木下透は私の高校生時代の筆名です。
そのころ、こんな句を作りました。
「こごまりて」と読ませるつもりでした。
国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。
木下透は私の高校生時代の筆名です。
そのころ、こんな句を作りました。
「こごまりて」と読ませるつもりでした。
国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。
WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第34回:あさのあつこさんという記事 に、こんな風にありました。
詮索好きの仲間が、あさのさんご本人に質したところ、記憶の細部は曖昧であるらしく、あるいは授業担当だったM先生だったかも知れないということのようです。私などの印象では、上のエピソードから彷彿とさせられるのは、亡くなったU先生の面影です。でも、あさのさんの別の文章では、中学時代の事として語られていますし、実のところは謎。いやむしろ、「秘すれば花」なのかもしれません、、、。
私自身はU先生の授業を受け、部の顧問という縁もあって深く敬愛しておりましたが、俳句に関しては、時折句会などに交えていただいたことがあるだけの縁であるM先生に、格別の敬慕の念を抱いていました。
「こごまりて」は決して私の日常の語彙ではなく、長年の農作業と老いのために、肩や背の骨そのものが曲がり、からだが縮こまって小さくなってしまった様を伝えるニュアンスを、より表しているような気がしたのでした。「かがまりて」は「かがんで」という言い回しとさほど遠くなく、それだけにありきたりな感じがしたのですが、、拘泥するほどのものでもありませんね。
季は変わってしまいますが、
というのも作り、添削を仰ぎました。「重たき春」が字余りという指摘をいただいたように記憶しています。「重き春」「春重く」「春重し」、、どれでも言いようにも思いますが、絡みつくような春愁の感じを、字余りで表現してみたかったのでしたが。
いずれにしても、遠い昔のエピソードとなりました。
「モデル」となった「老婆」はとっくに亡くなられ、数えるに第三世代の時代となり、家屋敷は残したまま、都会に出られて幾星霜となりました。年に何度か帰郷し
て草取りや家屋敷の掃除・管理をなさっていますが、庭草の勢いはさかんで、今の季節には枯れムグラ に覆われることになります。
そこで一句。
草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら)
撮影日も雨でしたが、今日の雨はさらに冷たくて、凍える冬が近づいています。
皆様、ご健勝で、、、。