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月の輪古墳と三笠宮、の巻 [時事]

逝去が伝えられた三笠宮さんを悼んで、地元紙「山陽新聞」の今朝のコラム「滴一滴」にこんな文章が寄せられています。


 ライフワークの歴史研究を通して岡山とは縁が深かった。オリエント史研究者として知られ、「学者殿下」と呼ばれた三笠宮さまが亡くなられた▼(中略)岡山県では、1953年に地域住民ら延べ1万人が参加した月の輪古墳(美咲町)の発掘に関わった。現地の教員宿舎に泊まり、村人と同じスルメを昼食にしながらの作業だった▼後に「月の輪古墳の発掘は、私にとって忘れることのできない懐かしい思い出」と書き残している。岡山市立オリエント美術館開館にも力を尽くした。同美術館の名誉顧問も務め、岡山へは度々足を運んだ
去年のこの記事◇連休末日の「悲劇」三題、の巻に、「月の輪古墳」のことを、少し書きました。一部引用します。


 今日の「これなあに?」をもう一つ。
実家付近から、正面の山を遠望しますと、こんな様子です。





父によると、これが月の輪古墳だそうです。
雑木が生い茂って、変哲のない小山に鹿見えない状態であったのが、最近整備が行き届いて、手軽に見学できるようになったようです。
月輪古墳について、久米郡美咲町のホームページには、
 月の輪古墳・・・4世紀末~5世紀初頭に築造された直径59m、高さ9mの円墳。
と紹介されています。
また、wikipediaによりますと、



 本古墳は、年代からも、内容からも、地域集団の首長の墳墓であると考えられている。
直径60メートル、高さ10メートルの大型円墳で中腹に1メートルの段が設けられ、北側裾に造り出しがある。墳頂の平坦部は直径17メートルで、木棺粘土
槨が2基あった。斜面には角ばった石で葺石が敷かれ、墳頂周囲・段上・裾には円筒埴輪と朝顔形埴輪が並べられていた。

1953年(昭和28年)8月から12月にかけて、岡山大学助手(当時)の近藤義郎を中心に地元の住民や教師、学生らによって発掘調査が行われた。この調査は、周辺地域の関連遺跡と月の輪古墳の全面発掘が行われた。こうして弥生時代以降の生産力の高まり、さらに前期古墳の歴史的性格を理論的実証的に明らかにする道を開いた。この一連の活動・調査は「月の輪方式」と呼ばれ学術的、教育的、また地域運動としても当時の話題となった。この記録は翌1954年(昭和29年)スライドと記録映画となり、文集『月の輪教室』として記録された。古墳は1959年(昭和34年)9月15日に岡山県指定史跡に指定された。
この調査で墳頂部の2基の木棺のうち、中央のものは全長565センチメートルで男性と見られる遺骸と首飾り・鏡・鉄製短甲・革製草摺・刀・剣・鉄鏃・銅鏃
などの副葬品が出土した。南側の木棺は全長310センチメートルで女性と見られる遺骸と首飾り・漆塗竹櫛・鏡・刀・剣・鉄針・石釧などの副葬品が出土し
た。北側裾の造り出しからも木棺粘土槨が発見されたが中からは何も出土しなかった。
これらの出土品は、山麓の飯岡地区に1974年(昭和49年)建造された文化財収蔵庫(月の輪郷土資料館)に収蔵されており、1984年(昭和59年)4月10日に岡山県指定重要文化財に指定された。飯岡地区では毎年8月15日頃「月の輪踊りの夕べ」を開催し、盆祭りのなかで月の輪古墳発掘調査を記念している

とあります。
子どもの頃、この記録映画を観たことがありますし、中学生の頃には、地元の友達と、飯岡地区からブッシュをかき分けてこの山に登り、雑木の中の古墳あとを見たこともあります。
月の輪古墳の発掘は、全国から学者・研究者・学生・学校教師・生徒・地元住民ら、延べ1万人が参加して行われ、地域住民の参加により郷土の歴史をともに学ぼうという画期的な発掘運動で、「月の輪方式」と呼ばれ、全国的に注目されたということは、のちに学びました。

しかし、自分が育った家でありながら、こんな目と鼻の先に月の輪古墳が見えるとは知りませんでした。

子ども時代の淡い記憶にあるこの記録映画について、故近藤義郎岡大名誉教授は、「月の輪古墳(吉備考古ライブラリ1)」の後書きでこう書いておられました。






 あとがき
発掘の翌年、 一九五四年に映画「月の輪古墳(製作共同映画社)が完成し、岡山市表町天満屋葦川(いせん)会館を満員にして行われた試写会は感動的だった。映画は、 その年の教育映画祭において最優秀賞を得ると共に、全国都道府県教育委員会による推薦9の栄誉を受けた。また文部省教育映画審議会は特別選定をもって応えようとしたが、時の大達文部大臣は、大衆が発掘という学問に参加している場面は文化財保護の面から間題がある、支配被文配の意識をあおっているので教育上面白くない、といった理由にならない二つの理由を挙げて選定を拒否した。これは当時ほとんどの新間が取り上げ、三笠宮崇仁さん・ 三上次男さん・阿部知二さんをはじめ多くの学者・作家が抗識を行い、審識会の委員のほとんどの方は辞表を出された。そのお陰で映画「月の輪古墳」は全国に知れわたり、各地で移動映写されると共に、その一六ミリのプリントは空前絶後の売れ行きだったとぃう。
同じ一九五四年、発掘開始の八月一五日を村の祭りの日とすることが決まった。飯岡村はそれまで夏祭りがなかったので、村人は以来「月の輪祭り」を続けている。年や天候によって百人ほどから何百人まで集まりの具合は違うが、話、歌、余興、屋台、ビールなどがあり、そしてかならず「月の輪古墳」の上映と「月の輪音頭」が歌われ踊られる。

ここに飯岡(ゆうか)村と記述されている旧久米郡柵原町(現美咲町)飯岡には、大叔父の家があり、子どもの頃、夏休みなどには泊まりがけで遊びに行ったことがありました。その時の「月の輪祭り」で、この映画を見た記憶がうっすらと残っているのだと思います。当時は、いさささか退屈な、難しい映画という印象だけが残っています。

前掲の「後書き」のつづきにこうあります。


 「月に輪をかく月の輪踊り」に始まる「月の輪音頭」は永瀬清子作詩、箕作(みつくり)秋吉作曲で、東京中央合:唱団によってレコードに吹き込まれた。 これは第一回の「月の輪祭り」に間に合い、永瀬先生や中央合唱団の振り付けの方も来られ、大勢の村人と共に賑やかに楽しい一夕を過ごした。
これまた同じ年に、「月の輪教室」(理論社発行)が刊行された。三笠宮崇仁序文、和島誠一あとがきで、発掘に参加した教師、小学生・中学生・高校生、村人、訪問者、発掘指導者など計六八人が詩や感想や決意を思いおもいに寄せている。

以前、こんな記事で、永瀬さんの詩を話題にしてきましたが、思いがけずこんなところでも永瀬清子さんの名前を目にし、感慨を覚えます。

◇美しい国はいづこぞ紅梅忌

◇牧水余談

◇菊の香に蝶もめいていしたるらん

◇もう一つの11月3日、の巻



月の輪古墳発掘運動と三笠宮さんについての、もう少し詳しい紹介が、「山陽新聞」web版「サンデジ」の10月27日付記事にありました。


 (前略)戦前の皇国史観が崩れ、真実の歴史を求める機運が高まっていた1953年。地域住民ら延べ約1万人が参加した月の輪古墳(岡山県美咲町飯岡)の発掘調査に、三笠宮さまも2泊3日の日程で参加された。
 「専用の宿舎を用意したが、『研究者として来た。語り合いながら勉強したい』と断られた」。中学3年だった角南勝弘さん(77)=元美咲町教育委員長=は、旧飯岡村教育長だった父らに、きっぱりと話された姿を思い出す。結局、発掘を指揮した故近藤義郎岡山大名誉教授らと同じ宿舎に寝泊まりされた。
 岡山大生で調査に参加していた神原英朗さん(84)=元建部町教委文化振興室長=は、現場でみんなと一緒に簡素な弁当を召し上がるなど、ざっくばらんな人柄が印象的だったという。「雲の上の人だと思っていたが、こちらが硬くならないよう気遣っていただいた」
 79年には岡山大の楯築弥生墳丘墓(倉敷市矢部)の発掘調査を訪問。学生だった乗岡実岡山市教委文化財課長は「近藤先生の説明に聞き入り、熱心に質問もされていた。本当に研究が好きなんだろうなと感じた」と振り返る。
 楯築訪問は、岡山市立オリエント美術館の開館式典に合わせたものだった。日本オリエント学会の初代会長を務めた三笠宮さまは、同館の開館に尽力された。(後略)

逝去後に、次々と発表される追悼記事は、それぞれ、宮の生涯と人柄を浮かび上がらせるものが少なくなく、感じさせられるところ大でした。そのうちの一つ、リテラの記事「◇逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判! 日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」と」にこうありました。





 崇仁親王の思いが、皇室と国民の垣根を越える“民主主義”にあったことは明らかだ。たとえば1952年の「婦人公論」(中央公論社、当時)2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に警官が万歳しない人に対して叱りつけたという話を受けて、「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」「同じ人間同しなのですからハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」としたうえで、「これが民主主義の基礎であることはいうまでもありません」と語っている。

月の輪古墳発掘運動の中で垣間見せた「庶民性」「気さくさ」のおおもとには、民主主義への確たる思いが横たわっていたのかと、気づかされるエピソードです。

そして、冒頭に引用したコラムはこう続きます。


▼戦後に始めた歴史研究の原点は、自らの戦争体験だったのだろう。以前、NHKのラジオ番組に出演してこう語っていた。「第2次大戦前に陸軍がもう少し科学的な判断を下していれば、歴史もまた違ったと思う。歴史の研究が十分でなかった結果ではないか。やはり歴史の研究は大事だと思う」▼陸軍軍人として中国に赴き、そこで見聞きした戦地の実情を著書などで明かした。軍部を批判すると同時に、戦争の罪悪性を十分に認識していなかった自身への後悔もつづった。その平和への思いをしっかりと受け継ぎたい。

同感です。

三笠宮さんの発言や人となりを伝える数々のエピソードにふれ、いろいろと思うところがありましたが、また機会を改めて話題にすることにします。



2才前の保育園児が、身体のあちらこちらに水泡を出し、午前中ママがお医者さんに連れて行き、午後は私が預かりました。妻がパートから帰るのは3時頃ですから、正味3時間、特別の親密な孫守の時間です。お医者さんの診立ては、手足口病だろうということですが、いずれにしても、体中の患部がかゆかったり痛かったりするらしく、すこぶる機嫌が悪くて、ずっと抱っこです。家の中ではすぐに退屈し、抱っこでの散歩、乳母車での散歩、自転車のベビーシートに乗せての周辺巡回、等々、片時も手が離れません。

というわけで、今日は、午前中、ウルトラスーパーのプチ散歩を済ませました。しかも冷たい雨に降られて、早々に退散した次第。

が、そんなときに限って、出会いに恵まれたりします。















雀かと思いましたが、動きが少し違うように思って念のために撮影してみると、、、、

ノビタキ♀でしょうか?

今日はここまで。






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majyo


ご実家ですが 良いところのようですね
古墳とは知らなかったのですか
見えなかった宝ですね
三笠宮さまエピソードは、好感の持てるお話ですね
歴史認識もしっかりされた方のようでした
亡くなって色々と知りました
by majyo (2016-10-28 19:47) 

hatumi30331

歴の上に・・・今があるのよね。^^

お疲れさま。
お孫ちゃん、早く直ると良いね。
野鳥にも会えて〜良かったね。
モズにも会えてないよ〜^^;
by hatumi30331 (2016-10-28 19:58) 

kazg

majyo 様
別の方角から見える古墳は認識しており、実際に頂上まで登ったこともあるのですが、我が家からいつも見えている山がそれだとは、気づかずにいたのです。
三笠宮さんのエピソード、亡くなってから知ることがたくさんありました。
by kazg (2016-10-28 21:14) 

kazg

hatumi30331様
ありがとうございます。
今日の小鳥はラッキーでした。
モズは、電線には止まって高鳴きしていますが、はっきり姿を写せる距離では、なかなか会えません。
朝焼け。見逃しています。散歩に出かけるのが遅いので、、、。
by kazg (2016-10-28 21:20) 

馬爺

おはようございます。
身体が痒くなると大人でも我慢できませんからね、大変ですね。
でもお孫さんを抱っこして散歩もいいもんでしょ。
お大事にしてあげてください早くよくなりますようにね。
by 馬爺 (2016-10-29 08:22) 

kazg

馬爺様
ありがとうございます。
>抱っこして散歩もいいもんでしょ。
はい。いつまでもできることでもありませんからね。
by kazg (2016-10-29 19:45) 

momotaro

月の輪古墳!ネーミングがいいですよね
その後の発掘調査の模範となったのですね
三笠宮様の民主的な関わりといい、二重三重の意味で貴重な遺跡ですね
それがご実家のすぐ近くとは!
by momotaro (2016-11-01 10:55) 

kazg

momotaro様
子どもの頃にはさして自覚もしていませんでしたが、今思えば郷土の貴重な財産、誇りというべきものです。
by kazg (2016-11-01 19:30) 

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