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20年前のベトナム訪問記(8)  [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その8)です


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4.三日目のベトナム
初めて見るハノイ
 空港には、ハノイでのガイドの若い男性が、にこやかな笑顔で、私たちを出迎えてくれました。内面のきまじめさが、一目で見て取れるこの人は、ベトさん。早速、迎えのバスで、ハノイの市内へ向かいます。ハノイは、雨期のせいでもありますが、ここのところ大雨に見舞われていて、紅河など、河川の水かさも増し、各地で水田や道路、家屋に浸水もあったようです。
 空港からハノイの中心部までの数十分の間、車窓には、どこまでも青々とした稲穂のなびく田園風景が広がっています。広々とした農地のあちらこちらに、点々と、農作業中の農夫や、その家族らしい姿が、目に入ります。農道を水牛を引いて歩む農夫、また牛の背に乗る子どもの姿も、景色にとけ込んでいます。水路は、満々とした水をたたえ、小舟をあやつる人の姿や、釣り竿や網など漁具を手にした家族連れや、少年たちなども、目にとまります。  
 小雨に煙る田園風景の、濃密なまでに潤った緑と、その中に溶け込んだ人々の生活の様子は、取り立てて物珍しい情景ではありませんが、なぜか目と心を引きつけてやみません。私たちのまわりにも、かつては存在していたもの、そしてすでに久しい過去に失われたもの、失われつつあるものが、ここには、確かに命を持って息づいているからかもしれません。物資の豊富さ、生活の便利さにおいては、何歩かリードしているつもりの現代日本のあり方と、人間の生活としてどちらが豊かか、考え込まずにいられません。
「このあたりも、田圃がどんどん減って、宅地に変わってきています。特にこの七年ほどは、開発が急速に進みました。このあたりの農地も、いずれ姿を消すでしょう。」
 空港周辺の農村風景を示しながら語るベトさんの言葉が、複雑な思いを誘います。
こちららのリンクから写真画像をご覧ください。
ハノイの中心部タンロン地区へ
 ベトナム最初の長期政権=リ(李)朝をひらいたリ・タイ・ト(李太祖)は、都のホアルウを出て故郷を訪問する途中、トンビン地区のダイラ(大羅)から黄金の龍が立ち上る姿を見たので、1010年、そこに都をおき、「タンロン(昇竜)」と名付けたと言います。このリ(李)朝のあと、チャン(陳)朝、レ(黎)朝と続く期間、宋、元、明、清の歴代中国からの侵略と対抗しながら、独立を保ったベトナムは、この地タンロンに首都をおいたのでした。
 レ朝衰退後、北部チン(鄭)氏と南部グェン(阮)氏の対立時代が200年も続き、ベトナムは荒廃しますが、1802年グェン・フック・アイン(阮福映)が全国を統一してグェン王朝を建て、国号を「ヴィェトナム(越南)」と定めます。この時、都をタンロンから中部のファスアン(現在のフエ)に移すとともに、807年続いたタンロンの王城は解体され、王都は放棄されます。さらに、二代ミンマン(明命)帝が「タンロン」の呼称を禁じ、一地方都市として「ハノイ」(河内)と呼ばせたのが、今日の「ハノイ」の名の起こりです。
 1888年10月、ドン・カイン(同慶)帝は、ハノイをフランスに割譲。フランス勢力の支配下で、わずかに残されていたベトナムの古都の面影は破壊され、フランス植民地色の濃い街へと変貌したのです。
 次の引用は、小倉貞男「ヴェトナム 歴史の旅」(朝日選書)の一節です。
負け惜しみ的に言えば、ハノイには高層ビルはない。ハノイの森を突き抜ける不細工なビルはない。これはフランス植民地時代にフランス・インドシナ総督府が高層ビルを建設することを禁じたからである。最近、一、二の外国資本のホテルが高い建築物を建てたが、無粋甚だしく、評判は悪い。むかしは、街路樹の梢以上には建築物は姿を見せなかった。「サイゴンを見なさい。アメリカが入ってきて、あんなに沢山高層ビルを建ててしまって---」とハノイ人は口を歪めるのである。悪いことは何ごともアメリカのせいである。
 
 「アジアじゃないね。これは、ヨーロッパそのものですね。」ヨーロッパ行きの経験豊かな、同行の諸氏が、口々に指摘されるとおり、首都ハノイのたたずまいは、煉瓦造りの建物、キュービックな家並み、街路の景観など、確かにヨーロッパの古都の風格を思わせるものでした。そして、その印象のもう一つの原因要素は、コンクリート造りの高層建築がない、ということだったかも知れません。アメリカの影響の最大の同調者=日本の、さらには、たまたま往路に見た韓国の、高層ビルが林立する、何とも居心地悪い光景を思うにつけても、文化の質とレベルの問題について、考えさせられます。
 かつてタンロン(昇竜)城と呼ばれた区画は、前述のようないきさつで、グエン朝、フランス植民地時代を経て、城の面影は失われていますが、現在は、城を守って死んだ二人の英雄の名を取ってグェン・チ・フォン、ホアン・ズュウの名で呼ばれる大通りとなってます。その西に、ベトナム共産党本部、国会議事堂、外務省などの重要機関が立ち並ぶバディン広場が開け、広場の正面に、ホ-チミン廟が見えます。
 ホーチミン廟は、入場時刻が午前11時までと制限されている関係で、建物の外側から見学するにとどまりましたが、広々とした厳粛な空気に包まれた廟の中には、ベトナム革命の指導者ホーチミンの遺体が、静かに眠っているといいます。小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』(朝日選書)には、こう紹介されています。
「ホ・チ・ミンは米国との戦いが頂点に達していた1969年9月2日、この世を去った。三通の遺書を残していた。ホ・チ・ミンは遺書の中で、こう訴えている。
戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母、妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。
戦争に勝ったら、農業税を一年間免除すること。
遺体を火葬にして、遺灰を三つに分け、北部、中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めて欲しい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるような建物、記念に植樹ができるようにしてもらいたい。日がたてば、森林となるだろう。」
「眠っているようだが、いまにもすっとたちあがることができるような、生命が宿っているようだ。正直に言うと、彼の遺言通りに、静かに眠らせたいと思う。聞けばソ連の遺体処理専門家が遺体の処理をしたという。ヴェトナム人の気持ちには合わない。」
ヴェトナム歴史の旅 (朝日選書)

ヴェトナム歴史の旅 (朝日選書)

  • 作者: 小倉 貞男
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2023/08/23
  • メディア: 単行本
 ハノイでの我々のガイド、ヴェトさんは、「ベトナム人は、ホ-チミン主席をホーおじさんと呼んで敬愛しています。この廟に来れば、いつでも会いたいときにホーおじさんに会えます。」と、きまじめに言いいます。本心はどうか、聞いてみたい気もしました。
 ホーチミンが、気さくで気取らない指導者であったことは、様々な立場の人々が異口同音に語っています。チャールズ・フェン著「ホー・チ・ミン伝」(岩波新書)の一節。
ホーチミンの性格には他にも何ものかがあって、他のいかなる最高の政治家にも、(より人間的と見られる二人だけをあげるが)ガンディやネルーにさえ認めがたいものである。それは孔子が「恕」と呼んだものである。正確にそれに対応する言葉は、英語にはない。しいて近い言葉を挙げれば、人間はみな兄弟であると自覚している二人の人間の間のあの反応という意味での”相互関係”である。ホーの本能は頭脳からというよりはむしろ、こころから発するものだったように見える」
「ベルナール・ファルが提起しているように、『ホーはいつも親しく、いつも近づきやすく、いつも本当のおじさんだった。これを毛沢東、または周恩来さえもが持っていたよそよそしさや厳しさと比較すべきである』」(Ⅳマルクスレーニン主義者)
「1967年正月のよく晴れわたったある朝、私たち12人(日、米、仏、オーストラリア人)はホ-・チ・ミン主席とファン・ヴァン・ドン首相に会見するために、ハノイの大統領官邸を訪れた。(中略)私たちが首相と話し合っていると、いまはいって来た正面玄関とは反対の廊下からホー主席があらわれる。みんな一斉に立ち上がって拍手。白人の何人かが近寄って握手しようとすると、ホー主席は笑いながら出された手を払いのけるようにして、皆さんまずお座りなさいという身振りをする。みんなが座るのを見とどけてから、ホーおじさんは立ちあがり、ポケットから名刺大の紙を取り出して、それを見ながら例のユーモアたっぷりに、『ただいまから点呼をやります、名前を呼ばれた人は手をあげて返事をしてください。』という。(中略)みんなが笑う中で、ホーおじさんの”点呼”に『ウィ』『はい』『イエス』の各国語が飛びかう。それが一段落つくと、ホー主席は開口一番、『皆さん、ベトナムへ来て、よく食べていますか、よく眠れますか。よく食べて、よく眠らなければ、良い仕事はできません。』と言う。ホーおじさんの口癖である。」(訳者解説)
ホー・チ・ミン伝 下 (岩波新書 青版 899)

ホー・チ・ミン伝 下 (岩波新書 青版 899)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1974/07/22
  • メディア: 新書
 昨夜見たサイゴンの、カオスに満ちた雑踏とはうってかわって、ホーチミン廟前の広場は、チリひとつない清潔さで、観光客以外には人通りも少なく、深閑として静寂そのもの。周囲を警護する衛兵も、ひときわ厳粛な緊張感を漂わせています。
 「ここで記念写真を写しましょう」というベトさんのすすめで、広場の中ほどの高いポールに掲げられた色鮮やかな国旗を背景に、整列していただき、しゃがんでカメラのファインダ-をのぞき込んでいますと、なにやら衛兵がとがめている模様。ヴェトさんによれば、ここは厳粛な場所なので、しゃがみ込んでお尻を廟に向けるのは不作法ということらしい。厚顔無恥な遊山客を演じてしまった気恥ずかしさとともに、気のせいか「気さくなホーおじさん」とのズレを、どこかに感じたような気がして、一抹の後味悪さを覚えたことでした。
 ホーチミン廟の壁面には、赤い文字でスローガンらしき言葉が掲げられてありました。ヴェトさんの解説によれば、「ベトナム社会主義国家万歳」「ホーチミンは永遠である」の二つの言葉だといいます。
 
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 「それでは皆さん、一緒に発音してみましょう」と、ヴェトさんの先導で、二度三度、みんなで発声してみます。「万歳」のところでは、拳を高く振り上げるアクション付きです。ベトナム語は17の子音に11の母音が組み合わさる上に、6つもの声調(中国語の4声調でさえ難儀ですのに)が区別されるので、私などにはとうてい覚えられません。ただ、ヴェトさんのあとについて真似て発声していますと、なにやら分かったような気になります。特に「万歳」などは、もともと漢語由来ですので、気のせいか、なじみ深くも感じます。
 観光客らしい西洋人のグループが、私たちの一行の様子を、怪訝そうな面もちで窺っています。聞くと、イタリア人のグループで、私たちを、ベトナム人でもなさそうだが、なにやらスローガンを叫んで拳を上げている変な東洋人と、訝しんだようでした。
一柱寺(ディエンフ)・文廟(バンミョウ)
 李朝・陳朝の434年間は、中国の侵略を受けながらも、ベトナム独自の国づくりを進めた王朝であり、愛着を込めて「リ・チャン時代」と呼ばれます。その、リ(李)朝時代に建立された仏教寺院が一柱寺です。
 仏教、道教、儒教は国家として同じ目的に奉仕するとして、儒教の文廟、道教のビックカウ寺と並んで建立されたとされます。池の中に、蓮の花を模して、本堂が一本の柱で支えられています。
 説明を聞かなければ見逃してしまいそうな、こぢんまりとした地味な「スポット」です。 文廟は孔子廟であり、1070年、リ(李)朝により、建立されたもの。1075年、リ・ニャン・トン(李仁宗)は皇太子、王子たち皇族の子弟を修学させるため、同じ場所に修学塾を設立、一年後には宮廷官僚の子弟にも開放して、国子監と称しました。
 これは後に、地方試験に合格した優秀な学生にも門戸を開き、官僚育成の為の教育機関となりました。リ・ニャン・トンは、1185年、入学許可年齢を15歳以上と定めましたが、年齢の上限はなく、白髪の老学生も大勢いたといいます。
 中庭には、亀の背に乗った2メートル近い高さの石碑が建ち並んでいます。ベトナム中興の祖と言われるレ・タイン・トン(黎聖宗)の時代に、科挙試験合格者の栄誉を称えるために建立されたもので、82基の石碑に進士(科挙試験合格者)の氏名と出身地が刻まれています。
 科挙試験には、次の各段階があったといいます。
 ①「郷試」。3年ごとに行われた地方試験で、最初は四書五経からの出題により、漢字の知識が問われる。三回に及ぶ試験に合格すると、「挙人」または「秀才」の資格が与えられ、挙人の資格を得た者だけが上位試験の受験資格を与えられる。
 ②「会試」郷試の翌年に実施され、天子が主催する中央試験。郷試に合格した受験者は、家族・村人の励ましと期待を受けて、筆、硯、ござ、炊事用具、米などを持って、タンロンまで上京してくる。宿泊施設と試験場は、柵で囲まれ、周囲に濠が巡らされて、外部との接触が断たれている。受験者が試験場に入ると、門は閉ざされ鍵がかけられ、一度策をくぐると試験が終わるまで外部に出ることはできい。皇帝から任命された試験官も、兵士によってガードされ、外部との接触を断たれた。四書、五経、春秋左氏伝に基づく問題、皇帝の身になって国家の問題を論ずる、七言絶句や散文を創る、国が直面する政策課題について答える、などの四段階の試験に合格すると「進士」の称号が与えられる。受験者のうち、進士に合格した者の倍率は、平均して61名に3名だという。
 ③皇帝自ら口頭試問を行う「廷試」。皇帝のめがねにかなった者3人に最高位(タムコイ)の称号が贈られ、上位から順にチャングエン、バンニャン、タムホアと呼ばれた。(小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』p60~参照)
 往時は、全国から訪れた学生・受験生でにぎわったであろう文廟・国士監は、折からの小雨に煙り、静寂そのもののたたずまいを今に残していました。  
                       
 
焼き物の町バッチャン
 その日の午後は、ハノイの中心から紅河を渡って対岸にある、焼き物の町バッチャンを見学。バッチャン焼きは、中国の影響をベトナム風に消化・独自化したもので、青磁系の素朴な焼き物が主。古くは13~14世紀から、日本への輸出も行われ、茶人には知られていたと言います。
 旅行前の事前学習会で、日ベト協会の高橋さんが話して下さったとおり、素朴だが味わいのある多彩な焼き物が、安価で販売されており、何よりも、品物を詰めてくれる手編みの手芸袋が、チャーミングでゆかしいので、「ワンモア」とねだったら、売り子のお嬢さんは、にっこり笑って「ツーモア」と言いながら、余分に二つつけてくれました。
 往路・帰路の車窓の風景は、田園あり、水郷あり、煉瓦工場、石炭地帯ありで、見飽きることがありません。雨ににじんだ田園風景の中、ただひたすら一直線に延びる鉄道線路を、ヘッドライトを煌々と照らした列車が、郷愁を帯びて走ります。一瞬かいま見える家屋の周辺や路地裏にも、牛がいて、鶏がいて、子どもたちがいて、老人がいて、隣人同士の語らいがあるようです。
 車窓からの風景だけで、何本ものフィルムを費やしたのは、私だけでもなかったようです。
   
 その夜の ホテルは、ソフィテルプラザ・ハノイ。
 帰国後、インタネットで検索してみますと、「世界の特徴あるホテル」の一つとして紹介してありました。そのコピーをご紹介しましょう。
20階建ての巨大な高級ホテル”ハノイ・ソフィテルプラザ”は、チェック・バック湖とホン川の間に位置し、さらにハノイで最も美しいといわれる西湖をのぞむことができる抜群のロケーションにあります。集客数はハノイでもトップクラスで、各国のVIPが滞在することからもセキュリティーの高さがうかがえます。東南アジア初という開閉自在の屋根付きプールなど施設も充実しており、最高のホテルライフを満喫できることまちがいなしです!
 この宣伝文句が、決して誇大とは思えない、シックで落ち着いたホテルでした。何よりも窓から望める湖畔の光景は、見飽きることがありません。
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 「あの湖は、レマン湖だったっけ」。口々にこんな会話が弾む、ヨーロッパのリゾート地さながら(といっても、私は行ったことも見たこともありませんが)の眺望です。自然の景観がそうであるだけでなく、緑に囲まれた煉瓦造りの建物、また所々に高くそびえる教会風の尖塔が、深い年輪を経てしっくりと風景になじんでいる様は、絵画か映画の一シーンのように、私たちの目をいやしてくれます。
 心残りだったのは、ホテル滞在時間がいかにも短くて、日が落ちてからの夕景、夜景(これは十分見事でしたが)と、翌朝の朝方の一定時間をしか楽しむことができなかったことです。ホテル近辺を散策するいとまもなく、結局私のフイルムには、露光不足の夜景とピンぼけの早朝の景色が残っただけでした。
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つづく
 

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