台風5号が通り過ぎました。
前日は、風の影響はあるものの、こんな青空でした。





それが、未明から風雨が強まり、定期検査を予約していた病院への行き帰りは、なかなかのどしゃ降りでした。。

瀬戸大橋は通行止めの表示が出ています。

すこし風雨が緩んだ午後、傘を差して散歩してみました。からだもカメラもぐっしょり濡れました。
雨に洗われる空蝉。

雨の中、声を張り上げて鳴くクマゼミ・



アブラゼミ。

一夜明けて、今朝は、すがすがしい青空です。
枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。」という章段がありました。「台風の次の日は、めっちゃおもろうて、いけてるやん」というお話です。「あはれなり」(=しみじみとした情趣)と「をかし」(=知性を刺激する興趣)が、両方味わえるというのですね。
白い芙蓉。

正面に見えるふた瘤の山。右が麦飯山でしょうか?



以前、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。




  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。




これはいつもの常山です。


昨日が立秋でした。
まだまだ、秋は遠い、と毎年同じようなことを書いています。2014年の記事を引用します。
秋立つやなまあたたかきかぜなれど




 そういえば、台風の影響もあるのでしょうが、今朝は少し涼しく感じます。実際、朝8時の気温は26℃と、散歩中も快適でした。。日中の最高気温も、31℃~32℃と予想されており、真夏日とはいえピーク時からは随分しのぎやすくなりそうです。

もちろんまた、暑さのぶり返しはありましょうが、だんだんに秋に向かっていることは間違いなさそうです。
散歩中に出会う蝉も、最も暑い頃が発生のピークというクマゼミの姿が薄れ、やや涼しさを好むとされるアブラゼミの比率が増してきたようです。
(中略)
今日にちなんだ歌を一つ。


秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる  藤原 敏行


【解釈】  暦の上では立秋の今日、「秋がやってきた」と、目にははっきり見えないけれど、吹く風の音にはっと気づかされることだよ。


 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。


もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。


「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。
形容動詞「さやかなり」は、動詞「冴ゆ」につながる言葉です。現代語の「冴える」も、くっきり、はっきり、クリアーに感じられる意味です。「さやかなり」は「冴えてる」ってカンジですかね。


「おどろかれぬる」は、動詞「おどろく」+自発の助動詞「る」+完了の助動詞「ぬ」がつながったものです。


古語の「おどろく」には、①目が覚める。②はっと気づく、③びっくりする、などの意味があります。ここでは②の意味です。


助動詞「る」には、①受身(~によって~される)、②尊敬(~なさる)、③可能(~できる)、④自発(自然と~される)の用法があります。④が、この語の本来の意味だったようです。この歌の場合も、④です。


ちなみに最後の語「ぬる」は、完了「ぬ」の連体形ですが、文の終わりなのに連体形であるわけは、上に、強調の係助詞「ぞ」が用いられているので、「係り結びの法則」がはたらいているわけですね。
古典文法入門のお時間はここまで。お粗末でした。


 この歌は、古今集に収められている藤原敏行の歌で「秋立つ日よめる」と詞書(ことばがき)にあるとおり、立秋の日に詠んだ歌です。
ですからありのままの実景を詠んだと言うよりは、「立秋」というお題にこと寄せて、頭の中で考えて「理屈」で作り上げた歌と言うべきでしょう。このような傾向は、「理知的」「論理的」と称される古今集の歌風の特徴ともされます。


とはいうものの、肉眼には見えない秋の訪れが、一瞬の聴覚のはたらきによって、はっきりと感じ取られるという繊細な季節感覚は、う~んと、納得せずにいられません。「う~ん、参った」という感じですか。


独断かも知れませんが、視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚が、より生理的、より原初的、より直感的な感覚であるように思えますから、まず聴覚で季節の推移を感じるというのは、よくわかります。






黄色く色あせた古びたノートを元に授業する老教師の風情ですな。だが、その老教師はのたもうたそうな。「真実は一つ」。
栗毬が、大きくなっています。
小さい秋?




柿の実も、少しずつ大きくなっています。

今日はこれにて。