていました。念のために確かめてみますと、「渦虫」は「カチュウ」ではなく、「ウズムシ」と読むのだそうですね。
ところで、カタツムリは「蝸牛」と書いて「カギュウ」と読むのでした。
以前、こんな知ったかぶり記事を書きました。

かなしみを背負うたるらし冬蝸牛(ふゆかぎゅう)


舞へ舞へかたつぶり 秋の雨に濡れたとて


繰り返しになりますが、一部を再掲します。

 童謡にも歌われるとおり、一般に「デンデンムシ」とも、「カタツムリ」とも呼ばれますが、地方によるとデデムシともナメクジとも呼ばれるそうです。
民俗学者柳田国男は「蝸牛考」(かぎゅうこう) で、地方による呼び方のちがいを全国的に調べ、その分布が、京の都を中心とする同心円状に広がっていることを明らかにし、「方言周圏説」をとなえました。(中略)
ところで蝸牛(かぎゅう)は中国語で、「荘子」を出典とする「蝸牛角上の争い」という故事成語もられています。ちなみに「デジタル大辞泉」の解説は次の通り。
蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争い
《「荘子」則陽の、かたつむりの左の角(つの)にある国と右の角にある国とが争ったという寓話から》小さな者同士の争い。つまらないことにこだわった争い。蝸角(かかく)の争い。
ところで、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、平安末に、当時流行の「今様」という歌謡を集めたもので、白河法皇によって編まれたものです。そこに印象深い歌が採録されています。
舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(くゑ)させてむ 踏み割らせてむ  
まことにうつくしく舞うたならば 華の園まであそばせむ
口語訳:舞え!舞え! カタツムリ。 もしも舞わないのならば、 馬の子や牛の子に蹴らせてしまうよ。 その足で踏み割らせてしまうよ。 もしも本当にかわいらしく舞うたなら、素敵な花の園まであそばせてあげようよ。

昨日、農作業の手伝いに田舎に帰りましたら、イチジクの葉にカタツムリがいました。真夏に比べるとしのぎやすいお天気で、農作業で汗をかいた体にも、涼風がこころよく感じられます。からっとして、湿度が低いためもあるのでしょう。かたつむりにとっては、酷暑の日照りに比べれば、少しは心地よい気候でしょうか?ただ、湿度が低いことは、ちょっと辛いかもしれませんが。

イチジクがちょうど食べ頃です。

耕耘機で耕した猫の額ほどの畑。
昔は、「苗代」として、稲の苗を育てるために用いていた土地です。先祖が斜面にへばりつくように耕した農地で、一種の棚田(今は水田としては使っていませんから、段々畑)状態です。右上の小高くなって草が茂っている場所も、隣家の畑(昔の苗代)ですが、しばらく前から老夫婦が入院されていて、荒れています。
背の高い草が、存分に生い茂って、自然の境界付近の草を、草刈り機で刈り取りました。なかなかの大仕事でしたが、すっきり散髪した後のように涼しそうになりました。ビフォーア&アフターを撮影する余裕はありませんでしたが(笑)。

手前は里芋、その向こうに胡麻が育っています。
数週間前に写した胡麻の花。今はこれが実を結んで収穫間近になっています。槙の枝に遊んでいました。

郷里からの帰り道、長福寺の三重塔を写して帰りました。
明るい秋の日に、塔の朱色が映えて見応えがありました。











「渦虫」、「蝸牛」の連想から、はるか横道にそれた三題噺を書きかけていましたが、長くなりましたので、続きはまた別の機会といたします。
今日はこれにて。

nice!(34)  コメント(10) 

「宵待草」異聞、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

今日の話題は、先日の愛酒の日?の巻のつづきです。最後に、こう書きました。

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。
と、思わせぶりな文句を書いて、以下次号といたします。 

安田徳太郎氏の著作「『思い出す人びと』には、「夢二さんは日本で最初の社会主義画家としてメーデーを描き、〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して、社会主義の到来を待った社会主義詩人であった〈竹久夢二〉」との記述があります。
安田徳太郎とは、こんな人です。

 

安田徳太郎
やすだとくたろう
(1898―1983)

医師、社会運動家、著述家。京都生まれ。三高を経て京都帝国大学医学部卒業。京大在学中から従兄(いとこ)の山本宣治(せんじ)らと産児制限運動を行い、医療を通して社会運動に参加していった。1930年(昭和5)上京、31年東京・青山に内科病院を開業し、多くの活動家の診療に努めた。32年には共産党中央委員岩田義道(よしみち)の遺体を引き取り、病理解剖に立ち会い、また33年の小林多喜二(たきじ)の拷問死に際しては遺体解剖のため奔走したが警察に妨害されて果たせなかった。同年、共産党シンパの容疑で検挙されたが釈放。その後、転向者を含む獄中被告の救援活動に尽力。42年ゾルゲ事件に連座し、44年懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。敗戦後、共産党公認で京都から衆院選に出馬したが落選。その後離党して文筆活動に入った。著書に、『世紀の狂人』、ベストセラーとなった『人間の歴史』全六巻、日本人の起源を推理して話題をまいた『万葉集の謎(なぞ)』、自伝的回想『思い出す人びと』など。おもな訳書に、戦前から戦後にかけて改稿を加えたダンネマンの『大自然科学史』全11巻別巻一がある。『山本宣治全集』『同選集』の編集にもあたった。[小田部雄次]
『『思い出す人びと』(1976・青土社)』
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

ちなみに、その安田氏の義弟、高倉輝(タカクラ・テル)氏は、作家で戦後、衆議院議員、参議院議員となるがマッカーサー司令で公職追放された波乱の経歴の持ち主。そう言えば、先日市民劇場で鑑賞した演劇「春、忍び難きを」(俳優座)で、初めて選挙権を得た、文字の書けない農村女性サヨが、「タカクラテル」の文字を一所懸命覚えて投票する場面がありました。
朝日新聞degital2009年5月19日付け記事に夢二と社会主義との接点が、こう触れられています。

 夢二は反戦画家だった
東京・本郷から言問通りをちょっと下っていくと、赤いれんが造りの竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)美術館がある。(中略) 
夢二といえば、大正ロマン、愁いを含む美人画、「宵待草」の歌で知られる。そう、夢二作詞の、あの哀切な歌である。

 まてどくらせどこぬひとを

 宵待草のやるせなさ

 こよひは月もでぬさうな。

 美術館の学芸員谷口朋子(たにぐち・ともこ)(40)は13年前にここに来たとき、「夢二ってあんまり好きじゃない。甘く情緒的」と思った。

 夢二が生きたのは明治から大正、昭和にかけての49年間である。日清・日露戦争、大逆(たいぎゃく)事件、大正デモクラシー、関東大震災、そして満州事変まで日本は激しく動く世情の中にいた。

    ◇

 そんな時代を夢二は、たまきさん、彦乃(ひこの)さん、お葉(よう)さん、何人もの女性を愛し、美人画を描いて過ごしたんですね。

 「ええ、純粋だったからか、あるいは自分をさらけだす人だったのか。でも、夢二は反戦画家でもあったんですよ」

 美術館所蔵の明治の新聞「直言」の合本をめくる。1905(明治38)年6月の紙面のコマ絵、いまでいう政治漫画は、白衣の骸骨(がいこつ)と泣いている丸髷(まるまげ)の女が寄り添う姿である。「日露戦争の勝利の悲哀を描いている。夢二が描いた最初の政治風刺画だろうといわれています」

 当時、ナショナリズムを高揚させた日露戦争に対し、反戦論、非戦論が台頭していた。内村鑑三(うちむら・かんぞう)はキリスト者として、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)、堺利彦(さかい・としひこ)ら社会主義者は「平民社」をつくって「週刊平民新聞」を発刊、世に訴えた。廃刊の憂き目にあうと、「直言」「光」「日刊平民新聞」などが後を継ぐ。

 「夢二はこれらにコマ絵を寄稿しているんです。けっこう、どぎつい絵ですよ」

 この絵、先頭は凱旋(がいせん)の楽隊、でも続くのは負傷兵、悲しむ女、後尾は得意顔の村長ですよ。ほう、これも戦争の悲哀ですね。こちらは資本家と労働者、これは成り金と女の図柄です。これは墓前で悲しむ女。はあ、夢二はこんな絵を描いたんですか。反戦と美人画。夢二はどんな人だったんでしょう。

 夢二は1884(明治17)年、岡山で生まれた。母と姉にだけ打ち明けて家出して上京、早稲田実業学校に入る。平民社に出入りする荒畑寒村(あらはた・かんそん)、岡栄次郎(おかえい・じろう)とともに下宿して社会主義に傾斜する。

 彼らの薦めで寄稿したコマ絵は、女性や子どもへの同情に満ちていた。反戦と美人画、いずれも遠い母や姉への思慕からはぐくんだものかもしれない。

 1911(明治44)年1月24日、号外売りが街を走る。夢二宅に出入りする女子学生神近市子(かみちか・いちこ)は、その号外を夢二に届けた。そこには、幸徳秋水ら大逆事件の死刑囚処刑のニュースが書かれていた。

 夢二はフーンとうなり、秋水らとは旧知であることを明かし、「みんなでお通夜をしようよ。線香とろうそくを買ってきておくれ」と神近に告げた。神近は、5年後、アナーキスト大杉栄(おおすぎ・さかえ)を愛情のもつれから刺す日蔭茶屋事件を起こし、戦後は社会党衆院議員になる。

 大逆事件は、天皇の暗殺を企てたかどで12人が死刑、12人が無期懲役になり、天下を震撼(しんかん)させた。だが、ほんとにそんな計画があったのか、社会主義者らを一網打尽にする権力の陰謀ではなかったのか。


「宵待草」の歌が発表された明治45年(1912)は、大逆事件被告処刑の翌年でした。「〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して社会主義の到来を待った社会主義詩人であった」(安田徳太郎)という指摘も、あながち頓狂とはいいきれないのではないでしょうか?
『宵待草』の詩のモデルとされる淡い恋の相手、長谷川カタは、夢二との交際をはばかった両親の計らいで明治45年(1912)年4月に音楽教師・須川政太郎と結婚し、東京、鹿児島で暮らし1男3女に恵まれ、今は、須川の出身地である和歌山県新宮市の墓地に眠っているそうです。奇しくも、その墓の隣には、大逆事件〈幸徳事件)で処刑された石誠之助の墓があるそうです。
大石誠之助のことを、これまでこんなに度々書いてます。我ながら驚きでした。

「大逆事件シリーズ」補遺、管野スガの巻


これから気楽に寝られます、か?の巻


コートクシュースイナワデンジロー、の巻


悠々自適の道草迷路、の巻
記事の一部をちょっとだけ再掲しておきます。


 これから気楽に寝られます、か?の巻
ところで、大石誠之助の友人だった詩人がもうひとりいました。与謝野鉄幹=寛です。かれは、大石をこう詩に歌っています。
誠之助の死   与謝野寛

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し
わたしの友達の誠之助は唯一人、
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの、構ふもんか、機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、

忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。
これまた「反語的な表現」で、愛する親友が無惨に奪われてしまった理不尽への慟哭が、胸に迫ります。
「誠之助と誠之助の一味が死んだので、/忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。/おめでたう。」
何という皮肉でしょう。このあと、絶対主義天皇制の強権支配と、とめどのない軍国化が急速に強まっていき、「忠良な日本人」にとって、気楽に眠れるどころか、堪え難い「時代閉塞の状況」(石川啄木)が、しのびよっていったのですから。

午後はさすがに30度を超えて、暑さを感じましたが、午前中は25℃前後と、いつものエアコン設定温度よりはるかに低い涼しさでした。午前中職場で短時間用事を済ませ〈無給です!)、 午後短時間散歩に出ました。
栗イガも大きく育っています。

青空が、秋の気配です。



今日久しぶりに持ち出したカメラは、PENTAXK10Dですが、残念なことに青空などを写すと、撮像素子の汚れがもろに映り込みます。



レタッチソフトで何とかごまかせなくもないし、被写体によってはまったく目立たないで済むのですが、やはり不快感がつきまとうので、「ぺったん棒」でクリーニングして、もう一度撮影実験してみました。






レンズも代えて出かけたのですが、気持ちの良い撮影が出来ました。







雲の上に月が見えています。

トリミングしてみます。

キバナコスモスです。

道端で毎年散歩者を迎えてくれるコスモスは、この夏の熱射のせいか、葉が赤茶色に焼けて萎れた姿が、痛々しい限りです。もう少し涼しくなるか、雨でも降ると蘇ってくれるでしょうか?
今日はここまで。


nice!(33)  コメント(6) 

節分にちなんで、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

今日は節分です。

留学生相手の日本語授業で、昨日は節分を題材にしたプリントを作ってみました。作成に結構時間がかかりました。

少しだけご紹介します(一部改作。また、実際には漢字の多くにふりがなを施していますが、煩雑になりますのでこのページでは省略します。)

  次の文章を読んで後の問に答えなさい。

 一年を24等分する暦「二十四節気」の中に、①「立春」②「立夏」③「立秋」「立冬」と呼ばれる日がありますが、それぞれの前日を「節分」と呼びます。「季節を分ける日」という意味です。

節分の風習は. 奈良時代頃、中国から伝来し、 平安時代に宮廷の行事として定着したと言われます。

 節分は、もともと一年に四回ありますが、なかでも「立春」が一年の始まりとして、とくに尊ばれたため、節分といえば次第に春の節分のみをさすようになったようです。

古来、季節の変わり目には鬼が出ると言われていて、節分に豆をまいて鬼を追い払う行事は、室町時代から続いています。

豆まきは、普通、「福は内、鬼は外」と掛け声をかけます。これは邪気=鬼を払って福を呼び込むということですが、場所によっては⑤「鬼は外」という言葉を言わなかったり、⑥「福は内、鬼は内」というかけ声をかけるところもあるのです。

 例えば千葉県にある成田山新勝寺では、「福は内」とだけ言って、「鬼は外」とは言いません。これはご本尊の不動明王の力がとても強力なため、あえて鬼を外に払う必要がないからだそうです。

 また奈良の元興寺や、青森県弘前市の鬼神社、埼玉県嵐山町の鬼鎮神社など各地の鬼に関連する神社でも「福は内、鬼は内」という掛け声になります。

 

問1 次の①~④の漢字の読み方を書きなさい。
①「立春」               ②「立夏」

③「立秋」               ④「立冬」


問2  節分の豆まきは、「鬼」を追い払って福を呼び込もうとする行事ですが、「鬼」とは何のことだと書かれていますか。漢字二文字で答えなさい。



問3 傍線部 ⑤「鬼(おに)は外」という言葉を言わなかったり、傍線部⑥「福は内、鬼は内」とむかけ声をかけるところ に当てはまるのはどこですか。文章中からそれぞれ一つ抜き出して答えなさい。

ところで、豆まきのかけ声について、こちらhttps://allabout.co.jp/gm/gc/220642/) に興味深い記事がありましたので引用させていただきます。

●仏立山真源寺(東京都台東区) →「福は内、悪魔外」

鬼子母神を御祭神としており、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名。鬼子母神とは、他人の子供を襲って食べてしまう鬼神でしたが、見かねたお釈迦様が彼女の末子を隠し、子供を失う悲しみを諭します。それ以来仏教に帰依するようになり、子供の守り神となりました。

●鬼鎮神社(埼玉県比企郡嵐山町) →「福は内、鬼は内、悪魔外」

鎌倉時代の勇将・畠山重忠の館の鬼門除けとして建立したので「悪魔外」。また、金棒を持った鬼が奉納されているので「鬼は内」です。

●元興寺(奈良県奈良市) →「福は内、鬼は内」

寺に元興神(がごぜ)という鬼がいて、悪者を退治するという言い伝えがあります。

●稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町) →「福は内、鬼は内」

「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っています。

●天河神社(奈良県天川村) →「鬼は内、福は内」

鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされているため、前日に「鬼の宿」という鬼迎えの神事を行い、鬼を迎い入れてから節分会をします。

●金峯山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)→「福は内、鬼も内」

全国から追われた鬼を迎い入れ、仏教の力で改心させます。

●千蔵寺(神奈川県川崎市) →「福は外、鬼は内」

厄神鬼王(やくじんきおう)という神様が鬼を堂内に呼び込み、悪い鬼に説教をして改心させ社会復帰させます。

●大須観音(愛知県名古屋市) →「福は内」のみ

伊勢神宮の神様から授けられた鬼面を寺宝としているため「鬼は外」は禁句です。

●成田山新勝寺(千葉県成田市) →「福は内」のみ

ご本尊の不動明王の前では鬼も改心するとされています。

鬼さん、いらっしゃ~い 【地域編】


●群馬県藤岡市鬼石地区 →「福は内、鬼は内」

鬼が投げた石でできた町という伝説があり、鬼は町の守り神。 全国各地から追い出された鬼を歓迎する「鬼恋節分祭」を開催している

●宮城県村田町 →「鬼は内、福も内」

羅生門で鬼の腕を斬りとった男(渡辺綱)が、この地で乳母にばけた鬼に腕を取り返されてしまったため、鬼が逃げないよう「鬼は内」という。

●茨城県つくば市鬼ケ窪 →「あっちはあっち、こっちはこっち、鬼ヶ窪の年越しだ」

あちこちで追いやられ、逃げ込んできた鬼がかわいそうで追い払うことができないため「あっちはあっち、こっちはこっち」。節分の豆まきは新春(春分)を迎える前日の厄払いであり、昔は新年を迎える前日としてとらえていたので「鬼ヶ窪の年越しだ」と言っていたそうです。

鬼を追い出すと家が困ってしまいます 【家の事情編】


●鬼頭さん、鬼沢さん、九鬼さんなど名字に「鬼」のつく家 →「鬼は外」以外の口上が多い

鬼を追い出してしまったら、縁起が悪いです。

●伝統的な商家 →「鬼は内」

商家では鬼=大荷としてとらえ、大きな荷物が内 (家・お店)に入らないと商売繁盛につながらないため、「鬼は内」というところが多いのです。

●ワタナベさん →鬼を退治する必要がないので、「鬼は外」と言わない(豆まきもしない!?)

平安時代に渡辺綱が鬼退治をしたため、鬼たちがワタナベ一門を恐れ、子孫にも近づかなくなったという説があります。



上級者を対象に、過去記事◇福は内 福は内とて 春待たるを元にこんな問題もつくって見ました。


次の文章を読んで後の問に答えなさい。


 節分と言えば、「枕草子二二段」に、「すさまじきもの」という章段があります。「すさまじ」という古語は、現代語のニュアンスとはかなり異なり、「興ざめだ」とか。「殺風景だ」とか訳されます。くだけた言葉で言えば、「しらける」「ドッチラケル」という感じでしょうか。

 すさまじきもの、①昼吠ゆる犬。春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。稚児亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地火炉。②博士のうち続き女児生ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。③まいて節分などは、いとすさまじ。(以下略)

【現代語訳 】 しらけちゃうもの。昼間っから吠える犬。春の網代。(網代は、宇治川などで行われた伝統的な漁法「網代漁」で用いる漁具。川中に立てた杭に、竹や木で編んだ仕掛けを設置し、氷魚(鮎の稚魚)なんかを獲った。これって、ゼッタイ冬のもの!)

 三、四月頃に着ている紅梅襲の衣。季節外れでダサイったらありゃしない。

 飼ってる牛が死んじゃった牛飼。 赤ん坊が死んじゃった産室。 火をおこさない角火鉢。いろり。 博士が、次からつぎへ女の子を産ませているの。方違えに行ったのにごちそうをしない所。まして節分の方違えにごちそうしない家などは、どっちらけでやんなっちゃうわ。



註 「旺文社古語辞典」にはこうあります。

かたたがへ(方違へ):(名詞)「かたたがひ」とも。陰陽道で、外出する際、天一神 ・太白神・金神などのいる方角をさけること。行く方角がこれに当たると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家
(「方違へ所」)に泊まり、そこから方角を変えて目的地に行く。=忌み違へ。「─にいきたるに、あるじせぬ所(=ゴチソウヲシテクレナイ家)」 

「あるじす」という言葉は、「主す」。方違え先の主人が、ゲストをご馳走してもてなすという意。「方違え」にまつわる風習であったようです。同じ「旺文社古語辞典」は、「節分違へ」をこう説明しています。

せちぶんたがへ(節分違へ):(名詞)節分の日に行う「方違へ」。平安時代、節分に「方違へ」をする風習があった。「─などして夜ふかく帰る」枕草子298
節分(せつぶん/せちぶん)は、「季節を分ける」意で、もともと各季節の始まりの日=「立春」「立夏」「立秋」「立冬」のそれぞれの前日をさしました。立春は1年のはじまりとして特に尊ばれたため、次第に、もっぱら節分といえば春の節分のことをさすようになりました。



問1 ①「昼吠ゆる犬」が興ざめである理由を次の文の(    )に適切な語を入れて説明しなさい。

  ◎犬は(         ) 吠えるのが似つかわしいと考えられるから。


問2 ②「博士」の家に女児ばかり生まれるのは、なぜ興ざめなのか、次の文の     に適切な語を入れて説明しなさい。

  ◎その時代、博士は(         )  だけが継ぐことのできる官職だったから。



 問3 ③「まいて節分などは、いとすさまじ。」とありますが、作者は、節分にはどうあるべきだと考えていますか、簡潔に答えなさい。


「日本語」の習得に役立つかどうかは別として、日本文化への関心は刺激できるかも、と思って、考えたのですが、、、。

一時間目、教室へ行ってみると、席には中国人の男子学生ひとりだけ。春節の時期でもあり、帰省中の学生もあろうかと覚悟はしていましたが、出席ひとりとは想像を超えていました。

ちょっと気落ちして、プリントではなく自分のやりたい自習をするかと水を向けてみましたが、プリントをやるといいます。しばらくして、もうひとり、中国人女子学生があらわれ、このふたりと2時間の授業、節分のプリントにつきあってもらいました。

ひきつづき、別クラスの2時間は、10人ほどをあいてに、同じことを繰り返しました。

費やした労力に比べて、「達成感今少し」の悔やみが残りますので、腹いせにここに紹介させていただきました。

春と言えばウグイスですが、これ、ウグイスでしょうか?

























昔、こんな記事を書きました。一部引用します。


◇お名前は? 鶯宿、紅さし、そして南高

 

梅の品種名は優美なものが多いようです。


その筆頭は鶯宿でしょうか?ウグイスの宿と書いて「おうしゅく」と読むようです。


辞書に、こんな説明があります。


 
村上天皇の時、清涼殿前の梅が枯れたので紀貫之(きのつらゆき)の娘紀内侍(きのないし)の家の梅を移し植えたところ、枝に「勅なればいともかしこしうぐ
ひすの宿はと問はばいかが答へむ」という歌が結んであり、天皇はこれに深く感じて梅の木を返したという、拾遺集・大鏡などにみえる故事。また、その梅の木。

2 梅の一品種。香りがすぐれ、花は白、または紅・白まじって咲く。《季 春》 (デジタル大辞泉)

 

「大鏡」の該当部分はこうです。
 
「いとをかしうあはれにはべりしことは、この天暦(てんりやく)の御時(おほんとき)に、清涼殿(せいりやうでん)の御前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせたまひしに、なにがしぬしの、蔵人(くらうど)にていますがりし時、承りて、



『若き者どもはえ見知らじ。きむぢ求めよ。』



とのたまひしかば、一京(ひときやう)まかり歩(あり)きしかども、はべらざりしに、西の京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木の、様体(やうだい)うつくしきがはべりしを、掘り取りしかば、家あるじの、



『木にこれ結(ゆ)ひつけて持て参れ。』



と言はせたまひしかば、あるやうこそはとて、持て参りてさぶらひしを、



『何ぞ。』



とて御覧じければ、女の手にて書きてはべりける、



  勅なればいともかしこし鶯(うぐひす)の宿はと問はばいかが答へむ



とありけるに、あやしくおぼしめして、



『何者の家ぞ。』



とたづねさせたまひければ、貫之(つらゆき)のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。



『遺恨のわざをもしたりけるかな。』



とて、 あまえ、おはしましける。



繁樹(しげき)今生(こんじやう)の辱号(ぞくがう)は、これやはべりけむ。



さるは、



『思ふやうなる木持て参りたり。』



とて、衣(きぬ)かづけられたりしも、辛(から)くなりにき。」



とて、こまやかに笑ふ。
 
 
 
例のウルトラ2老人の一人、夏山繁樹の思い出話として語られています。

夏山繁樹はこちらの過去記事でも紹介しました。


《あらすじ》

 清涼殿の梅が枯れたので、代わりの木をさがすようにと、 帝の命令があり、 蔵人は「若い者ではわからんだろう」と、夏山繁樹にこれを命じた。

 京の都中探して見つからなかったが、西京のどこそこの家に、 花も枝振りも美しい梅の木があったので、掘り取ったところ、 家の主人が、梅の枝に手紙を結んで持っていくように言う。

 梅を宮中に運んだところ、帝は手紙をご覧になった。

 手紙には、女性の筆跡で

 「帝のご命令なので恐れ多いことだ。鶯が、私の宿はどうなったのと 訪ねたら、なんと答えたらよいでしょう」

 和歌を書いた家の主人は、紀貫之の娘だった。

 帝は、無風流なことをしたと恥ずかしく思い、 夏山繁樹も、ほうびをもらったが、後味がわるく、 「人生最大のチョンボでしたなあ」、と苦笑いしながら語る。 

 


 今日はこれにて。


「初夢」「梅の花」「相撲」の三題噺、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

え~、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席申し上げます。

正月も早や幕の内をすぎましたが、正月にちなんだ三題噺でご機嫌を伺うことといたします。

お題は、おめでたいところで、「初夢」「梅の花」「相撲」でございます。



「初夢」

M師から、こんなお正月メールをいただきました。
 初夢は一富士、二鷹、三茄子と言いますが、この三つを写しにkazgさんの近所を回りました。



一富士のつもりです。

二鷹は7区でチョウゲンボウを見ましたが撮影はできませんでしたので吉備中央町で写したハイタカです。



三茄子もちょっと無理がありますがこれでどうでしょう。



 藤田7区にはこんなのもいました。


触発されて、私もkazg版初夢写真を狙ってみましたが、あきらめました。

昨年暮れのストック写真から、タカっぽいものを少々。

飛んでるのは何でしょう?











電柱にいるのはノスリ?





















こちらのサイト『 jaimo 』に、紹介されている三遊亭 円遊落語「宝船
という落語に。初夢のはなしがでてまいります。一部を引用します。

 一席申し上げます。

 年の暮れは、皆様が大層お忙しいが一夜明けまして正月となりますると、気が悠然といたしまして、何となく良い心持ちなものでございます。

 その内でも御大家様では、一月というと色々な又楽しみがございまして、大勢集まって福引などというものが、だいぶ流行して参りました。その以前では、子供衆のお遊びで、歌かるた、双六などというものをやりました。

 当今、又、歌かるたは盛んになって参りましたが!中には旦那様がお好きで、歌合せをするなどという、このくらい楽しみな事はございません。家中を集めて内輪同志で楽しみをする、誠に結構なものでございます。

 一夜明けると、昼間は誠に賑やかでございまして、二日の夜になると、お宝お宝、と言って売って歩く(人がいました)。彼は「宝が有り余る」というと、その“宝船”をこしらえて売りに出た。仕合せの悪い時には、「今年は縁起直しに宝船を売ろう」というので、売りに出るのでございます。

 これはあるお商人(あきんど)様で、夜分になって番頭をお呼びになりまして、

主人「番頭や、一体、彼の“宝船”というものは、どういう訳のものだ?」

番頭「左様にございます。私(わたくし)はよくは知りませんけれども、あの宝船を買いまして、枕の下へ当て、その晩寝たんだそうで、そういたしますと、まず初夢を見る、その初夢が結構な目出度い夢を見るそうでございます。それで夜分、みんな宜しい夢を見ようというので、枕の下へやって寝ます」

「ハア成程、それじゃァ、そいつを買って枕の下へやって寝ると目出度い夢を見る……(、という事か)」

「ヘエ、私がた、受け合い申す訳にはなりませんが、昔からマア見ると例えてありますから、大概は見るのでございましょう」

「お前が受け合うか」

「受け合う訳にはなりませんが、あるそうでございます」

「ハハア、それは面白い。俺はまだその宝船を買ってやって寝たことがない。こうしよう、お前がたも大変に骨を折ってくれ。家中のものがよく働いてくれるから、宝船屋から宝船を買って、それを家中でやって寝てしまう。で、朝までに各々目出度い夢を見た者には、それぞれ景物をやる」

「成程、それは結構なご趣向で」

(中略)

「イヤ、番頭かえ。どうだ夢を見たか」

「ヘエ、まず私(わたくし)の夢が第一等でございましょう」

「ハア、どんな夢を見た」

「昨晩、私が寝ますると」

「ウム」

「富士山の途中まで登りました」

「お前が………、ウム」

「途中まで参りますと、鷹が二羽おりまして、下を見ますると一面の茄子畑で」

「ウム」

「一富士二鷹三茄子と申します。これはその夢の司(つかさ)だそうで、これより好い夢はありますまい」



「ウム、それは結構な夢を見た、景物をやろう。マァお前のが一番良さそうだ、糸織が一反に金を五円やろう」

「有難うございます」


夢がでてくる落語のネタは数あるようで、「羽団扇」とも「天狗裁き」ともよばれる噺がございますな。

ウィキペディアからあらすじを引用させていただきます。

 あらすじ

家で寝ていた八五郎が妻に揺り起こされる。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」

八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えるが、妻は納得せず、隠し事をしているのだと疑う。「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう」と押し問答になり、夫婦喧嘩になってしまう。

長屋の隣人が夫婦喧嘩に割って入るが、経緯を聞いた隣人も夢の内容を知りたがる。「そもそも夢は見ていないので話しようがない」と八五郎は言うが隣人は納得せず、またも押し問答から喧嘩になってしまう。

今度は長屋の大家が仲裁に入った。大家もやはり八五郎の夢について知りたがる。八五郎は「夢を見ていない」と弁解するが大家には信じてもらえず、「隠し事をするような奴はこの長屋から出て行け」と言われてしまう。

八五郎が立ち退きを拒否したため、奉行所で詮議されることとなった。奉行は八五郎に好意的だったが、やはり八五郎の夢に興味を持ち、見た夢を聞き出そうとする。八五郎は「夢は見ていない」と答えるが奉行の怒りを買い、縛り上げられて奉行所の庭木に吊るされてしまう。

吊るされた八五郎が途方に暮れていると、突風が吹いて八五郎の体が宙に浮く。気が付くと山奥にいて、目の前には大天狗が立っている。奉行所の上空を飛翔中、理不尽な責苦を負わされている八五郎に気が付いたので、助け出したのだと大天狗は言う。大天狗もまた八五郎の夢のことを聞きたがる。「夢を見ていないので話しようがない」と八五郎は今まで同様に弁解するが、やはり信じてもらえない。大天狗は怒り出し、八五郎の喉元につかみかかる。首筋に大天狗の長い爪が食い込み、八五郎は苦しみ悶える。

気が付くと八五郎は家で寝ていて、妻に揺り起こされていた。うなされていたようだ。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」


他にも、よく知られたところでは、「芝浜」という人情話がございます。

ウィキペディアからの引用です。

 天秤棒一本で行商をしている、魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、仕事でも飲みすぎて失敗が続き、さっぱりうだつが上がらない、裏長屋の貧乏暮らし。その日も女房に朝早く叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かう。しかし時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。誰もいない、美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、煙管を吹かしているうち、足元の海中に沈んだ革の財布を見つける。拾って開けると、中には目をむくような大金。有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集め、大酒を呑む。

翌日、二日酔いで起き出した勝に女房、こんなに呑んで支払いをどうする気かとおかんむり。勝は拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、お前さんが金欲しさのあまり、酔ったまぎれの夢に見たんだろと言う。焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、どこにも無い。彼は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。

つくづく身の上を考えなおした勝は、これじゃいけねえと一念発起、断酒して死にもの狂いに働きはじめる。懸命に働いた末、三年後には表通りに何人かの若い衆も使ういっぱしの店を構えることが出来、生活も安定し、身代も増えた。その年の大晦日の晩のことである。勝は妻に対して献身をねぎらい、頭を下げる。ここで、女房は告白をはじめ、例の財布を見せる。

あの日、勝から拾った大金を見せられた妻は困惑した。十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死刑だ。長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめる事にした。時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の勝に財布の金が下げ渡されたのであった。

事実を知った勝はしかし、妻を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。妻は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」といったんは杯を口元に運ぶが、ふいに杯を置く。「よそう。また夢になるといけねえ」

三遊亭圓朝の三題噺がもとだそうで、お題は、「酔漢」と「財布」と「芝浜」だったといいますな。(「笹飾り」「増上寺の鐘」「革財布」の三題噺とも。)



「梅の花」

落語の世界には、酒が巻き起こす失敗譚・滑稽譚は事欠きませんが、今日、車を運転しながら聞いていた落語CD、柳家小さんの「猫の災難」も愉快な噺です。

こんなあらすじです。(ウィキペディアより)

 あらすじ

朝湯から帰ってきて、一人でぼんやりしていると急にお酒が飲みたくなってきた。

しかし、熊五郎は一文無し。逆立ちしたってお酒が飲めるわけがない。

「飲みてえ、ノミテェ…」と唸っているところに、隣のかみさんが声をかけた。

見ると、大きな鯛の頭と尻尾を抱えている。

なんでも、猫の病気見舞いに特大の鯛をもらって、身を食べさせた残りだという。
捨てに行くというので、「眼肉(咀嚼筋)がうまいんだから、あっしに下さい」ともらい受けた。

「このままだと見栄えが悪いな。そうだ…」

ざるの上に載せ、すり鉢をかぶせてみたら何とか鯛があるような形になった。これで肴はできたが…肝心なのは『酒』だ。

「今度は、猫が見舞いに酒をもらってくれないかな…」

ぼやいていると、そこへ兄貴分が訊ねてきた。

「酒や肴は自分が用意するから、一緒にのまねぇか?」

そういった兄貴分が、ふと台所に目をやって…件の『鯛』を発見した。

「いい鯛が在るじゃねぇか!」

すり鉢をかぶせてあるので、真ん中がすっぽり抜けていることに気づかない。

「ジャア、後は酒を買ってくるだけだな。どこの酒屋がいいんだ?」

近くの酒屋は二軒とも借りがあるので、二丁先まで行って、五合買ってきてもらうことにした。
さあ、困ったのは熊だ。いまさら『猫のお余りで、真ん中がないんです』だなんていえる訳がない。
思案した挙句、酒を買って戻ってきた兄貴分に【おろした身を、隣の猫がくわえていきました】と告げた。

「どっちの隣だ? 俺が文句を言いにいってくる!!」
「ちょっと待ってくれ! 隣のうちには、日ごろから世話になってるんだよ…」

『我慢してくれ』と熊に言われ、兄貴分、不承不承代わりの鯛を探しに行った。

「助かった…。しかし、どんな酒を買ってきたのかな?」

安心した途端、急にお酒が飲みたくなる。

「どうせあいつは一合上戸で、たいしてのまないからな…」

冷のまま、湯飲み茶碗に注いで「いい酒だ、うめえうめえ」と一杯…また一杯。
兄貴分の分は別に取っておこうと、燗徳利に移そうとした途端…手元が狂って畳にこぼした。

「おわっ!? もったいねぇ!!」

畳に口をつけてチュウチュウ。気がつくと、もう燗徳利一本分しか残っていない。

「参ったな。如何しよう…。仕方がない、また隣の猫に罪をかぶってもらうか」

兄貴分が帰ってきたら、【猫がまた来たので、追いかけたら座敷の中を逃げ回って、一升瓶を後足で引っかけて…】と言うつもり。
そうと決まれば、これっぱかり残しとくことはねえ…と、熊、ひどいもので残りの一合もグイーッ!

「いい休みだな。しかし、やっぱり酒がすべてだよ。花見だって、酒がなければ意味がねぇしな」

『夜桜ぁ~やぁ~♪』と、いい心持で小唄をうなっているうち、《猫を追っかけている格好》をしなければと思いつき、向こう鉢巻に出刃包丁。
セリフの稽古をしているうち…眠り込んでしまった。

一方、鯛をようやく見つけて帰った兄弟分。熊は大鼾をかいて寝ているし、一升瓶をみたら酒がすべて消えている。

「なにやってんだよ!!」
「ウー…だから、隣の猫が…」
「瓶を蹴飛ばして倒した!? なんて事を…ん? この野郎、酔っぱらってやがんな。てめえがのんじゃったんだろ」
「こぼれたのを吸っただけだよ」

『隣に怒鳴り込む』と、兄貴分がいきまいている所へ、隣のかみさんが怒鳴り込んできた。

「いい加減にしとくれ。家の猫は病気なんだよ。お見舞いの残りの鯛の頭を、おまえさんにやったんじゃないか!」

物凄い剣幕で帰っていった。

「どうも様子がおかしいと思ったよ。この野郎、おれを隣に行かせて、いったい何をやらせるつもりだったんだ!?」

「だから、隣へ行って、猫によーく詫びをしてくんねえ…」


ちなみに、上方版のオチは以下の通り。

 上方版のオチ

猫が入ってきたので、阿呆が『ここぞ』とばかり声を張り上げる。

「見てみ。可愛らし顔して。おじぎしてはる」

それを聞いて、猫が神棚に向かって前足を合わせ…。

「どうぞ、悪事災ニャン(=難)をまぬかれますように」

ちなみに、上方版では貰ってくるのは『腐った鯛のアラ』で、くれたのは『酒屋』という設定。

噺の中に、こんな都々逸(どどいつ)が出てきますな。

一人飲んで酔った熊が、ご機嫌でこう歌います。

お酒飲む人 

花なら蕾

今日も咲け咲け

明日も咲け

今日の散歩で通りかかった道端に、紅梅がほころび始めていました。











梅にウグイスじゃありませんが、枇杷(ビワ)にメジロはどうでしょう?











「相撲」

大相撲初場所が始まりました。

「ヨッ!竜田川!」「頑張れ」というかけ声が聞こえませんか?

竜田川?知らねえなあ、って?

江戸時代の、強えお相撲で、大関にまでなった人だ、、、。

おなじみの落語「千早振る」の一節です。

これまたウィキペディアの引用です。

あらすじ


岩田の隠居は、「先生」の異名を持っている。ある日、茶を飲んでいると、なじみの八五郎が訪れてくる。なんでも、娘に小倉百人一首の在原業平の「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」という歌の意味を聞かれて答えられなかったため、隠居のもとに教えを請いにきたという。実は隠居もこの歌の意味を知らなかったが、知らぬと答えるのは沽券にかかわると考え、即興で次のような解釈を披露する。

江戸時代、人気大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行った。その際、「千早」という花魁に一目ぼれした。ところが、千早は力士が嫌いであったため、竜田川は、振られてしまう(「千早振る」)。振られた竜田川は、次に妹分の「神代」に言い寄るが、こちらも「姐さんが嫌なものは、わちきも嫌でありんす」と、言うことを聞かない(「神代も聞かず竜田川」)。

このことから成績不振となった竜田川は、力士を廃業し、実家に戻って家業の豆腐屋を継いだ。それから数年後、竜田川の店に一人の女乞食が訪れ、「おからを分けてくれ」と言う。

喜んであげようとした竜田川だったが、なんとその乞食は零落した千早太夫の成れの果てだった。激怒した竜田川は、おからを放り出し、千早を思い切り突き飛ばした。千早は、井戸のそばに倒れこみ、こうなったのも自分が悪いと井戸に飛び込み入水自殺を遂げた(「から紅(くれない)に水くぐる」)。

八五郎は「大関ともあろう者が、失恋したくらいで廃業しますか」、「いくらなんでも花魁が乞食にまで落ちぶれますか」などと、隠居の解説に首をひねり通しだが、隠居は何とか強引に八五郎を納得させた。

やれ安心と思ったところに、八五郎が、「『千早振る、神代も聞かず竜田川、からくれないに水くぐる』まではわかりましたが、最後の『とは』は何です」と突っ込んだ。

とっさの機転でご隠居はこう答えた。

「千早は源氏名で、彼女の本名が『とは(とわ)』だった」


小三生が、冬休みの宿題で、百人一首をいくつか覚えることになっていましてな、兄やバアバと、カルタ取りで遊んでおりました。でも、意味がわからんと言いますのでな、竜田川のお話をしてやりました。

ほんと?ほんとにほんと?と疑いながらも、みんなで面白がっていました。

念のために申し添えますが、wikiには、こういう解説も添えてあります。

すなわち「ちはやふる」(ちはやぶる)は「神」などにかかる枕詞として「神代も聞かず」を導き、上句は「神代にも聞いたことがない」と述べる。下句がその内容となる。竜田川は現奈良県生駒郡などを流れる川で、紅葉の名所として知られる。唐紅は大陸由来の鮮やかな紅であり、「水くくるとは」の「くくる」はくくり染めのことで、ところどころ生地が赤く染まった布と竜田川のところどころ赤く美しい紅葉の風景を重ねて詠んでいる。すなわち「山を彩る紅葉が竜田川の川面に映り、唐紅のくくり染めのようである。このようなことは神代にも無かっただろう」といった意味となる


自分のブログを検索してみましたら、この「千早振る」の歌の作者在原業平は、こんなに頻繁に登場していました。

◇霙降る枇杷の蕾にメジロかな

降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)

◇たなばたといせものがたりと良寛と

◇はるやはる弥生つごもりエトセトラ

◇さくらの日

◇椿とは失礼しちゃうわ!山茶花よ!

◇朝顔とカキツバタと八つ橋と、の巻◇かきつばた見んとて訪ひたる後楽園

◇お名前は?しらん!

◇続けて「これなあに?」

特に最後の、◇続けて「これなあに?」には、伊勢物語から「マユミ」の記事が登場します。少々引用して再掲します。

 
マユミは、ニシキギ科ニシキギ属の中低木
 その枝は、弾力があって折れにくく、樹皮を剥いで、薪(まき)などを縛る縄の代わりにしたり、ざるの縁木などにも利用されました。また、木質が緻密でゆがみが少なく耐久性に優れるため、弓の材料として用いられました。漢字で「真弓」と書きます。




真弓にちなむ文章を一節。


「伊勢物語」の 二十四段です。


昔、男片田舎にすみけり。男宮づかへしにとて、別れ惜しみてゆきけるままに、三年(みとせ)来(こ)ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に今宵(こよひ)あはむとちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで歌をなむよみて出(いだ)したりける。

 

  あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕(にひまくら)すれ

といひだしたりければ、

 

  梓弓(あずさゆみ)ま弓(まゆみ)槻弓(つきゆみ)年をへてわがせしがごとうるはしみせよ



といひて去(い)なむとしければ、女、

 

  梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを

 

といひけれど、男かへりにけり。女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、えおひつかで清水(しみず)のある所に伏しにけり。そこなりける岩におよびの血して書きつけける、

 

  あひ思はで離(か)れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる

と書きて、そこにいたづらになりにけり。

 

 

【解釈】

 昔、ある男が、片田舎に住んでいた。その男が、出仕するといって女に別れを惜しみつつ都へ行ってしまったまま、三年間女の元へやって来なかった、女は待ちあぐねて辛い思いをしていたところへ、たいそう熱心に求婚してきていた別の男と、「今夜結婚しよう」と約束した。そこへ、都に出ていた男が帰ってきた。


「この戸を開けておくれ」と言って叩いたが、女は戸を開けないで、歌を詠んで差し出した。

 <三年間ずっとあなたを待ちに待って、待ちくたびれてしまい、ちょうど今夜、私は新しい人と結婚するのです。>

と詠んで男に差し出したところ、

 <いろいろと年月を重ねて、その間ずっと私があなたにしていたように、新しい夫を愛し慈しんでください。>

と男は言って、帰ろうとした。女は、

 <あなたが私の気を引こうと引くまいと、私の心は昔からあなたに寄り添っていましたのに。>

と言ったが、男は行ってしまった。女はたいそう悲しくて、男を追いかけたが追いつけず、湧き水が出ているところに、うつぶしてしまった。そこにあった岩に、指から出た血で書きつけた歌は、

 <私がこんなにあなたを愛しているのに、お互いに愛し合うことにならないで、離れていくあなたをどうしても引きとめることができず、私の体は、たった今、消え果ててしまうようです。>

と書いて、そこで死んでしまった。




以前、私は、これを、地方語で翻訳してみました。

 昔、男が、どいなかに住んどったんじゃて。その男ぁ、田舎ぐらしから抜け出したい思うたかして、「ちいとばぁ、都へ奉公に行ってくらあ」言うて、嫁さんと別れを惜しんで一人で出かけて行ったんじゃ。それっきり、三年帰って来なんだもんじゃから、嫁さんの方は、くる日もくる日も亭主の帰りを待ち侘びとったんじゃけど、そのうちに、親切に言い寄ってくる男ができたんじゃ。嫁さんは、一人暮らしは心細うはあるし、よさそうな男じゃぁあるしで、気持ちは引かれたんじゃろうが、「今に亭主が帰ってくるかもしれんから」言うて、断り続けておったんじゃ。じゃけど、とうとう「もう限界だわ!私、過去を振り切って、新しい生活に踏み出すことにするわ!」と決心して、結婚することにしたんじゃ。その今晩が結婚式じゃという約束の夜、亭主が帰って来たんじゃて。

 「わしじゃ。帰ったで。この戸を開けてくれぇ。」言うて、戸をたたいたけど、嫁さんは開けちゃらずに、歌を詠んで戸口から差し出したんじゃ。

   三年もアンタのことを待ち侘びて、つらぇ思いをして来たんで。そのアンタがいつまでも帰らんもんじゃから、しょうことなしに、ほんの今晩結婚することにしたんヨ。それを、なんでぇ。アンタ言うたら、今頃帰って来てからに、「開けてくれぇ」もねえもんじゃ。

こういうて言うたもんじゃから、亭主のほうは、

  梓弓ゆうたり真弓ゆうたり槻弓ゆうたりして色々な弓があるけど、その槻弓のツキ(月)に縁があるのが年という言葉じゃ。その年を、これまで何年も何年もの間、ワイがお前にしてやったように、これからは、お前も新しいムコさんを大事にいつくしんで暮らしてやってくれぇや。ほんなら、ワイはこれで帰らぁ。

と言うて、行ってしまおうとしたもんじゃから、嫁さんは、

   アンタがウチを大事にしてくれたかどうかは知らんけど、どっちにしても、ウチの心は、アンタに首ったけだったんよ。ちょっと待ってぇ。

と言うたんじゃけど、亭主は耳も貸さずにさっさと帰ってしもうたんじゃ。

嫁さんは、ぼっこう悲しゅうて後から追いかけて行ったんじゃけど、よう追いつかんで、清水の湧きょぅるとこに伏さってしもうたんじゃ。そこにあった岩に、指から血を出ぇて書き付けたんじゃと。

  ウチゃあこねえにアンタが好きなのに、両方が好き合うことにならずに、心が離れて行ってしもうたアンタを引き留めかねて、ウチのからだは、たった今消えて行ってしまいそうに思えてならんわぁ。

ゆうて書いて、その場所で死んでしもうたんじゃと。おわり。 


伊勢物語の「みやび」の世界が、ずいぶん泥臭くなってしまいました(笑)。 



強引なちからわざで、マユミまでたどり着きました。

これが昨日の雨に濡れたマユミです。



























おあとがよろしいようで。

縁は異なもの 備前と備中、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

朝から雨。

散歩には向かないお天気です。

今日も、朝から孫たち兄妹をお預かりしています。
ウィルス性結膜炎で保育園をお休みしていた年少組の妹は、治癒証明を得てめでたく今日から登園。

残りの3人が今日のお客様です。 

保育園年長組の姉は、今日お昼の予約で診察を受け、治癒証明が出れば自由の身です。長い「闘病生活」でした。

中学生と小学生の男の子は、すでに冬休みで、宿題の大荷物を持ってきていますが、まずはゲームの時間です。

同じ託児所業務でも、これくらいの年齢になると、一人遊びもできますし、気が向けば子どもたちだけで一緒に遊んだりできますから、手がかかりません。彼らの気配を背中で感じながら、パソコンに向かうことも可能です。

というわけで、先日来の記事の続きを書き進めることにします。
まず、早島町のHPから、 干拓のまち、早島という ページを一部引用させていただきます。

早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
前潟干拓絵図

宇喜多堤

吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。


 「吉備の穴海」の名は、◇縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名の記事でも 紹介しました。

その際、 「岡山の風 郷土史」様から、この図絵をお借りしました。
 
戸川家記念館には、下の絵が展示してありました。

s-_K524452.jpg
 
 岡山シティミュージアムの記事「岡山の干拓物語」 にこうあります。
 
現在の岡山平野の耕地は約25000ha。そのうち、約20000haが干拓によって生み出されたものと言われ、時代によって地図がどんどん描き替えられています。

近世以降の岡山平野の歴史は干拓史の上に形成されたとも言えそうです。

耕地面積は全国規模でみても、8世紀末に約100万ha、16世紀末には約200万ha、19世紀後半には約400万ha、20世紀半ばで約600万haと飛躍的に拡大していることが分かります。
なかでも日本三大干拓と言われるのが、秋田県の八郎潟干拓地と九州の有明海沿岸、そしてわが岡山県の児島湾というわけです。

   
 
 

宇喜多開発

岡山城主・宇喜多秀家は、積極的に新田開発を行いました。主なものとしては、1584年(天正12年)、千原九右衛門に命じて、現在の倉敷市東部から早島にかけて行われた干潟の干拓があります。千原九右衛門は高松城水攻めのとき、足守川をせき止めたり、岡山城の改築も担当した人物です。
当時早島は海辺の村で、あちこちに干潟が形成されていました。
千原九右衛門の手がけた堤防は全長約3・5キロで、宇喜多堤(うきたつづみ)と呼ばれています。土地の面積などは資料がなくて不明です。
また、堤の場所も現在、早島の町中を東西に走る県道沿いから倉敷市二日市の山までとする説などありますが、定かではありません。
この宇喜多堤のほか、灌漑用水として大井手を補強し、新たに八か郷用水を開いたのもこのころです。
1584年(天正12年)には東高梁川に酒津堤防を築き、低湿地の開発を進めました。その後、備中国奉行の小堀政一父子や備中松山藩主池田長幸父子によって堤防が延長され、1618年(元和4年)児島は陸続きになりました。
 
 
ところで、早島町観光センターホームページには、名所案内として、備前・備中国境標石 を紹介してこう書いています。
早島の歴史は、宇喜多堤築堤に始まる児島湾干拓の歴史でもあります。
まちの南東に広がる干潟(後の興除新田)の開発をめぐり、備中の村々と対岸の備前児島の村々が激しく対立し、争いは、約100年にわたって繰り広げられました。

その結果、幕府は、もともとあった備中方の新田の堤を備前・備中の国境とし、それより南の干潟と海は備前領とする裁定が下しました。この干潟は、備前領の村々によって拓かれ「興除新田」と名づけられました。
備前・備中国境標石は、文化11年(1814)の裁許の後、国境を示すために建てられた10本のうちの1つです。住所 早島町前潟742


最近JRを利用すると、「宇野みなと線」という聞き慣れない路線に気がつきます。従来の「宇野線」が、今年の春からこう呼ばれるようになったようです。

ウィキペディアから引用します。 

 かつて四国と本州を行き来していた宇高連絡船との接続路線として賑わった。瀬戸大橋開通後も、岡山駅 - 茶屋町駅間は瀬戸大橋を渡る本四備讃線のアプローチ線として引き続き本四連絡の使命を担っており、本四備讃線・予讃線を含めた岡山駅  - 高松駅間に「瀬戸大橋線」という愛称がつけられている。茶屋町駅 - 宇野駅間は玉野市との都市間輸送中心の路線となった。2016年3月26日からは岡山駅  - 宇野駅間に対しても「宇野みなと線」の愛称が使用されている。英字表記は「Uno-port Line」となっている。


mapionから路線略図をお借りします。

 

_K528789.JPG

駅名に少し注目してみてください。

岡山から備前西市(びぜんにしいち)→備中箕島(びっちゅうみしま)→備前片岡(びぜんかたおか)→備前田井(びぜんたい)と、備前・備中があたかもアトランダムに入り交じっているかのように思えます。この謎を解く鍵は、上記の備前・備中国境の裁定にあったようです。この話題は、実は以前、原水爆禁止国民平和大行進でこの辺りを一緒に歩いた年若き友人(比較の問題です)Mさんが、四方山話がてら話して聞かせてくれたと記憶しています。

このMさんは、以前、◇もう一つの「今日は何の日」の記事でご紹介した「友人」のことです。

ところで、この水島地区に、亀島山と呼ばれる小高い丘があります。ここは現在、「亀島山花と緑の丘公園」として整備され、四季の花に彩られる、工場地帯のなかの憩いのスポットとしての趣を見せています。また「工場萌え」と称される一部の愛好家にとっては、林立する工場群(とりわけ工場夜景)の撮影スポットとしても知られているようです。

その亀島山の地下に全長約2000メートルの横穴が掘られています。平洋戦争末期に建設された三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車水島製作所)の地下工場の跡がそれです。三菱重工業水島航空機製作所は、空襲の被害を少なくするため、工場を分散疎開させましたが、その一つが亀島山地下工場だったのです。

この地下工場について、ずっと以前、ある機会に、こんなことを書いたことがありました。

倉敷市水島地区の亀島山の地下には,今も広大な地下トンネルが存在する。これは第二次大戦中,旧日本軍の戦闘機製造用地下工場として,秘密裏に掘られたもの。
この危険な工事に従事したのは,強制連行で徴用された朝鮮人労働者。作業中の事故,栄養失調と過労,病気,脱走への報復としての私刑などにより,多くの人々が犠牲となった。
これらを含む朝鮮人無縁仏の遺骨70数体が,引き取り手のないまま,岡山市内の大山実山住職のもとに保管,供養されていた。
これらの事実は,社会問題を学ぶ高校生たちの平和問題のとりくみのなかで掘り起こされ,あかるみに出された。生徒たちは,韓国の新聞社にいきさつを書いた手紙を出し,反響を呼んだ。これが縁となり,これら犠牲者の遺骨が,市内の高校生に抱かれて海を渡り,この4月(1990年)40数年ぶりに帰郷した。
(注 文章中の「朝鮮人」の呼称は,国籍を表すものではなく,広義に朝鮮半島出身者を意味している。)        

思い起こせば、一九九〇年。今から25年も前のことですね。
当時は、「強制連行」とか「強制徴用」という概念も、まだ歴史の闇に隠されていて、発掘途上の「史実」でした。今、「歴史修正主義」の方がたが、「強制連行はなかった」「強制徴用はなかった」「従軍慰安婦はなかった」「侵略はなかった」「植民地支配はなかった」と、百万遍繰り返されようとも、この遺骨の意味を塗り替えることは不可能でしょう。
今も、この地下工場跡を保全し、歴史に学ぼうという、 市民運動が続けられていますが、その中心的活動に取り組んでいる「亀島山地下工場を語りつぐ会」 には、私の親しい友人も参加しておられます。

その友人が、昨日はローカルニュースに登場して、その活動の重要さを語っておられました。

横道にそれました。
芋づるのように、いろいろな記憶がつながりを見せ、面白いものです。
そうこうするうちに夜になり、冷え込みが厳しくなっています。
治癒証明を期待した年長組の姫は、まだ充血が取れないので、もうしばらく目薬の投与が必要とのことでした。
眼科医への通院のついでに、年賀状を郵便局に投かんし、そのまたついでに道の駅でサツマイモを仕入れ、今日もまた焼き芋を作りました。 
今日はこれにて。

nice!(30)  コメント(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

縁は異なもの 庭瀬城跡?行ったことあります!の巻 [あれやこれやの知ったか話]

岡山県古代吉備文化財センターのHPに、 岡山の中世城館跡というページがあります。

こちらに、目次をコピーしてご紹介させていただきます。

このうち、庭瀬〈にわせ〉城跡の記事にこのような記述があります。








  現在は、JR山陽本線庭瀬駅西側の住宅地となっていますが、かつては足守川の河口に広がる沼沢地に立地していました。港に接したこの平城は、岡山城や備中高松城とも道で結ばれており、水陸交通の要衝として重要な位置を占めていたようです。

 庭瀬城のはじまりは明らかではなく、築かれた場所についても定かではありません。ただ、天正年間には城代として毛利氏の部将が在城していることから、宇喜多領との境界にある「境目七城」の一つとして重視されていたようです。

 天正10(1582)年、備中高松城をめぐる戦いに際して、この城でも激しい攻防戦が繰り広げられました。その後、宇喜多領となったこの城には重臣の岡利勝〈おかとしかつ〉が入城しますが、この際に整備された「本壇」が、現在、県史跡に指定されている「撫川城跡」と推定されています。幅15mの堀を掘削した土砂を盛り上げて造成した曲輪は、東西77m、南北57mあり、その南辺の中央には渡り土手を築いて出入口を設けています。また、一部に土塁が残る曲輪の周囲には、自然石を野面積みした石垣が築かれています。

(中略)
さて、慶長4(1599)年の家中騒動を機に宇喜多家から離れた戸川達安〈とがわみちやす〉は、関ヶ原の戦いの功により、翌年この地に入って庭瀬藩(2万9千石)を開き、「撫川城跡」の東側に藩庁(陣屋)を設けました。江戸時代の絵図によると、清山神社と公園の周辺が「内屋敷」、「馬場」、「庭園」を配した御殿にあたるようです。神社の周囲には内堀が、さらにその200m北側にある「表御門」の前には外堀がめぐっていました。この表御門は、岡山城下と支藩のある鴨方を結ぶ鴨方往来に向かって開いており、庭瀬はその宿駅としても大いに賑わったようです。

 戸川家は4代で断絶しますが、一族の達富〈みちとみ〉が旗本(5千石)として「撫川城跡」に知行所を置きました。その後、庭瀬藩は、久世家(5万石)、松平家(3万石)、板倉家(2万石)と藩主が変わりながらも明治時代まで存続します。


そこ、行ったことがあります。

以前、こんな記事を書きました。

◇大賀ハス開花記念日!

◇蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス


一部引用します。








 大賀一郎博士の出生地が、岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)である縁から、岡山市後楽園に大賀ハスが植えられていることは繰り返し書きましたし、写真も掲載しました。



また、岡山市庭瀬の備中庭瀬城跡の濠堀に、地元の庭瀬城跡保存会・吉備地区地域活性化推進実行委員会の方々が、大賀ハスを育てておられます。

以前に2~3回訪ねたことがありましたが、時期が早すぎたり遅すぎたりで、ベストタイミングを逃しておりましたが、果たして今日はどうでしょうか?

仕事場を早々に退散して、午前中のハスの花を見に、車を走らせましたところ、、、

咲き始めの、初々しい花が2輪、恥じらいがちにピンクに頬を染めていました。
_K529150_R.JPG

水面に映る姿もあでやかです。


堀に植えられている大賀ハスのことしか書いていませんね。

庭瀬城跡、撫川城跡の近辺を少しは散歩してみたのでしたが、記事にしていませんでした。



上記HP掲載のアクセスマップです。

庭瀬城跡アクセスマップ

お堀に浮かぶ大賀ハス(古代蓮)の花びら。







正面奥に見えるのが、清山神社でしょう。



〒701-0153 岡山県岡山市北区庭瀬828 清山神社の地図

清山神社は、庭瀬城後南の旧庭瀬藩邸内に建てられ、藩主板倉氏祖にあたる板倉内膳正重昌ならびにその嫡子板倉主水正重矩がまつられています。藩に残った宝物は清山神社の宝物として吉備公民館に展示、保管されているそうです。

庭瀬城跡の案内板があります。



地元サッカーチーム「ファジアーノ」の応援のぼりの足下をご覧ください。











法万寺川(農業用水路)は、庭瀬と撫川の境目とされた川だそうです。



旧庭瀬港(内港)の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観が復元されています。

















江戸時代、岡山藩は岡山城下を中心に放射状に6つの官道を整備しました。それぞれ、金毘羅往来、鴨方往来、松山往来、津山往来、牛窓往来、倉敷往来と呼ばれます。そのうち、金毘羅往来、鴨方往来、倉敷往来は、庭瀬まで共通で、「庭瀬往来」と称されました。



町並みにその面影が偲ばれます。


















今日は祝日で、ママがお休みですから、孫たちの来訪はなく、散歩もできましたし、年賀状の作成も、ほぼできました。このブログ記事も、まずまずはかどり、しかも、古いストック画像も使えて、嬉しいことです。

そうこうするうちに、「コンニチワ、コンニチワ」という姫の声が聞こえました。退屈をもてあましてじっとしていないので、とママが連れてきてくれました。

バアバも帰っていますから、いま、穏やかに、楽しく遊んでいます。昨日、百円ショップで買った粘土がお気に入りで、天使のように機嫌良く遊んでくれています。ちょうど仕上がったこの記事をアップして、託児所の本務にもどることにいたします。

今日はここまで。


縁は異なもの 常山城と戸川家、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

まったく何の予備知識もなく、たまたま訪ねた「戸川家記念館」でしたが、うかつといえばうかつなことに、常山城との縁にはすっかり驚かされました。
「角川日本地名大辞典33岡山県」から、常山と常山城についての解説を引用して、こちらに紹介させていただいています。
↓青文字をクリックすると別ウィンドウにページが開きます。

●常山


頂上には常山城跡があり, 天正3年の常山合戦の折, わずか4日で落城した。頂上の本丸跡に城主の腹切岩,二の丸跡に城主の妻鶴姫を記念した女軍の墓が苔むした石垣とともに往時の古戦場をしのばせている。(中略)  その後桜も植えられ, 常山合戦の古戦場としての千人岩,飲料水の底なし井戸, 山麓にある戸川秀安 (幽林) の墓などが大々的に顕彰された。

●常山城


 (上野隆徳の)のちの城主は宇喜多直家の臣,戸川肥後守秀安で, その号を幽林といい,  2万5,000石を知行。 その後, 毛利との手切れで, 天正7年毛利勢が児島に侵攻したが,事なきを得た。関ケ原の戦後,小早川秀秋の領地となり,家臣伊岐遠江守真利が在城,池田忠継の時, 慶長8年廃城という。


常山麓に戸川肥後守秀安(幽林)の墓所があることは、うっすらと知っておりましたが、その子戸川達安(みちやす)と早島の関係については、存じませんでした。

「常山」を「角(つの)山」と呼んだかも知れないというのは、よく納得できます。

山頂が角(つの)のようにとがっています。見る方角によっては、あたかも般若面のように見えることもあります。





そびえるアンテナが、なおのこと角のようですね。





広葉樹が、赤や黄色、茶色の錦をまとっていますが、薄暗いので色が出ません。







これらの写真は、PENTAXQ10+ペンシルボーグ (p25)によります。かなりの高倍率レンズになります。


 







早島町HPの、旗本のまち、早島 というページを再度引用します。

 (達安は)父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

大河ドラマ「真田丸」では、玉置 孝匡 (たまき たかまさ)さんが演じた島左近。

登場人物 島 左近 (玉置 孝匡)|NHK大河ドラマ『真田丸』


 石田家重臣。知勇に優れ、実戦が苦手な三成を参謀として支える。「治部少に過ぎたるものがふたつあり 島の左近に佐和山の城」と謡われた。
関ケ原合戦で、東軍黒田長政隊の放った鉄砲に撃たれて、戦死したというのが通説のようですが、東軍加藤嘉明隊の先鋒を務めた戸川逵安(みちやす)の軍勢が島左近を討ち取ったとも伝えられ、「戸川家記念館」には、「島左近兜忍緒」なるものが展示されています。この兜の忍緒はその時、島左近が身に着けていたものと言われ、由緒書きには血痕累々とありました。
その信憑性には疑問符がつきますが、その首実検がなされてないこともあり、島左近の最期には諸説あり、合戦後も生き延びて別の地で死んだという伝承が各地にあり、島左近の墓なるものも複数存在するようです。
広島の銘酒「白牡丹」は、代々、島左近のご子孫一族が経営してこられたそうな。現社長の島治正さんも、島姓です。







白牡丹株式会社ホームページを見ると、こんな記事があります。



蔵元紹介
広島酒 西条酒の中で最も古い歴史をもつ日本酒白牡丹の創業

  
古書によると「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。 次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。
彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年(西暦1675年)酒造業を創む」とあります。




今日の昼間は、曇りで時々小雨がぱらつく感じ。昨日が冬至というのに、ヘンにむっと生暖かい空気です。十月下旬か11月中旬の気温だそうです。

一日、姫二人を預かりました。六歳児であっても、姉が一緒にいるだけで少しは気が紛れるようですし、小中学生は終業式で、昼には帰ってきましたので、昨日よりはいくらか時間が早く流れましたが、天気が思わしくなくて外出もままならず、姫の感情もぐずつき気味です。雨の中なのに、出歩きたがって(といっても抱っこです)困ります。

夕方は雨が強くなってきました。それとともに寒気が呼び込まれて、ぐっと冷え込むらしい。お気を付けください。

糸魚川の火災。大変なことです。お見舞い申します。



今日の付録です。

PENTAXQ10+ペンシルボーグ (p25)の画像です。









暗いのでストロボ焚きました。







今日はこれにて。

彦崎貝塚訪問記、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

もうちょっと調べてから書きたいと思ったまま、ずっと放置してきた話題があります。

10月のこの記事◇土日の日記を駆け足で、の巻に、こんなことを書きました。


(前略)
その午後は、倉敷で、懐かしの旧友との集い。
(中略) 
京都ナンバーのこんな車。

このステッカーに見覚えありますか?
この記事でも登場のM君の車です。ほっこりと四国弥次喜多ぶらり旅(1)

このたび、改めてステッカーを確認してみると、「ちひろ美術館」のステッカーに、オスプレイのNOのステッカーを貼り加え、「子どもの未来のために」と印刷された文字に「丹後地方には」「米軍基地は要らない」と、地元の要求を手書きで書き添えた、手作りステッカーでした。
もとのちひろステッカーはこれ?

M君作成のステッカーの拡大画像。

道行く人へのアピール力は、小さくはないでしょう。
(中略)
 翌日の日曜日はM君と行動をともにし、またまた愉快な弥次喜多道中を堪能したのですが、後日機会があればご紹介するとして、今回は割愛いたします。
そのM君とともにした行動のご報告です。
先日、 私の入院を心配して、そのM君がお見舞いのメールをくれました。ありがたいことです。

◇二日目のお四国弥次喜多ぶらり旅 の記事でもご紹介しましたように、M君は、生物・理科分野、もっと厳密に言うと水産分野が専門ですが、歴史・地理分野への造詣と関心が並々ならぬものがあります。中でも一番興味があるのが縄文遺跡巡りだそうです。香川県荘内半島の紫雲出山を訪ねたのも、そこの縄文遺跡が一番のお目当てだったのです。残念ながら、「紫雲出山遺跡」は、縄文時代ではなく弥生時代の集落跡だったのですが、、、。

歴史音痴・地理音痴を自負する私などは、行動力抜群の彼の後についていくといろいろと面白いことに出会えるので、楽しいのです。
このたびの10月の「弥次喜多道中」も、縄文遺跡を訪ねる(つもりの)旅だったのです。

倉敷考古館も彼の念頭にあったそうですが、連休のさなかゆえ、混雑を避けて、倉敷近辺の遺跡を訪ねるつもりとか。私も、常のごとくお供することにしました。

はじめに、山陽自動車道沿いにあったという粒江の船元貝塚、福田貝塚という二つの貝塚跡をめざしますが、地元の人に聞いてもどうもよくわかりません。最初は彼と私、二台の車で移動していたのですが、機動性が悪いので、彼の車に同乗させてもらい、わたしは、運転手つきの、優雅な歴史紀行を楽しむことになりました。

この車で狭い路地裏や街道を走りましたから、良いアピールになったかも知れません。



結局、目的場所には行き着けず、次に。彦崎貝塚を訪ねることにしました。彦崎貝塚については、↓ここでも触れました。

◇縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名


私の居住地のごく直近で、彦崎駅周辺は日常の生活エリアに属すのですが、この地に暮らして30年余り、貝塚そのものはだいたいの位置が思い浮かぶ程度で、実際に訪ねたことはなかったのです。一方のM君は、前日すでに下見をしていて、地元民の私を案内してくれたのでした。

こんな立派な碑が立てられていました。





彦崎貝塚については、下記サイトにこんな解説がありました。
 国指定史跡ガイドの解説

ひこざきかいづか【彦崎貝塚】



岡山県岡山市南区彦崎にある貝塚遺跡。瀬戸内海に面した旧児島湾の南岸に所在する、縄文時代前期から晩期にかけての貝塚である。2003年(平成15)から発掘調査が行われ、縄文時代前期には南北約100m、東西約80mの範囲に西日本最大の貝塚がつくられ、縄文時代晩期まで続いていたことが明らかになった。貝層は同一地点に重層的に形成され、厚さが1.7mあることが確認された。また、丘陵先端の低湿地部ではドングリ貯蔵穴が見つかっている。屈葬埋葬の人骨25体が発見され、なかには胎児がいる女性人骨も含まれる。数多くの土器や石器が発見され、土器は「彦崎式土器」として縄文時代前期および後期の標式土器として扱われている。出土品には、貝や骨でつくった腕輪などの装飾品などや、貝や獣骨、魚骨などの自然遺物も多い。縄文時代前期から晩期にかけての集落構造とその変遷過程が明らかになった大規模貝塚として、2008年(平成20)に国の史跡に指定された。JR宇野線彦崎駅から徒歩約5分。


岡山県古代吉備文化財センターのこどもホームページ 内の、 遺跡紹介コーナー 〈貝塚〉 に、こんな記事があります。

 彦崎貝塚ではこれまでに何度か発掘調査がおこなわれ、縄文時代前期<約6,000年前>には約100mの範囲に及ぶ、西日本最大の貝塚がつくられ、縄文時代晩期<約3,000年前>まで続いていることがわかりました。 この彦崎貝塚では貝がらや動物の骨などといっしょに、縄文土器や石器のなど多くのものが残っていました。他にも貝や骨でつくった腕輪(うでわ)やペンダントなどの装飾品(そうしょくひん)も見つかっています。また、たくさんのお墓とともに人骨が多く見つかっています。


上から見た彦崎貝塚
 現在の彦崎貝塚を上から見たところ。彦崎貝塚は写真中央あたりにあります。(岡山市教育委員会提供)

縄文時代の墓 イノシシの牙でできたペンダント
 縄文時代中期<約5000年前>の丸く掘られたお墓。葬(ほうむ)られていたのは女性でした。(岡山市教育委会提供) イノシシの牙でつくられたペンダント

(岡山市教育委員会提供)


岡山市のHPに、こんな記事があります。







 

収蔵品紹介 第74回



彦崎貝塚出土の縄文土器












名称 縄文土器(じょうもんどき)
出土遺跡 史跡 彦崎貝塚(ひこさきかいづか) 岡山市南区彦崎(ひこさき)
時期 縄文時代前期  
 この土器は、彦崎貝塚から出土の縄文時代前期(約6,000年前)の土器です。このタイプの土器は中国四国地方では初めて発見されました。外面と口唇部には、羽状縄文(うじょうじょうもん)を施します。胎土には、結晶片岩や火山ガラスを多量に含みます。文様のモチーフは関東地方の土器の影響を受けています。

 縄文時代前期後半は、各地で個性的な土器群が成立しますが、製作技法や施文、文様意匠等を見るとそれぞれ影響しあうなど、地域間の交流のようすがうかがえます。


収蔵品紹介 第82回



彦崎貝塚出土の「謎の骨」

名称 謎の骨(なぞのほね)
出土遺跡 史跡彦崎貝塚

(ひこさきかいづか)
岡山市南区彦崎(ひこさき)
時期 縄文時代前期~晩期

 人骨? 動物骨? 魚骨?いったい何の骨なのでしょう。全国から集った名だたる動物考古学者100人がウーンとうめき声をあげたまま黙り込んでしまいました。

 この骨は、岡山市灘崎町彦崎貝塚から出土しました。縄文時代前期(約6000年前)から晩期(約2800年前)のものです。近隣の貝塚からは見つかっていませんが、長期間瀬戸内海に生息した生物だったことは間違いありません。誰か私の名前を教えてください!



 その後の調査で、トウカイハマギギというナマズの仲間の骨であることがわかりました。





トウカイハマギギをネット検索してみますと、こんな記事がヒットしました。

日本経済新聞web版 2010/12/3付記事、 縄文貝塚に熱帯魚の骨 岡山・佐賀で相次ぎ確認

 岡山市南区の彦崎貝塚で見つかった「トウカイハマギギ」の頭の骨=共同

岡山県や佐賀県の縄文貝塚遺跡で、現在は熱帯や亜熱帯の河口域にすむナマズの一種「トウカイハマギギ」の骨が相次いで確認された。当時は今より日本の気温や海水温が高かったことが理由とみられ、縄文期の気候や生物を研究する上での史料といえる。


 岡山市南区の彦崎貝塚で2003年、約6千年前の地層から耳たぶのような形をした左右対称の骨2点が出土した。


 奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長(環境考古学)が調査。今年6月、古生物学が専門の大江文雄愛知県自然環境保全審議会代表委員とともに、頭の骨の一部が肥大化するという特徴をもとにトウカイハマギギと特定した。


 佐賀市の東名遺跡から07年に出土した骨も同様に特定。彦崎貝塚からはこれまでに50匹分以上の骨が見つかっており、食料だったとみられる。


 縄文期は海面の上昇や気温の変化など地球環境に大きな変動があったとされ、熱帯種の出土について松井センター長は「当時の気候を考える上で重要」と強調している。〔共同〕



また、産経ニュース 2015.11.16 付記事 縄文の瀬戸内海温暖化を裏付け 岡山の貝塚から現在生息しない魚の耳石



国史跡の彦崎貝塚(岡山市南区彦崎)で、現在の瀬戸内海には生息せず温暖な海に棲む魚「トウカイハマギギ」の耳石を国内の貝塚で初めて発見したと、岡山市教育委員会が発表した。耳石は魚の頭部の三半規管内で平衡感覚や聴覚をつかさどり、魚によって特徴が異なる。市教委は「トウカイハマギギが捕られていたことは、縄文時代の瀬戸内海が温暖化していたことを裏付ける」と話した。


 今回見つかったのは、トウカイハマギギの耳石2個(大きさ約1センチ)とホンニベの耳石3個(大きさ約2センチ)の計5個。トウカイハマギギの耳石は国内の貝塚では初の発見で、ホンニベの耳石発見は国内の貝塚で2例目という。いずれも現在の瀬戸内海には生息しておらず、東シナ海などの熱帯・亜熱帯の海に生息している。


 市教委は平成15年から彦崎貝塚の発掘調査を始め、奈良文化財研究所と出土品の共同研究を進めている。22年12月にトウカイハマギギの骨約50点を発見。さらに26年12月から縄文前期(約6千年前)の地層を今年4月にかけて調査した結果、魚の耳石120個が発見された。


 耳石は魚の種類によって模様や形、大きさが異なっているため、種類を識別できる。出土した耳石を調べた結果、5個がホンニベとトウカイハマギギのものと特定された。他はスズキなど現在も瀬戸内海に生息する魚の耳石だったという。


 共同研究に参加した耳石研究を専門とする大江文雄・同研究所客員研究員は「耳石から当時の瀬戸内海にホンニベなどがいたことを証明したのはひとつの成果といえる」と言及。市教委は「耳石によってどんな魚を当時の人々が食べていたのかが特定でき、新たな研究分野が確立するのでは」と話した。


彦崎貝塚の出土品などが収蔵・展示されている「岡山市灘崎文化センター (おかやましなださきぶんかせんたー)」は、孫たちがよく利用する図書館や公園の一角にありますから、何度か入館して、展示物は一通り見学したり、解説リーフレットなどもいただいたりしていたのですが、改めてその遺産的価値に思いを馳せたことでした。

さて、弥次喜多の一行は、そのあと、もと来た道を引き返し、次なる目的地「早島」をめざしました。続きは次回といたします。

今日の付録。

昨日の散歩で写したミコアイサです。

k5-2+AFborg60ed+1.4×テレコンバーターGR。



















♂はよく目立つのですが.♀は少し地味ですね。







大勢のカモたちの前を滑るように泳いでいるのは、ミコアイサ♀でしょうか?







上空をこんな鳥が飛んでいます。









こんな小型機でも、心がざわつくエンジン音がとどろきます。

事故原因の究明も行われないうちに.早くもオスプレイの飛行再再開が強行されるそうな。その爆音に心臓が握りつぶされそうな住民の不安を、わが政府はどこまで共感できているのでしょうか?沖縄の心に寄り添うとは、この不安を除去するために誠実に力を発揮することでしかありますまい。

今日はここまで。


縁は異なもの、「青頭鳥」再考、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

ちょっと前、こんな記事を書きました。

◇「青頭鶏」川に潜る「牛留鳥」?、の巻

 足桧木之 山川水之 音不出 人之子垢 戀渡青頭鶏

【訓読】あしひきの 山川水(やまがはみづ)の 音に出(い)でず 人の子ゆゑに 恋(こ)ひわたるかも

【解釈】山の川の水の流れのように、音をたてずひそやかに、あの人は人の妻であるので、ひそかに恋し続けることですよ。

【解説】「あしひきの」は、山にかかる枕詞。「人の子ゆゑに」は「人妻ゆゑに」と同義。「恋ひわたる」の「わたる」は、時間的、空間的に同じ状況・動作が続くこと。

「青頭鶏」は「かも」と読み、詠嘆の終助詞。中国の文献に「青頭鶏者鴨也(青頭鶏は鴨なり)」と記したものがあることを踏まえています。

青い頭の鶏とは、どんな種類の鴨でしょうかね。

わが家の近くの用水路にやってきているコガモです。

これも、顔が青いと言えば青いですがね。


この記事へのコメントで、Enrique様、じゅんじい様が 、こう書いてくださいました。


 最初の写真に写っているコガモ,私のデコイの色になっていました。
http://classical-guitar.blog.so-net.ne.jp/2016-06-12
こちらの写真には無いですが,マガモのオスは青首とか言いますが,首から上がつるんつるんのグリーンです。それを言っているのではないでしょうか。

by Enrique (2016-11-09 07:12) 


 マガモはアオクビ(青首)と呼ばれますので、
もしかすると、マガモの事かもしれませんね。

by じゅんじい(2016-11-10 20:21) 
その時、私はこうお答えしておりました。


 Enrique様 精巧なデコイですね。微妙な色がそのままです。 マガモの♂、今年はまだ撮っていないので載せませんでしたが、確かに青首ですよね。納得です。

じゅんじい様
ありがとうございます。確かに青首の名のごとく、マガモのオスの頭部は目を引くの緑色ですね。今シーズンはまだマガモにお目にかかっていません。

昨日一昨日と、阿部池や児島湖周辺の散歩で、マガモの群れを確認しました。
手前が♀、向こうが♂ですね。♂はまさしく青首ですね。


手前が♂。











児島湖の景色。雨は上がっていますが、雲が厚く、風があるので、湖面が波立っています。






朝の漁をする小舟があります。


常山が見えます。



ところで、久しぶりに阿部池あたりをカメラ散歩したのは、児島湾干拓事業の話題のつながりからでした。そもそも、 病室雑話 藤田という地名でも書きましたように、このゴイサギに会う、の巻で触れた学習会が、これら一連の記事のきっかけでした。つまり、児島湾の干拓が同和鉱業(=現社名DOWAホールディングス)の前身藤田組によるものであることを再認識したのが始まりでした。

一昨日、退院の報告がてら郷里の父を訪ねた時も、この話題になり、昔、阿部池で釣りをして大釣果をあげた思い出話も出ました。県北部在住の父ですが、県最南端のこの地域一帯が、勤め先の会社の所有地であったことから、何かとなじみが深かったようです。

一昨日、父を訪ねたには、もう一つ用件がありました。

実は、父の出生地は、植民地時代の朝鮮半島でした。5才の頃までそこで育ち、冬の寒さ、松の実をよく食べた記憶、オウリョッコウが近かった記憶、など、いろいろとかすかな記憶があるようです。かねがね、一度は訪ねたいと思ってきたが、もう今となっては無理ながら、せめてどんな場所だったか、地図があったら探してほしいと、ずいぶん前、頼まれていました。

戸籍簿の記述に、朝鮮平安北道江界郡云々とあるのを頼りに、地図を参照してみますが、なかなか難渋しました。



なにしろ、国交断絶状態にある北朝鮮に属するだけに、余計に地図情報などが入手しにくい事情もあるのかも知れません。観光旅行向けの案内書や地図のようなものも見あたりません。アマゾンで、地図を入手し、中身も確かめないで送っておいたのですが、「平安北道江界郡」なる場所は見つかりません。

先月、一番下のゼロ歳児の孫とその母親(私の長女)と一緒に田舎を訪ねた際、ことの次第を話していると、長女がスマホで、ちょこちょこっと検索ながら、「オウリョッコウって、鴨という字を書く?」と尋ねます。父も私も、とっさには返答できず口ごもっているあたりで検索作業はお預け、話題が他へ移りました。

「オウリョッコウ」は「鴨緑江」。疑う余地はないはずなのに、いざ問われると、動転して迷ってしまう。

ウィキペディアにこうあります。







 鴨緑江(おうりょくこう、北京語:Yālù Jiāng、ヤールージャン、満州語:ᠶᠠᠯᡠ

ᡬᠢᠶᠠᠩ 転写:Yalu giyang、朝鮮語:압록강[2])は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。

(中略)


さらにこうもありました。







 日露戦争時には日本軍とロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)。また、朝鮮戦争時には北朝鮮軍を支援する中国軍が鴨緑江を越え、国連軍が両国を結ぶ鴨緑江沿いの要衝に爆撃を行った。

そうでした。なぜとっさに思いださないのでしょう。地理音痴、歴史音痴の面目躍如です。

「朝鮮平安北道江界郡」を地図上で確かめることにしばし難儀したのですが、結論は次の通りと考えて良さそうです。

「江界郡」をウィキペディアで調べると、「 江界市」に行き当たります。







 江界市(カンゲし)は、朝鮮民主主義人民共和国の慈江道の道都。人口約22万人(1993年)。

おや?「平安北道」ではなくて「慈江道」?

ヒントは同じくウィキペディアのここにありました。







 平安北道 (日本統治時代)

平安北道(へいあんほくどう、ピョンアンプクト)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安北道・慈江道を合わせた地域にあたる。道庁所在地は新義州。

旧平安北道が、今は平安北道と慈江道に分割されていて、江界郡(現江界市)は慈江道に属するということですね。

我が家の古い「平凡社百科事典」をひもとくと、こうありました。







  慈江道 Jakangdo 朝鮮北部の道。鴨緑江をへだてて中国に接し,他は両江道,威鏡南道,平安南・ 北道の4道にかこまれている。
1949年新設された道で, もとは平安北道と咸鏡南道の一部に属していた。面概約15,400㎞, 首都は江界市。

〔自然〕 (中略) 鴨緑江およびその支流と清川江の流域が道のほとんどを占めており鴨緑江の本流の過半(約4ookm)は道内を流れている。気温は北部の中江で年平均3.6
℃, 1月平均-21.1℃, 8月平均21.6℃である。南部の熙川(きせん)地方では,年平均7~8℃, 12~3月間は月平均0℃以下である。
中江は朝鮮の最低記録地で. 1933年に一43.6℃を記録した。雨量は年平均800mm以h.で, 熙川地方は年1,300一で最も多い。

〔産業〕土地利用率は7%で, そのうら水田面積の比率は10%未満である。 耕作地の大部分は火田で, 蓋馬台地, 茂山高原の火田が大きな比重を占めている。
そのうえ,生物の成長期間が短いので農業はふるわない。農作物は耐寒作物を主とし, トウモロコシ, ダイズ, アワ,亜麻.、大麻, タバコを産する。畜産業も盛んで.
慈城・満浦・中江郡には国営農牧場・種畜場があり,羊,豚, メンヨウが多い。(後略)


知れば知るほど、鴨緑江と深い縁がありました。

鴨緑江の「鴨」は、やはりマガモでしょうか?

【今日の付録】

実家に向かう途中、三徳園を訪ねてみました。

ジョウビタキに会いました。



















実は、違う色のヒタキに会いたいと期待していたのですが。かないませんでした.ひょっとして、チラッと姿を見かけたような気もしましたが、カメラを構えようとしているうちに飛び去ってしまいました。

大きなレンズのカメラで、木の梢を狙っておられるかたがありました。枝から枝へと、ひょいひょい飛び移る小鳥の姿がありました。とても遠いのですが.念のために写しておきました。思い切ってトリミングしてみると。











どうやらメジロのようでした。

今日はこれにて。

ムルデルの干拓堤防、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

昨日の朝散歩で、児島湾干拓第一号、第二号堤防と呼ばれる遺跡を見てきました。

一昨日書いたこの記事(ムルデルの樋門など、ご近所の干拓遺跡、の巻)でも紹介したおかやまの歴史的土木資産というhpから、児島湾開墾第一区第一号・第二号干拓堤防の記事を引用します。

 児島湾干拓第一区第一号堤防

見どころ


 江戸時代から始まった児島湾の大規模な干拓は、明治時代には政府から開発を請け負った藤田伝三郎(でんざぶろう)(1841~1912)によって事業が進められることになりました。
 初めに着工された第1区では、明治32年から翌年末に潮止(しおど)め工事が完了しました。その工事で築かれたのが第一号と第二号堤防です。軟らかい地盤の上に堤を築くことは困難を極め、藤田組の技術者が工夫を重ねてようやく成功したものです。

 第一号堤防のある加茂崎地区(玉野市)は、前面の海が干拓されておらず、完成当初の堤防がそのまま残っている貴重な場所でしたが、平成18年頃に改修されました。第二号堤防のある高崎地区(岡山市・玉野市)は、前面の海が後に干拓されたため陸地に取り残される形になりましたが、延長約2㎞の石積みの堤防跡が続く干拓地らしい風景を見ることができます。


出典:「あなたの街の近代化遺産ガイドブック」岡山県教育委



下に略地図を載せます。



石積みが破損、崩壊の危険があったためか、最近補修工事が行われ、石積み堤防の面影は残しながらもコンクリートで固定されています。































正面辺りに見える山は、麦飯山(むぎいいやま)。この山の頂には、戦国時代、毛利方の城が置かれました。







鴨川に映る麦飯山。



「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。

 むぎいいやま 麦飯山<玉野市>

玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。



むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>

中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。



この辺りから、常山もごく間近に見えます。







小川に映る常山。別名児島富士と呼ばれますから、逆さ児島富士、と、以前もご紹介しました。



頂上には、戦国時代から江戸時代初めにかけて城が置かれ、上野氏・戸川氏・伊岐氏等が居城としました。

過去の記事◇逆さ児島富士の一部を再掲します。







 児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。

真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)

_igp8981.jpg

こちらは、水田に映った逆さ児島富士です。

_igp8933.jpg



富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。

常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。



常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。

本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。


   平成15年11月11日   玉野市教育委員会  「常山合戦案内」板より


この鶴姫は、毛利勢によって滅ぼされた備中松山城主・三村元親の妹に当たります。



上空を舞うのはトンビでした。

このあたりでよくミサゴの漁を見るのですが、この日はお目にかかりませんでした。





この碑のある一帯が第二号堤防であるらしい。





堤防の左側が陸地、右側が海だったようです。

後の工事で、右側の一帯も干拓されて、今では広々とした田園が広がっています。

石積み堤防は、石垣として、痕跡をとどめるだけになっています。







しかしよく見ると、カキ殻などがこびりついているのは、かつて海中であった名残です。









用水路のそばに、こんな鳥がいました。



















アヒルでしょうかね?

その近くに、何かが動きます。

画面中央ですが、わかるでしょうか?





トリミングしてみます。



ちょうど魚を捕らえたところでした。



今日はここまで。

ムルデルの樋門など、ご近所の干拓遺跡、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

保育園年長組の孫娘の生活発表会を見てきました。

「保育園最後の生活発表会」と紹介されていました。そういわれるとその通りです。来年は小学校に上がるのです。早いものです。

踊り、歌、劇、合奏と、いろいろな出しものを張り切って演じていました。

クラスが二つあって、1組の劇は「王様の耳はロバの耳」。「ロバの耳でも王様は王様。みんな好き」と国民に励まされて、ロバの耳を隠さなくなった王様が、大きな耳でますますよく人々の声を聴くようになり、良い政治を行ったという考えさせられる筋立て。

2組は「西遊記」。西遊記の長いお話の中から、子どもたちが好きな場面を話し合ったところ、だんだんとみんなが仲間になっていく場面がだいすきということで、孫悟空、猪八戒、沙悟浄、金閣銀閣が、それぞれはじめは争いながらも和解し、次々に仲間になっていき、最後は天竺にたどり着いて尊いお経を手に入れ、みんなを幸せにしました、というストーリー。

いずれも音楽劇仕立てで、楽しく演じてくれました。

さすがに年長組ともなると、もじもじしたり半べそをかいたりという年少さんの幼さは影を潜め、どの子も、目を輝かせ、声もしっかり出して、身体全体で表現しています。このまま、すくすくと、のびのび育ってほしいと、観客の誰もが願ったはずです。



保育園の間近に、こんな建造物があります。







ほとりに、こんな案内板が建てられています。

灘崎町指定文化財「宮川樋門」とあります。



先日来ご紹介している、児島湾干拓事業の第一期工事の再建蔵された樋門の跡です。

そばに、真新しい石碑も据えられています。



トリミングしてみます。



平成28年3月と刻まれています。「宮川」「常川」「片崎」の3つの樋門が、県重要文化財に指定されたことを記念する碑です。

これらの樋門については、岡山市のHP中に、このような解説がありました。

こんなにあります農業用施設というページの一部をご紹介します。

 

児島湾干拓遺産




 明治維新後、士族授産対策として計画された児島湾の干拓事業は、明治14年、内務省がオランダ人技師ムルデルに児島湾干拓の調査を諮問した。しかし6,000ヘクタール余という児島湾の七割を埋めるような計画に維新政府は資金難に理由に拒否、開発は大阪の豪商・藤田組の藤田傳三郎の手に委ねられることになった。


 藤田組は明治32年から昭和16年までかけて、一、二、三及び五区計約2,970haを干拓。昭和14年に着工した六区(920ha)は、その後中断、昭和24年に農林省が引継ぎ30年に完成。また、七区(1,670ha)は、昭和19年に農地開発営団により着工、22年に農林省が引き継いだ。


 一方、児島湾干拓の進展に伴い、農業用水の不足が顕在化してきたため農林省は、延長1,558mの児島湾締切堤防と2つの樋門を築造することで、児島湖を淡水化し、農業用水を確保するとともに、水位を調節して、塩害や高潮から背後の干拓地を守ることにした。こうして、昭和34年には面積約1,100haの児島湖が誕生、その4年後、昭和38年の七区完成により干拓工事は完了した。







常川樋門の写真


常川樋門の写真



常川樋門(岡山市南区西紅陽台)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、公園のモニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅2.8メートル、通水部奥行3.9メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)

 







宮川樋門の写真


宮川樋門の写真



宮川樋門(岡山市南区西高崎)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、モニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅1.8メートル、通水部奥行3.6メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)








片崎樋門の写真


片崎樋門の写真



片崎樋門(岡山市南区西高崎)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、モニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅1.8メートル、通水部奥行3.5メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)

土木学会選奨土木遺産(平成18年11月15日)






丙川三連樋門の写真


丙川三連樋門の写真



丙川三連樋門(岡山市南区藤田大曲)

 児島湾干拓第二区の工事で明治37年7月に建造されたもので、全国にもほとんど残っていない明治期の三連樋門です。

 一部改修されていますが、現在も使用されている重要な排水樋門です。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り・三連

3.6メートルと3.0メートル二連

土木学会選奨土木遺産

おかやまの歴史的土木資産というhpに、児島湾開墾第一区片崎樋門・常川樋門・宮川樋門・奉還樋門の紹介ページがあります。

そこから、周辺の地図をお借りします。

tizu.jpg

 

樋門は、次の略図のような位置にあります。

 

07tizu.jpg

 

 

 実は、私が常日頃散歩道にしている小径は、農業用水路の土手道ですが、その農業用水路は、倉敷川水系の2級河川「宮川」から取水してしています。この道沿いには、1.6kmにわたって桜の木が植えられており、「宮川桜土手(堤)」と呼ばれています。私の過去の記事で、春には桜、夏には蝉の話題を、この散歩道からたびたびお届けしてきました。

たとえば、こんな記事。

貸切の桜並木に春の雨

春雨に煙る桜並木の散歩道


ところで、これらの桜の記事と関連して、西行の碑をご紹介したことが何度かあります。西行も浮かれこそすれ花爛漫

西行の碑を抱くかに咲き初めし

R0014021_R.JPG

この西行と大伴旅人の碑がおかれている場所に、実は「常川樋門」跡があります。









さらに岡山市中心部方面へ進み、倉敷川に近いあたりに、片崎樋門があります。







案内板を拡大してみます。



新しい案内板(平成20年版)も立てられています。



ここにも記念の石碑が据えられています。







碑文を拡大してみます。



このあたりまで歩いて折り返すのが、私の散歩コースのひとつです。

逆方向の玉野市方面へのコースだと、鴨川近くまで歩くと、ここにもまた干拓遺跡があります。



干拓堤防です。

干拓堤防の遺跡も、写真に写しているはずですが、すぐには見つかりません。

さらに先へ進むと、鴨川に出ます。これは、何年も前に写した写真です。正面突き当たりに石積み堤防があり、その向こうの鴨川は、児島湖に注ぎます。



 何年も前に写した石積み堤防です。

廃墟感があって、面白いと感じていましたが、ここは近年改修されました。

s-IMGP4241.jpg

堤防の上にはこのようなオブジェ。これまた何年も前に写したもの。もう少し良い写りのものがあったはずですが、フィルム写真ですので、すぐには見つかりません。






さて、保育園からの帰り道、プチ散歩を楽しみました。

入院中は病室と給湯エリアとの行き来ぐらいの歩行に限られていましたから、これだけの距離でも結構な歩行と感じられます。

ツグミはよく見るようになりました。



ハクセキレイ。



コガモ。







今日は、このあともう一度散歩に出かけ、ちょっと良い出会いがありましたが、それはまた別の機会に譲ります。

今日はこれにて。


縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名 [あれやこれやの知ったか話]

私の居住地近くに高崎という地名があります。

地図で見ると国道30号線沿いに、玉野市側に東高崎、岡山市(旧灘崎町)側に西高崎があります。このあたりは、もともと「瀬戸の穴海」とよばれる海に浮かぶ小島が連なる地帯の一部でした。



(上の図は「岡山の風 郷土史」より借用しました。)

平成の大合併以前の旧町名に灘崎町がありましたし、縄文時代の貝塚も近くで発見されていて、そこは彦崎と呼ばれます(その話題は回を改めます)。それだけに「崎」がつく地名にはなんの不思議もないのですが、この高崎のいわれは別にあるようです。

角川日本地名大辞典33岡山県(1989年発行)をひもとくと、こう紹介されていました。







 にしたかさき 西高崎<灘崎町>

〔近代〕明治39年~現在の大字名。はじめ灘崎村、昭和24年からは灘崎町の大字。 もとは灘崎村地先の児島湾干拓地の一部。明治期以後の児島湾干拓事業は、実禄
を奉還した士族たちの授産のために企てられ、出願が、 明治11~l3年にかけて続出した。 これに対し高崎五六県令は児島湾干拓事業の必要を、 内務・農商務・大蔵の三卿に具申、内務省はオランダ人工師ムルドル氏に諮問、氏の実地調査が行われた。出資者の藤田伝三郎が独力で同20年に第1区から第8区に区別し工事期間を2期に大別,予算や期限などを調整して再出願,同22年干阪高雅知事は開墾を許可した。反対運動・水害などで連年着工は延期されたが高崎親章知事は開墾の必要性を説き藤田組に起工認可を与えた
(灘崎町史)。

藤田組は同32年第1区の起工式を挙工、 同年末に潮止め工事を完了,同33年5月から入植開始。同35年に堤防が決壊、入植者の中には生活苦から他へ転出する者もあったが、
同38年完工、 466町の沃野ができあがり、藤田農場高崎農区と名付けられた。 同39年361町5反5畝11歩を西高崎と名付けて灘崎町に編入 (児島郡誌・灘崎町史・児島湖発達史)。明治36年頃入植者50軒余,
1軒約5町の田と馬を持ち綿や麦を作るが、 奉還は土地が高く西瓜を作つた (灘崎町史)。 藤田農場高崎地区完成に伴い従来の入植者に対し会社側は、
新たに直営農を幕集。 直営農は会社の土地を耕作し月給制で会社支給の作物の裁培を行つた。 農舎はi平和通り に1~8号。水稲を作り出したのは大正期頃から。昭
和17年の高崎農場の構成は,直営農203町・小作農19 l 町・自作農兼小作農133町・自作農14町(灘崎町史)。 同21年復員者・労務者・分家組の人々は4~8号地を買い取った。同21年灘崎村荘内村普通水利組合を結成、同27年高崎土地改良区と変更。玉野市東高崎、迫川の四人新開・宮下西新開・宮下東沖新開・赤羽根新開を合わせて組合員123名で運営,、麦のほかマッシl
ュルーム・レンコン・ナスを生産、他に採卵を行った。機業も波及し、昭和27年三村ミシン工場が創業。 l同35年には川張西高崎地区簡易水道の導入で、天水生l活も減少。同36年国道30号が完成。同44年南部上水道の給水開始。同46年西高崎児董館が開館。(後略)









 ひがしたかさき 東高崎<玉野市>

〔近代〕1明治39年~現在の大字名。はじめ荘内村、昭和29年からは玉野市の大字。もとは荘内村地先の公有水面理立地。 明治38年に竣工した見島湾第一区干拓地の東部に位置する。地名の由来は,漁業保障など多くの問題を解決し着工に踏みきった県知事高崎親章を顕影して第一区を高崎農場と名付けたことによる。
同44 年の戸数3,人口は男7・女7。当初は干拓を行った藤田組の直営農場として大規模経営・機械化展業が進められていたが、 高度成長以降兼業農家が增加した。(後略)


ここに、高崎五六(いつむ=ごろく)という県令と、高崎親章(ちかあき)という知事の、二人の高崎さんが登場します。そのため、早飲み込みの私は、不確かな理解をしていましたが、この高崎の地名は、児島湾干拓の着工に踏み切った高橋親章県知事にちなむ命名のようです。

岡山シティミュージアム岡山干拓物語というページにこんな解説があります。







 1880年(明治13年)、県庁職員生本傅九郎の意見を取り入れ、それらをまとめて開発しようと考えた県令高崎五六は、内務省雇工師ムルデルの意見を求めました。

翌1881年(明治14年)、ムルデルが児島湾の視察にやって来ました。ムルデルは緻密な調査をして、児島湾の干拓が可能なこと、そして岡山にとって有益であることを主張する「ムルデル工師の児島湾開墾復命書」をまとめ、内務省に提出しました。  

高崎県令はこの干拓が国の事業として行われることを望み、国家予算を期待していましたが許可されず、民間による開発へと方針を変更しました。

しかしここで、先に名乗りを上げていた会社も、資金面の失敗から干拓を引き受けることを断念。生本は関西はじめ、東京方面までも出資者を求めて走り回りました。

ここで大阪の資本家、藤田傳三郎(でんざぶろう)の登場です。生本傳九郎に会って心を動かされた藤田は、鹿島岩蔵、杉村正太郎、田中市兵衛、阿部浩の協力を得て、1884年願書を提出したのです。

その後、高崎県令と生本の転勤や阿部との行き違い、地元住民の反対運動などあり、計画は中断状態が長く続きました。

しかし、藤田は単独ででもこの干拓をやり遂げる意志を固め、1887年(明治20年)、藤田の事業として変更届を出します。

しかし県下には激しい反対運動が起こっていました。それぞれが収まり、工事が着工されるには、さらに10年の月日が必要でした。

児島湾干拓第一区

1899年(明治32年)の着工に先だって、湾内の底盤、潮流、風向き、風力、雨量 など徹底調査されました。

けれども、「まったく載荷力のない底抜け沼」のような状態のところに「荷重一間当たり一万二,三千貫以上の堤防を延々十里も築こうというわけ」で工事は、予想以上の困難をきわめました。

試験的に従来の方法で堤防を築いてみたときのようすが、『松陰本山彦一翁伝記』に書かれています。

「約六四間の築堤線の前面に松丸太杭を打ちこみ、竹シガラを揺き、堤心は土を以って築き、前面 は二割、後面は一割五分の傾斜勾配を有する土堤を築かしめた。然るに盛土が六、七分の高さに達するや俄然沈下運動を起こし、僅々三~四時間のうちに堤防全部は泥盤のうちに呑まれてしまった」

このように、想像以上の地盤の悪さに多くの失敗や苦難がありました。 

結局、丈夫な基礎工事をして、その上に石垣を築き、石灰真砂土のコンクリートなどですきまを埋める方法にたどり着き、堤防の高さは満潮時の平均より5尺(約150センチ)高くしました。

水門を築く際も軟弱な泥地に悩まされました。  

また、地盤の問題以外でも苦労はたくさんありました。期間中暴風雨に見舞われたことも3回、せっかく築いた堤防が決壊したり、コレラが流行して人夫が次々感染していったり、堤防の底から内部の水があふれだしたりと、多くの困難がありました。

それらを乗り越え、1905年(明治38年)、第一区462haが完成したのでした。

第一区は迫川地内宮川を境として、西は灘崎村へ、東は荘内村へ編入することになりました。現在の岡山市灘崎町西高崎、玉野市東高崎となっています。


我が子が小学生の頃に買い与えた「学習漫画岡山の歴史14近代産業の発達 明治時代」(山陽新聞社刊)に、こんな一コマがあります。



ここで第一区とされたあたりが、私の居住地の近辺であり、いつもの散歩道もこのあたりです。

下はみな、その散歩道で、先月の末に出会った鳥の写真ですが、入院騒ぎで紹介できないまま今日に至ってしまいました。遅ればせながら、今日の記事の賑やかしのために、掲載させていただきます。

土手道のハクセキレイ。



ジョウビタキ♂。

















ジョウビタキ♀









セッカ?





ダイサギ。











カンムリカイツブリ。

























今日はここまで。

縁は異なもの(2) 鉱山縮小・閉山の余波 [あれやこれやの知ったか話]

前回記事で、柵原鉱山の閉山について触れました。
柵原鉱山資料館
の記事には、こうあります。
 柵原鉱山は、東洋一の硫化鉄鉱を産する鉱山として古くから栄えてきました。昭和40年頃の最盛期には年間90万トン以上もの鉱石を産出していましたが、海外から安い硫化鉄が輸入されるようになると、次第に需要が減少。そして平成3年3月、時代の流れとともに閉山の時を迎え、75年間の歴史に幕を降ろしました。


また、	【柵原鉱山閉山】 - デジタル岡山大百科 | 郷土情報ネットワークの、柵原鉱山閉山のページに、動画が掲載されており、次のような解説が添えられています。

 ”東洋一の硫化鉄鉱床を誇った岡山県久米郡柵原町の同和鉱業柵原鉱業所が1991年3月末で採掘を終え、75年の歴史に幕を閉じました。柵原鉱山の歴史は江戸時代までさかのぼりますが、1916年、藤田組・現在の同和鉱業が鉱山を買収し、硫化鉄鉱の採掘が本格化しました。豊富な埋蔵量と高品質は「東洋一」という評価を得、硫化鉄鉱は肥料・化学工業などに需要のある硫酸や鉄の原料になりました。特に、戦後の食糧増産のための肥料の生産に大きな貢献をしました。1931年、鉱石輸送のための片上鉄道が全通、片上港からも盛んに鉱石が搬出されました。1961年には、鉱山のシンボル中央たて坑(こう)が完成””年間7万トンを生産。1955年代後半から1965年代前半にかけて鉱山(ヤマ)はピークを迎えました。最大で約3000人の従業員が働き、町の基幹を担っていた柵原鉱山ですが、硫酸の製造法の変化や、円高の影響を受け、採掘事業は大幅に縮小。1991年3月、閉山しました。鉱石運搬に利用され、地域住民の足でもあった片上鉄道も鉱山と命運を共にし、この年6月に惜しまれながら廃止されました。 坑内採掘終了後は、ベンガラやフェライトの生産などを行っていますが、最近は黄ニラ栽培などの抗道農業に取り組み、また低酸素のスポーツ実験施設も完成しています。1998年には、鉱山資料館や片上鉄道を展示する「柵原ふれあい鉱山公園」が整備され、最も賑やかだった鉱山町の様子が体験できるようになっています。



先日の◇ゴイサギに会う、の巻の記事に、こんな「学習会」のことを書きました。

 今回の主な内容は、ご近所さんの人生を語っていただき、学んだり、感心したり、見聞をひろげたりしようという、まったりとした企画。
講師は、九州のご出身で、九州大学工学部(採鉱学科)を出られて、同和鉱業(株)で鉱山の仕事に従事された縁で、岡山市南部にお住まいのOさん。秋田、岡山と、国内を股にかけ、遠く南米ボリビアでの採鉱にも携わってこられたご自身のご経験と、鉱業をめぐるいろいろなお話を、興味深く聞かせていただきました。

この学習会で講師のOさんは「地下にあって、採掘、精製、販売して、利益が上がるものを鉱物資源と呼ぶ」とおっしゃいました。埋蔵されていても、コストが利益に見合わないものは石くれに過ぎないのですね。
工場の排気ガスから抽出された硫黄から作られる「硫安」に、コストで敵うはずもなく、硫化鉱の採掘がペイしないとなると、大幅な人減らし合理化から閉山への過程はまたたく間でした。
1970年代のはじめ頃、ちょうど私が大学に入学したての頃、父も人減らしのあおりを受けて、大阪、東京と職場を転じ、都心のオフィスで定年まで働くことになりました。

それにともなって、住まいも移り、学生の頃の私は、「越谷」とか「津田沼」とかいった、見も知らぬ土地に「帰省」する身になりました。
私が、大学を出て、出身県で職についたあとも、両親はしばらく首都圏住まいで、実家は空き家のままでした。

鉱山縮小・閉山のささやかな余波は、我が家と私自身の身の上にも、少なからぬ影響をもたらしたのでした。



昨夕、めでたく退院しました。

皆様には、いろいろご心配おかけし、申し訳ありませんでした。人間にとって一番わからないのは自分の身体のことかも知れません。何が原因となってどのような結果になる、という因果関係が、読めません。後になって、かくかくであったかと理屈づけしてみますが、所詮後づけで、ホントのところはわかりません。

ただ、最近体調も良いし、週一度のアルバイトでは身をもてあますし、なによりも年金引き下げ、消費税増税という寒風のもとで、懐具合がますます寒さを増すご時世ですので、来春あたりアルバイトの回数を増やそうかと算段しておりました矢先の入院で、ちとわが肉体への不信が芽生えております。上手に駆け引きしながら、末永くつきあっていくしかありますまい。

退院してみますと、ことのほか厳しい冷え込みで、病室の快適さが懐かしい(昨年夏の入院時も、同じような感想を書きましたが)と、罰当たりな感想を抱いております。

それでも、今朝は、ゆるゆると朝の散歩に出かけてきました。







すっかり冬模様ですが、よい陽射しが会って、穏やかな朝です。

水辺の畑で、ツグミが遊んでいます。















シルエットのコサギです。







シルエットのコガモです。



のんびりと泳いでいます。























ひなたぼっこ中。







近寄ってみます。







ジョウビタキ♀に会いました。











青空を飛ぶダイサギ。







コスモスも咲いていました。



一週間ぶりの散歩でした。

たいした運動量でもないのに、汗をかきました。

短い時間に、いろいろな出会いがありました。

カワセミもいましたが、先にこちらに気づいて逃げました。歩いて近寄るたびに、先へ先へと飛んで逃げ、とうとう遠く飛び去ってしまいました。

今日はこれにて。

病室雑話 2 縁は異なもの、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

入院一週間が経過します
午前中の胃カメラの結果を見て、夕方には退院の予定です。ただし、ぬかよろこびになっても泣かぬよう、予定は未定と言い聞かせておくことにします。
昨日の夕景は、なかなかみごとでした。

WP_20161206_16_32_31_Pro.jpg

WP_20161206_16_33_19_Pro.jpg

WP_20161206_16_33_46_Pro.jpg

WP_20161206_16_52_06_Pro.jpgiu


 病室雑話の続きです。

(2)縁は異なもの

先日のこの記事でご紹介したOさんのお話で、淡い知識がハタとよみがえりました。同和鉱業(株)の前身は藤田組といい、その創始者が、実は藤田伝三郎でした。

私の出身地は県北部の美作地方ですが、地場産業の乏しいその地において、往時は従業員3,000名をかかえ、地域経済に少なからぬ影響を与えていたのが、同和鉱業柵原(やなはら)鉱業所(=柵原鉱山)でした。

 

ウィキペディアにはこうあります。

柵原鉱山(やなはらこうざん)は、岡県久米郡美咲町(旧柵原町)にあった、黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。岩手県の松尾鉱山とともに日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山であった。

柵原鉱山は、硫化鉄鉱を主に産出し、それは農業用肥料「硫安」(硫酸アンモニア)の原料として用いられました。採掘された鉱石は、同社が建設、運行する片上鉄道を利用して、海辺の町備前市片上まで運ばれました。片上鉄道は、市民の通勤通学の足としても親しまれていました。
私の生家の近所にも鉱山に働く人は多く、父も大叔父もまたその一人でした。父は、若い頃肺病を患ったせいもあって、坑内労働ではなくて、地上で営業の仕事に携わっていました。その分、賃金は割安であったようですが、坑内労働に比べて健康を害することも免れてか、米寿を過ぎて健在です。禍福は糾える縄の如しの一例でしょうか。

子どもの頃、父に連れられてその職場を訪ねたことも何度かありました。あるときは、昭和天皇の行幸で、遠くから小柄な姿を人の背からのぞき見たことも、記憶にあります。

大叔父の家は片上鉄道の沿線にありましたので、これに乗って鉱山との間を行き来したこともありました。

往時は地域経済の柱でもあったこの鉱山でしたが、工場排出ガスから安価、簡便に硫黄を取り出す技術が開発されて硫化鉱の需要が激減したこととあいまって、円高のあおりで輸入鉱石とコスト的に太刀打ちできなくなったことなどから、合理化縮小のすえ、現在は閉山となっています。

合わせて、片上鉄道も市民に惜しまれながら廃線となっています。 

鉱山と片上鉄道の紹介がこの片上鉄道保存会のサイトに詳しいのでご紹介しておきます。

http://www.ne.jp/asahi/katatetsu/hozonkai/index.htm 

また次のサイトでは、鉱山閉山の模様が動画で紹介されています。

http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004090621142437654

 

先程胃カメラの検診が終わりました。

深刻な病変はない模様、ということで、晴れて退院と決まりました。

昨日の夕食以来絶飲食でしたので空腹を思い出しましたが、喉の麻酔のせいで、食事は一時間後。もう少しの辛抱です。

今日の記事はここまで。

次からは自宅パソコンで更新できると思います。やれやれ。

 

WP_20161207_07_13_05_Pro.jpg

 病室雑話 藤田という地名 [あれやこれやの知ったか話]

(1)藤田という地名
せっかくたっぷりの自由時間に恵まれましたので、温めていた(大げさ)話題を少しずつ書き始めてみようと思います。
岡山市の南部に藤田という地名があります。
M師から教わって、私が時々シギやチドリにお目にかかりに行く蓮田も、その辺りにあります。広大な水田が広がる平野地帯です。各所に蓮田が広がり、レンコンが栽培されていて、この地の特産物の一つとなっています。

 

 
 
この広大な田園地帯は、実はもともと児島湾の海が広がっていたところを、明治以来の大規模な干拓事業によって陸地化したエリアなのです。その県の要請を受けて、その工事を担った実業家藤田伝三郎の名にちなんで、この地は藤田と名付けられたのでした。

藤田伝三郎について、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を引用します。

藤田伝三郎
ふじたでんざぶろう
(1841―1912)

藤田組の創始者。長州藩萩(はぎ)の出身。醸造業を営む家に生まれ、高杉晋作(たかすぎしんさく)の奇兵隊に参加した。明治維新後、陸軍用達業者となり、西南戦争で巨利を得て、1881年(明治14)2人の兄(藤田鹿太郎(しかたろう)、久原庄三郎(くはらしょうざぶろう))とともに藤田組を設立した。この間1879年贋札事件(がんさつじけん)の嫌疑を受け逮捕されたが無罪となった。1884年官営小坂鉱山の払下げを受け、また1889年には岡山県児島湾(こじまわん)の干拓事業の認可を受け、以後この両事業を中心に藤田財閥の形成を図った。また、太湖汽船、大阪紡績、阪堺鉄道(はんかいてつどう)、山陽鉄道などの設立に参加、さらに1885年には大阪商法会議所会頭になるなど、関西財界の重鎮として活躍し、1911年(明治44)には男爵を授けられた。[宇田川勝]
 今日はよく晴れました。
部屋の中では、外気温がわかりませんが、窓から入る日差しでポカポカ暖かく感じます。
遠くに見える平野部が藤田界隈だと思われます。 
WP_20161206_14_33_46_Pro.jpg
 
 
WP_20161206_14_33_01_Panorama.jpg 
 
 


WP_20161206_14_32_28_Pro.jpg

 今日はこれにて。

 


膾を割くに牛刀を以てす、、あれれ? [あれやこれやの知ったか話]


昨日の記事で、「羮に懲りて膾を吹く」ということわざを話題にしました。

羮(あつもの) は、野菜や魚肉などを入れて作った熱い吸い物だそうです。

ほどよく冷ましてから口に入れないと、火傷します。

膾(なます)は、切り分けた獣肉や魚肉に調味料を合わせて生食する古代中国に由来する料理だそうです。和食では、酢の物として発達しました。

羮で舌を焼いた失敗から、膾のような冷たい料理をも、フーフー吹いて冷まして食べるように、一度しでかした失敗に懲りて、必要以上の用心をすることを喩えたことわざです。


この記事の続きを読む


nice!(28)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の20件 | - あれやこれやの知ったか話 ブログトップ

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。