最近のご近所散歩、の巻 [折々散歩]
最近、何かと車に乗っている時間が長く、そうでなければ椅子に座ってばかりで、ウォーキングの時間がなかなか取れません。自宅の周りだけでも数十分は歩きたいのですがそうできない日も多いです。
急に冷え込みが厳しくなりました。
と思っていると、日中陽射しがあると暑くなり、汗をかいて着替えが必要なほどです。
今日の記事は、そんなご近所散歩の写真がメインです。
ジョウビタキ♂
ジョウビタキ♀
ムクドリの群れによく出会います。
電線にはコサギも止まっています。
近所の小川(農業用水)に、今年もコガモが渡ってきています。
その農業用水路が最近、次々に掘り返され、コンクリート化工事が進んでいます。
コガモにとっては迷惑なことでしょう。
小魚や水生小生物も住みにくくなります。そして、それらを餌とする鳥たちにとっても厳しい試練でしょう。
こちらは、我が家近くの別の小川。
時々見かけはするけれど、撮影できずにいるこの鳥が、草の陰でキラリと光ったように思えました。
おわかりでしょうか?トリミングします。
やはりカワセミでした。
近づいて撮り直そうとすると、気づかれて飛び去ってしまいました(残念)
下の写真は2.3日前の夕景。
「天使の梯子」「薄明光線」が見えました。
今日はこれにて。
なおもカモカモエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
ここのところ、人に会うたびに、NHK朝ドラの話題に花が咲きます。
23日朝放送の第17回「空襲」は、また一段と印象深い回でした。
YAHOOニュースの紹介記事をお借りします。
『カムカムエヴリバディ』妻と母を同時に亡くし…“金太”甲本雅裕の叫びに「言葉もない」
NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(NHK総合/毎週月曜~土曜8時ほか)の第4週「1943-1945」(第17回)が23日に放送。安子(上白石萌音)たちが暮らす岡山の町にもB29が襲来。空襲が終わり焦土に残された父・金太(甲本雅裕)の悲痛な叫びに、ネット上には「胸に刺さる」「涙止まらん」といった反響が巻き起こった。
1945(昭和20)年。安子は赤子のるいを連れて橘家に帰り、久々に祖母・ひさ(鷲尾真知子)や父・金太、母・小しず(西田尚美)たちと思い出話に花を咲かせ、温かな時間を過ごす。しかしその頃、戦況は悪化の一途をたどり、B29による爆撃は東京、大阪などの市街地を襲っていた。ある日の夜、B29が岡山にも襲来。焼夷弾の音で目覚めた安子は、雉真家の人々と共に防空壕へ逃れる。一方、金太はひさや小しずを防空壕へ避難させ、消火活動へ出かける。
空襲は止み夜が明ける。防空壕から抜け出し外へ出た安子の目には焦土と化した岡山の街が映る。そして安子はがれきのそばで力なく座る金太を発見。表情も変えず呆然とする金太に、安子が「お母さんとおばあちゃんは、どこ?」と尋ねる。すると金太は一点を見つめたまま「防…空…壕…」とつぶやき「防空壕は…焼夷弾に焼かれて…中のもんは皆…」とまで話すと一変。苦もんの表情を浮かべながら「わしが…言うた…“あの防空壕に…入れ”いうて…“待っとけ”いうて…」と言葉を絞り出す。安子も状況を理解し「お母さん…ばあちゃん…」とつぶやくと、金太は「小しずー! かーちゃーん! すまん! すまーん!」と力の限り呼びかけ、言葉にならない叫び声をあげて泣き続けるのだった。
地元岡山出身の甲本雅裕さん演ずる金太の慟哭は、その秀逸な演技ともあいまって、胸を打たずにはいられません。それは、しかし単にドラマの中のできごとではなく、わずか75年前、ここ岡山の地で現実に人々を襲った無数の悲劇だったのでした。
岡山空襲については過去記事でも再三書きました。
取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻(2016-06-29)
(前略)
きょうは、「岡山空襲の日」です。
ウィキペディアの記事を借ります。岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市、福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。(中略)
岡山空襲に先立つ六月二〇日の水島空襲について、去年はこれら↓の記事を書きました。
もう一つの「今日は何の日」
四歳の目に焼きつきし夏の空
ここには、四才で水島空襲を体験されたM先輩の「手記」を紹介させていただきました。
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」が、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。
そのとき十歳の私は、補遺(2016-06-30)
昨日の記事に、「戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。」と書いた時に、もう一つ念頭にあったのはこのエピソードでした。
クレパスの涙
の夜、ぐっすり眼っていた。祖母のただならぬ声。醒めきらない目に、 一面赤く染まった縁側のカーテンが映った。蚊帳の中を通いながら祖母は、「たえこ、くにこ空襲よ。たえこ、くにこ、早う、はよう」
と繰り返しながら、一年生の弟を抱えるように蚊帳をたぐっていた。
えっ空襲。
昼間の空襲警報の不気味なサイレンの音は何度も聞いて敏感になっていたが、サイレンの音は聞こえない。
同じ布団に寝ていた妹を揺り起し、手を引っ張って玄関から防空壕に逃げ込んだ。気が付くと妹は金魚柄、私は朝顔柄の浴衣の寝巻ににランドセルを背負っていた。
前後して父が四歳と二歳の第を、母は一歳になったばかりの弟を抱いて防空壕に入った。そこへ、一週問ほど前に離れへ疎開してきている親戚の年寄りと子どもが入ると、畳一枚ほどの防空壕は身動きできない。
この玄関前の防空壕は私の誕生記念に祖母が植えた八重桜の木を伐ってその跡に父が掘ったものだった。一人で防空壕の外に立って様子を見ていた父は「こりゃひどい。家が焼けだしたら危ない。橋の下へ迷げよう」と、家族と観戚を次々に防空壕から出した。
轟音と共に黒い機影が不気味に一機また一機と頭上をいく。機影が視界から消えた合間に小腰を屈めて二人、三人と順番に地続きの畑の東側を流れる用水へ急ぐ。
用水の岸辺から見る南の空は燃え上がって赤く、その明かりに照らされたおびただしい数の機影が旋回し交錯しながら腹から焼夷弾の束を吐き出す。後からあとから降る黒い塊は、落ちながら火を噴き二十にも三十にも炸裂し、辺りを照らす。遠くで、近くでドーンドーン、ドーン、ザッザザーッ。止む間もな<聞こえる。
「あっ、来たっ」機影が近付くと目を瞑って橋の奥に逃げこむ。息を凝らして身を寄せ合っていると爆音が違のく。そっと橋の下から覗く。その間に父は家に駆け込み、先ずは先祖の位牌を、次に箪笥の引き出しを一本ずつ持ち出す。父が家に入つている間、心配で妹と抱き合つて「爆弾が落ちませんように」と析った。
空を焦がす炎は拡がるばかりだった。(中略)
夜が白みかけたころ、ようや爆音は止み、機影も消えた。幸いみんなが最も心配していた隣の兵器廠も兵舎も被爆を免れた。家も家族も無事だった。
(中略)
人の波がいっとき途切れたときだった。煤けた顔の若い母親が晒のおんぶ紐で赤ちゃんをおんぶして、前を見やったまま裸足で歩いてきた。片手で小さな風呂敷包みを胸に抱きかかえ、他方の手を後ろに回し、赤ちゃんのお尻のあたりを支えていた。しかし弟と同じくらいの赤ちゃんは、胴体だけで頭は無かった。私は声も出なかった。祖母に駆け寄ったが、何といえばいいのやら、ただ祖母の胸に蹲っているだけだった。
低く垂れこめた空から、生ぬるい黒い雨がしょぼしょぼと降りだした。(後略)十歳の少女が引き受けるには、余りにもむごく、痛ましい体験です。いま、地球上のどの子どもも、決してこのような辛さを味わうことのない、平和で理性的な世界を築かねば、と強く思います。「集団的自衛権」の名のもと、他国(アメリカ)がひきおこした地球の裏側の戦争にまでも、「わが軍」を派遣して戦闘に参加させ、「殺し、殺される」事態を招来するアベ流の「積極的平和主義」はごめんこうむりたい。消費税引き上げ延期、アベノミクスの評価を問うなどとして、選挙の争点をぼかしながら、あわよくば2/3の与党議席を獲得した暁には、一気呵成に「明文改憲」に突き進む、なんてシナリオ、なおさらごめんですよね。
カモカモエヴリバディ、まだ続きます。
前回記事ではアメリカヒドリを贔屓しましたが、普通のヒドリガモもかわいいです。
児島湖にはカルガモの群れが大勢。
マガモ。
キンクロハジロも、鴨の仲間(カモ目カモ科ハジロ属)。
オオバンは、ツル目クイナ科オオバン属だそうです。
カンムリカイツブリはカイツブリ目カイツブリ科カンムリカイツブリ属だとか。
もちろんダイサギもカモじゃありません。ペリカン目サギ科。
葦原の中に、スズメたちに混じってこんな鳥がいます。オオジュリン♀でしょうか?これもカモではありませんが・・・。
今日はこれにて。
また今日もカムカムエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
yahooニュースにこんな記事がありました。
【カムカムエヴリバディ】安子に続く悲劇 家族を襲う空襲…そしてさらなる悲報
NHK連続テレビ小説の第4週(11月22日から)の見どころを探る
NHKの連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」(月~土曜、午前8時)の第4週(11月22日から)も、ヒロイン・安子(上白石萌音)の出産というハッピーな出来事と同時に戦況の悪化による悲しいこともあるなど、テンポが早く、かなり濃い内容となりそうだ。
(中略)
NHKによると、学徒動員に応じて、稔(松村北斗)と勇(村上虹郎)は出征するという。そんな中、安子(上白石)は娘・るいを授かる。
一方、戦況は悪化し、本土への空襲が頻度を増す中で、岡山も大空襲を受け、市内の大半が焦土に。その後まもなくして終戦を迎える。空襲で家族を失い、悲しみにくれる安子だったが、父の金太(甲本雅裕)に和菓子作りを教わり、焼け跡で和菓子を売り始める。そんな中、安子の元にさらなる訃報が届く展開という。
「そちらへ行ってはいけない。」「その道は破滅へ続くゾ!!。」と伝えたいのに、むざむざあらでもがなの 不幸、試練を次々と引き受けなければならない登場人物たち。ドラマの上のことですが、それは、日本とアジアと世界の民を、わずか数十年前に実際に襲った数々の現実そのものであったでしょう。それに学ぶことなく、いつか来た道を勇ましく突き進まんとする歴代保守内閣。ソフトな装いで登場したキシダさんも、早々にしれっとおっかないことを公言しておられます。たとえば11月10日の記者会見
今回の総選挙結果を踏まえ、党是である憲法改正を進めるため、党内の体制を強化するとともに、国民的議論の更なる喚起と国会における精力的な議論を進めるよう指示をいたしました。
(中略)(記者)
憲法改正について確認したいのですけれども、総理は、衆院選勝利を受けた記者会見で、憲法改正について、3分の2以上の賛成を得られるよう議論を深めたいと述べています。この3分の2に向けて、憲法改正に前向きな日本維新の会や、あるいは国民民主党といった勢力と積極的に協力を求めていく考えはあるか、それともこの3分の2というのは、あくまでもそういう数合わせのような協力には否定的なのか、よろしくお願いします。(岸田総理)
〔前略)
憲法改正の議論につきましては、改正を実現するためには、与野党の枠を超えて3分の2以上の賛成が得られるようにしっかり努力を続けていくことが大事であると思っています。
ですから、結果として3分の2以上の賛成を得るべく努力をするということですので、御指摘のように、政党の枠組みでどうこうというのではなくて、結果を得るためにどうするべきなのか、しっかりと検討し、努力をしていきたい、このように思っています。
これを受けて、自民党の「憲法改正推進本部」を「憲法改正実現本部」に名称変更したんですってね。やる気マンマンですな。
「敵基地攻撃能力保有」の検討、軍事費GDP2%に拡大などの動きも顕著。
「そちらへ行ってはいけない。」「その道は破滅へ続くゾ!!。」大きな声を上げなくちゃ。
昨日は、隣市にすむ娘が、孫二人を連れて訪ねてきました。近くに住む孫も喜んで一緒に遊びました。
私は、日中は年金者組合地元支部の集まりがあり、小春日和の公園で、お弁当を食べながら、歌を歌ったり、レクリエーションを楽しんだり、睦まじく親睦交流を深めたり、年金問題の学習をしたり充実のひとときを過ごしました。最年長の参加者は90歳。かくしゃくたる壮健ぶりに、励まされます。紅葉が綺麗でした。
帰宅後、私の下心をかくして、深山公園のカモに餌をやりに行かない?と誘うと、女の子三人が乗ってきました。食パン三枚を持って出かけました。
私の下心というのは、この鳥に会えたらとひそかに願っていたのです。鳥撮り師匠であるM師の夫人S様から、アメリカヒドリの飛来情報をうかがい、実は先日ものぞきに行ったのですが、空振りだったのです。
ところが、孫たちを先に下ろして、私が遅れて池に近づき、既にパンくずを与え始めている孫たちの真ん前に、いたのです。
沢山のカモたちの中から、たった一羽のアメリカヒドリを見つけ出すのは、僥倖といって良いできごとでした。
アメリカヒドリについては過去記事にも書きました。
深山公園の出逢い(その2)の巻(2019-11-23)
よいお年を、の巻(2019-12-18)
今日はこれにて。
紅葉と菊と蝶と父母、の巻 [日録]
紅葉情報が話題になる候となりました。ただ、身辺気ぜわしく、紅葉狩りと洒落込むゆとりがありません。
前回記事で歩いた深山公園で、紅葉の写真を少しだけ写しましたので、UPしておきます。
落葉の中の赤トンボが、紅さを競いあっているようです。
トリミングします。
kazgさんは、鳥や風景の写真は載せてるけど、昆虫の写真は撮らないの?と知人に聞かれ、いえ、写してますよと答えた物の、最近掲載頻度が少ない事に思い至りました。そこで、ちょっと意識的に蝶を撮ってみました。
深山公園のキチョウです。
郷里の庭の小菊に遊ぶ蝶たちです。ツマグロヒョウモン♂でしょうか。
こちらはヒメアカタテハかな?
ベニシジミ。
テングチョウ。
昨日は、父が入院中の病院を出て介護老人保健施設へ入所する日。
前もって市役所へ行き、「介護保険負担限度が認定申請」を行う必要があり、その前に、父母の預貯金通帳をすべて揃え、記入期間で記帳を済ませなければなりません。
いざ入所に当たって、老母と私と妻とで、詳しく施設の概要や注意事項の説明を聞いたのち、必要な衣類・小間物を託して、よくよくお世話をお願いして施設をあとにした頃には夕暮れが迫っていました。その日は結局、父には入院中の病院で数分間面会したきりで、その後、施設ニ移動してからの様子は実際に確かめることもできないままでした。コロナ以前は、直接の面会や差し入れもかなり自由がきいたようですが、コロナが収束するまでは、きびしい制限がつづき、しばらくはこの調子のようです。
この施設、リハビリに主眼を置く介護老人保健施設です。従前から通所リハビリでお世話になっていた縁もあり、うまくなじめて少しずつでもリハビリの効があらわれてくれたらと期待しているところです。
今日はこれにて。
まだまだカモカモエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
先日の夜のNHK番組で、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」にちなんで、その舞台岡山の話題を紹介していました。
yahooニュースから記事をお借りします。
<日本人のおなまえ>「カムカムエヴリバディ」安子の実家は ..
<日本人のおなまえ>「カムカムエヴリバディ」安子の実家は和菓子司 その背景には意外な理由? 今夜「岡山ナゾ解き旅」
11月11日放送のNHKのバラエティー番組「日本人のおなまえ」(総合、木曜午後7時57分)は、連続テレビ小説(朝ドラ)「カムカムエヴリバディ」(NHK総合、月~土曜午前8時ほか)の舞台・岡山を特集する。朝ドラのヒロイン・安子(上白石萌音さん)の実家が和菓子司を営んでいる背景には、ある意外な理由があることが明かされる。
“安子”上白石萌音の両親が登場! 朝ドラ出演時とは雰囲気ガラリ? 松村北斗が英語を学ぶわけは… この日の番組では、「“カムカムエヴリバディ”の舞台 岡山ナゾ解き旅」と題して、岡山発祥の「おなまえ」を切り口に、さまざまな謎に迫る。スタジオには、安子の父・金太役の甲本雅裕さん、母・小しず役の西田尚美さんが登場する。 安子が思いを寄せる青年・雉真稔(松村北斗さん)は、熱心に英語を学んでいるが、番組では、英語を体得しようとした当時の岡山人の「先進性」に注目。桃太郎伝説との意外な関連も明かされる。
ドラマは、先週(11月8日~12日)あたりから第2週をむかえ、1939-1941の戦争の暗雲が立ちこめる時代を描きます。
NHKのWEBサイトでの番組紹介をコピーすると・・
夏休みが終わり、岡山から大阪に帰った稔(松村北斗)と文通を始めた安子(上白石萌音)。何通ものやりとりを通じて2人は心を通わせていくのでした。稔との仲を深める安子を小しず(西田尚美)は心配しています。一方、甲子園出場を目指して野球の練習に励む勇(村上虹郎)は、昔から安子へのある思いを抱き続けていますが、いつも言えずじまいです。そんななか、ヨーロッパでは戦争が始まり、世の中の気配も変化してきて…。
和菓子、英会話、野球など、市民にとってのささやかな喜びと楽しみの対象が、次々と禁止・抑圧されていきます。ことごとく、それらは少女安子にとっての平安と幸せの象徴にはかなりませんでした。物語を駆け足でたどると、こんな具合です。
週明けの11月8日(月)「戦争の足音」
・英語は敵国の言葉とされ、安子が楽しみにしているラジオ放送「実用英語会話」は終了してしまう。
・安子の小学校からの同級生雉真勇(村上虹郎)は、甲子園を目指して野球に打ち込んでいたが、野球の道具も手に入りにくくなってしまう。
・安子の祖父杵太郎(大和田伸也)が吸っていたタバコ「チェリー」が適性語にあたるとして「桜」に変更になる。
週末の11月12日(金)「戦争」
昭和16年(1941)6月、軍用機の燃料にするた砂糖は手に入らなくなる。和菓子屋「たちばな」の職人・菊井にも召集令状が届く。
ドイツがソ連に宣戦布告、夏の甲子園大会は中止になり、勇の夢は絶たれる。
12月、「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」との臨時ニュースが流れる。そして、英語講座はラジオから消える。
ところで、上白石萌音さん演ずる主人公安子の父・金太役の甲本雅裕さんは岡山生まれ岡山育ち、母・小しず役の西田尚美さんは、広島育ちだけれど生まれは岡山だそうです。また「水田屋とうふ」の店主・水田卯平役の浅越ゴエさんも岡山出身。喫茶店『Dippermouth Blues』を営む柳沢定一(世良公則)の一人息子健一を演ずる前野朋哉さんは倉敷市の出身だそうです。
こうした地元出身タレントも含めて、朝から飛び交う(誇張された)岡山弁の洪水は、「ほっこり温かく懐かしい」とも言いかね、なんだか居心地悪いものです。特に県外出身者と思われる出演者の、にわか方言は、より一層、むずがゆく、心落ち着かない気分を誘います。
昔、「おえりゃあせんのう」のフレーズで岡山弁を全国に広めた長門勇さんの、泥臭いが愛嬌のある方言の魅力が、懐かしく思い出されます。
話はちょっとズレますが、最近、県立図書館図書館で徳川夢声朗読の吉川英治作「宮本武蔵」のCDを連続的に借りて、車の運転のたびに聴き続けていますが、武蔵やお通ほか、出身地とされる「作州」(岡山県北東部)の登場人物の言葉が、ちっともそれらしくないことに、ささやかなわだかまりを感じています。
一般に異郷の人が岡山弁を模する際に、アクセントがどうも関西弁風に傾く傾向があるようで、「話芸の神様」徳川夢声も、そのあたりの些細なところは特に考証もなく、すべからく鷹揚であったのでしょうか?確かに「作州」は播磨の国にほど近く、深く政治・文化の影響を被っていることは間違いないにしても、「作州弁〔美作弁)」と播州弁(播磨弁)との間にはおのずと違いがありましょう。
【参照記事1】ウィキペディアの「播磨弁」の項
播州弁(ばんしゅうべん)または播磨弁(はりまべん)、播磨方言(はりまほうげん)は、兵庫県南西部の播磨地方(播磨国)で話される日本語の方言である。近畿方言に含まれるが、語彙では中国方言と共通するものも多い[1]。西播方言(せいばんほうげん)と東播方言(とうばんほうげん)に二分される。
〔中略)
兵庫・岡山県境の船坂峠が播州弁の西端であり、峠を越えると中国方言に分類される岡山弁となるが、赤穂市・上郡町・佐用町は岡山弁との接触地帯としての特色がある
【参照記事2】ウィキペディア「宮本武蔵」の項
出生地
『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や泊神社棟札(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国(岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。
美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
【参照記事3】美作国の方言講座
http://mimasakanokuni.jp › local
美作地域の人々が日常的に使っている言葉が「美作弁(作州弁)」です。広い意味では「岡山弁」に含まれますが、岡山県南東部の「備前弁」や岡山県西部 の「備中弁」に比べる と、やや穏やかで優しい響きがすると言われます。親切で人情あふれる美作人の心が、美作弁からもうかがえるような気がします。
岡山弁の特徴のひとつに「連母音の融合」や「助詞の融合」が挙げられます。たとえば「長い」を「なげー」と発音したり(連母音の融合)、「耳は」を「みみゃー」 と発音する(助詞の融合)という現象ですが、美作弁は備前弁・備中弁に比べて、これらの「べたべた訛り」がややゆるいように思われます。
「カムカムエヴリバディ」の舞台は、岡山市の和菓子屋ですから、使われている言葉は上の記事の「備前弁」でしょう。また、前野朋哉さんの出身地倉敷市は「備中弁」のエリアになりましょうか?
一方、私自身、幼時から聞き慣れ話し慣れてきたのは「美作弁」であることから、「備前弁」の誇張された「べたべた訛り」になじめないという要素もあるかも知れませんが、それにしても、そこまでコテコテの訛りを聞くことは、日常的にはありませんから、訛りの誇張には懐かしさや親しみよりも、違和感を覚えてしまうのかも知れません。
さて今日のタイトルは、やっぱり性懲りもなくこの方々のお噂。
今日も深山公園を歩いてみました。赤松池は大勢のカモたちと、見物客で大賑わいでした。
ヒドリガモ。
オナガガモ♀
オナガガモ♂
近所の用水路にも、コガモの姿を多数見るようになりました。昨日の早朝散歩の記録です。
夜明けの田園風景スケッチです。
カモだけでなく、エヴリバディを紹介します。
モズ。早朝なので光が足りません。
久々に撮影できたジョウビタキ♀です。
カワセミ。これも久しぶりの撮影です。
入院中の父は、「要介護4」の認定を受け、介護老人保健施設へ入所することになりました。あす、入所の予定です。
今日はこれにて。
嬉しき再会、の巻 [日録]
週一度、五分未満、二人まで、そして事前予約が必要という縛りの中での面会のために、昨日は父の入院中の病院を訪ねました。
常々母の様子を覗いてくださるご近所さんが、立ち話ついでに、庭の小菊を見せてくださいました。
今日は、郷里の母のもとを、ケアマネジャーさんが訪問してくださるとともに、そこから私宛にも電話をくださり、父の介護認定が、要支援1から要介護4へと変更されたと知らせてくださいました。自分で自動車を運転するという状態が、要支援1という認定の基礎にあったのでしょうが、さすがに入院中の身体状況は、自力ではなかなか日常生活もままならない状態と客観的にみなされたのでしょう。思いのほか高い要介護度が示されたので、少しビックリしました。
早期退院して在宅でのリハビリという方法は、なかなか実現困難なようで、施設への入所に向けて検討を進めているところです。
話変わって、岡山を拠点に活動する前衛書道家・蟠龍(ばんりょう)という方がおられます。書・デザイン・パフォーミングアーツなど幅広く手掛け、韓国文化美術大展・亜細亜美術招待展 招待作家として活躍中です。
その人となりと活躍ぶりを描いたYouTube動画がこちらです。
この蟠龍さん、実は高校時代、このkazgと少しばかり縁がありました。彼が、最近、SNSにアップされた記事をコピーして紹介させていただきます。
【嬉しき恩師との再会" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />】
先日の総選挙の頃、実家に一通の封書が。
懐かしい高校時代の恩師からの手紙でした。
その恩師は退職後にブログを始められたそうで、同封してあるブログ記事のコピーには
「今度の総選挙ではぜひ政権交代を実現し、日本の明るい未来をつくって行きましょう」
という熱いメッセージが込められており、とても嬉しくなりました。
恩師のご自宅を訪ねると、あいにくご不在。その後お電話で再会し、近況報告や思い出話に花が咲き、実に楽しいひと時でした" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />
実は僕の現在の生き方や思想は、高校時代のこの恩師の存在が少なからず影響しています。
時は1991年。玉野高校3年生当時、僕は受験勉強の真っ最中でしたが、書道部の部長と生徒会執行部(文化委員長)を兼任し、玉高文化祭の「復興再生」に熱中していました。
生徒の自主性を重んじ、自由な校風が長年の伝統だった玉野高校。当時生徒会顧問をされていたのが、その恩師でした。
「文化祭を盛り上げるために、校舎の上から下まであるような巨大な書の作品を作りたい」
…という、かなり無謀なアイデアを持ちかけた僕に
「こんな本があるぞ。読んでみるか?」
と、恩師が貸してくださったのが高文研の『文化祭企画読本』でした。
まだインターネットも何もない時代。
その本には全国の高校の文化祭における先進的なアイデアの数々が紹介され、文字通り「目からウロコ」。
約10メートル四方の巨大なブルーシートにロール模造紙をつなぎ、両面テープで貼り付けてからいざ大書。乾いたら校舎の上からロープで固定。
抜群にコスパに優れ、しかもブルーシートで「裏打ち」的な加工がなされた初代ビッグアート作品「祭」は、こうして出来上がりました" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />
?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />【伝説の大書作品「祭」】
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10215283857357768
もちろんビッグアートの展示も、僕たち生徒自ら校舎の屋上に上がり、校舎下からロープでゆっくり作品を引き上げて設営展示。
書道部・生徒会の顧問の先生方が僕たちを見守り、支えて下さったお陰で「無謀なチャレンジ」が一つひとつと実現していったわけです。
もしも当時の玉野高校が
「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」
な教育でなく
「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」
ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。
若い時に書道部や生徒会での活動を通して経験して得られたことが、今の僕の生き方や思想信条の土台になっています。
だからこそ、僕は
「国民一人ひとりの自由や権利、生活が蔑ろにされ、権力者や大企業の利益が最優先されている今の自民党政権のやり方は明らかにおかしい」
と常日頃から思い、それに反対しているわけです。
(画像には恩師のブログ記事からのスクショも含めて掲載させていただきました)
?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />恩師のブログ「ナードサークの四季」
穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいほどの過分なお褒めの言葉に、恐縮するばかりですが、彼の母校=私の当時の勤務校であった玉野高校についての認識は、まったく私も同一です。そして、その年の文化祭の様子も、彼の記憶の通りで、今もありありと私の脳裏にも蘇ります。
以前書いたこんな記事が、その時代を振り返っています。
縁の下で考えたこと、の巻(その3)(2017-08-23)
前回話題にした1998年の滋賀教研で発表したレポートを、引っ張り出してみました。実物の紙の冊子も見つかリましたし、データファイルもありました。生来、管理能力にかけ、大事な捜し物はなかなか見つからないのですが、意外にこういうガラクタは、後生大事に保存しているのは、我ながら不思議です。
レポートの全体をご紹介しても、退屈至極、不興を買うのは必定ですから、チラッと、その雰囲気だけ感じていただければ幸いです。(中略 )
2)本県における高校再編の動き
学区拡大・学校間序列強化をはかる全国的な動きの中で、本県において長く小学区・総合選抜制度が維持されてきたことは、我々の誇りの一つであった。だが、生徒急増期を迎えた1980年代、高校増設への県民的な要求の高まりにたいして、県は、全県学区の「新タイプ」高校を、全国に先がけて相ついで新設する方向で処してきた。それは、こんにち展開されている小学区・総合選抜制度廃止の動きの、事実上の露払いの役割を果たすものであった。それはまた、近隣の高校に苛烈な「生き残り競争」を強いる端緒となり、新たな学校間格差と数知れぬ教育上の困難と弊害を生み出した。
(中略)
現場では、県教委主導による「特色づくり」競争があおられ、「生き残り」をかけた学校間競争が強いられている。理数科・国際科・などの(唐突かつ陳腐な)学科新設や総合学科への衣替えによる差異化が演出され、生徒獲得のための学校売り込み(オープンスクールの実施、制服改定、美麗な学校案内の作成、学校祭公開など)にも多大な労力が費やされている。強迫的な「生き残り」ストレスのもとで、「進路実績」や「生徒のしつけ」など、「学校の評判」への過度なこだわりが、教職員・生徒をともに追いつめる状況も現れている。
(中略)
学区解体の動きと連動して、様々な高校再編策が矢継ぎ早に示されている。
(中略)
政府・文部省と財界の企図する「教育改革」と軌を一にした、これらの岡山県版高校再編計画にたいして、真に子ども・青年と父母・県民の願いに応える「高校像」を、大衆的に探求していくことが、今つよく求められている。
(中略)
2.わが身辺のこと
(1)現任校への転勤
①学区再編と前任校
報告者は、16年間勤務した普通科高校から、現在の勤務校に転勤して三年目である。
前任校は地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、「いい線行っている」と自負できる学校であった。
だが、80年代、前項で指摘した全県学区の「新タイプ校」が同一市内に設立された影響を大きく受けての「地盤沈下」に直面するなかで、「きれい事は通用しない」との声が職員内にもしばしば現れるような状況も生まれた。そのもとで、受験向け補習授業の拡大、早期のコース分け導入、生徒会行事の縮小、「しつけ」的生徒管理の強化など、多くの県内普通科高校が歩んだと同じ道を、とめどなく後追いしながら、決して満たされない焦燥の日々が続くこととなった。
(中略)
「地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、『いい線行っている』と自負できる学校であった」、という私の認識が決して独善的なものではなかったことを、蟠龍さんが、当時生徒だった側から証言して下さったことに改めて感慨を禁じ得ません。
この蟠龍さんらが卒業した数年後の事情は、もう少し古い過去記事にもくわしく書いています。
リユース2題、の巻(2016-01-05)
昔、仲間うちの冊子のために、こんな文章を書いたことがありました。1996年ですから、ちょうど20年前のことになります。
「学校」雑感-この頃思うことなど-
(中略)
(4)私はこの春、16年在籍したT高校から、夜間定時制の現任校に転勤しました。人目にはどこか唐突に映ったようで、いろいろとご心配もいただきました。率直なところ、何かの思惑を秘めて敢えて定時制を希望したわけでもありませんし、かといって「不本意人事」というわけでもなく、いわば「潮時人事」「渡りに船人事」とでも呼びたい気分です。
T高校は、地域に根ざした普通科校として、偏狭な受験シフトにも、極端なスポーツ学校化にも陥らず、生徒の自主・自立を育てながら、進路要求をもある程度保障するという点で、かなり「いい線行ってる」普通科高校だと自負していました。生徒の多くが「学校を好き」と言い、生徒も卒業生も頻繁に教員室を訪ねてくる風景を、新転任者などは新鮮がったものでした。長野知事肝いりで進められた「ニュータイプ校」の先駆けとして、学区を持たない県立高校が近隣に設立されて以降、リーダー層をスライス状にすくい取られた状況のもとでも、比較的善戦健闘してきたつもりでした。
しかし、ここ数年、学区崩しの動きのもとでの「生き残り競争」に、フィーバーしないでいることさえ何か肩身狭く感じる状況が、どの普通科高校でもすすみ、私自身も、自分のささやかなアイデンティティを保持しようとするたびに、澱のような疲労感を覚えることが多くなっていました。
いや、それよりも、近年、自分の発する言葉が生徒に響かなくなったという実感が、もどかしさを募らせていました。いきおい、生徒の変容を嘆く機会が増えましたが、内心、生徒と離反する方向への「学校」の変容を否定できませんでしたし、所詮自分も「学校の言葉」をしか発し得ないでいることが、生徒との溝を深くしていることにも、気づいていました。「生き残り」フィーバーに浮き足立たず、悠々と大道を歩むことこそが最良と信じつつも、次のような現実の前に、勇気がくじかれることもしばしばでした。
(中略)
自己の決定権・選択権も与えられず、多くは「青年期」を持つことすらなく、ほぼ宿命的に与えられた人生に甘んじることが通常であった時代よりも、進歩であり「幸福」であるはずの、この現代青年期を、真にダイナミックな自己実現・自己決定の時期として保障してやることに、我々の学校はどこまで寄与できているのでしょうか。
それを事実上放置したままで、「ゆっくり考えて、自分の道を発見するまで待つ」という美辞が、目的もなくその場の安逸ばかりを追い、困難の前にはすぐにたじろいで、最も安直な結論へと逃げ込む子どもを増やしていないかというジレンマを生みます。
これらに加えてわが長男も、学校に「NO」を発し、父に「NO」を発するにいたって、家族中が神経のバランスを保ちあぐねる日々が、私の鬱屈を増幅していました。そうした時期の転勤は、「転地療養」の意味でも、ありがたいことでした。
私にとって、職場状況の変容と並行して長男の不登校という事情が同時進行しているもとでの転勤でした。この時期のことを、こんな記事に書きました。
いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと(2015-12-30)
以前、ある教育関係の雑誌にこんな投稿をしたことがありました。夜間定時制高校に勤務しはじめた頃で、記録には1996年とあります。
人間を幸福にしない学校?
公園の砂場であろうか。四、五歳の子どもが何人か、しゃがんで遊んでいる。
後ろ姿の一人は、見まがうはずもなく、長男だ。
「そうか、お前はまだ、そんなに幼かったのか。よかった、それなら、やり直せる。抱いてあげるから、こっちへおいで。」
声をかけても、振り向こうとしない。遊びに夢中なのか、反発して頑なに体をこわばらせているのか。
砂遊びを切り上げた様子で、一人、二人と子どもたちが立ち上がり、向こうへ駆け去っていく。長男も、後を追って駆け出そうとする。「待ってくれ!」小さな背中に呼びかけようとして、目が醒めた。
その日、私たち夫婦は、彼の在籍する高校へおもむき、休学届けを提出した。二学期の初めのことだ。
彼は、高一の冬休み補習からまったく学校へ行けなくなった。辛うじて二年への進級は許されたものの、朝ごとにすく みと取り乱しを繰り返しながら、教科書通りの登校拒否症状を呈し、ずーっと家に閉じこもったきり。次第に生気も薄れ、音楽、TV、マンガ、ファミコン三昧の、昼夜逆転の日々。
「三年寝太郎って、きっと実在したのよね」という妻の言葉にリアリティがあった。
学校の対応、特に担任、カウンセラーの先生のご援助には、感謝のほかはない。だが、私自身、長年「進学普通科」に勤務して熟知しているつもりだが、進学校の生理は、子どもの自立のあがきを大らかに見守り援助するどころか、立ちすくみ逡巡する者をも追い立て蹴散らして、ひたすら走り続けることを強迫的に求めがちだ。
ましてや、岡山県では、ここ二、三年、小学区・総合選抜解体の動きに呼応して、学校間の不毛な「生き残り」競争があおられていて、余裕のない業績主義が学校全体を包む空気となっている。それだけに、子どもにとって学校は、常にせかされ競わされ、万事に過度の緊張を強いられる息苦しい場となっているようだ。
息子も、中学半ばから、腹痛、下痢、めまい、耳鳴りに悩みながらも、ほとんど欠席なしに走り続けた。高校入学当初、みずから相談室や保健室を訪ね、呼吸法や自律訓練法を習って試みていたようだが、今思えばその心境が哀れである。休日も長期休業中も、四六時中くつろぐことなく、些細なことで家族とも衝突した。
ヘッセの「車輪の下」を読んで、「ハンス・ギーベンラートは僕だ。僕も学校の犠牲者だ。」と訴えることもあった。
「いやな学校ならやめてしまえ。自力で乗り越える以外に解決の道はない。」などと追い詰めずに、「休み休みやったら?」と、なぜその時言ってやらなかったのだろう。
彼は言う。「苦しんでいる者を追い詰めるのが教師か。お父さんは家でも教師をやっている。」「教師はなぜ威張るのだろう、 少したくさんモノを知ってることのどこが偉いの。」「勉強自体を嫌いじゃないけど、僕がわかりたいことと、学校が教えたいことは全然違っている。勉強すればするほど、何もわからなくなる。」「未来なんて見えすいている。思いがけない出来事なんか、起こりはしない、地震やオウムみたいな悪いこと以外は。人生なんて、何の楽しみもない。そんなもののために、毎日我慢 して、努力する価値があるの。」彼を納得させる反論を、私はいまだに用意できないでいる。
ウォルフレン著「人間を幸福にしない日本というシステム」 は、内容もさることながら、タイトルが秀逸だ。
ふと「人間を幸福にしない日本の学校というシステム」と語呂あわせをやってみて、その説得力にゾッとした。
子どもから学校を取ったら抜け殻しか残らない、という現状自体不幸だが、その学校が人間を幸福にする場でないとすれば、どこに子どもの救いはあるのだろう。
息子は、縁あってこの夏からオーストラリアにホームステイして、外国人学校に通っている。近所の店に買い物に行くことさえ億劫であった彼には、大きな一念発起であったろう。朝六時に起きて、夕方まで授業。宿題もたっぷりあって、夜は十時就寝。「これでは日本にいる時以上の窮屈さだ」と嘆きながら、今の所、皆勤を続けている。タイ、香港、台湾、韓国・朝鮮、アフリカ、ギリシアなど、多彩な級友と知り合えたことは、収穫であったらしい。「みんなすごい」と賞嘆する。こちらでは聞けなかった言葉だ。
上か下か、勝ったか負けたかが支配する一元的価値の世界では、「みんなちがってみんないい」(金子みすず)という発想が生まれにくいせいだろうか。
私自身はこの春から、全校八十人弱の夜間定時制に転勤した。そのアットホームさに、私自身が癒されている。中学時代ほとんど学校へ行けなかった生徒が、 無欠席で登校している。他校を続けられず、やり直しをかけて転入した生徒が「今が一番幸せ」と語っている。
山田洋次監督の言う、母のように暖かい「母校としての学校」が、海外か夜中にしか存在しないと、言いたいわけではないのだが----。
穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいと言いながら、その舌の根も乾かぬうちに、自己顕示の数々・・・いやはや、お恥ずかしや。でも、追憶モードのなかで、こんな記事のことも思いだしたので、自己顕示ついでに、再掲させていただきます。
昨日の記事で、「ストップ戦争法 緊急 集会&パレード IN 玉野」に触れたついでに、玉野市という町のことを少し書きました。
それがきっかけで、走馬燈のように思い出されることがあります。思い出しついでに、身辺を探してみると、以前、仲間内の小さな、「ミニミニコミ紙」に「時事新聞」という表題でこんなコラムを書いたことがありました。▼このコラム欄の表題について一言▼担任したHRの想い出は、どれもかけがえのないもの。そんな中でも、思い入れ深いのが、教員五年目、T高校で最初に担任した二年○組▼民間教育サークルで、先輩から聞きかじった手法を、見よう見まねのHR実践。班分け、班長会、班ノート、担任通信、係活動(学習班、美化班、報道班、風紀班など)。学習班は、考査前に出題範囲とポイントを教科担任から取材し、自前の予想問題とともに、みんなに配布。報道班は、生徒の視点で新聞を発行。「いちご新聞」「MEDACHITIMES」などとりどりの名前に混じって、「時事新聞」という表題の新聞があった▼春の一日旅行は、貸切バスなどを利用して遊園地や観光地への計画を進める他クラスを後目に、徒歩で近くの海岸へ。集団ゲーム、班ごとの出し物、飯ごう炊さんの一日。下見、食材・炊事用具、燃料などの準備も、消防署への届けも、すべて生徒がやった▼信州への修学旅行も、自由行動日は、班ごとに企画・行動。旅行中の決まりも、生徒で議論して、良識的な案を練り上げた。だが、教員側の合意が得られず、生徒案は却下。不信がわだかまる▼放課後の教室でトランプに興じる生徒からトランプを取り上げた。「授業時間中はともかく、放課後は、生徒の自由」と、トランプ解禁署名を始め、クラス全員の署名を集めてきた。「学習の空間になじまない」と突っぱねた。「独裁Kazg教諭」の見出しが、班新聞を飾った。「学校も大人も、子ども・生徒を信用していない」と、数号にわたって論陣が張られた▼心憎いことに生徒は、担任にも反論スペースを用意してくれた。「私を独裁者と呼んでは、本物が嘆くだろう」必死に反論した▼三学期ともなると、活動が停滞する。毎日終礼後、歌を歌おう、などの提起にも、しらけた空気。教室に向かうのが辛い▼が、生徒は、最後に文集をつくった。生徒作詞作曲による「二年○組の歌」も載っていた。班新聞、担任通信、学級日誌をたどって、一年間を振り返ってもいた。そして、あの新聞題字の種明かし。「じぶんじしん」と読むと▼この想い出は、今でも私の元気の素だ。
探しついでに、当時の生徒が作ってくれた文集を見つけだしました。おもて表紙には、生徒の手書きの飾り文字で、大きく「FOR EVER Ⅱ○」とあり、「S55年度 2○文集」と記してあります。
裏表紙には、ほのぼのタッチのまんがが描いてあります。左上からかわいらしい太陽が顔をのぞけ、地面には、チューリップのような可愛い花がいくつか咲き、そこに寝癖のついた髪の毛ぼさぼさの男女と、四つん這いの乳幼児が描かれていて、○○family ○○先生 末永く お幸せに、、、と書いてくれています。
この文集の巻末に、私も、次のような文章を寄せました。特別付録 君への私信fromタンニン
あわただしく一年が経過した。去年のちょうど今頃、ぼくは転勤の内示を受け、身辺整理と気持ちの整理に、心落ち着かぬ日を送っていた。
若いつもりではいても30歳の声を間近にし、子を持つ身にもなると、行動様式も一定の硬直をきたし、不断の自己変革を怠り、足を前へと踏み出すのを億劫がる心理が芽生える。自己の狭いワクに閉じこもり、そこにささやかな居心地良さを覚えるような、悪しき保守主義とも呼ぶべきものが、それである。
教育の場にあっては、教壇に立つ者も学ぶ者も、互いに触発しあう、ある種の魂の苦闘を経た不断の進歩成長がなくてはかなわない。古びた知識の切り売りと、その受動的丸のみ込みは、われわれの最も唾棄すべき所のものであろう。人格と人格が火花を散らしてせめぎ合い、揺さぶり会う営みをこそ、”教育”と呼ばねばなるまい。そのためには、教師たる者には、限りのない自己練磨が要請される。にもかかわらず、自己の狭量さ・未熟さの上に安住することに痛痒を感じなくなりつつある自分を、ふと見いだし、焦燥に駆られることがしばしばであった。
その意味で、私はこの転勤の私個人にとっての意味を、新たな環境における新たな体験と新たな試みによる自己変革の好機(もしくは刺激剤)と受け止めようと考えたのであった。
が、一方では、去年担任した生徒たちへの愛着・未練も、私の胸中の相当部分を占め、しかもそれが日増しにふくらみを増すのも抑えがたかった。やり残したこと、やり損じたことをもう一度同じクラスのメンバーのままで、やり直し、やり遂げることが許されるものなら、と、愚にもつかぬ執着にさいなまれてもいたのである。
そうした、踏ん切りのつかない迷いをも多分に残したままで、私は転勤の受諾を決めた。
当初、「T高校」の名を告げられて、不覚にも私は、いずれの土地のどういう学校であるかを、とっさには思い浮かべることができなかった。地図を探してやっと、県南端の、海に面する地、宇野港を擁する街であったことに気づいた次第だ。そういえば私の親しい友人や知人の中にもT高の卒業生や関係者があったことにも気づかされた。
また、宇野港(宇野駅)には、まんざらゆかりを持たない私ではない。大学時代、郷里と大学との往来に,必ず経由し、格別の感慨を持って眺めた港であり、街並みであった。高知発深夜11時の快速列車に揺られ、翌未明高松を経て連絡船に乗り込むというのが、私の帰省の旅の常であった。
人並みの失恋や、人生上の苦悩を抱えながら,熟睡できなかった眼に、宇野港の灯の次第に近づくのが映る。まだ深く寝入っている町並みの、家屋の姿がほんのりと浮かんで見える。降り立った駅構内に、人影はまばらであるが、それでも確かに他ならぬ岡山弁が交わされている。
「ふるさとの なまり懐かし 停車場のーーー」と詠んだ啄木ではないが、懐かしい故郷の、ごく間近まで帰り着いたという安堵感をもたらしてくれるのが,この港であり、街並みであったわけだ。
(以下略)
蟠龍さんたちに出会う10年ほども前のことです。独善、生硬、狭量で、青臭く押しつけがましい、未熟極まりない若かりし日の一コマですが、しかしそれは、私にとってかけがえのない、懐かしく愛おしい記憶となっています。
もしも当時の玉野高校が
「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」
な教育でなく
「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」
ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。
蟠龍さんのこの言葉は、生徒にとってのみならず、教員にとってもそのまま、身にしみてあてはまる共通の感慨であったに違いありません。
今日はこれにて。
ドジも積もれば山を移す?の巻 [日録]
れにしては、日中は汗ばむほどの暖かさです。今日は、小学生が土曜日にあった学校行事(生活発表会)の振替休日だそうで、朝からじじばばの家で過ごしました。
気分転換に、海辺の公園へ行きました。
「田井みなと公園」という名前が大きな石に彫ってあります。以下、小5の孫娘が写した写真を借ります。
池には海水が引き込まれています、砂浜や小岩がしつらえられていて、ちょっとしたリゾート地のように見えませんか?
大量のヤドカリが集合しています。
水の中を、こんな大きな魚も泳いでおり、時折高くジャンプするのも目を引かれます。魚種は何でしょうかね?この魚の写真は私の撮影です。
お昼の弁当を買い、深山公園で食べました。渡り鳥に、食パンを上げました。余り勢いよく奪い合うので、孫たちは少々怯え気味でした。
ひきつづき。孫の作品。
さて今日のタイトル、「塵も積もれば山となる」と「愚公山を移す」がゴッチャになっちゃいました。
「愚公山を移す」の故事については、かつてここに書きました。自転車遊びの顛末、の巻(2019-09-10)
太行王屋二山、方七百里、高萬仞。本在冀州之南、河陽之北。北山愚公者、年且九十。面山而居、懲山北之塞出入之迂也。聚室而謀曰、吾與汝畢力平險、指通豫南、達于漢陰。可乎。雜然相許。 其妻獻疑曰、以君之力、曾不能損魁父之丘。如太行王屋何。且焉置土石。雜曰、投諸渤海之尾、隱土之北。 遂率子孫、荷擔者三夫、叩石墾壤、箕畚運於渤海之尾。 鄰人京城氏之孀妻、有遺男、始齔。跳往助之、寒暑易節、始一反焉。河曲智叟、笑而止之曰、甚矣、汝之不惠。以殘年餘力、曾不能毀山之一毛。其如土石何。 北山愚公長息曰、汝心之固、固不可徹、曾不若孀妻弱子。雖我之死、有子存焉。子又生孫、孫又生子。子又有子、子又有孫。子子孫孫、無窮匱也。而山不加增。何苦而不平。河曲智叟、亡以應。 操蛇之神聞之、懼其不已也、告之於帝。帝感其誠、命夸蛾氏二子負二山、一厝朔東、一厝雍南。自此、冀之南、漢之陰、無隴斷焉。
【『列子』湯門篇】
『地方語訳』
中国に太行山と王屋山いうふたつの山があるけえど、そりゃあ、もとは今の場所にはなかったんじゃ。
昔やあ、えれえ離れた冀州(きしゅう)の南、河陽の北にあったんじゃ。昔、北山に愚公という九十歳になろうかゆう年寄りがおったんじゃ。その家あ、太行山と王屋山ゆうふたつの山に面しておって、
家の出入り口が山の北側でふさがれとったもんじゃから、 どけえ出かけるにも遠回りせにゃあぺなんだんじゃ。
あるとき、愚公は家族を集めてこう言うた。
「みんなであの山を切り崩して平にし、 予州の南へ向こうてまあっすぐ、道をつくって、 漢水の南岸まで通らせてえ思うんじゃけど、どうじゃろうか?」
みな、ええなあ言うて賛成したけえど、おカミさんはこう言うたんじゃ。
「あんたの力じゃあ、ちんまい丘せえ崩せますまあがな。 ましてや太行山と王屋山みてえな大けえ山はムリに決まっとりましょうが。 せえに、山を崩した土はどこに捨てるんですりゃあな?」
家族のみんなは言うた。
「渤海(ぼっかい)か隠土のへんまで捨てに行きゃあええが」
愚公は孫・子を連れて作業をはじめたけえど、 モッコをかつげるモンはたった三人じゃった。岩をぶち砕き、土地を切り開き、 箕(み)やモッコで、土や石を、遠ええ渤海のはずれにまで運んだんじゃ。愚公のとなりにゃあ未亡人が住んどって、ようよう歯が抜け変わったばあの七、八歳ぐれえの男の子がひとりおった。 その子も手伝うた。けど、、土を運んでようよう一ぺん家に戻るまでにゃあ、半年もかかった。
河曲に住む智叟(ちそう)という利口なとしよりが、あざ笑うて愚公に言うた。「あきれたことじゃ。アンタの老いぼれた力じゃあ、山の草いっぽんも、満足には抜けまあに。 まして、あれだけ膨大な土と石をどうしょう言うんなら?」
愚公が答えたことにゃあ、
「固え頭じゃなあ。隣のボウズ以下じゃ。 ええかな?わしが死んでも、子があとを継ぐ。 子は孫を生み、孫はさらに子を生む。 子子孫孫、果てることはねえ。 山の土石は、たしかにえれえようけことぉあるけぇど、限りゆうもんがあらあ。 なんでいつぞにゃあ、ぺちゃんこにできんはずがありましょうにい」
智叟はけえす言葉も無かったそうな。山の神さんは愚公の言葉を聞いて、ほんまに山が切り崩されてしまやあせんかと心配して、天帝サマに報告したんじゃ。天帝サマは、えろう感心して、夸氏と蛾氏ゆう巨人の息子ふたりに言いつけて 、太行山と王屋山のふたつの山を背負うて、一つは朔東( 朔北の東部。今の興安嶺あたり)一つは雍南( 雍州の南)ゆう、えろう遠ええとこへ運ばせたんじゃ。
こうゆうわけで、冀州の南から漢水の南側にかけては、小高ぇ丘ひとつ無うなってしもうたんじゃ。
デジタル大辞泉 の解説には 「 どんなに困難なことでも努力を続ければ、やがては成就するというたとえ。」とあります。
苦難の末に、温水洗浄便座の新調(交換)が、まずまず成功しました。
そもそもの苦難の始まりは、「節約」の2文字に起因するのでした。gonntan様がこちらの記事1機当たり年間8億8500万円 [覚え]に紹介してくださっているように、米軍最新鋭ステルス戦闘機F35を「爆買い」して怯むことのない金銭感覚を、もし百万分の一でも持ち合わせていたなら、こんな苦労はせずとも済んだのですが・・・。はじめから、躊躇なく業者に頼めばよかっただけのこと。いや、それを潔しとしないDIY魂が頭をもたげたとしても、現在使用中のメーカーの製品を選べば、良かったでしょうに。
実は、これまで使っていたのはTOTOの「 ウォシュレット」でした。でも、ホームセンターや電器店を巡っても、あるいはネット販売を検索しても、このメーカーの製品は、いくらか割高のように見受けました。くどいようですが、ステルス戦闘機F35とは比べようもないですが(笑)
で、一番安いと思えたのが、panasonic「ビューティ・トワレ」の廉価製品。税込み送料無料で15000円あまり・・・思わずポチってしまいました。
が、商品が到着して、いざ説明書を見ると、とんだ陥穽に気づかされました。これまでのTOTO用の分岐推水栓は、下のAタイプで、「専門業者に依頼して下さい」と書いてあります。何度見直しても厳然たる事実、らしい・・・目の前が真っ暗になりました。
が、執念深くネット記事などを探ってみると、こうも書いてあります。
3000円弱の部品です。これで難局が打開できるのならば、試してみるか・・・と破れかぶれでネット注文していた部品が、昨日届きました。説明書を読んでもなかなかややこしそうなので、時間と心に余裕がある時でないと、設置作業にかかれません。特に、水道の元栓を止めての作業になりますから、家中の水道が使えないことを覚悟して、手際よくやらねばなりません。というわけで、孫たちとの遊びが一段落してから、取りかかることにしました。
工事の過程をすべて描写するのも退屈ですから割愛しますが、試行錯誤しながらこれでうまくいったはず、と安堵感と共に水道の元栓を開きましたら、おやなんだか勢いよく水の流れる音がします。玄関からは距離のあるトイレまで、急いだつもりでも結構時間がかかります。ドアから中を覗いてみると、床が水浸し。慌てて元栓を締めに戻り、大量の雑巾・タオル・バスタオルを動員して、拭いては絞り、絞っては拭き・・・情けない作業に涙がこぼれそう。
「ドジも積もれば」の細目は、語るも涙。すべてを語り尽くすのも興ざめですので、主要なドジ(汗)だけを記録しておきます。①分水器具についている止水栓を、必要以上に緩めていたため、勢いよく水が流れすぎて、あふれ出てしまったらしい、②パッキンの不備、③接合部の締め付けの緩み・・・これらをやり直して、恐る恐る再度元栓を明けてみますと、今度はうまくいったらしい。
最後に、古いウォッシュレットを、埋め立てごみとして出せるサイズに小さく分解して、市指定の小型ゴミ袋につめて作業終了。
当初の目的の「節約」は、ある程度達成できたと思いますが、費やした労働と心労の対価を考え合わせると、果たして損か得か?悩ましいところです。
ともあれ、一件落着です。取り急ぎご報告まで。
農作業メモ他、の巻 [園芸]
過去記事を探ってみるとこんなことを書いていました。
自然環境体験公園の秋、の巻(2016-11-06)
初冬を感じさせる冷え込みで、朝晩は暖房が欠かせません。
日差しはよいので、朝方、野良仕事と決めました。
サツマイモを掘りあげて、その後にタマネギを植えたいと、石灰と堆肥、肥料を入れて耕しました。汗をかきました。(中略)
野良仕事にひとまず切りをつけて、その足で近くの自然環境体験公園を訪ねてみました。
一気に秋が深まっていました。
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
自然環境体験公園の秋 posted by (C)kazg
今年は、サツマイモは9月のうちに掘りあげました。タマネギも、10月中頃から、何度かに分けて植え付けました。
赤タマネギ、早生種の「ソニック」、中生種の「タ-ボ」の三種の苗を購入して、2週間ほどまえに植え付けたほかに、「サラダ用赤タマネギ」、中晩成の「泉州黄タマネギ」、晩成の「釣りタマネギ」の種をポットに蒔いて肥育していたものを、ここ2~3日で植え付けました。
早生種は甘いので、多めに植え付けました。赤タマネギは、その皮を染色に利用したいという妻のリクエストに応えたもの。保存用に、去年は作らなかった晩成種も植えておきました。
10月に植え付けたものは、ちょうど直後に雨が降り、うまく活着しそうです。今日も雨の予報でしたので、降り始める前にと、少々苗の育ちは未だしの状態でしたが、敢えて植え付けることにしました。植え付けスペースが空きましたので、急遽ホームセンターに走り、晩成種の「もみじ3号」の苗を買って植え付けました。が、待てど暮らせど雨の気配はなく、カンカン照りと行ってよい上天気です。仕方がないので、ポリタンクで水を運び、如雨露で水やりに励みました。
近所の畑に繁っているセイタカアワダチソウに、モズが止まり、けたたましく高鳴きをくりかえしています。
トリミングします。
最近、散歩不足なので、自然環境体験公園を歩きました。
紅葉がすすんでいます。
ジョウビタキ♂が、今日も迎えてくれました。
♀には、なぜか会えません。
珍しい鳥??とたくさんシャッターをきりましたが、よくよく見ると、カワラヒワです。
背き合ったり、、
意識し合ったり、、、
大事な告白を交わししたり・・・
澄んで音楽的なさえずりです。
今日はここまで。
ドジ、の巻 [家族]
夏以来体調を崩して、入院中の父は、体力も気力もかなり回復し、食欲も戻ったようですが、足腰がおとろえ車椅子が必需となり、自宅への復帰を展望しつつも、リハビリ施設への入所を検討しているところです。スマホでの通話やラインでのやりとりは、時々はできるのですが、以前のように家族の誕生日毎にメッセージを寄せてくれるほどの余裕はないので、代わりに私が家族lineにこんな投稿をしました。
今日は、Pさんの誕生日です。
出生地はT市。とても寒い、風の強い日に生まれました。
11月4日の誕生日の花は、「アカママ」「アカマンマ」「アカノマンマ」などの別名を持つ「イヌタデ(犬蓼)」です。ピリリと辛く、料理の薬味として添えられる「ヤナギタデ」に対し、葉に辛味がなくて役に立たないという意味で「イヌタデ」と名付けられたそうです。「蓼食う虫も好き好き」ということわざは、辛いヤナギタデのことをさします。
ところで、最近ばあばが、HK 大河ドラマ「青天を衝け」を真似て栽培しているアイタデ(藍蓼)も同じ仲間で。よく似た花が咲きます。犬蓼についての記事を、丹波新聞11/2付け記事https://news.yahoo.co.jp/articles/e0029ececfdf2a920c3742474e6714498cfc002f から引用しておきます。
全国各地に分布。田畑の畔などに密集して点在する。春から秋にかけて茎の先端に1―5センチほどの花穂を出す。赤飯を思い起こさせる色とつぶつぶの花から、別名「アカノマンマ」とも呼ばれ、子どもたちのままごとなどに使われる。秋の季語の一つでもある。
花言葉は、「あなたの役に立ちたい」。どこにでもある花に込められた花言葉を知り、小さな花を見ると、不思議な安心感がある。写真はジイジの過去のブログに、こんな記事と一緒の載せたもの。
赤ままの花は、おのずと、この詩を連想させる。
歌 中野重治
お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥き去れ
すべての風情を排斥せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによって弾ねかへる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸廓にたゝき込め
ところがすぐに、小5の孫娘から「じいじ11月4日になっとるよ!」と訂正のコメントがありました。誕生日の日付を間違えたので、誕生花も間違えていました。ドジでした。
ところでドジとは?日頃使い慣れた言葉であるのに、どうにも語源が思い当たらりません。いろいろ調べてみましたが、、、謎のままです(トホホ)
〔語源〕「どじ」の語源説には次のようなものがある。(1)「鈍遅(鈍くて遅れをとる)」の転。(2)「とちる(物事をやり損なう)」の名詞化「とちり」の転。(3)「どじくじ(はっきりしないさま)」の下略。また、「どじを踏む」は、昔、相撲で、土俵の外に足を踏み出して負けることを「土地を踏む」と言った、そのなまりという説もある。
寝室近くのトイレの温水洗浄便座が不調です。
かなり以前、別のトラブルで業者に修理をお願いし、その後何年かは問題なく使えていたのですが、今度は水漏れが止まりません。接続部を締め付けてみたり、止水テープを貼ってみたり、いろいろあがいてはみましたが、はかばかしい成果が見られないまま、かなりの月日が経過しました。結局は、洗面器で水を受け、いっぱいになる前に捨てるとか、トイレ使用時だけ止水栓をドライバーで緩め、不使用時には占めておくなどの、面倒くさいこと限りない対策を取って来ましたが、それも煩わしいので、寝室からは遠いトイレだけを使用する不便に堪えてきました。
つい先日、郷里の老母が、水道の水漏れに困り、業者に修理依頼しようかと案じているのを、百数十円のゴムパッキンを付け替えることで修理に成功した経験がありましたので、柳の下のドジョウを狙って、ホース接合部のゴムパッキンを換えてみたところ、一時的に効果があった用に思えました。が、時経ずして元の木阿弥に・・・。ついに、温水洗浄便座自体の新調を思い立ちました。
ホームセンターや電器店を覗いてみますが、なかなかのお値段です。ネットで調べて、格安のものを発注。今日配達されました。
ところが、残念。これまでとは異なるメーカーの製品だったたためもあり、水道と器具とをつなぐ「分岐水栓」の形状が異なり、この形状の物は、業者にご相談下さいとありました。こんなことなら、割高でも同一メーカンーのものにするか、最初から販売店に取り付け工事まで依頼すべきでした。ドジでした。
なお諦めきれず、ネットでいろいろ探ってみると、メーカーの提供する別売り止水栓と交換すれば取り付け可能かも⁇ということで、早速ホームセンターや電器店で探してみましたが、見つかりません。やっぱり、ネット注文で対処することにしました。果たしてこれでうまく行くかどうか⁇心配です。
もしうまくいけば、これまでの苦労と難儀は、すべて水に流すつもりでおります。
さすがに11月。遅ればせながら、晩秋・初冬の気配が漂います。
キンモクセイが、長く咲いています。我が家の庭先でも甘い芳香を漂わせ、いつまでも楽しませてくれますし、散歩道の大木も満開です。
ギンモクセイも、並んで咲いています。
かぐわしい菊の香もゆかしい限りです。
ジョウビタキによく会います。
抜けるような青空のもと、モズの高鳴きが聞こえて来ます。
ヒヨドリがますます活発に騒いでいます。
ムクドリ。
釣瓶落としの夕景です。
今日はこれにて。
いよいよ、カモカモエブリバディ.の巻 [Nature]
こんな記事を書いたのは、去年の今頃でした。
またまたカモカモエブリバディ、の巻(2020-11-05)
うまいタイトルを思いついたと思ったら、2番煎じでした(汗)
カモカモエブリバディ、の巻(2020-02-02)自宅近くの用水路に、今年もコガモが姿を見せてくれています。
(後略)
いやそれどころか、もっと古い記事にも、、、。
小春日の出会い、の巻(2017-11-28 )いつものように、コガモの群れが小川に寛いでいます。
(中略)
カモカモエブリバディ、などと寒いシャレを口走ったりしています。これはまずい、もっと斬新なタイトルはないかと頭をひねるうちに「カモン ベイビー ---」はどうだろうと思いついて悦に入っていたら、実は前掲のカモカモエブリバディ、の巻の記事への、momotaro様のコメントに
>カモンベイビーアメリカなんて変な歌が流行ってましたけど
>カモン鴨、鴨、鴨
>の方がいいですねぇ!といただいておりました。そんなこともすっかり忘却の彼方でした。なさけない、、、。
まったく二番煎じです。
二番煎じといえば、こんな記事も書きました。
五番煎じの半夏生、の巻(2017-07-02)
それにしても、時々過去記事を見ていると、二番煎じ三番煎じが重なり、ネタ切れ状態を痛感するところです。
「二番煎じ」で思い出しましたが、落語の題材にありますね。火事は江戸の華といわれるように、大火が絶えないので、商家のだんな衆が交代で、火の用心の巡回をします。ウィキペディアから、あらすじの引用です。(前略)厳しい寒さに耐えかねて横着をきめこみ、手を出したくないので懐の中で拍子木を打ったり、冷えた金棒を握りたくないので紐を腰に結わえて引きずって鳴らしたり、提灯を股ぐらに入れて暖をとったりする。「火の用心」の掛け声を試行錯誤しているうちに謡のようになり、新内節のようになり、端唄をうたっていくうちに、遊び自慢の雑談になってしまう。
組が交替となり、最初の組が番小屋で火鉢を囲んで暖をとっていると、ひとりが栓をした一升徳利(ふくべとも)を出してくる。中には酒が入っており、皆に勧める。夜回り中の飲酒は禁止されていたが、「これは風邪の煎じ薬だ」と皆でうそぶき、燗をしてこっそり飲む。「苦い風邪薬の口直し」としてししの身、味噌、焼き豆腐、ネギなどが用意され、しし鍋を作るに至り、即席の酒宴になる。
その時、番小屋を管轄している廻り方同心が、外から小屋のにぎやかな声を聞きつけ、「番! 番!」と呼ぶ。酔っ払った旦那衆は最初「野良犬が吠えている」と勘違いしたが、戸を開けると侍だったために大きくあわてる。旦那衆のひとりは火鉢の鍋の上に座って鍋を隠すが、酒は隠しきれず、同心にただされる。旦那衆のひとりが「これは酒ではなく、煎じ薬だ」と言うと、同心は「身共もここのところ風邪気味じゃ。町人の薬を吟味したい」と言って酒を口にし、「うむ、結構な薬だ。もう一杯ふるまわんか」。結局同心は鍋も目ざとく見つけ、鍋も酒もすっかり平らげてしまう。旦那衆が「もう煎じ薬がない」と告げると、同心は、
「しからば、いま町内をひと回りしてまいる。二番を煎じておけ」
さはさりながら、今日の記事では、どうしてこのタイトルが捨てられません。
というのも、NHK朝ドラが、今日から新しいお話に変わりました。
NHKのサイトから少し引用します。
https://www.nhk.or.jp/comecome/
【物語】
1925〔大正14〕年、日本でラジオ放送が始まった日、岡山市内の商店徒iにある和菓子屋で、女の子が生まれた。名前を安子(上白石萌音)という。あんこの甘い香りに包まれたあたたかい家庭に育った安子は
、ずっと家族との幸せが続くことを願ったやがて戦争の足音が近づくなか、さまざまな試練が安子に 舞い降りる。
けれど、ラジオ放送開始からまもなく始まるうジオ英語講座との出会いが、安子の未来を切り開いていく。(以下略)
確かに、1925〔大正14〕年といえば、こんなできごとが続いた年でした(wikiより抜粋)
1月3日 - イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言。
2月19日 - 政府、衆議院に治安維持法案を緊急上程。
2月20日 - 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)再建。
4月22日 - 治安維持法公布。
5月1日 -活動写真フィルム検閲規則、内務省令で発令。
5月5日 - 普通選挙法公布。25歳以上の男子に選挙権付与。
5月30日 - 上海で五・三〇事件。
6月2日 - 五・三〇事件対応のため日米伊の陸戦隊が上陸。
7月18日 - アドルフ・ヒトラー『我が闘争第1巻』公表。
7月31日 - 加藤高明内閣、内閣総辞職。辞表を奉呈。
8月2日 - 加藤内閣、憲政会単独で組閣
9月18日 - 帝国議会議事堂全焼。
11月9日 - アドルフ・ヒトラーを保護する組織としてナチス親衛隊設立。
12月1日 農民労働党結成、即日結社禁止。
翌年大正が終わり、戦争三昧の昭和へと進んでいく時期ですね。現在94歳で、一月ほど前から入院中の父が、植民地だった朝鮮北部で生まれたのも、昭和の初めのちょうどこの頃でした。そして、終戦を迎えるのが18歳の頃。書きかけの「自分史」のメモにその頃の記事があることを、留守中の部屋を整理していて見つけました。
さて、朝ドラの話題に戻ります。NHKのサイトからの引用を続けます。
【タイトルに込めた想い】
かつて終戦直後の日本を席けんした平川唯一(ひらかわ・ただいち)講師のNHKラジオ英語講座・通称
「カムカム語」のオープニング曲のタイトルです。「証誠寺(しようじょうじ)の狸囃子(たぬきばや
し)」のメロディーにのって、「カム♪カム♪エヴリバティ♪~」の歌が始まると日本中の子どもからお年寄りまでくぎづけになり、明るい声に励まされました。そこには。戦争の重苦しい日本を「明るくしたい」という平川講師の願いが込められていました。「カムカムエヴリバティ」の合言葉は、今を生きる私たちの未来をも切り開くパワーワードになる!と願いを込めて、タイトルにしました。
【平川唯一さんについて】
1902〔明治35〕年一1993【平成15】年.
岡山県上房郡津川村〔現在の高梁市〕出身。終戦後ま
もなく放送されたNHKラジオ英語講座「英語会話」(1946-1951)、通称「カムカム英語」の人気講師で「カムカムおじさん」と呼ばれていた。戦後の日本を明るくしたいという願いがこめられたラジオ英語講座「カムカム英語」は、証城寺(しょうじょうじの狸囃子(たぬきばやし)」のメ ロディーにのせたオープニングで人気を獲得し、ブームの火付け役ともなった英語遊び(家族の情景を描いた英語ラジオドラマ)で英語を楽しく学んだ。全国でファンクラブが設立され、日本中に英語ブームを巻き起こした。
郷里にいささか縁がある物語ですので、なりゆきが見守られます。
ところでこの作品、藤本有紀さんの作。
【プロフィール】 連続テレビ小説「ちりとてちん」(2007)に続き、連続テレビ小説2作品目の執筆となる。近松門左衛門の傑作誕生秘話を描いた木曜時代劇「ちかえもん」(2016)で第34回向田邦子賞を受賞。その ほかNHKでは、大河ドラマ「平清盛」(2012)、土曜ドラマ「夫婦善哉(めおとぜんざい)」 (2013)、土曜時代ドラマ「みをつくし料理帖」(2017)など多数執筆。近作に8Kスベシャルドラ マ「浮世の画家」(2019)がある。
思い返せば「ちりとてちん」は、私にとっては、この年、脳動脈瘤手術のために入院していた病院で毎日見ていた「朝ドラデビュー」の作品です。そのあたりの事情はこの記事に書いていました。
早とちり、知ったかぶりは掻き捨てに、の巻(2015-06-03)
「早とちり、知ったかぶり」は、落語の世界でも定番中の定番でしょう。
「早とちり」の最たるものは『粗忽長屋』。浅草観音前で行き倒れになっている死体を見て、長屋の熊五郎だと早とちりした八っつあん。早速長屋に飛んで帰り、みんなに知らせます。当の熊さんにも。
熊さんは、「人違いだ。俺は生きている」と反論しますが、八っつあんに「粗忽者だから自分が死んだことにも気が付かないんだ」などと諭されて、納得。自分の死体を引き取りに八っつあんに付き添われてへ向かいます。
死体を検分した熊さんは「これは間違いなく俺だ」と主張して、周囲の人があきれて止めるのも聞かず、八っつあんと二人で死体を長屋に運ぼうとします。
シュールで可笑しいのはこのセリフ。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
「知ったかぶり」といえば、江戸落語では『酢豆腐』、上方落語では『ちりとてちん』。いつも知ったかぶってお高くとまった若旦那に、腐って酸っぱくなった豆腐を「珍味」とだまして食べさせるという、同趣旨の噺です。
この記事 やこの記事に内容の詳しい紹介があります。
『ちりとてちん』は、同名のタイトルでNHKの朝ドラになりました。NHKのこのサイト や、wikipedia のこの記事参照。
ところで、ちょうどこの朝ドラが放送されていた頃、私は脳動脈瘤手術のための入院で、ベッド生活をしておりました。思えば、わたしの「朝ドラデビュー」はこのドラマでした。
そう言えば、柳家小三治師匠(十代目)が最近亡くなられ、その追悼番組などで、『粗忽長屋』の一幕が彼のオハコとして紹介されるのもゆかしい限りです。
とりとめもなく話がわき道にそれます。
カモにちなんで、自然環境体験公園のカルガモを載せます。
父の入院やら、総選挙やらで、季節の推移を味わういとまもなく日が経ちました。
総選挙は、安部=菅内閣への審判は肩すかしでかわされて、海のものとも山のものとも知れぬ岸田化粧直し内閣を、判断材料も示さずに採点せよとの奇襲の無理難題。さすがにTVや雑誌を騒がした失言居士や非行人士はしかるべく淘汰され、余りにも人をおちょくった甘利幹事長は相応しい審判を受けましたが、全体としては、思いもかけぬ自民党の「絶対安定多数」獲得とは、何という冗談か?加えて、政権与党公明党の議席増と、さらにはれっきとした補完勢力「維新」の4倍化躍進とは、目を疑いますなあ。改憲志向、民主主義抑圧が骨身にしみこんだスタンドプレイ政党の、どこが人心を掴むのでしょうか。解せませぬ。
事ほど左様に、人生不可解!いや、人の世は不可解ですなあ。
ですが、行きつ戻りつの紆余曲折はありつつも、歴史の歯車は、呵責なく前へ進むのに違いありません。宮本百合子が「八月十五日の正午から午後一時まで、日本中が森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった」(「播州平野」)と厳かに書き留めたように、非道と暴虐に圧倒し尽くされているかに見える時代も、音なくページをめくられる時を迎えるに違いありません。
現に、前例のないような気候変動のもとでも、例年のように、少しずつ紅葉が進んでいます。
ガマズミの実も赤く熟しています。
ジョウビタキを見るようになりました。
今日はこれにて。