保育園年長組の孫娘の生活発表会を見てきました。

「保育園最後の生活発表会」と紹介されていました。そういわれるとその通りです。来年は小学校に上がるのです。早いものです。

踊り、歌、劇、合奏と、いろいろな出しものを張り切って演じていました。

クラスが二つあって、1組の劇は「王様の耳はロバの耳」。「ロバの耳でも王様は王様。みんな好き」と国民に励まされて、ロバの耳を隠さなくなった王様が、大きな耳でますますよく人々の声を聴くようになり、良い政治を行ったという考えさせられる筋立て。

2組は「西遊記」。西遊記の長いお話の中から、子どもたちが好きな場面を話し合ったところ、だんだんとみんなが仲間になっていく場面がだいすきということで、孫悟空、猪八戒、沙悟浄、金閣銀閣が、それぞれはじめは争いながらも和解し、次々に仲間になっていき、最後は天竺にたどり着いて尊いお経を手に入れ、みんなを幸せにしました、というストーリー。

いずれも音楽劇仕立てで、楽しく演じてくれました。

さすがに年長組ともなると、もじもじしたり半べそをかいたりという年少さんの幼さは影を潜め、どの子も、目を輝かせ、声もしっかり出して、身体全体で表現しています。このまま、すくすくと、のびのび育ってほしいと、観客の誰もが願ったはずです。



保育園の間近に、こんな建造物があります。







ほとりに、こんな案内板が建てられています。

灘崎町指定文化財「宮川樋門」とあります。



先日来ご紹介している、児島湾干拓事業の第一期工事の再建蔵された樋門の跡です。

そばに、真新しい石碑も据えられています。



トリミングしてみます。



平成28年3月と刻まれています。「宮川」「常川」「片崎」の3つの樋門が、県重要文化財に指定されたことを記念する碑です。

これらの樋門については、岡山市のHP中に、このような解説がありました。

こんなにあります農業用施設というページの一部をご紹介します。

 

児島湾干拓遺産




 明治維新後、士族授産対策として計画された児島湾の干拓事業は、明治14年、内務省がオランダ人技師ムルデルに児島湾干拓の調査を諮問した。しかし6,000ヘクタール余という児島湾の七割を埋めるような計画に維新政府は資金難に理由に拒否、開発は大阪の豪商・藤田組の藤田傳三郎の手に委ねられることになった。


 藤田組は明治32年から昭和16年までかけて、一、二、三及び五区計約2,970haを干拓。昭和14年に着工した六区(920ha)は、その後中断、昭和24年に農林省が引継ぎ30年に完成。また、七区(1,670ha)は、昭和19年に農地開発営団により着工、22年に農林省が引き継いだ。


 一方、児島湾干拓の進展に伴い、農業用水の不足が顕在化してきたため農林省は、延長1,558mの児島湾締切堤防と2つの樋門を築造することで、児島湖を淡水化し、農業用水を確保するとともに、水位を調節して、塩害や高潮から背後の干拓地を守ることにした。こうして、昭和34年には面積約1,100haの児島湖が誕生、その4年後、昭和38年の七区完成により干拓工事は完了した。










常川樋門の写真



常川樋門(岡山市南区西紅陽台)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、公園のモニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅2.8メートル、通水部奥行3.9メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)

 










宮川樋門の写真



宮川樋門(岡山市南区西高崎)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、モニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅1.8メートル、通水部奥行3.6メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)











片崎樋門の写真



片崎樋門(岡山市南区西高崎)

 児島湾干拓第一区の工事で明治33年ごろに建造されたもので干拓地の田植えの際、農業用水の調整に使われていました。

 第七区干拓完成により、現在は樋門としての機能は停止されていますが、モニュメントとして残っています。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り樋門・単アーチ(1連)

通水部幅1.8メートル、通水部奥行3.5メートル

岡山県指定重要文化財(平成20年3月7日指定)

土木学会選奨土木遺産(平成18年11月15日)









丙川三連樋門の写真



丙川三連樋門(岡山市南区藤田大曲)

 児島湾干拓第二区の工事で明治37年7月に建造されたもので、全国にもほとんど残っていない明治期の三連樋門です。

 一部改修されていますが、現在も使用されている重要な排水樋門です。

構造

石(花崗岩)・煉瓦造り・三連

3.6メートルと3.0メートル二連

土木学会選奨土木遺産

おかやまの歴史的土木資産というhpに、児島湾開墾第一区片崎樋門・常川樋門・宮川樋門・奉還樋門の紹介ページがあります。

そこから、周辺の地図をお借りします。

 

樋門は、次の略図のような位置にあります。

 

 

 

 実は、私が常日頃散歩道にしている小径は、農業用水路の土手道ですが、その農業用水路は、倉敷川水系の2級河川「宮川」から取水してしています。この道沿いには、1.6kmにわたって桜の木が植えられており、「宮川桜土手(堤)」と呼ばれています。私の過去の記事で、春には桜、夏には蝉の話題を、この散歩道からたびたびお届けしてきました。

たとえば、こんな記事。

貸切の桜並木に春の雨



ところで、これらの桜の記事と関連して、西行の碑をご紹介したことが何度かあります。西行も浮かれこそすれ花爛漫

西行の碑を抱くかに咲き初めし



この西行と大伴旅人の碑がおかれている場所に、実は「常川樋門」跡があります。









さらに岡山市中心部方面へ進み、倉敷川に近いあたりに、片崎樋門があります。







案内板を拡大してみます。



新しい案内板(平成20年版)も立てられています。



ここにも記念の石碑が据えられています。







碑文を拡大してみます。



このあたりまで歩いて折り返すのが、私の散歩コースのひとつです。

逆方向の玉野市方面へのコースだと、鴨川近くまで歩くと、ここにもまた干拓遺跡があります。



干拓堤防です。

干拓堤防の遺跡も、写真に写しているはずですが、すぐには見つかりません。

さらに先へ進むと、鴨川に出ます。これは、何年も前に写した写真です。正面突き当たりに石積み堤防があり、その向こうの鴨川は、児島湖に注ぎます。



 何年も前に写した石積み堤防です。

廃墟感があって、面白いと感じていましたが、ここは近年改修されました。

堤防の上にはこのようなオブジェ。これまた何年も前に写したもの。もう少し良い写りのものがあったはずですが、フィルム写真ですので、すぐには見つかりません。






さて、保育園からの帰り道、プチ散歩を楽しみました。

入院中は病室と給湯エリアとの行き来ぐらいの歩行に限られていましたから、これだけの距離でも結構な歩行と感じられます。

ツグミはよく見るようになりました。



ハクセキレイ。



コガモ。







今日は、このあともう一度散歩に出かけ、ちょっと良い出会いがありましたが、それはまた別の機会に譲ります。

今日はこれにて。