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20年前のベトナム訪問記(7)  [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その7)です


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4.三日目のベトナム
サイゴンを発つ
 8月9日は早朝にホテルをチェックアウトして、タンソンニャット空港発8時の南太平洋航空機で首都ハノイに向かいます。
 早朝のサイゴンは、日中の喧噪とはうってかわって、静寂そのもの。明るく深い透明感に輝く(神々しいなどという言葉を思いついてしまいました)朝日を浴びて、ゆったりとした朝のひとときを、三々五々思い思いに過ごす市民の姿が、ホテルの窓からかいま見えて、心が和む思いがしました。
 ホテルの目の前が、大きな公園で、緑も深いのです。ある人たちは、ジョギングに汗を流し、またある人たちは、太極拳らしきゆっくりとした動きで心身をほぐし、また、またある人たちは、長い棒を手に、武道の稽古か身体の鍛錬に励んでいます。乳母車の母子、ベンチに憩う老夫婦などが、点景となって、「平和」そのものの風景画が、目を飽きさせません。大通りでは、シクロ(人力自転車)引きの大男が、しきりにホテル内の私たちに愛想を振りまき、目配せを送ってきています。
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 もう少しゆっくりと、日常の一こまに触れていたい思いがつきませんが、せかされるようにバスで空港へ。ゴァンさん、ハンさんとも、ここでお別れ。旅先の出会いの常ですが、名残惜しい思いが拭えません。
ハノイヘ
 首都ハノイ。サイゴン以上に、果てしなく遠く隔たった地、という印象の強い都市でした。学生時代、私たちが取り組んだ、何次かにわたる「ベトナム人民支援」カンパは、子どもたちへの粉ミルクや、北爆によって破壊された病院への医療機器となって、ベトナムの人々を助け励ます一端を担ったはずですが、しかし、その支援物資の一部は、運搬中の船がアメリカの爆撃にさらされて、結局ハノイには届かなかったとも聞きました。遠く隔てられた地、ハノイ。
 松本清張はエッセイ「ハノイで見たこと」の冒頭をこう書き出しています。
松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより

松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより

  • 作者: 松本 清張
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1974/02/20
  • メディア: 単行本
三月十九日午後五時、私と朝日新聞の森本哲朗君とはICC(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座った。ベルトを締めたものの、互いに顔を見合わせた。ビエンチャン空港の東の空は厚い雲に閉ざされている。これまでこの空港からだけでも四回この古い四発のストラトライナー機に乗ったのだが、その都度、ハノイの天候が悪いというので飛べなかった。一度などは、ラオスと北ベトナムの国境にあるアンナン山脈の上に出ながら引き返したものである。(中略)
五時半、とにかく、機はビエンチャンの空港を離陸した。とにかくというのは、飛び立っても目的地に行かないことがたびたびだったからだ。コントロールタワーのラジオ・ビーコンが故障するという珍事でも分かるように、この空港は日本のローカル線なみである。その代わりラオス空軍機がいかめしく並んでいる。
飛び立った飛行機は同じ空を旋回するばかりで容易に舞え西住まなかった。蛇行しているメコン河に夕日が映え、河畔のビエンチャンの細長い町も上から眺めるとなかなか風情があるが、その風景が窓から繰り返し回ってくる。機は狭い範囲の空を渦巻きながら、直昇しているのである。
これには理由があって、ある人の話では、山岳地帯上に入ると、ときどきパテト・ラオ軍が射撃するので、それを避けるためにという。米機やラオス政府軍機に爆撃されている彼らは、雲の上の爆音を聞けば何でも撃つのだそうである。(中略)
夜になった空に、翼の右についた青ランプ、左についた赤ランプの光がさえた。この標識が国際休戦監視委員会で決まった「曜日・時刻・コース」などと友に連絡機であることを北ベトナム軍とアメリカ軍の双方に確認させているのである。戦争する当事国の間を細々とつなぐ一本の平和の糸の上をいま、われわれを乗せたICC機は頼りなげに滑っている。戦争に対してジュネーブ協定の無力さを表徴しているような小さな、旧式の飛行機だった。
 この機が必ずしも安全でないことは、数箇月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機まで撃ち落とされそうになったことでもわかる。また、いま乗っている四十過ぎのスチュワーデスの夫はICC機のパイロットだったが、数年前この国境地帯で消息を絶った霧で、撃墜されたか故障によるものかいまだに真相は不明だという。(中略)
七時二十分、窓の下に都市の灯が見えてきた。ついにハノイにきた。紅河らしい黒い帯のふちを車のヘッドライトが一列に進んでいる。家々にも灯がついている。予想に反して灯火管制は行われていない。機はそれらの風景を窓に繰り広げながら舞い降りる。車輪が地に着く軽いショックは、ハノイにきたという全身の手応えであった。
 私たちの南太平洋航空BL792便は、清張氏の乗った四十人乗りオンボロICC機と比べれば格段にましな旅客機ではありますが、きわめて窮屈で旧式、気流の影響をモロに受ける大揺れ飛行に加えて、荷物棚から水漏れがする(冷房装置の影響か?)始末。でも、スチュワーデス嬢も慣れたもので、手早く水を拭き取って、タオルを巻き付けて緊急処置終わり。何度か、肝が冷える思いを経験しましたが、二時間ほどで、無事ハノイに到着。当然のこととはいえ、日本人を含む外国人観光客が、自由に出入りできる都市になっていることは、清張「ハノイで見たこと」の記述を思い返しても、感慨深いことです。
いま、世界の焦点となっているハノイには入国の申し込みが世界中のジャーナリストや作家から殺到し、ハノイの係官の机の上には、以来の手紙や電報がいつも三十センチ以上の高さに積まれているということだった。そのことは一九六六年のクリスマスにハノイにはいったニューヨーク・タイムスのハリソン・ソールズベリ記者も書いている。ソールズベリは、北ベトナム政府に対して執拗にハノイ入りを手紙や電報で頼み続けていたが、クリスマスの近いある日、ついにハノイから一通の招待電報を受け取る。彼はその電報を机の上に置き、タイムスの外報部長と、これがそうでしょうかね、と半信半疑で眺めたものだった。それほど資本主義国からのハノイ入りは困難なのである。
サイゴンからハノイの写真をこちらのリンクに掲載しています。ご覧ください。

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