続 今日のメモ、の巻 [日録]
ある冊子に投稿する約束の文章が頓挫し、こんな言い訳を書いています。
年末に私を襲った突然の「悲劇」のことから書き起こすことをお許しください。
約束のこの文章を、年内には仕上げねばと、パソコンに向かっていた最中にそれは起こりました。古いデータを参照しながら書き進むうちに、突如PCが反応しなくなり、制御を失いました。万事休して、電源ボタン長押しで強制終了させ、再起動してみると、ウィンドウズは立ち上がるものの、重要ファイル保存用のHDDが認識されず、ファイルへのアクセスが不能になってしまっています。
思いつく限りの復旧努力を、できる限り自力で試みるも、効なし。意を決して、パソコンショップへ駆け込み、修理依頼・データ復元を依頼することにしました。相応の代金はある程度予想もし、覚悟もした上でした。後日、ショップから電話があり、自店では認識不能・修理不能なので、より高額な代金が予想されるが、専門業者に委託しての修理を希望するか否かの問合わせでした。これまで蓄積したわが分身とも言えるデータを、みすみす失うに忍びず、データ復元を優先することにしました。重篤患者が高度医療を選択する心境にも似ていましょうか。
数日後、専門業者からの電話では、重度の物理的故障と考えられ、まずは部品の調達からはじめて機械的な修理を施した上で、救えるデータは救うという作業が必要で、見積額二十万円強とのこと。このまま作業に入るのかここで中断するのか、返事が必要だが、年末年始なので、遅れると年明けの対応になる由。さすがに想像を超えた高額なので即答できず、いったん電話を切った後、熟考しましたが、消えたデータを新たに作り直すのは困難至極なので、やはり、作業を依頼することにしました。止まるも涙、進むも涙!です。データがどの程度救えるかも予測できないが、いずれにせよ作業は年明け以降とのこと。この原稿執筆には間に合いません(トホホ)。
文章の不出来は、こうした窮状のなせるわざと、寛容なお心で読み流してくださるよう、あらかじめお願い申し上げます。
PC故障と一口で言うものの、正確にはデータを保管しているHDDが一台壊れたというだけで、他の部分は無事(?)なので、パソコン作業そのものが不可能になっているわけではありません。ただ、ショックのため意欲喪失状態に陥っているのが実情。そうは言っても、データ復元ができると否とに関わらず、まったく何のPC作業もしないというわけにもいきませんので、ぼつぼつやれる範囲ではじめているところです。
さて、ブログの方も、ぼちぼちマイペースで再開して行きたいと思います。まずは久しぶりの深山公園散歩写真。
エナガに会いました。
コゲラです。
ジョウビタキ♀。
これなあに??
コサメビタキでしょうか???
赤松池をのぞいてみると、、
オオバン。
オナガガモ。
ヒドリガモ。
のどかに日光浴するヒドリガモ。
アメリカヒドリも見つけました。
そして、ナポレオンハットのヨシガモ発見。
師走も深まり、冬至も過ぎ、クリスマスも過ぎて、子どもたちも冬休みに入り、。「よいお年を」の言葉が頻繁に交わされる日々。まさに年末年始真っ只中となりました。
皆様、よいお年を。
今日のメモ、の巻 [日録]
メデタイ、の巻 [味覚、食材]
コロナの収束がいまだ見通せない中、不安を抱えながら今年も受験生諸君が厳しい試練に挑む時期となりました。
我が家でも、一番上の孫が今年大学受験で、先日「本命」の学校へ、飛行機で受験旅行に行ってきました。
その結果発表が吉と出て、家族一同ひとまず安堵です。
お祝いにと、ムコ殿が、こんな見事な鯛とチヌ(黒鯛)を持ってきてくださいました。
鯛の方は、体長60cm以上、重さ2.5kgもありました。こんな大きな鯛見たことありません。
お相撲さんのように鯛を持った写真を撮っては?とのお勧めでしたので、早速居眠り中の彼を無理に起こしてパチリ。家族ラインでみんなに知らせました。
重くて腕がしびれ、長く持つのが困難な様子でした。
このムコ殿、実家が海に近く、また果樹・農産物にも恵まれた土地なので、いつも、珍しく立派な海鮮や野菜や果物を、あれやこれやと下さいます。
古い記事でも、こんなことを書きました。
ダビンチョとは誰のことかと気にかかり(2013-08-19)
「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」(斎藤緑雨)という句がありました。文豪Goetheのドイツ語読みは、なかなか片仮名表記が難しいでしょう。
ところで、「ダビンチョ」なるものの正体をご存じかな?
実は、この春結婚した娘が、嫁ぎ先のご両親から、サザエに似た小型の巻き貝の塩ゆでを、他の、旅行土産と一緒に戴いた由で、お裾分けしてくれました。
サザエそっくりの食感で、より濃厚な味覚のこの貝の名を「ダビンチョ」というらしい。イタリア系または、イスパニア系の命名に違いないと、密かに推理したのですが、、、。
気になりましたので、ネット検索してみましたが、どうもピタリとした解説にヒットしません。あれこれ検索するうちに、「スガイ」(酢貝)という貝の別名に「ダビ」というものがあるらしいことにたどり着き、「これだろうか?」と目星をつけたところです。
ヒラメとマゴチとカキとケリ の巻(2015-01-10)
午前中、娘のおムコさんが、突然訪ねてくれて、「知り合いの漁師さんにいただいたから」と、 発砲スチロールのトロ箱一杯の魚介を届けてくれました。
上に牡蠣、下に魚が入っているとのことでしたが、いざあけてみるとびっくり。
殻付きの牡蠣がたくさん入った下に、
大きな魚が二匹。
おそらく、マゴチと、ヒラメでしょう。
比較対象がありませんので、大きさがわかりにくいでしょうが、顔だけでもでかいです。
身重なる娘と囲む牡蠣の鍋(2015-12-15)
婿殿の出身地は、「日本のエーゲ海」と呼ばれる牛窓です。
農作物も海産物も豊かな土地ですので、時々お裾分けをいただきます。時に牡蠣がシーズンです。
昨日も、帰りに殻付きと、むき身の牡蠣をたっぷり持たせてくれました。
話の成り行きで、わが家で牡蠣鍋でもして、夕食を共にしようかということになりました。
婿殿も一緒にと思いましたが、仕事で帰りが遅くなるようなので、娘だけわが家にやってきました。
牡蠣鍋の味付けは、私の無手勝流。レシピなしの行き当たりばったりです。酒粕と味噌味を基本にしてみました。さすがに素材のなせるワザで、美味。娘にも好評でした。
湯気で鍋が見えません。
白菜、大根、人参など、野菜は、ほとんど先日、田舎から持ち帰ったもので、紛う事なき地産地消です。
表面の白菜をちょっと除けて、ぷりぷりの牡蠣の姿も少しだけお見せしておきます。底の方に、もっとたっぷり隠れているのですが、、、。
鍋にはむき身の牡蠣を使いました。近所に住む長男一家にもたっぷりお裾分けし、豪勢な牡蠣三昧です。
一方、この殻つき牡蠣は、今日、レンジでチンして食べました。レモンの汁をちょっと搾れば、これも贅沢なご馳走でした。
俎板に収まりきらぬ鯛の顔(2017-05-09)
当ブログに、「味覚、食材」というカテゴリーをたてていたことを思い出しました。
(中略)
この巨鯛は、長女のムコドノが、知人の漁師さんにいただいたお魚のお裾分けだと、昨日持ってきてくれました。
写真では大きさがわかりにくいでしょうが、そばにある大振りな湯飲み茶碗や、台にしているまな板と大きさ比べをしてみると少しは推測がきくでしょうか?
この鯛も見事でしたが、その上を行く巨鯛と思えました。
大阪の放火によると見られる火災事件のニュースを聞きながら、幸せ自慢も気が引けるのですが、とりあえずご報告まで。
霧、の巻 [折々散歩]
年々、欠礼はがきをいただく機会が増えましたが、今年はなんと、二十通以上になりました。いずれもご身内の方の不幸に関するお知らせですので、謹んでお悼みする思いに軽重はないというものの、かつて深いお付き合いをいただき、その後久しくご無沙汰が続いている方が、思いがけなくも逝去されたとの報を、ご家族の方からいただくようなケースが重なり、気が塞いでいます。
なかでも、ずっと以前、同じ職場で五年ほどの間、毎日仕事をともにし、折に触れては食事会や家族旅行などもご一緒させていただいた同僚(先輩)で、三十数年も賀状のやりとりだけでお目にかかる機会のなかった今年のうちにあいついで亡くなられた由。心に霧がかかったように、寂寞の思いを抑えることができません。
放射冷却の影響か、深い霧が一面を覆い尽くす朝が、最近、しばしばあります。朝散歩も見通しがききません。
霧の中の鳥。
散歩中のコガモです。
霧の中の花。
ぐっしょり露を帯びた皇帝ダリアです。
最近の朝散歩での鳥写真を載せます。
まずは、スズメ。
ムクドリ。
ツグミ。
ハクセキレイ。
モズ。
ハトの群れ。
アオサギ。
ダイサギ。
次は、朝の花です。
赤いボケ。
散歩道のバラ。
菊いろいろ。
サザンカ。
今日の付録。
久しぶりに見たヌートリア。
有害外来生物として駆除対象になっていますので、個体数は減っているようですが、「健気に」生き延びているようです。
今日はこれにて。
9の日は今日も快晴、の巻 [日録]
開戦記念日の翌日の今日は、「9の日」です。
アベ・スガ政治による修復不能な国民との矛盾を、躍起になって取り繕おうと、「国民の声を聞く」「新しい資本主義」「新自由主義からの転換」など「リベラル」「ソフト」な姿勢を装って登場したキシダ新政権ですが、昨日から始まった国会論議を聞く限り、衣の下のヨロイは隠せないご様子。特に、スガさん以上に改憲・軍拡に前のめりな点は要警戒です。アベ一族や日本会議への配慮・サービスというにとどまらず、維新など補完勢力をはじめ、広く野党も取り込みながら、虎視眈々と改憲発議の機をうかがっていることを黙過するわけにはいきません。
わが地元九条の会は、毎月九日、午前九時から、「九の日行動」を実施しています。うっかり忘れていて終わった後で気がついたり、よんどころのない用事が重なったりで、参加しそびれることもままあるのですが、今日は忘れず行ってきました。
最近ぐずついた天気が続いていたのがウソのように、今日は一転上天気。皆勤で行動に参加して下さっているAさん(91歳)が「晴れ男」なのか、「九の日行動」はいつも晴れます。早朝は冷え込んではいましたが、空は一面、抜けるような青空。陽射しが出ると暖かく、風もなくてよいお天気になりました。
のぼり旗には「安部9条改憲NO」とあったのを、安部を菅に、そして今度は岸田に書きかえてのアピールです。
余りに心地よいので、このあと少し遠回りして、散歩して帰りました。
苅田に日が射して、のどかな田園風景が広がります。
真ん中のあたりをトリミングすると、、、、
アオサギが写っています。
きょうはこれにて。
コロナの合間に理知の光を考える、の巻 [私の切り抜き帳]
昨日の記事の終わりに「津山の洋学を彩るもう一人の立役者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門についての話題は次回に。」と書きました。
「城東町並み保存地区」の一角に箕作阮甫旧宅という表示があり、家屋の内部を見学できます(無料)
阮甫とその一門の業績が紹介されています。
阮甫については、洋学資料館のこのページにも端的な紹介があります。http://www.tsuyama-yougaku.jp/mitukurigennpo.html
箕作阮甫
(みつくり・げんぽ)1799-1863
津山西新町で代々町医師を営む家に生まれる。父の代から津山藩医に取立てられた。京都に出て医学を学んだ後、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研さんを重ねる。幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。
彼の子孫にも有名な学者が多い。
コロナの合間に訪ねた津山でしたが、この箕作阮甫、感染症とのたたかいに深く関わっていたことを、改めて教えられました。当時猛威を振るっていたのは天然痘でした。
http://www.tsuyama-yougaku.jp/Vol34.html
Vol.34 阮甫とお玉ヶ池種痘所
▲お玉ヶ池種痘所跡に建つ碑と種痘の様子
(『種痘伝習録』津山洋学資料館寄託資料)
江戸時代に猛威を振るった伝染病の一つに天然痘があります。感染しやすいうえに死亡率が高く、古くから不治の病として恐れられていました。
1796年、イギリスの医師ジェンナーは牛痘(牛の天然痘)を人体に接種してその後の感染を防ぐ牛痘種痘法を発見します。この方法はとても効果があり、蘭方医たちの間に知識が広まっていました。しかし、肝心の痘苗の効果が日本まで運ぶ途中に失われてしまうのです。何度も失敗を繰り返して、嘉永2年(1849)にようやく痘苗が長崎へ届けられました。
種痘の実施には、西洋医学に不信を抱く漢方医たちの反対もありましたが、わずか半年で各地に広められていきました。津山でも嘉永3年(1850)に藩医の野上玄雄らが種痘を始め、万延元年(1860)には二階町に種痘所が開かれます。
一方で、漢方医たちの抵抗が特に強かった江戸では、なかなか種痘が広まらずにいました。安政4年(1857)6月、津山藩医の箕作阮甫は蘭方医の伊東玄朴、戸塚静海らとともに大槻俊斎の屋敷に集まり、江戸にも種痘所を設立しようと相談します。
2カ月にわたる協議の結果、勘定奉行の川路聖謨に協力を依頼し、川路の名前で幕府に願書を提出することになりました。川路は、ロシア船が来航して阮甫が長崎に赴いたときの上司で、海外事情にも詳しく、阮甫をとても信頼していました。種痘所の設立には、この二人の信頼関係が大きな役割を果たしたと考えられます。
翌年1月に設立が認可されると、江戸や近郷の蘭方医が資金を出し合い、薬商人の援助を受けて、5月7日に神田お玉ヶ池にあった川路の拝領地に種痘所が開かれました。そのとき、阮甫は先頭に立って尽力したようで、設立人の名簿には筆頭に名を連ねています。
お玉ヶ池種痘所は開設してわずか半年後に大火で焼失しますが、場所を移して活動を続けました。万延元年(1860)には幕府の直営となり、西洋医学の学校兼病院として発展し、明治10年(1877)に東京大学医学部となります。阮甫は東大医学部の始まりにも深くかかわっているのです。
旧弊な陋習を廃して、理知の光で道を照らすことの尊さを改めて感じます。
ところで今日は12月8日。日米開戦の日です。
地元紙「山陽新聞」の昨日(12月7日)付コラム「滴一滴」に共感しました。
終戦記念日の8月15日は知っていても、米国や英国との無謀な戦争が始まった「開戦の日」を心に留める人は少ないのではないか。1941年12月8日、日本軍が仕掛けた真珠湾攻撃により、太平洋戦争が始まった▼奇襲に参加して戻らなかった5隻の特殊潜航艇の乗組員9人の名前を大本営は大々的に発表し、新聞は「九軍神」とたたえた。岡山県出身者も含まれ、本紙の前身である合同新聞には「不朽の偉勲」などと最大級の賛辞が並ぶ▼国民の戦意高揚を図るため、大本営は戦果を過大に発表する一方、都合の悪い事実はひた隠しにした。実は乗組員はもう1人いた。徳島県出身の酒巻和男さんが捕らえられ、捕虜第1号となっていた▼手記によれば、「捕虜は死すべし」との呪縛を解くきっかけとなったのは収容所で手にした現地の新聞だった。辞書を引きながら読み、米軍の局地的な敗北や政府批判の声までも伝える報道の自由さに驚き、「思慮のある日本人になろう」と決意したという▼後から収容所に入ってくる日本人に命の大切さを説き、覚えた英語で米軍とも交渉した。戦後はトヨタ自動車に入り、ブラジル現地法人の社長などを務め、81歳で生涯を終えた▼昨年復刻された酒巻さんの手記を読みながら、メディアの責任の重さをかみしめている。あす、開戦から80年を迎える。
これまた理知の光の大切を考えさせるエピソードです。
今日のTVニュースでは、こんな話題が流れていました。
80年前、太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃でただ1人、アメリカ軍に捕らえられて「捕虜第一号」となり、復員後は愛知県豊田市で暮らした酒巻和男氏の激動の生涯を伝える石碑が、極秘の訓練所があった愛媛県伊方町で披露されました。
元海軍少尉の酒巻和男氏は、80年前の真珠湾攻撃でほかの9人とともに小型の潜水艦で出撃した際、ただひとり生き残り、アメリカ軍に捕らえられました。
4年におよぶ捕虜生活のあと復員してからは、愛知県豊田市で暮らし現在のトヨタ自動車で働きました。
命を落としたほかの9人は「九軍神」と称賛され、極秘の訓練地があった愛媛県伊方町に慰霊碑が建てられています。
今回、この隣に新たに建てられた石碑には、酒巻氏が仲間とそろって写った写真がはめ込まれました。(以下略)
今日はこれにて。
コロナの合間に洋学を見学、の巻 [折々散歩]
昨日の記事のつづきです。
「ようがく」と入力すると「洋楽」と変換されてしまい、「洋学」と訂正するのに手間がかかります(さすがに今日は、IMEの学習効果のおかげか。一発変換してくれます(笑)
今日の話題は、「洋学」です。
「洋学」といえば、即座に「蘭学」が連想されます。
「蘭学」と言えば「解体新書」(ターヘルアナトミア)が心に浮かびます。以前、こんな記事を書きました。
ウにサギに スズメにヒバリ フルヘッヘンド(2013-09-10)
杉田玄白というと「解体新書」(ターヘルアナトミア)ですか?小学校だったか中学校だったかの教科書で、「フルヘッヘンド」という言葉を翻訳する苦労を描いた文章を読んだ記憶がありました。そうそう、菊池寛の「蘭学事始」でしたね。
「青空文庫」から引用しておきます。
彼らは、眉、口、唇、耳、腹、股、踵などについている符号を、文章の中に探した。そして、眉、口、唇などの言葉を一つ一つ覚えていった。
が、そうした単語だけはわかっても、前後の文句は、彼らの乏しい力では一向に解しかねた。一句一章を、春の長き一日、考えあかしても、彷彿として明らめられないことがしばしばあった。四人が、二日の間考えぬいて、やっと解いたのは「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」という一句だったりした。四人は、そのたわいもない文句に哄笑しながらも、銘々嬉し涙が目のうちに滲んでくるのを感ぜずにはおられなかった。
眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。
むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。
四人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」
四人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申(さる)の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。
「解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつま)れば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ」といった。
四人は、手を打って欣びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲(と)るよりも勝(まさ)っていた。
解体新書と言えば、吉村昭「冬の鷹」がありました。これは、前野良沢にスポットを当て杉田玄白、平賀源内の、三者三様の生き方が描かれていておもしろい。
良沢のことば、「人の死は、その人間がどのように生きたかをしめす結果だ。どのように死をむかえたかをみれば、その人間の生き方もわかる」一応メモしておきましょうか。
「解体新書」は、ドイツ人J.クルムス著『解剖図譜』"Anatomische Tabellen"第3版のオランダ語訳書"Ontleedkundige Tafelen" を、杉田玄白・前野良沢らが苦心の末日本語訳して刊行したもので、日本初の西洋医学翻訳書として知られています。
が、それは、解剖学・外科の分野を扱ったもので、内科の分野では、江戸詰の津山藩医宇田川玄随(うだがわ げんずい、号は槐園(かいえん)がオランダ人ゴルテルJ.de Gorterの内科書を翻訳した「西説内科撰要」が最初とされます。
津山洋学資料館のホームページから、関連箇所を引用します(ww.tsuyama-yougaku.jp/Vol3.html)。
『解体新書』を出版した杉田玄白が活躍していたころ、津山藩の江戸屋敷に宇田川玄随(槐園)という藩医がいました。
(中略)
この宇田川玄随が、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)の刊行を開始したのは、寛政5年(1793)、39歳のときでした。
日本の医学は古くから中国の医学を基礎に発達してきたので、それを信じて疑わない漢方医たちは、新しい西洋医学に強く反発していました。もちろん、玄随も最初はその一人でした。しかし、杉田玄白らの蘭学グループと交流したことにより西洋医学を志し、10年もの歳月をかけてこの内科書を翻訳したのです。
出版したとき『解体新書』の刊行からすでに19年経っていましたが「西洋医学とは外科だ」と言われるほど、西洋内科に関する知識はほとんどありませんでした。この書の刊行によって次第に知識が広まり、西洋内科の専門医が生まれることになったのです。
では、この事業をやり遂げた玄随とは、一体どのような人物だったのでしょう。『西説内科撰要』の序文には、中国のことわざなどが巧みに引用されています。また、残されている手紙を読んでも、文章や用語、筆使いとも群を抜いていて、大変な勉強家だったことがうかがえます。杉田玄白も『蘭学事始』で玄随のことを「漢学に詳しく、非常に物知りな人である」とか、「もともと秀才で、その上根気強い人なので、彼の研究は大変進んだ」と高く評価しています。
『西説内科撰要』は18年をかけ、3巻ずつ6回に分けて刊行されました。しかし、惜しくも玄随は、最初の出版から4年後、刊行半ばに43歳で世を去ります。そのため、その後の刊行は養子の玄真によって引き継がれたのでした。
津山洋学資料館の前庭には、宇田川玄随をはじめ、養子の玄真(げんしん)、そのまた養子の榕菴(ようあん)と続く宇田川三代のブロンズ号が見学者を迎えてくれています。
同ホームページから関連部分をひきつづき引用します。
http://www.tsuyama-yougaku.jp/untitled20.html
○洋学の家 宇田川(うだがわ)三代
宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、玄随のとき蘭方医に転向しました。玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕菴へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といい、その功績は明治以降の近代科学の発展に大きな影響を与えました。
宇田川玄随(槐園) 1755年(宝暦5)~1797年(寛政9)
~初めて日本に西洋内科学を紹介 津山に蘭学をもたらす~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
津山藩医・宇田川道紀の長男に生まれ、槐園と号しました。
初めは漢方医として蘭学を嫌っていましたが、25歳のとき幕府医官・桂川甫周や仙台藩医・大槻玄沢から西洋医学の正確さを教わり蘭方医に転向、大槻玄沢や杉田玄白らについて蘭学を修めました。
桂川甫周のすすめに従ってオランダの医者ゴルテルの『簡明内科書』を10年かけて翻訳し、日本初の西洋内科学書『西説内科撰要』を著述しましたが、刊行途中に43歳で亡くなり、養子の玄真が遺志を継ぎました。
杉田玄白は回想録「蘭学事始」の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。
津山に蘭学をもたらした先駆者です。
宇田川玄真(榛斎) 1769年(明和6)~1834年(天保5)
~翻訳力は当代随一 蘭学中期の立役者~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
伊勢の安岡家に生まれ、江戸で大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。杉田玄白にその才能を見込まれ養子になりますが、身を持ち崩したために離縁されます。のちに苦学して再起し、稲村三伯を手伝い日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』の編さんに従事しました。寛政9年(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぎ、榛斎と号しました。
西洋の解剖科や病理学、生理学まで紹介した『医範提綱』や、薬学書『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』などを著して、全国の医師を指導しました。また、幕府天文方の蕃書和解御用(外国文章翻訳の仕事)にも出仕しました。
箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの蘭学者を直接育成したことから、「蘭学中期の大立者」と称されました。
膵臓の「膵」やリンパ腺の「腺」という字(国字)をつくったことでも知られています。
宇田川榕菴 1798年(寛政10)~1846年(弘化3)
~近代科学の確立に貢献 江戸時代最高の化学者~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
大垣藩医の江沢養樹の長男として江戸に生まれ、14歳で宇田川玄真の養子になりました。のちに馬場貞由についてオランダ語を学びました。
日本初の本格的西洋植物学書『植学啓原』や日本初の本格的な化学書『舎密開宗』を著し、近代科学の確立に大きな功績をあげました。
さらに、オランダの地理や歴史、西洋の度量衡の解説書や西洋音楽理論書、コーヒーについてまで、幅広い分野にわたって研究しました。オランダ語の書物をもとに、大量の下書きや模写も残しています。シーボルトとは江戸で親しく交流しました。
「細胞」「繊維」「葯」「柱頭」「酸素」「水素」「酸化」「還元」「温度」「圧力」などの植物・化学用語を造語し、「珈琲」の当て字をした人物として知られています。
好奇心が旺盛で、語学力や文才・画才にたけた榕菴は、魅力あふれる江戸時代の蘭学者です。
上に記事に登場する緒方洪庵(おがたこうあん過去記事で話題にしたことがありました。
重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)
足守と言えば、かつて従弟が、縁あってこの地に赴任していたことがあります。赴任したての頃、「いいところですよ」と「緒方洪庵、木下利玄、メロン、蛍」などの自慢をしてくれた記憶があります。
緒方洪庵は、幕末の蘭学者。この地の下級藩士の子として生まれました。大阪、長崎で学び、大阪に「適塾」をひらき、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末・明治維新の時代に活躍した多くの人材を育てました。
司馬遼太郎は、その作品「花神」の中で、こう書いています。
なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。
足守の先は吉備路の紅葉かな(2014-11-08)
そしてシーボルトに関連してこんな記事も書きました。足守と言えば、もう一人、歴史に名を残す偉人があります。
江戸時代の医師、蘭学者として知られる緒方洪庵が、この地の出身です。
洪庵は、適々斎とも名乗り、大坂に適塾(適々斎塾)を開き、福沢諭吉ら多くの人材を育てました。
種痘の普及にも尽力して天然痘治療に貢献するなど、日本の近代医学の基礎を築いたことで知られています。
その緒方洪庵の誕生の地を、初めて訪ねてみました。
矢印に沿って歩きますが、最後の0.1kmの表示の先が、どう進んで良いのかわかりません。
看板の脇をこんな道路が走っており、「洪庵トンネル」というトンネルがありましたので、これをまっすぐ通り抜けてみました。
でも、とても0.1kmとは思えない長さでした。出口まで歩いてもそれらしいものは見つかりませんので、すごすご引き返しました。
「この先行き止まり」とある表示がありましたので避けたのですが、よく見ると自動車が通れないという意味らしい。
その細道を少々歩いて見ますと、なんだ、すぐそこにありました。
白黒画像になっているわけは、カメラ(pentaxq7)
の設定ダイヤルが勝手に回って、モノクロ設定になっていました。便利なダイヤルですが、摩擦によってダイヤルが回り、設定が変わるのは迷惑です。その都度
確かめればいいのですけれど、うっかり何枚か写して気づくことが多いです。設定ミスに気づいて、 カラー撮影に戻しました。
大きなブロンズ像と顕彰碑が建てられています。この碑の下には、洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているそうです。
ん?健忘斎?の巻
いつも通る商店街のあちらこちらに、「オランダ通り」と書いた旗が掲げられています。
RICOH gx200で撮影。
オランダ通り商店街のページにはこうありました。
●オランダ通りは岡山県の中心市街地、表町商店街のアーケード通りに平行して位置する南北1km程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいます。
●オランダおいねとゆかりの深い場所であることから「オランダ通り」と名称がつけられました。
●平成10年(1998年)には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先の街路に変身しました。シーボルトの娘楠本 イネ(「オランダおいね」)は、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られます。彼女と。この「オランダ通り」との縁については、岡山県立図書館提供のレファレンズに詳しい紹介があります。
質問
(Question)オランダ通り(岡山市)について知りたい。
回答
(Answer)オランダ通りがある岡山市表町に関する資料『岡山表町飛翔記』及び表町の開発計画を記す『商業近代化地域計画報告書』によれば、オランダ通りは 江戸時代長崎県出島のオランダ商館医であったドイツ人医師シーボルトと楠本お滝との間で生まれた娘、楠本イネ(俗にオランダおいね)にちなんで名付けられた。
楠本イネについては『岡山県歴史人物事典』に記事があり、また石井宗謙との関係で『勝山が生んだ人物略伝』などにも記述がある。それによればイネはシーボルトの教えを受けた蘭学者たちの支援を受けて長崎で成長し、19歳になると、現在の岡山市内に移り住み、シーボルトに学んだ石井宗謙のもとで産科医を学び始めた。この間6年あまり岡山で過ごす。この石井宗謙の居宅があった通りがこのオランダ通りであった。やがてイネは石井宗謙との間で子どもをもうける。しかし、この妊娠は本人の意志ではなかったようで、身重にもかかわらず、直後に岡山を離れ、故郷の長崎に帰っている。彼女はその後、開国後来日した父シーボルトと再会を果たすとともに、明治になると東京に移住、産科医として活躍した。この楠本いねについては司馬遼太郎『花神』でも取り上げられている。
一方、商店街の再開発については『商業近代化地域計画報告書』で様子が分かる。それによれば表町商店街は1970年代から再開発の議論が頻繁に行われるようになっていた。そのような中、岡山地域商業近代化委員会によって出された1986(昭和61)年の「商業近代化地域計画報告書」で、オランダおいねにちなんで、オランダというテーマで町を再開発する計画が示される。ちなみに議論が行われていた1970年代後半の77(昭和52)年には『花神』がNHK大河ドラマに取り上げられている。
計画でのオランダ通りのテーマは「オランダを感じさせ、人々が集い親しめるまちづくり」で、通りを北から南へ「芸術」「ファッション」「大衆」「庶民」性のある四つのゾーンに分けて整備を行うことになっていた。そして実際の整備は『岡山表町飛翔記』に記事があり、1990(平成2)年のオランダ風の外壁を持った「エターフェビル」の完成などを経て、1999(平成11)年の「オランダ東通り」の完成で終了している。
津山の洋学を彩るもう一人の立役者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門についての話題は次回に。
今日はこれにて・・・
コロナの合間に出雲街道を歩く、の巻 [折々散歩]
出雲街道を(ちょこっと)歩いてきました。
こんなバスに連れられて・・・
年金者組合地元支部が主催する2年ぶりのバス旅行が、先日の土曜日実施され、参加してきました。コロナ禍のもと、このような企画はしばらく自粛中でしたが、感染の波も静まりつつある状況を受けて「再開」されたもの。
それにしても、このたびの新型コロナ感染症、わが岡山県は、感染者数自体は決して目立つ数字ではありませんが、それはもちろん人口規模が小さいためにほかなりません。
一日ごとの感染者数、人口規模の割には、深刻な状況が続きました。
10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の数値を記録し、日によっては、全国ワースト1に躍り出たことも少なくありません。
10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の高い数値を示しています。日によっては、ワースト1に躍り出たことも少なくありません。
中国地方では、広島をも遙かに抜いて、ダントツの記録を維持し続けてきました。
ここ数日で、ようやく静まった感がありますが、またまたオミクロンなる変異株の流行が、海外では始まっていて、日本への流入例も確認された由。インフルエンザ流行と並行して、コロナの新たな感染拡大も懸念されます。
それにしても、ギリシア語のアルファベットも、アルファ、ベータ、ガンマの辺りまでは順に口ずさむことができますが、オミクロンとなると調べなければわかりません(汗)
新たな大流行を抑えて、世界中に平安が訪れる日の早いことを祈るばかりです。
束の間の「凪」、嵐の合間かも知れませんが、穏やかで睦まじい旅を楽しむことができました。
「津山」という土地は、わが郷里からも近く、なじみの深い場所でもあって、わがブログの過去記事でも何度か紹介したことがありました。
桜前線北上すの巻(2014-04-02)
津山城を築城した初代城主は、信長のお気に入りの小姓として知られるあの森蘭丸(成利)の弟、森忠政です。
彼も、13歳の時、兄と同様信長の小姓として出仕しますが、先輩の梁田弟河内守にからかわれたのに立腹し、梁田を部屋の隅に追いつめ頭を扇で叩いたため、幼すぎると見なされて、信長に親元へ返されました。これが幸いして本能寺の変に巻き込まれることなく、命拾いしたそうです。その後、豊臣秀吉に仕え羽柴姓を授けられますが、秀吉死後は徳川方につき、関ヶ原の戦では徳川秀忠に属して真田昌幸を攻め,その後の大阪の変を経て、美作国18万6000石を与えられ、鶴山に城を築きました。津山城は、櫓の数の多さでは、広島城、姫路城と肩を並べる、雄大な名城であったそうですが。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみが残されました。昭和11年(1936年)模擬天守が建てられましたが、太平洋戦争中に空襲の目標とされることを恐れて解体されました。
今回のバス旅行では、津山城(鶴山公園)そのものは見学の対象から外れますが、初代城主森忠政が整備した城下町の様子を伝える「城東町並み保存地区」(国の重要伝統的建造物群保存地区に選定)をガイドの解説を聞きながら散策しました。
この街並み、旧出雲街道沿いにの往時の面影をそのまま残した建物が連なります。市民・行政の尽力により保護・保全が進められています。
ちなみに旧出雲街道については、たとえばこんな過去記事でご紹介済み・・・
故旧また出雲街道を行く、の巻(2018-12-17)
前回のこの記事の回(はたらく自動車?クリーンエネルギー???の巻)に引き続き、イチローさんのお宅にお邪魔し、鍋を囲みました。
(中略)
集合場所は、前回と同じ美作土居駅。
駅前の看板は前回もご紹介しました。
よく見ると、『土居駅跡』という史跡の紹介があります。もちろんJR土居駅のことではなく、人馬問屋=問屋場の跡なのですね。
といや‐ば〔とひや‐〕【問屋場】
江戸時代、街道の宿駅で、人馬・駕籠(かご)などを用意して、旅人の便宜をはかった所。駅亭。出典 小学館デジタル大辞泉
イチローさんの先導で、この旧街道跡を車でゆっくり移動し、美作市立土居小学校のほとりへ向かいます。
土居小学校のHPからアクセス地図をお借りします(無断借用)。
こんな碑がありました。
最後の碑文に記されている文章の一部を転記してみます。
出雲街道土居宿の成り立ちと姫新線
出雲街道は畿内と出雲を結ぶ道として発達してきましたが、 最も大きな変化を遂げたのは今から約四百年前の津山一潘主森忠政の時代(慶長年間)に、幕府から参動交代のための街道等の拡張整備を命ぜられたことによります。
その後、 武家諸法度の改正等により参勤交代の制度が確立したことから、土居宿においても大名・動使・ 上級武士が泊まる本陣と脇本陣、家来や従者が泊まる宿屋、参勤父代に必要な人足や馬が常備され、飛脚が連ぶ荷物なども扱う人馬間屋、 また全国的にも例が少ないとされる東西の惣門 (西惣門は跡地付近に復元) などの街道宿場としての主要施設が徐々にととのい繁栄を極めておりました。また姫新線が全通して八十年となりますが、(中略)
トンネル掘削から百年、 姫新線全通から八十年を経過した今日、時代の先駆者の偉業を偲ぶとともに、出雲街道士居宿の歴史とあわせて後世に伝えていきたいとの思いから、 記念碑を建立したものです。
平成三十年三月
出雲街道土居宿を後世にのこす会
JR姫新線(きしんせん)は、兵庫県の姫路(ひめじ)と岡山県の新見(にいみ)を結ぶローカル線で、おおむね旧出雲街道に沿って走ります。津山はその途中にあるターミナル駅です。
自動車の通行にはやや不便ながら、当時の出雲街道(出雲往来と呼ぶべきとの意見もある?)のままの道幅で残されているとか。
通りがすぐに行き止まりになるのは、この城下町が建設された時、軍事上・防衛上の観点からの街づくりがなされた由。見通しを妨げ、多数の軍勢が勢いよく攻め寄せることを拒む構造となっているそうです。
初代津山城主森忠政が、この地に封じられ築城と街づくりに着手したのは、慶長8年(1603年)。それが完成したのは、16年後の元和2年(1616年)。ちょうど大坂の陣【冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=慶長20年(1615年)】を含む政乱がおさまりやらぬ時期だけに、実戦的対策がなされていたことがよくわかります。
その街並みの一角にこのような施設があります。
箕作 阮甫(みつくり げんぽ)旧宅。
「津山洋学資料館」
これについてはまた次回。
きょうはここまで。