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続々すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

この写真をアップするのを忘れてました。


近所の小川で漁をするカワウです。


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郷里の家の近くにいたモズ。


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昨日の記事で、裁判所は上級審になるほど低級という話題を書きましたが、このニュースは、忘れないように記録しておきましょう。2月19日付NHK NEWSWEBから引用します。


原発 東京高裁 国の責任認める

02月19日 19時01分

福島第一原子力発電所の事故で、千葉県に避難した人たちが訴えた集団訴訟の2審の判決で、東京高等裁判所は、国の責任を認めなかった1審判決とは逆に、国にも賠償を命じました。


低級でない上級審もありました(笑)




ここから本論。


今年の雨水(うすい)は2月18日だったそうです。当ブログでは、毎年のように話題にしていますが、今年はすっかり忘れていました。


去年の記事にこんなことを書いています。



暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。

今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)

(中略)

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

(中略)

雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)

(中略)

孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)

(中略)

昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)
「多喜二の母」に思う、の巻

南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)

(中略)

よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、


こんなに同工異曲の記事を繰り返し書いてきたことも、すっかり忘れてました。でも、今日2月20日が多喜二忌だということは、決して忘れられません。


と書いた後で気がつきました。この記事のこと、忘れてました(汗)


忘れてました、の巻(2019-02-21)


こまっしゃくれたチコちゃんに「ぼーっと生きてじゃないわよ」ととがめられるのは不快ですが、確かにとみに注意力散漫で、大事なことに後で気づく事が多いです。

昨日が二月二十日であること、二月二十日が多喜二忌であることはそれぞれ認知しているつもりですが、その二つが結びついたのは、昨日の記事をupしたあとのことでした。遅かりし由良之助です。

当ブログでは、毎年欠かさずこの日の記事を書いてきましたが、先日の「高知新聞」への投稿との関連で、2015年掲載の記事をひもといてみることにします。

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

NHKの朝ドラ「マッサン」で、息苦しい戦争の時代のやりきれなさが極まっていきます。前回の「花子とアン」同様、またまた官憲・特高の傍若無人の暗躍が、市民のささやかな幸せを踏みにじっていきます。
スコットランド生まれの妻エリーへの迫害は、戦時の偏狭な排外主義の愚かさを際だたせますが、でも、21世紀の現代の「ヘイトスピーチ」を頂点とする差別主義・排外主義の論理と、あまりにもそっくりですね。

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。


今日は多喜二忌です。


多喜二の「処女作」とも言える『一九二八年三月十五日』で、3・15事件で夫を逮捕された妻お由は、若い労働者仲間が語っていたこんな言葉を思い出します。


「蟻の大群が移住する時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ河に入って、重なり合って溺死し、後から来る者をその自分たちの屍を橋に渡してやる、ということを聞いた事があった。その先頭の蟻こそ自分たちでなければならない。」


この言葉を、朝日茂さんがその手記に書き止めていたことを、岡山年金訴訟弁護団長の則武透さんは、支援者の集まりなどでよく話題になさいます。先日の最終弁論後の総括集会でも、これを引用して発言されました。運動のための踏み石になれという狭い意味ではなく、自分自身は直ちには報われないかもれないが、無数の、先人達のたたかいの積み重ねのうえに、志は達成されるという意味だろう。次の世代の幸せのために、なすべきことに自らの力を尽くそう、という朝日さんの決意を私たちも共有したい、というような趣旨(メモしてませんからうろ覚えです)だったと思います。


実際私は、この蟻のエピソードに、長く引っかかりを覚えていました。それは、“滅私奉公”や“特攻精神”に通う自己犠牲の美化・強迫の匂いに窮屈を感じるような気がしていたからです。が、そうではないのかも知れないな、と思えてきました。




今日(2月20日)、いろいろ珍鳥にあえました。


その1


レンジャクです。


最近いろいろな方から目撃情報をお聞きしていました。その情報とは別の場所で、たまたま見つけました。


老若男女のカメラマンさん達のレンズの先をたどってみると、、いましたいました。


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OLYMPUS DIGITAL CAMERA


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これも人だかりしているカメラの先を探ってみると、いました。


そう言えば、M師の最近のメールで、ここでクロジを撮影したとの情報をいただいていました。


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トリミングします。


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ブレブレですが、証拠写真は残せました。


今日はこれにて。


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