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すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

記憶のあやふやさについての嘆きは、再三口にしてきました。以前は、謙遜半分、自虐半分の「ネタ」として、いくらか余裕を持って語ってもいたのですが、最近は、どうも、白濁した記憶の底をまさぐるいらだたしさと不安とで、半ば取り乱しそうになることさえ増えてきました。人名を思い出せないことはしょっちゅうですし、事柄への記憶も揺らいでいて、外部記憶なしには「忘却」のかなたに消えてしまう「過去の事実」の危うさに立ちすくむ思いです。


そう言えば高校生の頃、こんな詩を書きました。


日 記
         1
時は過ぎ去ってしまった と書き込まれた頁の上には
また幾枚もの過去が重ねられ
そしてどこにも現在を見いだすことはできなかった

確かにあった瞬間を留めることができなくて
つまりはそこに 何もなかったのだ と
かつての少年は 言うのさ
“その時”が何に変わったのでもなく
ただ 老いてゆく自分を知るばかりだ と
3                               
偶然にか作為的にか選りぬかれた“時”のみが
いくらか歪められ あるいは造り上げられて
忠実に書き残された
それこそが そして そればかりが
己の記録だとして その追憶の中にまであらわれた
恣意的に消し去られたもの
あるいは しだいに忘れられたものは
いったい何だったのだろうか
ーーーーー失われたものこそ 歴史なのだ

懐疑とか虚無とかという文字にはかびが生え
とにかく生きよう より善く生きようと
そればかりで埋められた頁は埃をかぶり
愛するとか夢見るとか それら美しくてすがすがしい言葉は
無力と倦怠の餌食になりやすく
案の定どす黒く穢され 悪臭ふんぷんし
結局 何も残りはしなかった

さよならと走り書きした頁の端の 透明なしみの意味を
少年はもはや 覚えてはいなかった
そこここに見られる“Y”という符号の意味も
ついには忘れられてしまった

これからあるはずの未来を
やはりそこにあったはずの過去として
いつかは一冊のノオトに納めきったとき
(そのとき少年はもはや少年ではなく)
書き残されず忘れ去られた今日を
あわれむだろうか
       7
してみると
人には未来はありようもなく
さりとて現在(いま)もありはせぬようだし
果たして過去はあったのかしら


粋がってこんな大人びた台詞を吐いていた頃が恥ずかしく、また懐かしいことです。




今日のタイトル「すっかり忘れてました」の第一は、昨日、2月14日にちなむ話題。


「バレンタインデー」のことではありません。孫たちとそのママからのチョコと手づくりお菓子のプレゼントは、美味しくいただきました。


土の上を這う芋虫?いえいえ、土と見えるものも、そこに身を隠そうとしている芋虫オス2匹メス1匹も、いずれも精巧な手づくりお菓子です。お見事。


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PM137093




そのバレンタインデーの2月14日は、「人間裁判」をたたかった朝日茂さんの命日でもあります。もまだ日本には、バレンタインデーを祝う風習定着していなかった頃の1964(昭和39)年の2月14日、朝日茂さんは肺結核のため入院療養中だった国立岡山療養所(現在の「独立行政法人国立病院機構南岡山医療センター」)で、帰らぬ人となりました。そして、4年後の1968年02月14日 には、病院登坂口に「人間裁判記念碑」が建てられ、朝日さんのたたかいの意義を後世に伝えています。


岡山博物図鑑 の記事中、早島町のはなし から引用させていただきます。


人間裁判記念碑-朝日訴訟


国立岡山療養所(現国立療養所南岡山病院)に長く結核で入院していた朝日茂は、35年間離れて暮らしていた九州の実兄から月に1500円の送金を受けるようになります。そのため津山市社会福祉事務所は昭和37年(1962)7月18日付で、それまでの月額600円の生活扶助を打ち切り、送金額から打ち切った扶助額と同じ600円を控除した900円を、医療費の一部として徴収する決定を行ないました。つまり朝日に入るお金の額は全く変わらなかったわけです。
そこで朝日は岡山県知事、更には厚生大臣に対して不服申立を行ないます。理由は生活のさして楽でない兄からの送金の5分の3をも取り上げられ、補食を必要とする重症の結核患者にとって相変わらずの600円の生活は、生活保護法所定の健康的で文化的な最低限度の生活水準を維持するのには不十分である、というものでした。
しかし申立はことごとく却下され、朝日は遂に厚生大臣に不服申立却下の取消を求める訴えを提起します。これが世に有名な「朝日訴訟」です。


この訴訟は、人の生存権とは何かを問いかけたという意味で「人間裁判」とも呼ばれました。
第1審では、我が国社会保障史上画期的な判決で朝日が勝訴しますが、第2審では厚生大臣が逆転勝訴、決着は最高裁へと持ち越されます。
しかし昭和39年、上告人である朝日がこの世を去り、相続人の訴訟承継も認められず、最高裁は訴訟の終結を宣言しました。
結局、この訴訟の結果は曖昧なものとなってしまいましたが、その間、朝日を支援しようとする運動は全国に拡がり、各地で生活保護費の水準が引き上げられるなど、その後の社会保障のあり方に与えた実質的な影響は極めて大きなものでした。
現在、南岡山病院の登坂口には、「人間裁判」の記念碑が建てられています。
「人間裁判」の記念碑
「人間裁判」の記念碑


この記事は「早島の歴史2 通史編(下)」、「生存権の性格-朝日訴訟」(杉村敏正 「別冊ジュリスト No44」 有斐閣)を参考にさせていただきました。

私のブログでも、人間裁判=朝日訴訟についてはこんな記事を書いたことがありました。


年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま(2016-07-05)


(岡山年金訴訟弁護団長の)則武さんは、裁判冒頭の意見陳述の終わりに、朝日訴訟を引いてこう訴えておられます。

14.最後に、かつて、この岡山の地で、朝日茂さんが立ち上がって起こされた 「人間裁判」 朝日訴訟のことを述べさせて下さい。 朝日訴訟では、
第1審の東京地裁の浅沼裁判長は、 朝日茂さんが病の床にあった早島の結核療養所まで赴き、 3日間にわたり検証や朝日茂さんへの尋問などを実施しました。
浅沼裁判長は、 岡山を立ち去る際に 「意法は絵に描いた餅ではない」 と述べたそうです。そして、昭和35年10月19日、月額600円の生活保護基準を憲法2
5条違反とした画期的な浅沼裁判長の東京地裁判決が下されます。 この浅沼判決を受けて、朝日茂さんは「真実をふかく見きわむ浅沼裁判長 四年の審理に我は謝すべし」
との歌を詠みました。
その朝日訴訟ゆかりの地である岡山の裁判所で、今再び、憲法25条の存在価値が問われているのであります。 どうか、裁判所におかれては、原告らに生活保障を十全のものとするために、真実を見極め、審理を尽くされることを期待します。

思わず、目頭が熱くなりました。
朝日訴訟については、前述の「年金裁判」は何に貢献するか?の巻でも少し触れました。
以前、小林多喜二を話題にしたこの記事で、岡山県出身の作家右遠俊郎さんについて書きました。
またまた3月15日の蘊蓄、の巻
この記事で引用した略歴に、「1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。」とあります。
その、『小説朝日茂』は、克明な資料と取材に基づいて、淡々と抑制的な筆致で綴られたルポルタージュ的な「小説」ですが、ページページに深く胸を打たれ、涙を催さずに読むことはできませんし、同時に極限の状況下でも、人間の示しうる尊厳、勇気、高潔に、はげまされずにはいられません。

小説 朝日茂

小説 朝日茂

  • 作者: 右遠 俊郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本

第一審の判決場面を引用します。

現地検証・現地公判のあと、年内になお二回の公判が開かれ、朝目側証人の有力な証言、たとえば、第十回公判の参議院議貝木村禧八郎の証言、第十一回公判の労働科学研究所員藤本武の証言が続き、茂は弁護士たちの意見と同じく、勝訴へのかなり確かな感触を得るのだが、訴訟というものは始まるときも待たせるが、終わりがけもなかなかすっきりとはけりがつかない。結審したのは第十三回の公判、翌一九六〇年の三月十六日であった。そのとき、弁護士たちの見通しでは、判決は六月頃だろう、とぃうことであった。折から<安保反対>の高潮が全国に渦巻いているときであった。
茂はラジオで<安保反対>の高鳴りを聞きながら、胸を熱くし、いくらかは焦りながら、指折り数えて判決の出る日を待つていた。が、判決は六月になって遅れることが知らされた。重症の身で三年、不服申し立てからでは四年を、血を喀きながら命ながらえてきた茂には、判決の遅延はひどくこたえた。
茂の病状が急に悪化した。流動血痰の量がふえ、心悸亢進、食欲不振が続いた。危機の予感に焦燥が燃え、茂は浅沼裁判長の白いマスクの上の目の優しい印象を忘れ、裁判所はわしが死ぬのを待っているのか、とあられもなく口走りたい衝動に駆られるのだった。
茂は半ば覚悟を決めて遺書を書いた。が、どうしても判決だけは見たいという執念で、危うく持ちなおした。周囲のものは愁眉を開いた。日本患者同盟や対策委貝会は茂の病状を憂えて、裁判長に判決を早く出してもらうように要請した。暑い、夏も終わろうとする頃、判決は十月と知らされた。もう延びることはないようであった。
一九六〇年十月十九日、判決を待って茂は朝から待機してぃた。新聞記者たち、カメラマンたち、地元山陽放送の放送記者たちが、.茂の部屋に詰めかけてぃた。茂はうっすらと不精ひげをロのまわりにたくわえ、詰めかけた人たちとなごやかに談笑していた。
茂は秋になって体調を取りもどしていた。みんなの見ているまえで、昼食をすませた。午後二時、療和会の事務所に、山陽新聞からの速報が入ったらしく、その知らせを持って療和会の書記が病室に飛びこんできた。

「勝った」
と彼は言った。 病室に居合わせた人々は一斉に茂の顔を見たが、どっと湧くようなことはなかった。まだ書記の「勝った」が信じられなぃらしく、さらにその続きを聞こうとしていた。が、書記にも、「勝った」内容は説明できなぃのであった。
山陽新聞の記者がすぐに席を立って出てぃった。電話をかけにいったらしく、まもなく病室に帰ってくると、朝日茂の完全勝訴であることを告げた。何でも、国は憲法第二十五条に違反していると断じているらしい、と彼はつけくわえた。そこでやっと病室のなかがどよめいた。茂は思わず暗ればれと笑った。
さっそくマイクが茂のロ元に突きつけられた。茂は別に用意していたわけではなぃけれど、よどみなくしゃべりはじめた。 「ありがとう。みなさんのおかげです。私は内心では、民主主義の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし正面きってそういえば虚勢にきこえるのでいままであまり言いませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文をみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守るものであることを、裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮を抜きにすれば当然勝つはずだったんです」
それから三十分ほどして、日本患者同盟のウナ電が入つてき、午後三時にはラジオが朝日茂の勝利を報じた。それによれば、「現行の保護基準は、生活保護法にもとり、健康で文化的な最低限度の生活を保障した憲法第二十五条の精神に反する」という内容のものであり画期的な判決である、ということだった。
(中略)
茂は今日の感慨を忘れずに残しておこうと思い、薬包紙に鉛筆で短歌三首を書きとめた。
<われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと>
<血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ>
<真実をふか<見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すべし>

感動のクライマックス!と喜べないところが、現実のしぶとさ、国家権力のあくどさというもの。民主国家を標榜する我が国の裁判所は、三権分立の建前にもかかわらず、上級審へ行くほど行政権力へのおもねりが甚だしく、上級審ほど低級である点は、今も昔も変わらぬようです。
「朝日訴訟」においても、1963年11月4日、厚生省は朝から通用門のすべてを閉ざして、要所に守衛を配置し、東京高裁と道路を隔てた日比谷公園には100人を超える武装警官が待機するものものしい警戒のもと、東京高裁は一審の判断を覆し国側勝利の不当判決を下したのでした。
『小説朝日訴訟』からいま少し引用します。

茂のもとにその知らせが入ってきたのは午後二時であった。待機していた記者たちに、茂は開口一番、「少しは、負けたような深刻な顔をせにゃあぃけんでしょうかな」と言ってみんなを笑わせた。それから一呼吸おき、居ずまいを正し、真顔になってしゃべりはじめた。
「残念です。いったい裁判官は、こちらの提出した資料を入念に検討したのでしょうか。憲法の理念を正しく理解すれば、わたしの主張は認められるはずです。裁判官の良心を疑わずにはおれません。あきらかに国家権力、池田自民党政府に屈従し従属したものです。一般の人は国家権力のあくどさを知っていただきたいと思います。
この不当な判決は、社会保障の拡充を要求し、憲法の民主的条項の完全実施を要求する人民への裏切り行為です。この裏切り行為はかならず新しい日本人民によって裁かれることでしょう。
今度の判決は今後たたかううえでの盛り上がりを作ってくれたと思います。波があってこそたたかいは前進すると思います。 わたしはからだを大切にし、
何年かかろうと最後の勝利を得るまでたたかいぬくっもりです。 私は断じてこの不当な判決を認めません」
短いコメントであったが、茂は話しているうちに、さすがに無念の思いがこみあげてきて、声に痰がからみ、からだは熱くなり、息が大きくはずんだ。
記者たちが帰つたあと、心を許しあった仲間が三人残った。みなうつむいて、涙をこらえているような暗い顔をしていた。その三人を見まわしながら、茂は普段の調子にもどり、しんみりと語った。
「わしはなあ、ちっとも悲観しとらんで。そういやあ、また強がりいうとるように思うじゃろが、ほんまじゃ。ほんまに悲観しとらん。ただなあ、最高裁の判決までたたかいぬけるかどうか、そう断言できんところがあるんじゃ。これから三年、訴訟を背負うて生きつづけにゃならんか思うと、しんどいんじゃ」
茂が判決の全文を読んだのは一週間ほど経つてからだった。茂は丁寧に読んでから、まず、小沢文雄という裁判長は奇妙な論理をもてあそぶ人だと思つた。
たとえば、彼は長い判決文のなかで、「以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、 しかしなお概観的に見て、
本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得なぃ」といっている。別なところでは、「頗る低額に過ぎる」けれども、違法とは断定できないといい、そして、これを結論にしているのだ。
茂には、「いかにも低額」、「頗る低額」だが、「違法とは決しかねる」という論理が、どうしてものみこめなかった。が、やがて茂は気づいた。簡略化してぃえば、低額は合法、ということになる裁判長の論理には、一つの前提があるとぃうことに。それは、「当不当の論評」と「違法を論証すること」は別のことがらだ、という考え方である。そこから、不当だが合法という判断は、遊びの形式論理であるとしても、容易に出てくる。
それにこの裁判長は、厚生大臣の定めた日用品費六〇〇円が違法であるという、決定的な理由だけを見つけようと終始している。そして、一つの項目ごとに、違法であるとは断定しがたいと断じ、それを連ねてゆく。彼は決して、それが合法であるという論証はしない。彼は「疑わしきは罰せず」を日用品費に当てはめた。
何のことはない。この裁判長、初めから、違法ではないという結論を設定しておいて、それを論証するために奇妙なロジックをあやつり、 事実や証言を都合よく引用、挿入しただけのことである。彼ならばたぶん、遊びとして、違法であるとぃう結論を設定して、それを論証せよといえば、ほぼ同じ長さで充分にやってのけたであろう。
では、なぜ彼が、違法ではないという結論を決めたかといえば、それはただ、厚生省の準備書面による脅しに屈服し、「自已抑制」しただけのことである。その証拠に、日用品費六〇〇円が違法ではないという、彼が挙げた理由は、すべて厚生省から学んだものばかりであり、一千万人に近いボーダーライン層の存在、納税者の感情、国民の生活水準、国の財政などを考量する必要があるとしてその決定は厚生大臣の自由裁量に属する、とぃうことにしてしまった。
それでぃて、小沢裁判長は、新聞各紙のインタビューに、生活保護基準は「違法すれすれだった」と語っている。その談話にも茂は嫌な気がした。実際には原判決を破棄し、朝日茂に敗訴をいいわたしておいて、世間向けには「違法すれすれ」などと、少しは生活保護患者の苦しみも分かるようなそぶりをする。そこが卑しい、と茂は思った。「違法すれすれ」などといわれても、厚生大臣の違法が解除された以上は、生活保護患者は「生命すれすれ」で生きるほかなぃのである。 十一月二十日、朝日訴訟中央対策委貝会、弁護団、朝日茂は一致して、最高裁へ上告した。

1964年2月14日、原告の朝日茂さんは上告審の途中で亡くなり、養子夫妻が訴訟を続けましたが、最高裁は、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下しました。
しかし、朝日茂さんのみずからの命をけずってのたたかいは、政府の政策に確かな影響を与え、その権利のための闘争は、今なお輝きを増し、私たちを励まし続けています。




今日もほとんど同じようなことを書きかけ、『小説朝日茂』を拾い読みしてみた箇所がほとんど同じ部分であったことにあきれもし、そのことを記憶していなかったことにもあきれました。挙げ句の果てに、右遠 俊郎さんを紹介しようとして、こんな写真まで撮りました。



念のために過去記事を探ってみて、恥をかかずに済みました。


またまた3月15日の蘊蓄、の巻(2016-03-15)


手許に右遠俊郎著「読書論ノート」(青木書店、1980年刊)という本があります。
右遠俊郎さんについて、wikiではこう紹介してあります

右遠 俊郎(うどお としお、1926年9月1日 - 2013年10月11日)は、日本の作家・文芸評論家。
岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補(この時は該当者なしだった)。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。
2013年10月11日に肺炎のため死去[1]。87歳没。
(中略)

郷里出身の作家でもあり、彼の作品は学生時代を中心にかなり読みました。今、本棚から取り出せる作品にこんなものがありました。また機会を改めて、紹介してみたい作品もありますが、今日は割愛します。


まさに、「すっかり忘れてました」なのです。とほほ。




岡山県では、「朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること』をめざし、特定非営利活動法人朝日訴訟の会が活動を進めています。


NPO 朝日訴訟の会 ホームページNPO(特定非営利活動法人) 朝日訴訟の会

人間裁判―朝日茂の手記


会の紹介を、HPから引用させていただきます。


この訴訟は、「人が人たるに値する生活を勝ち取る」という意味で「人間裁判」と呼ばれました。第一審で画期的な勝利をえて、その後の生活保護基準の大幅な引き上げを実現し、憲法25条を絵に描いた餅にしてはならない、と生存権意識を国民の中に定着させ、日本の社会保障運動の原点となりました。

ところが、最近の社会保障をめぐる動きはどうでしょう。競争と格差社会のもとで、社会保障は後退に後退を重ね、朝日訴訟以前に引き戻すかに思われる企てさえ現れています。

こうしたとき、私たちは、あの朝日訴訟の精神に立ち返る必要があると考えました。そして、朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること、これこそが、いま私たち果たさなければならない課題だと考え、ここに特定非営利活動法人朝日訴訟の会を設立しました。

朝日訴訟の会は、散逸しつつある全国の貴重な資料。そして朝日茂さんが病床にありながら書きつづった約一万通の書簡などを収集・整理・保存して、多くの方に朝日茂さんの遺志を語り伝えることで、憲法25条が保障した生存権を今一度国民の手に取り戻すことができる、と考えています。

朝日訴訟から半世紀を経た今、第2の「朝日訴訟」が起こされようとしているとき、そして憲法がその根底から踏みにじられようとしているとき、私たちは朝日訴訟の会が、多くの国民に希望を与える運動の契機となれば、これほど朝日茂さんの遺志に応えることはないでしょう。一人ひとりが語り部となり、「朝日訴訟」を語り、一人でも多くの人にその精神を伝え、社会保障拡充の運動の輪を広げましょう。




引用や過去記事の貼り合わせばかりで記事をでっち上げるのも憚られますので、最後にオリジナリティある内容をひとくだりご紹介しておきます。 


というのは、郷土出身作家だけに、ゆかりの方が地元におられるのは不思議ではありませんが、実の妹さんに偶然の機会にお目にかかったことがあります。これまでも、退職同業者の親睦組織の事はたびたび話題にしたことがありますが、そのHPに会報のダイジェストが収められています。その2019年2月号の記事に、私もその場に参加した「長寿を祝う会」という行事の記録が掲載されています。長くなりますが引用させていただきます。


(前略)今年85歳になられた植木五郎さん、井上倫子さんのお二人が出席され、支部会員ら9人がケーキとコーヒーを準備してお二人の長寿をお祝いしました。先輩を囲んだ和やかなひとときの中、歩んでこられた人生の重みを感じました。
(中略)
「教員になって初めての赴任先は蒜山高校でした。蒜山の地は私が生まれ育った所で、もともと陸軍演習場があった。実は、長兄はその演習場の不発弾で14歳の時に爆死してしまいました。また、次兄は満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡ったが、敗戦後の引き上げ途中に死んでしまった。そんなことから、“反戦・平和”には特別の思い入れがあって…『憲法9条を壊すな!』『アベ政治をゆるさない!』『辺野古基地反対!』などのポスターを自宅に貼って、毎日"拝んで"いるんですよ。…はっはっはっ」(植木先輩)
「私は旧満州大連生まれで小6年の時に敗戦を迎えました。引き上げ船に乗って命からがら日本に帰ってきました。その後、父親が望んでいた教員になりました。落合町上田小学校上山分校をスタートに、片上小、養護学校、盲学校と…。退職後に再び大連を訪れ、大きく変わった町の様子にビックリしました。今は運転免許を返納したので移動が大変です。でも、銭太鼓グループで活動していて老人ホームに慰問に行ったり、桃太郎体操に通ったりと毎日がとても忙しいです。…」(井上先輩)
植木・井上両先輩から生い立ちや最近の暮らしの様子・それぞれの思いなどが語られました。
続いて、集まった高退教の会員からお二人にかかわる思い出話しや先輩から教わったことなどが交流されました。(以下略)


ここで紹介されている井上倫子さんが、右遠俊郎さんの妹さんだとうかがい、驚いたことでした。確かに、旧満州大連生まれの引き揚げ者であることは作者年譜の通りですし、作品の中にも大連時代の原体験が色濃く反映されていましたっけ。(思いつくだけでも『野にさけぶ秋』、『不逞の春』所収の諸短編、『アカシアの街に』などなど--)


ちなみに、もうお一人の植木五郎さんは、私が青年教師である頃から、長く同じ職場でお世話になっただけでなく、最近も退職同業者の集まりや、年金者組合の活動など、いろいろな場所でお元気に活躍されていて、いつも励まされている先輩です。


今日はここまで。


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gonntan

「人間裁判」初めて知りました。この国では上級審にいくほど低級に、裁判官があからさまに国におもねるようになるという事実。自らの出世しか見えなくなるんでしょうね。それでいて、被害者に寄り添っているように言葉を弄する。良心に恥じる気持ちがあるんでしょうけど・・力にはならない。
by gonntan (2021-02-16 22:03) 

kazg

gonntan 様
>上級審にいくほど低級に
まったく由々しきことです。
法律家を志した誰もが、その初心においては、「上」経の慮りから正義と真実を捻じ曲げることを潔しとするはずはないでしょうが、政治的力関係を「わきまえ」ず、「忖度」なく正義と公正に徹しようとする気骨ある人は、「干される定め」にあるそうですね。それを承知で書かれた浅沼判決だけに、なおさら輝いて見えます、、、


by kazg (2021-02-18 04:52) 

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