SSブログ
<

コメント欄の設定変更しました、の巻 [日録]

前回記事以降も、メーワクな書き込みが多数あり、一つ一つ手作業で削除しています。なかなか面倒ですので、いただいたアドベイスの通り、「ログインユーザーのみ」の設定に変更しました。これまで、SSユーザー以外の方からのコメントも歓迎していましたが、残念ながらしばらくの間、「ログインユーザー」以外の方からのコメントはいただけなくなりました。「ほとぼり」が冷めたらまたもとの設定に戻せたらと願っています。

朝散歩に出かけたら、カルガモが散歩中でした。


s-P7160114.jpg
s-P7160118.jpg
稲がすくすく伸びています。
s-P7160119.jpg
今日はこれにて。


nice!(17)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

無惨!の巻 [日録]

新ブログナードサークの四季 vol.2 を立ててから、こちらの旧ブログを更新する機会が減っています。その間にコメント欄が無惨なことになっていました。イタズラ書き込み、、迷惑書き込みがやり放題です。はじめは、キリル文字が多用されていたことから、ロ○○系の仕業を疑ていましたが、よくよく見てみるとそうばかりでもなく、アジアのあれこれの言語や、翻訳ソフトによるものと思われる怪しい日本語も頻出し、商品の押し売り、怪しいサイトへの誘導などを狙うものがおおいようです。興味深い(?!)エロ文章も書き込まれており、消滅させるに忍びない(笑〉気もしますが、ブログ管理者の品性にも関わります故、こまめに削除することにします。管理の手が行き届かないことも多いですが、ご寛容にねがいます。
例年にない短い梅雨のあいだ、体に応える猛暑が続き、記録破りの早い梅雨明けが宣言されたかと思うと、そのあと、鬱陶しい雨の日が続きます。湿度が高くて蒸し暑いのも閉口ですが、今朝などは、ちょっとひんやりとした雨の日です。台風の影響もあるようです。
「児島富士」の異名を持つ常山も頂あたりが厚い雲につつまれています。
s-K1IM6042.jpg
きょうはこれにて。

nice!(15)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

新ブログへもお越し下さい [日録]

コロナワクチン三回目の接種を、今朝終えました。
今の所、体調に変化はありません。


を、細々と更新しています。

今日の記事では、ジョウビタキの写真をメインに、多喜二忌についても少し触れました。




nice!(18)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

新ブログ開設しました [日録]


当ブログ、間もなく容量制限に達しそうな状況になっています。

2022年の始まりを機に、新しいブログを開設しました。



内容は少しも目新しい点はありませんが、これまで同様、よろしくお引き立て賜りますよう、隅から隅までずずずい~っと希い(こいねがい)上げ奉りまする。

nice!(33)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

年末年始は天手古舞、の巻 [日録]

パソコントラブルがいつまでもたたります。


故障HDDに保存してあるデータの中には、住所録も含まれますので、年賀状デザインはつくったものの、いざ発送に当たって、あて名の確認のため、外部HDDやMO等に保存したはずの古いバックアップデータを探らねばなりません。


HDDはUSB接続ですからまだよいのですが、MOはSCSIです。バックアップデータといえば、ZIPドライブという保存機器で読みこんだディスクにも、かなりのデータを残していたはず。これもSCSI接続なのでした。


よくよく考えてみれば、今や我が家のパソコンにはSCSI接続の環境がありません。で、思いついたのは、SCSIをUSBに変換するケーブル。ヤフオクで入手しました。


これはMOには適合したので、一定のデータは読み出せました。


気になるのはZIPに保存していたデータ。もう決して使うことはあるまいと思って、最近処分した機器の中に、深く考えることもせずZIPドライブもあったっけ。捨てたものが後で必要になって買い直すことはよくあるパターン。苦笑いまじりにハー○オフを覗いてみたら、昔はジャンク品のなかに無造作に転がっていたそれが、まったく見当たりません。何しろSCSI関連の機器・機材そのものが、どこにもありません。ないとなると欲しくなるのが人情。ヤフオクでGETしました。


けれど、忘れていましたが、ZIPのSCSI接続部は、dsub25pinという特殊な形状、上述のUSB変換ケーブルが接続できません(トホホ)。


以前は、PCにSCSIボードを装着してSCSI機器を利用していたことを思い出しました。NECPC98時代にはCバス規格のSCSIボード、後にはPCI規格のそれを使っていましたっけ。それではと、PCIのSCSIボードをゲットしたあとで気づきました。現在使用しているデスクトップパソコンのPCIバスは既に塞がっていたのでした。詳細はこの記事のとおりです。


とほほ PRIMERGY fujitsutx100s3 には、PCIバスが一つしかなかった。


我が家のジャンク箱を探れば、あれやこれや昔使ったサウンドカードが2枚や3枚は出てくるはず、、、ですが、無用なトラブルを回避したいという安定志向から、新品を買っちゃいました。

Creative サウンドカード Sound Blaster 5.1 VX PCI SB-5.1-VX

Creative サウンドカード Sound Blaster 5.1 VX PCI SB-5.1-VX

  • 出版社/メーカー: クリエイティブ・メディア
  • メディア: Personal Computers

でも千数百円ですから、昔のジャンク品と対して変わらない。意気揚々とこれを装着!しようと思って裏ぶたを開けて初めて気づきました。なんと、PCIバスが一つしかない。その唯一のバスは、グラボでふさがっている。とほほ。
Imgp0444.jpg
先人の知恵に、もっと真摯に耳を傾けておけばよかった。と、後悔するのはいつものこと。楽しみが継続して、よかったよかった、と思いましょ。


こんな記事のこと忘れてました(汗)


その後も、いろいろな試行錯誤を経て、いまだ、ZIPがつながりません。


で、目下遂行中のミッションは、PCIバスが利用できるパソコンでSCSI接続を可能なら占めること。部屋の片隅に放置して、長らく使用していないPCを蘇らせてみようと企てているところ。委細は後日報告できるかも知れません。


話を本題に戻します。古いデータの中から拾い出せた住所を頼りに、年賀状のほとんどはできるだけ旧年中に投函したのでしたが、が、年を明けてから、何通も宛先不明で返送されてきました(トホホ)。この数年間の転居情報を反映し損ねていたのです。年を明けても、年賀状作りと発送にてんてこ舞いでした。


精選版 日本国語大辞典精選版
てんてこ‐まい ‥まひ 【天手古舞】

〔名〕 (「天手古」は当て字)

① 「てんてこ」は太鼓の音。太鼓の音に合わせて舞うこと。転じて、あることの準備や対処のため、きわめてあわただしく立ち回ること。

*雑俳・柳多留‐一五一(1838‐40)「てんてこ舞の門へ来る除夜の獅子」

② 喜んで小踊りすること。

*歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語(1770)口明「余り嬉しうて、〈略〉てんてこ舞ひをしてゐたわいなう」

③ うろたえてたち騒ぐこと。あわてること。

*歌舞伎・三千世界商往来(1772)三つ目「その三百枚で継目の手形さへ取って来れば、もう伯母がてんてこ舞ひしても叶はぬ事」


もう一つのにてんてこ舞いは、家族の大集合。


コロナで長く帰省を控えてきた大阪在住の次男一家(四人)が、久しぶりに、年末にはママの実家へ、元日には我が家へ揃ってやってきました。それにあわせて長男一家も三々五々集まってきて、夕食時には自然発生的に総勢12人の「会食」になりました。少々気が咎めます。


翌2日には、長女一家(4人)も加わって、改めて総勢16人の会食。久しぶりの集合写真を撮りました。以前だとこれに老父母が加わるところですが、残炎ながら、今年は事情が許しません。


4日には、介護老人保健施設入所中の老父に大勢の顔を見せたいので、我が家からのリモート面会を予約していました。前日大阪へ帰った次男一家や、既に正月休みが明けて勤務が始まっている者は除いて、集まることが可能な子どもたち・孫たちが、タブレットを囲んで、面会予約時間を待ちます。・・・・が、ZOOMでの接続がうまくいかず、オロオロ。ジタバタ。・・・急遽、老父のスマホを使っての、LINE・テレビ電話に切り替え、リモート面会もどきが体験できましたが、隔靴掻痒の感は否めません。


その夜、幼稚園児と小1の従姉妹同士が、お泊まりをしたいと、我が家に泊まり、今日は一日遊んで帰りました。


こうして、こどもたちの冬休みも終わり、明日からまた、日常に戻ります。いっぽう、世界中で猛威を振るい始めているオミクロン株コロナ。日本でも、米軍由来の沖縄、岩国での感染拡大を初めとして、各地で、拡大の兆しがあらわれているようです。これが大事に至らず、子どもたちが平穏な新学期を迎えることができますよう。さらに、大型連休のころには、どうか、家族・友人らが気兼ねなく往来・交流できる状態が訪れていますように。


寒波の中、春の準備が進んでいます。


菜の花。


K1IM2432


麦の芽。


K1IM2416


ロウバイ。


K1IM2456


K1IM2457


次の写真は、撮影日1月3日とあったので、今日の記事用に準備したのですが、2021年。つまり昨年のものでした(汗)


KS_17129


KS_17131


今日はこれにて。


nice!(28)  コメント(2) 

続 今日のメモ、の巻 [日録]

ある冊子に投稿する約束の文章が頓挫し、こんな言い訳を書いています。


年末に私を襲った突然の「悲劇」のことから書き起こすことをお許しください。

約束のこの文章を、年内には仕上げねばと、パソコンに向かっていた最中にそれは起こりました。古いデータを参照しながら書き進むうちに、突如PCが反応しなくなり、制御を失いました。万事休して、電源ボタン長押しで強制終了させ、再起動してみると、ウィンドウズは立ち上がるものの、重要ファイル保存用のHDDが認識されず、ファイルへのアクセスが不能になってしまっています。

思いつく限りの復旧努力を、できる限り自力で試みるも、効なし。意を決して、パソコンショップへ駆け込み、修理依頼・データ復元を依頼することにしました。相応の代金はある程度予想もし、覚悟もした上でした。後日、ショップから電話があり、自店では認識不能・修理不能なので、より高額な代金が予想されるが、専門業者に委託しての修理を希望するか否かの問合わせでした。これまで蓄積したわが分身とも言えるデータを、みすみす失うに忍びず、データ復元を優先することにしました。重篤患者が高度医療を選択する心境にも似ていましょうか。

数日後、専門業者からの電話では、重度の物理的故障と考えられ、まずは部品の調達からはじめて機械的な修理を施した上で、救えるデータは救うという作業が必要で、見積額二十万円強とのこと。このまま作業に入るのかここで中断するのか、返事が必要だが、年末年始なので、遅れると年明けの対応になる由。さすがに想像を超えた高額なので即答できず、いったん電話を切った後、熟考しましたが、消えたデータを新たに作り直すのは困難至極なので、やはり、作業を依頼することにしました。止まるも涙、進むも涙!です。データがどの程度救えるかも予測できないが、いずれにせよ作業は年明け以降とのこと。この原稿執筆には間に合いません(トホホ)。

文章の不出来は、こうした窮状のなせるわざと、寛容なお心で読み流してくださるよう、あらかじめお願い申し上げます。


PC故障と一口で言うものの、正確にはデータを保管しているHDDが一台壊れたというだけで、他の部分は無事(?)なので、パソコン作業そのものが不可能になっているわけではありません。ただ、ショックのため意欲喪失状態に陥っているのが実情。そうは言っても、データ復元ができると否とに関わらず、まったく何のPC作業もしないというわけにもいきませんので、ぼつぼつやれる範囲ではじめているところです。


さて、ブログの方も、ぼちぼちマイペースで再開して行きたいと思います。まずは久しぶりの深山公園散歩写真。


エナガに会いました。


K1IM2196


コゲラです。


K1IM2218


ジョウビタキ♀。


K1IM2282


K1IM2295


K1IM2269


K1IM2229


これなあに??


K1IM2220


K1IM2261


K1IM2226


コサメビタキでしょうか???


赤松池をのぞいてみると、、


オオバン。


K1IM2340


オナガガモ。


K1IM2342


K1IM2403


ヒドリガモ。


K1IM2344


のどかに日光浴するヒドリガモ。


K1IM2335


K1IM2337


アメリカヒドリも見つけました。


K1IM2299


そして、ナポレオンハットのヨシガモ発見。


K1IM2311


K1IM2357


K1IM2368


K1IM2380


師走も深まり、冬至も過ぎ、クリスマスも過ぎて、子どもたちも冬休みに入り、。「よいお年を」の言葉が頻繁に交わされる日々。まさに年末年始真っ只中となりました。


皆様、よいお年を。


nice!(41)  コメント(16) 

今日のメモ、の巻 [日録]

昨日から パソコン故障。 調べると ハードディスクが 一つ 壊れてました。 かなり大事なデータが いっぱい 保存してあります ので ショック。 自力での 回復復元は 諦めて 業者にお願いしました。 果たして どれだけデータが 救い出せる か また仮に救えたとしても 驚くほどの 費用がかかりそう。 しばらく仕事は できません。 やる気になれません (笑)

ブログ更新もしばらくお預け??

今日の投稿はスマホから。


nice!(34)  コメント(10) 
共通テーマ:日記・雑感

9の日は今日も快晴、の巻 [日録]

開戦記念日の翌日の今日は、「9の日」です。


アベ・スガ政治による修復不能な国民との矛盾を、躍起になって取り繕おうと、「国民の声を聞く」「新しい資本主義」「新自由主義からの転換」など「リベラル」「ソフト」な姿勢を装って登場したキシダ新政権ですが、昨日から始まった国会論議を聞く限り、衣の下のヨロイは隠せないご様子。特に、スガさん以上に改憲・軍拡に前のめりな点は要警戒です。アベ一族や日本会議への配慮・サービスというにとどまらず、維新など補完勢力をはじめ、広く野党も取り込みながら、虎視眈々と改憲発議の機をうかがっていることを黙過するわけにはいきません。


わが地元九条の会は、毎月九日、午前九時から、「九の日行動」を実施しています。うっかり忘れていて終わった後で気がついたり、よんどころのない用事が重なったりで、参加しそびれることもままあるのですが、今日は忘れず行ってきました。


最近ぐずついた天気が続いていたのがウソのように、今日は一転上天気。皆勤で行動に参加して下さっているAさん(91歳)が「晴れ男」なのか、「九の日行動」はいつも晴れます。早朝は冷え込んではいましたが、空は一面、抜けるような青空。陽射しが出ると暖かく、風もなくてよいお天気になりました。


P1010439


のぼり旗には「安部9条改憲NO」とあったのを、安部を菅に、そして今度は岸田に書きかえてのアピールです。


P1010440


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


P1010438


余りに心地よいので、このあと少し遠回りして、散歩して帰りました。


苅田に日が射して、のどかな田園風景が広がります。


PM197608 (2)


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


真ん中のあたりをトリミングすると、、、、


PM197616 (3)


アオサギが写っています。


きょうはこれにて。


nice!(37)  コメント(2) 

紅葉と菊と蝶と父母、の巻 [日録]

紅葉情報が話題になる候となりました。ただ、身辺気ぜわしく、紅葉狩りと洒落込むゆとりがありません。


前回記事で歩いた深山公園で、紅葉の写真を少しだけ写しましたので、UPしておきます。


K1IM1864


K1IM1865


K1IM1890


K1IM1873


K1IM1888


落葉の中の赤トンボが、紅さを競いあっているようです。


K1IM1884


トリミングします。


akatonbo


kazgさんは、鳥や風景の写真は載せてるけど、昆虫の写真は撮らないの?と知人に聞かれ、いえ、写してますよと答えた物の、最近掲載頻度が少ない事に思い至りました。そこで、ちょっと意識的に蝶を撮ってみました。


深山公園のキチョウです。


K1IM1878


郷里の庭の小菊に遊ぶ蝶たちです。ツマグロヒョウモン♂でしょうか。


M1161716


M1161717


M1161728


M1161719


M1161721


M1161743


M1161741


M1161739


こちらはヒメアカタテハかな?


M1161727


M1161724


ベニシジミ。


M1161725


M1161723


テングチョウ。


M1161734


昨日は、父が入院中の病院を出て介護老人保健施設へ入所する日。


前もって市役所へ行き、「介護保険負担限度が認定申請」を行う必要があり、その前に、父母の預貯金通帳をすべて揃え、記入期間で記帳を済ませなければなりません。


いざ入所に当たって、老母と私と妻とで、詳しく施設の概要や注意事項の説明を聞いたのち、必要な衣類・小間物を託して、よくよくお世話をお願いして施設をあとにした頃には夕暮れが迫っていました。その日は結局、父には入院中の病院で数分間面会したきりで、その後、施設ニ移動してからの様子は実際に確かめることもできないままでした。コロナ以前は、直接の面会や差し入れもかなり自由がきいたようですが、コロナが収束するまでは、きびしい制限がつづき、しばらくはこの調子のようです。


この施設、リハビリに主眼を置く介護老人保健施設です。従前から通所リハビリでお世話になっていた縁もあり、うまくなじめて少しずつでもリハビリの効があらわれてくれたらと期待しているところです。


今日はこれにて。


nice!(36)  コメント(6) 

嬉しき再会、の巻 [日録]

週一度、五分未満、二人まで、そして事前予約が必要という縛りの中での面会のために、昨日は父の入院中の病院を訪ねました。


常々母の様子を覗いてくださるご近所さんが、立ち話ついでに、庭の小菊を見せてくださいました。


R9045493


R9045487


今日は、郷里の母のもとを、ケアマネジャーさんが訪問してくださるとともに、そこから私宛にも電話をくださり、父の介護認定が、要支援1から要介護4へと変更されたと知らせてくださいました。自分で自動車を運転するという状態が、要支援1という認定の基礎にあったのでしょうが、さすがに入院中の身体状況は、自力ではなかなか日常生活もままならない状態と客観的にみなされたのでしょう。思いのほか高い要介護度が示されたので、少しビックリしました。


早期退院して在宅でのリハビリという方法は、なかなか実現困難なようで、施設への入所に向けて検討を進めているところです。




話変わって、岡山を拠点に活動する前衛書道家・蟠龍(ばんりょう)という方がおられます。書・デザイン・パフォーミングアーツなど幅広く手掛け、韓国文化美術大展・亜細亜美術招待展 招待作家として活躍中です。


その人となりと活躍ぶりを描いたYouTube動画がこちらです。


https://youtu.be/PYKf8_VXVNA


この蟠龍さん、実は高校時代、このkazgと少しばかり縁がありました。彼が、最近、SNSにアップされた記事をコピーして紹介させていただきます。


【嬉しき恩師との再会<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />】

先日の総選挙の頃、実家に一通の封書が。

懐かしい高校時代の恩師からの手紙でした。

その恩師は退職後にブログを始められたそうで、同封してあるブログ記事のコピーには

「今度の総選挙ではぜひ政権交代を実現し、日本の明るい未来をつくって行きましょう?

という熱いメッセージが込められており、とても嬉しくなりました。

恩師のご自宅を訪ねると、あいにくご不在。その後お電話で再会し、近況報告や思い出話に花が咲き、実に楽しいひと時でした<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />

実は僕の現在の生き方や思想は、高校時代のこの恩師の存在が少なからず影響しています。

時は1991年。玉野高校3年生当時、僕は受験勉強の真っ最中でしたが、書道部の部長と生徒会執行部(文化委員長)を兼任し、玉高文化祭の「復興再生」に熱中していました。

生徒の自主性を重んじ、自由な校風が長年の伝統だった玉野高校。当時生徒会顧問をされていたのが、その恩師でした。

「文化祭を盛り上げるために、校舎の上から下まであるような巨大な書の作品を作りたい?

…という、かなり無謀なアイデアを持ちかけた僕に

「こんな本があるぞ。読んでみるか?」

と、恩師が貸してくださったのが高文研の『文化祭企画読本』でした。

255347395_10226218622040051_5179768576374822305_n

まだインターネットも何もない時代。

その本には全国の高校の文化祭における先進的なアイデアの数々が紹介され、文字通り「目からウロコ」。

約10メートル四方の巨大なブルーシートにロール模造紙をつなぎ、両面テープで貼り付けてからいざ大書。乾いたら校舎の上からロープで固定。

抜群にコスパに優れ、しかもブルーシートで「裏打ち」的な加工がなされた初代ビッグアート作品「祭」は、こうして出来上がりました<img src=" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/t7b/1.5/16/2728.png" width="16" height="16" />

<img src=?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />【伝説の大書作品「祭」】

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10215283857357768

もちろんビッグアートの展示も、僕たち生徒自ら校舎の屋上に上がり、校舎下からロープでゆっくり作品を引き上げて設営展示。

書道部・生徒会の顧問の先生方が僕たちを見守り、支えて下さったお陰で「無謀なチャレンジ」が一つひとつと実現していったわけです。

もしも当時の玉野高校が

「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」

な教育でなく

「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」

ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。

若い時に書道部や生徒会での活動を通して経験して得られたことが、今の僕の生き方や思想信条の土台になっています。

だからこそ、僕は

「国民一人ひとりの自由や権利、生活が蔑ろにされ、権力者や大企業の利益が最優先されている今の自民党政権のやり方は明らかにおかしい」

と常日頃から思い、それに反対しているわけです。

(画像には恩師のブログ記事からのスクショも含めて掲載させていただきました)

<img src=?" src="https://www.facebook.com/images/emoji.php/v9/tb4/1.5/16/2666.png" width="16" height="16" />恩師のブログ「ナードサークの四季」

https://kazsan.blog.ss-blog.jp/


穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいほどの過分なお褒めの言葉に、恐縮するばかりですが、彼の母校=私の当時の勤務校であった玉野高校についての認識は、まったく私も同一です。そして、その年の文化祭の様子も、彼の記憶の通りで、今もありありと私の脳裏にも蘇ります。


以前書いたこんな記事が、その時代を振り返っています。


縁の下で考えたこと、の巻(その3)(2017-08-23)


前回話題にした1998年の滋賀教研で発表したレポートを、引っ張り出してみました。実物の紙の冊子も見つかリましたし、データファイルもありました。生来、管理能力にかけ、大事な捜し物はなかなか見つからないのですが、意外にこういうガラクタは、後生大事に保存しているのは、我ながら不思議です。
レポートの全体をご紹介しても、退屈至極、不興を買うのは必定ですから、チラッと、その雰囲気だけ感じていただければ幸いです。

(中略 )

2)本県における高校再編の動き
学区拡大・学校間序列強化をはかる全国的な動きの中で、本県において長く小学区・総合選抜制度が維持されてきたことは、我々の誇りの一つであった。だが、生徒急増期を迎えた1980年代、高校増設への県民的な要求の高まりにたいして、県は、全県学区の「新タイプ」高校を、全国に先がけて相ついで新設する方向で処してきた。それは、こんにち展開されている小学区・総合選抜制度廃止の動きの、事実上の露払いの役割を果たすものであった。それはまた、近隣の高校に苛烈な「生き残り競争」を強いる端緒となり、新たな学校間格差と数知れぬ教育上の困難と弊害を生み出した。
(中略)
現場では、県教委主導による「特色づくり」競争があおられ、「生き残り」をかけた学校間競争が強いられている。理数科・国際科・などの(唐突かつ陳腐な)学科新設や総合学科への衣替えによる差異化が演出され、生徒獲得のための学校売り込み(オープンスクールの実施、制服改定、美麗な学校案内の作成、学校祭公開など)にも多大な労力が費やされている。強迫的な「生き残り」ストレスのもとで、「進路実績」や「生徒のしつけ」など、「学校の評判」への過度なこだわりが、教職員・生徒をともに追いつめる状況も現れている。
(中略)
学区解体の動きと連動して、様々な高校再編策が矢継ぎ早に示されている。
(中略)
政府・文部省と財界の企図する「教育改革」と軌を一にした、これらの岡山県版高校再編計画にたいして、真に子ども・青年と父母・県民の願いに応える「高校像」を、大衆的に探求していくことが、今つよく求められている。
(中略)
2.わが身辺のこと
(1)現任校への転勤
①学区再編と前任校
報告者は、16年間勤務した普通科高校から、現在の勤務校に転勤して三年目である。
前任校は地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、「いい線行っている」と自負できる学校であった。
だが、80年代、前項で指摘した全県学区の「新タイプ校」が同一市内に設立された影響を大きく受けての「地盤沈下」に直面するなかで、「きれい事は通用しない」との声が職員内にもしばしば現れるような状況も生まれた。そのもとで、受験向け補習授業の拡大、早期のコース分け導入、生徒会行事の縮小、「しつけ」的生徒管理の強化など、多くの県内普通科高校が歩んだと同じ道を、とめどなく後追いしながら、決して満たされない焦燥の日々が続くこととなった。
(中略)


「地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、『いい線行っている』と自負できる学校であった」、という私の認識が決して独善的なものではなかったことを、蟠龍さんが、当時生徒だった側から証言して下さったことに改めて感慨を禁じ得ません。


この蟠龍さんらが卒業した数年後の事情は、もう少し古い過去記事にもくわしく書いています。


リユース2題、の巻(2016-01-05)


昔、仲間うちの冊子のために、こんな文章を書いたことがありました。1996年ですから、ちょうど20年前のことになります。

「学校」雑感-この頃思うことなど-

(中略)

(4)私はこの春、16年在籍したT高校から、夜間定時制の現任校に転勤しました。人目にはどこか唐突に映ったようで、いろいろとご心配もいただきました。率直なところ、何かの思惑を秘めて敢えて定時制を希望したわけでもありませんし、かといって「不本意人事」というわけでもなく、いわば「潮時人事」「渡りに船人事」とでも呼びたい気分です。
T高校は、地域に根ざした普通科校として、偏狭な受験シフトにも、極端なスポーツ学校化にも陥らず、生徒の自主・自立を育てながら、進路要求をもある程度保障するという点で、かなり「いい線行ってる」普通科高校だと自負していました。生徒の多くが「学校を好き」と言い、生徒も卒業生も頻繁に教員室を訪ねてくる風景を、新転任者などは新鮮がったものでした。長野知事肝いりで進められた「ニュータイプ校」の先駆けとして、学区を持たない県立高校が近隣に設立されて以降、リーダー層をスライス状にすくい取られた状況のもとでも、比較的善戦健闘してきたつもりでした。
しかし、ここ数年、学区崩しの動きのもとでの「生き残り競争」に、フィーバーしないでいることさえ何か肩身狭く感じる状況が、どの普通科高校でもすすみ、私自身も、自分のささやかなアイデンティティを保持しようとするたびに、澱のような疲労感を覚えることが多くなっていました。
いや、それよりも、近年、自分の発する言葉が生徒に響かなくなったという実感が、もどかしさを募らせていました。いきおい、生徒の変容を嘆く機会が増えましたが、内心、生徒と離反する方向への「学校」の変容を否定できませんでしたし、所詮自分も「学校の言葉」をしか発し得ないでいることが、生徒との溝を深くしていることにも、気づいていました。「生き残り」フィーバーに浮き足立たず、悠々と大道を歩むことこそが最良と信じつつも、次のような現実の前に、勇気がくじかれることもしばしばでした。
(中略)
自己の決定権・選択権も与えられず、多くは「青年期」を持つことすらなく、ほぼ宿命的に与えられた人生に甘んじることが通常であった時代よりも、進歩であり「幸福」であるはずの、この現代青年期を、真にダイナミックな自己実現・自己決定の時期として保障してやることに、我々の学校はどこまで寄与できているのでしょうか。
それを事実上放置したままで、「ゆっくり考えて、自分の道を発見するまで待つ」という美辞が、目的もなくその場の安逸ばかりを追い、困難の前にはすぐにたじろいで、最も安直な結論へと逃げ込む子どもを増やしていないかというジレンマを生みます。
これらに加えてわが長男も、学校に「NO」を発し、父に「NO」を発するにいたって、家族中が神経のバランスを保ちあぐねる日々が、私の鬱屈を増幅していました。そうした時期の転勤は、「転地療養」の意味でも、ありがたいことでした。


私にとって、職場状況の変容と並行して長男の不登校という事情が同時進行しているもとでの転勤でした。この時期のことを、こんな記事に書きました。


いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと(2015-12-30)


以前、ある教育関係の雑誌にこんな投稿をしたことがありました。夜間定時制高校に勤務しはじめた頃で、記録には1996年とあります。

人間を幸福にしない学校?

公園の砂場であろうか。四、五歳の子どもが何人か、しゃがんで遊んでいる。
後ろ姿の一人は、見まがうはずもなく、長男だ。
「そうか、お前はまだ、そんなに幼かったのか。よかった、それなら、やり直せる。抱いてあげるから、こっちへおいで。」
声をかけても、振り向こうとしない。遊びに夢中なのか、反発して頑なに体をこわばらせているのか。
砂遊びを切り上げた様子で、一人、二人と子どもたちが立ち上がり、向こうへ駆け去っていく。長男も、後を追って駆け出そうとする。「待ってくれ!」小さな背中に呼びかけようとして、目が醒めた。
その日、私たち夫婦は、彼の在籍する高校へおもむき、休学届けを提出した。二学期の初めのことだ。
彼は、高一の冬休み補習からまったく学校へ行けなくなった。辛うじて二年への進級は許されたものの、朝ごとにすく みと取り乱しを繰り返しながら、教科書通りの登校拒否症状を呈し、ずーっと家に閉じこもったきり。次第に生気も薄れ、音楽、TV、マンガ、ファミコン三昧の、昼夜逆転の日々。
「三年寝太郎って、きっと実在したのよね」という妻の言葉にリアリティがあった。
学校の対応、特に担任、カウンセラーの先生のご援助には、感謝のほかはない。だが、私自身、長年「進学普通科」に勤務して熟知しているつもりだが、進学校の生理は、子どもの自立のあがきを大らかに見守り援助するどころか、立ちすくみ逡巡する者をも追い立て蹴散らして、ひたすら走り続けることを強迫的に求めがちだ。
ましてや、岡山県では、ここ二、三年、小学区・総合選抜解体の動きに呼応して、学校間の不毛な「生き残り」競争があおられていて、余裕のない業績主義が学校全体を包む空気となっている。それだけに、子どもにとって学校は、常にせかされ競わされ、万事に過度の緊張を強いられる息苦しい場となっているようだ。
息子も、中学半ばから、腹痛、下痢、めまい、耳鳴りに悩みながらも、ほとんど欠席なしに走り続けた。高校入学当初、みずから相談室や保健室を訪ね、呼吸法や自律訓練法を習って試みていたようだが、今思えばその心境が哀れである。休日も長期休業中も、四六時中くつろぐことなく、些細なことで家族とも衝突した。
ヘッセの「車輪の下」を読んで、「ハンス・ギーベンラートは僕だ。僕も学校の犠牲者だ。」と訴えることもあった。
「いやな学校ならやめてしまえ。自力で乗り越える以外に解決の道はない。」などと追い詰めずに、「休み休みやったら?」と、なぜその時言ってやらなかったのだろう。
彼は言う。「苦しんでいる者を追い詰めるのが教師か。お父さんは家でも教師をやっている。」「教師はなぜ威張るのだろう、 少したくさんモノを知ってることのどこが偉いの。」「勉強自体を嫌いじゃないけど、僕がわかりたいことと、学校が教えたいことは全然違っている。勉強すればするほど、何もわからなくなる。」「未来なんて見えすいている。思いがけない出来事なんか、起こりはしない、地震やオウムみたいな悪いこと以外は。人生なんて、何の楽しみもない。そんなもののために、毎日我慢 して、努力する価値があるの。」彼を納得させる反論を、私はいまだに用意できないでいる。
ウォルフレン著「人間を幸福にしない日本というシステム」 は、内容もさることながら、タイトルが秀逸だ。
ふと「人間を幸福にしない日本の学校というシステム」と語呂あわせをやってみて、その説得力にゾッとした。
子どもから学校を取ったら抜け殻しか残らない、という現状自体不幸だが、その学校が人間を幸福にする場でないとすれば、どこに子どもの救いはあるのだろう。
息子は、縁あってこの夏からオーストラリアにホームステイして、外国人学校に通っている。近所の店に買い物に行くことさえ億劫であった彼には、大きな一念発起であったろう。朝六時に起きて、夕方まで授業。宿題もたっぷりあって、夜は十時就寝。「これでは日本にいる時以上の窮屈さだ」と嘆きながら、今の所、皆勤を続けている。タイ、香港、台湾、韓国・朝鮮、アフリカ、ギリシアなど、多彩な級友と知り合えたことは、収穫であったらしい。「みんなすごい」と賞嘆する。こちらでは聞けなかった言葉だ。
上か下か、勝ったか負けたかが支配する一元的価値の世界では、「みんなちがってみんないい」(金子みすず)という発想が生まれにくいせいだろうか。
私自身はこの春から、全校八十人弱の夜間定時制に転勤した。そのアットホームさに、私自身が癒されている。中学時代ほとんど学校へ行けなかった生徒が、 無欠席で登校している。他校を続けられず、やり直しをかけて転入した生徒が「今が一番幸せ」と語っている。
山田洋次監督の言う、母のように暖かい「母校としての学校」が、海外か夜中にしか存在しないと、言いたいわけではないのだが----。


穴があったら入りたい、いや、穴を掘ってでも隠れたいと言いながら、その舌の根も乾かぬうちに、自己顕示の数々・・・いやはや、お恥ずかしや。でも、追憶モードのなかで、こんな記事のことも思いだしたので、自己顕示ついでに、再掲させていただきます。


懐かしの切り抜きメモ、の巻(2015-08-10)


昨日の記事で、「ストップ戦争法 緊急 集会&パレード IN 玉野」に触れたついでに、玉野市という町のことを少し書きました。
それがきっかけで、走馬燈のように思い出されることがあります。思い出しついでに、身辺を探してみると、以前、仲間内の小さな、「ミニミニコミ紙」に「時事新聞」という表題でこんなコラムを書いたことがありました。

▼このコラム欄の表題について一言▼担任したHRの想い出は、どれもかけがえのないもの。そんな中でも、思い入れ深いのが、教員五年目、T高校で最初に担任した二年○組▼民間教育サークルで、先輩から聞きかじった手法を、見よう見まねのHR実践。班分け、班長会、班ノート、担任通信、係活動(学習班、美化班、報道班、風紀班など)。学習班は、考査前に出題範囲とポイントを教科担任から取材し、自前の予想問題とともに、みんなに配布。報道班は、生徒の視点で新聞を発行。「いちご新聞」「MEDACHITIMES」などとりどりの名前に混じって、「時事新聞」という表題の新聞があった▼春の一日旅行は、貸切バスなどを利用して遊園地や観光地への計画を進める他クラスを後目に、徒歩で近くの海岸へ。集団ゲーム、班ごとの出し物、飯ごう炊さんの一日。下見、食材・炊事用具、燃料などの準備も、消防署への届けも、すべて生徒がやった▼信州への修学旅行も、自由行動日は、班ごとに企画・行動。旅行中の決まりも、生徒で議論して、良識的な案を練り上げた。だが、教員側の合意が得られず、生徒案は却下。不信がわだかまる▼放課後の教室でトランプに興じる生徒からトランプを取り上げた。「授業時間中はともかく、放課後は、生徒の自由」と、トランプ解禁署名を始め、クラス全員の署名を集めてきた。「学習の空間になじまない」と突っぱねた。「独裁Kazg教諭」の見出しが、班新聞を飾った。「学校も大人も、子ども・生徒を信用していない」と、数号にわたって論陣が張られた▼心憎いことに生徒は、担任にも反論スペースを用意してくれた。「私を独裁者と呼んでは、本物が嘆くだろう」必死に反論した▼三学期ともなると、活動が停滞する。毎日終礼後、歌を歌おう、などの提起にも、しらけた空気。教室に向かうのが辛い▼が、生徒は、最後に文集をつくった。生徒作詞作曲による「二年○組の歌」も載っていた。班新聞、担任通信、学級日誌をたどって、一年間を振り返ってもいた。そして、あの新聞題字の種明かし。「じぶんじしん」と読むと▼この想い出は、今でも私の元気の素だ。

探しついでに、当時の生徒が作ってくれた文集を見つけだしました。おもて表紙には、生徒の手書きの飾り文字で、大きく「FOR EVER Ⅱ○」とあり、「S55年度 2○文集」と記してあります。
裏表紙には、ほのぼのタッチのまんがが描いてあります。左上からかわいらしい太陽が顔をのぞけ、地面には、チューリップのような可愛い花がいくつか咲き、そこに寝癖のついた髪の毛ぼさぼさの男女と、四つん這いの乳幼児が描かれていて、○○family ○○先生 末永く お幸せに、、、と書いてくれています。

この文集の巻末に、私も、次のような文章を寄せました。

特別付録 君への私信fromタンニン
あわただしく一年が経過した。去年のちょうど今頃、ぼくは転勤の内示を受け、身辺整理と気持ちの整理に、心落ち着かぬ日を送っていた。
若いつもりではいても30歳の声を間近にし、子を持つ身にもなると、行動様式も一定の硬直をきたし、不断の自己変革を怠り、足を前へと踏み出すのを億劫がる心理が芽生える。自己の狭いワクに閉じこもり、そこにささやかな居心地良さを覚えるような、悪しき保守主義とも呼ぶべきものが、それである。
教育の場にあっては、教壇に立つ者も学ぶ者も、互いに触発しあう、ある種の魂の苦闘を経た不断の進歩成長がなくてはかなわない。古びた知識の切り売りと、その受動的丸のみ込みは、われわれの最も唾棄すべき所のものであろう。人格と人格が火花を散らしてせめぎ合い、揺さぶり会う営みをこそ、”教育”と呼ばねばなるまい。そのためには、教師たる者には、限りのない自己練磨が要請される。にもかかわらず、自己の狭量さ・未熟さの上に安住することに痛痒を感じなくなりつつある自分を、ふと見いだし、焦燥に駆られることがしばしばであった。
その意味で、私はこの転勤の私個人にとっての意味を、新たな環境における新たな体験と新たな試みによる自己変革の好機(もしくは刺激剤)と受け止めようと考えたのであった。
が、一方では、去年担任した生徒たちへの愛着・未練も、私の胸中の相当部分を占め、しかもそれが日増しにふくらみを増すのも抑えがたかった。やり残したこと、やり損じたことをもう一度同じクラスのメンバーのままで、やり直し、やり遂げることが許されるものなら、と、愚にもつかぬ執着にさいなまれてもいたのである。
そうした、踏ん切りのつかない迷いをも多分に残したままで、私は転勤の受諾を決めた。
当初、「T高校」の名を告げられて、不覚にも私は、いずれの土地のどういう学校であるかを、とっさには思い浮かべることができなかった。地図を探してやっと、県南端の、海に面する地、宇野港を擁する街であったことに気づいた次第だ。そういえば私の親しい友人や知人の中にもT高の卒業生や関係者があったことにも気づかされた。
また、宇野港(宇野駅)には、まんざらゆかりを持たない私ではない。大学時代、郷里と大学との往来に,必ず経由し、格別の感慨を持って眺めた港であり、街並みであった。高知発深夜11時の快速列車に揺られ、翌未明高松を経て連絡船に乗り込むというのが、私の帰省の旅の常であった。
人並みの失恋や、人生上の苦悩を抱えながら,熟睡できなかった眼に、宇野港の灯の次第に近づくのが映る。まだ深く寝入っている町並みの、家屋の姿がほんのりと浮かんで見える。降り立った駅構内に、人影はまばらであるが、それでも確かに他ならぬ岡山弁が交わされている。
「ふるさとの なまり懐かし 停車場のーーー」と詠んだ啄木ではないが、懐かしい故郷の、ごく間近まで帰り着いたという安堵感をもたらしてくれるのが,この港であり、街並みであったわけだ。
(以下略)


蟠龍さんたちに出会う10年ほども前のことです。独善、生硬、狭量で、青臭く押しつけがましい、未熟極まりない若かりし日の一コマですが、しかしそれは、私にとってかけがえのない、懐かしく愛おしい記憶となっています。


もしも当時の玉野高校が

「生徒の自主性を尊重し、民主的でおおらか」

な教育でなく

「生徒の自主性を奪い、厳しく管理する」

ような教育をしている学校だったら、絶対こうはいかなかったと思います。


蟠龍さんのこの言葉は、生徒にとってのみならず、教員にとってもそのまま、身にしみてあてはまる共通の感慨であったに違いありません。


今日はこれにて。


nice!(40)  コメント(2) 

ドジも積もれば山を移す?の巻 [日録]

昨日の日曜日(11月7日)が立冬だったそうですね。そ

れにしては、日中は汗ばむほどの暖かさです。今日は、小学生が土曜日にあった学校行事(生活発表会)の振替休日だそうで、朝からじじばばの家で過ごしました。


気分転換に、海辺の公園へ行きました。


KS_18589


「田井みなと公園」という名前が大きな石に彫ってあります。以下、小5の孫娘が写した写真を借ります。


IMGP8555


池には海水が引き込まれています、砂浜や小岩がしつらえられていて、ちょっとしたリゾート地のように見えませんか?


IMGP8557


IMGP8569


IMGP8573


IMGP8574


IMGP8576


IMGP8570


大量のヤドカリが集合しています。


IMGP8601


IMGP8606


IMGP8610


IMGP8599


IMGP8612


IMGP8610


IMGP8612


水の中を、こんな大きな魚も泳いでおり、時折高くジャンプするのも目を引かれます。魚種は何でしょうかね?この魚の写真は私の撮影です。


KS_18561


KS_18570


お昼の弁当を買い、深山公園で食べました。渡り鳥に、食パンを上げました。余り勢いよく奪い合うので、孫たちは少々怯え気味でした。


ひきつづき。孫の作品。


IMGP8668


IMGP8672


IMGP8655


IMGP8670


IMGP8657


さて今日のタイトル、「塵も積もれば山となる」と「愚公山を移す」がゴッチャになっちゃいました。


「愚公山を移す」の故事については、かつてここに書きました。自転車遊びの顛末、の巻(2019-09-10)


太行王屋二山、方七百里、高萬仞。本在冀州之南、河陽之北。北山愚公者、年且九十。面山而居、懲山北之塞出入之迂也。聚室而謀曰、吾與汝畢力平險、指通豫南、達于漢陰。可乎。雜然相許。 其妻獻疑曰、以君之力、曾不能損魁父之丘。如太行王屋何。且焉置土石。雜曰、投諸渤海之尾、隱土之北。 遂率子孫、荷擔者三夫、叩石墾壤、箕畚運於渤海之尾。 鄰人京城氏之孀妻、有遺男、始齔。跳往助之、寒暑易節、始一反焉。河曲智叟、笑而止之曰、甚矣、汝之不惠。以殘年餘力、曾不能毀山之一毛。其如土石何。 北山愚公長息曰、汝心之固、固不可徹、曾不若孀妻弱子。雖我之死、有子存焉。子又生孫、孫又生子。子又有子、子又有孫。子子孫孫、無窮匱也。而山不加增。何苦而不平。河曲智叟、亡以應。 操蛇之神聞之、懼其不已也、告之於帝。帝感其誠、命夸蛾氏二子負二山、一厝朔東、一厝雍南。自此、冀之南、漢之陰、無隴斷焉。

【『列子』湯門篇】


『地方語訳』

中国に太行山と王屋山いうふたつの山があるけえど、そりゃあ、もとは今の場所にはなかったんじゃ。
昔やあ、えれえ離れた冀州(きしゅう)の南、河陽の北にあったんじゃ。昔、北山に愚公という九十歳になろうかゆう年寄りがおったんじゃ。その家あ、太行山と王屋山ゆうふたつの山に面しておって、
家の出入り口が山の北側でふさがれとったもんじゃから、 どけえ出かけるにも遠回りせにゃあぺなんだんじゃ。
あるとき、愚公は家族を集めてこう言うた。
「みんなであの山を切り崩して平にし、 予州の南へ向こうてまあっすぐ、道をつくって、 漢水の南岸まで通らせてえ思うんじゃけど、どうじゃろうか?」
みな、ええなあ言うて賛成したけえど、おカミさんはこう言うたんじゃ。
「あんたの力じゃあ、ちんまい丘せえ崩せますまあがな。 ましてや太行山と王屋山みてえな大けえ山はムリに決まっとりましょうが。 せえに、山を崩した土はどこに捨てるんですりゃあな?」
家族のみんなは言うた。
「渤海(ぼっかい)か隠土のへんまで捨てに行きゃあええが」
愚公は孫・子を連れて作業をはじめたけえど、 モッコをかつげるモンはたった三人じゃった。岩をぶち砕き、土地を切り開き、 箕(み)やモッコで、土や石を、遠ええ渤海のはずれにまで運んだんじゃ。

愚公のとなりにゃあ未亡人が住んどって、ようよう歯が抜け変わったばあの七、八歳ぐれえの男の子がひとりおった。 その子も手伝うた。けど、、土を運んでようよう一ぺん家に戻るまでにゃあ、半年もかかった。
河曲に住む智叟(ちそう)という利口なとしよりが、あざ笑うて愚公に言うた。

「あきれたことじゃ。アンタの老いぼれた力じゃあ、山の草いっぽんも、満足には抜けまあに。 まして、あれだけ膨大な土と石をどうしょう言うんなら?」

愚公が答えたことにゃあ、    
「固え頭じゃなあ。隣のボウズ以下じゃ。 ええかな?わしが死んでも、子があとを継ぐ。 子は孫を生み、孫はさらに子を生む。 子子孫孫、果てることはねえ。 山の土石は、たしかにえれえようけことぉあるけぇど、限りゆうもんがあらあ。 なんでいつぞにゃあ、ぺちゃんこにできんはずがありましょうにい」     
智叟はけえす言葉も無かったそうな。

山の神さんは愚公の言葉を聞いて、ほんまに山が切り崩されてしまやあせんかと心配して、天帝サマに報告したんじゃ。天帝サマは、えろう感心して、夸氏と蛾氏ゆう巨人の息子ふたりに言いつけて 、太行山と王屋山のふたつの山を背負うて、一つは朔東( 朔北の東部。今の興安嶺あたり)一つは雍南( 雍州の南)ゆう、えろう遠ええとこへ運ばせたんじゃ。
こうゆうわけで、冀州の南から漢水の南側にかけては、小高ぇ丘ひとつ無うなってしもうたんじゃ。


デジタル大辞泉 の解説には 「 どんなに困難なことでも努力を続ければ、やがては成就するというたとえ。」とあります。


苦難の末に、温水洗浄便座の新調(交換)が、まずまず成功しました。


そもそもの苦難の始まりは、「節約」の2文字に起因するのでした。gonntan様がこちらの記事1機当たり年間8億8500万円 [覚え]に紹介してくださっているように、米軍最新鋭ステルス戦闘機F35を「爆買い」して怯むことのない金銭感覚を、もし百万分の一でも持ち合わせていたなら、こんな苦労はせずとも済んだのですが・・・。はじめから、躊躇なく業者に頼めばよかっただけのこと。いや、それを潔しとしないDIY魂が頭をもたげたとしても、現在使用中のメーカーの製品を選べば、良かったでしょうに。


実は、これまで使っていたのはTOTOの「 ウォシュレット」でした。でも、ホームセンターや電器店を巡っても、あるいはネット販売を検索しても、このメーカーの製品は、いくらか割高のように見受けました。くどいようですが、ステルス戦闘機F35とは比べようもないですが(笑)


で、一番安いと思えたのが、panasonic「ビューティ・トワレ」の廉価製品。税込み送料無料で15000円あまり・・・思わずポチってしまいました。


が、商品が到着して、いざ説明書を見ると、とんだ陥穽に気づかされました。これまでのTOTO用の分岐推水栓は、下のAタイプで、「専門業者に依頼して下さい」と書いてあります。何度見直しても厳然たる事実、らしい・・・目の前が真っ暗になりました。


bunki


が、執念深くネット記事などを探ってみると、こうも書いてあります。


bunki2


3000円弱の部品です。これで難局が打開できるのならば、試してみるか・・・と破れかぶれでネット注文していた部品が、昨日届きました。説明書を読んでもなかなかややこしそうなので、時間と心に余裕がある時でないと、設置作業にかかれません。特に、水道の元栓を止めての作業になりますから、家中の水道が使えないことを覚悟して、手際よくやらねばなりません。というわけで、孫たちとの遊びが一段落してから、取りかかることにしました。


工事の過程をすべて描写するのも退屈ですから割愛しますが、試行錯誤しながらこれでうまくいったはず、と安堵感と共に水道の元栓を開きましたら、おやなんだか勢いよく水の流れる音がします。玄関からは距離のあるトイレまで、急いだつもりでも結構時間がかかります。ドアから中を覗いてみると、床が水浸し。慌てて元栓を締めに戻り、大量の雑巾・タオル・バスタオルを動員して、拭いては絞り、絞っては拭き・・・情けない作業に涙がこぼれそう。


「ドジも積もれば」の細目は、語るも涙。すべてを語り尽くすのも興ざめですので、主要なドジ(汗)だけを記録しておきます。①分水器具についている止水栓を、必要以上に緩めていたため、勢いよく水が流れすぎて、あふれ出てしまったらしい、②パッキンの不備、③接合部の締め付けの緩み・・・これらをやり直して、恐る恐る再度元栓を明けてみますと、今度はうまくいったらしい。


最後に、古いウォッシュレットを、埋め立てごみとして出せるサイズに小さく分解して、市指定の小型ゴミ袋につめて作業終了。


当初の目的の「節約」は、ある程度達成できたと思いますが、費やした労働と心労の対価を考え合わせると、果たして損か得か?悩ましいところです。


ともあれ、一件落着です。取り急ぎご報告まで。


nice!(35)  コメント(4) 

カエルぞ!の巻 [日録]

父の入院先の病院の面会ロビ-から、こんな景色が見えます。


20211019_130447


よく晴れて、素晴らしい眺めです。


窓際にこんな置物がありました。


20211019_124929


このカエル君のお腹に、はやく元気になって蛙ぞ(帰るぞ)と書いてありました。


実は今日、父は退院し、リハビリのために最寄りの医院に転院することになりました。郷里の家からの距離が20kmあったものが10kmに半減し、よほど家近くまで帰った気がするのか、父の機嫌も上々です。ここでのリハビリの如何によって、めでたく帰宅療養が実現するか、あるいは施設に入所するか、を選択することになりそうです。


コロナの影響は侮りがたく、面会はコロナワクチン接種者に限り、週一回二人まで、5分のみだそうです。予約すればzoomによるリモート面接というものも可能だそうですが・・・侘しい限りです。コロナの不安のない、当たり前の世の中に帰る日が近からんことをと切に願わずにはいられません。


郷里の庭には、先日までこんなカエルが姿を見せてましたが・・・


IMGP3274


IMGP3278


IMGP3276


昨日今日の冷え込みで、冬眠準備に入りましでしょうか?


ところで今日は、総選挙公示日。


新しい政治にカエルぞ!と切に念ずるものです。


取り急ぎご報告まで。


nice!(39)  コメント(4) 

日本の夜明け、の巻 [日録]

ブログ更新が滞っています。


理由は多々ありますが、最大のものは、今一つモチベーションが上がらないことによるようです。


と言うのも、当ブログの最も熱心(?)な「読者」の一人である郷里の老父が、ここのところしばらくブログチェックをしていない状態が続いています。以前だと、ほぼ毎日チェックして、更新間隔が2~3日開くと、何かあったか、体調が悪いのかと、心配の連絡をよこしてくることもしばしばでしたから、、、。


ところがその父が、9月の終わり頃から、入院生活を続けています。いきさつはこの記事にかいつまんで書きました。


歪んでますなあ!の巻(2021-10-01)


先日の記事に「高齢者ドライバ-としてご紹介してきた92歳の父は、このところ体力気力が少し衰え---買い出しや通院の手伝いのため、田舎に帰る頻度が増えています。」と書きましたが、その老父がかかりつけ医から紹介状をいただき、地域の拠点病院で水曜日に検査を受けるというので、車で連れて行くことになりました。(中略)(ところで訂正です。92歳の父と書いたのは誤りで、正しくは94歳でした)

(中略)

「点滴と、より精密な検査のために短期間入院してみますか」との医師の勧めに、最近ない何事もおっくうがることの多い父が、珍しく同意を示しますので、急遽そのまま入院する運びとなりました。


その時は、1週間程度の検査と治療という見通しが、院内で転倒したりなどのアクシデントの影響もあってか、はかばかしい回復もみられないまま、もう入院3週間になるました。


父は、体調を崩した夏頃から、ブログ閲覧に使用していたデスクトップパソコンを、しばらく触る機会もなかったようですし、 入院後は、スマホの操作にもなかなか気が向かわないのか、家族とのメールやlineのやりとりも間遠になっている状況で、文字の多い拙ブログ〈汗)を閲覧するような気力も湧かない模様です。


ところで、ブログ読者としての父の存在は、そもそも当ブログの執筆動機そのものにも関連しているのでした。そのあたりの事情はこんな記事にも書きました。



私のへなちょこブログも3年目を迎えました。私にとっては、現在のところ、最も律儀におつきあいしている「趣味」はこれでしょう。

「趣味は?」と聞かれて答えに窮することは、子どもの頃からの習いでした。小中学生の頃は「読書」などと答えておりましたが、すぐに現実と離反するようになって、破綻に瀕してしまったことでした。
学生の頃「不平を言うこと」という名答を考案し(実はこれもある方からのパクリでした)、これは気に入っておりましたが、社会人になってからは自ずと出番がなくなりました。
以来、「無趣味」と答え続ける半生でした。    
〈中略)

さて、そんな私が、退職を前にして、内心焦りを感じた時期がありました。「~ねばならない」で生きてきて、その枠組みが外れると,自分を見失い,気力も生き甲斐も薄らいでしまう、なんてことになりかねない。「~ねばならない」から「~たい」への生き方の転換が必要だ。さしずめ「趣味をもたねばならない」と、思い至ったのです。やっぱり「~ねばならない」に縛られ続けていますが(笑)
そこで考えました。新たな趣味の必須条件は?
・やって楽しいこと。
・憂さを忘れられること。
・少しの努力で,長く続けられること。
・足跡が何か残ること。
・人と上達を比べられて落ち込まなくてもよいこと。
・出費が少なくてすむこと。
・体力、運動能力が求められなくてすむこと。
自覚的に、言語で意識したことはありませんでしたが,あえて箇条書きにすればこんな虫のいい条件がぐるぐる脳裏を回っていたのでしょう。
今思えば、「ブログ」という帰結は、結果的にですが、これらの虫のいい条件を、すべてみごとにクリアーしてますね。
私のブログ開始は、正確には、退職の瞬間から即時というわけではなく、いくらかタイムラグがありまして、癌手術を経てのリハビリ過程で、退屈しのぎのすさびごととして始めたというのが、経過です。
その時漠然と期待したのは、

①忘れっぽい自分の備忘録(紙に書く日記は,続けられないので)、

②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、

③自分自身の何らかの存在確認、などの雑多な要素を、お気軽に満たしてくれそうだという点。

今、三年目を迎えられていることをみれば、この予感は、まんざら外れてはいなかったようです。


私の意識の中では、上記記事の箇条書きの「②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、」の「友人、知人」の後ろに「家族」が書き加えられるべきであり、そこに父が含まれることは言わずもがなのことでした。


「ブログ執筆のモチベーションが上がらない」という点とともに、いろいろ所用に追われて気ぜわしいというのも大きいです。スケジュールの合間を縫って郷里までの片道60km+病院までの20kmの往復がありますから、なかなかブログに気が向きません。そして、そんななか、総選挙が始まりましたから、余計に慌ただしい毎日です。


日本の夜明けが近いことを念じて、友人・知人にこんな私信を送ったりしています。ついでと言っては申しわけありませんが、ブログ読者の皆様にもお読みいただきたく、ここに一部転載させていただきます。


前略

10月になっても、「残暑お見舞い申し上げます」と書きたい天候が続きます。
ご無沙汰を重ねていますが、お変わりありませんか?
小生、つつがなく、まずまず年齢相応に健康に、かつまた落ち着きなく慌ただしく暮らしております。
日常の思いつきを書き散らしている拙ブログ「ナードサークの四季」(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/)も、いつのまにか2070 記事を数えました。「年輪」と呼ぶのもおこがましい、老顔の皺のようなものですが、とりあえず生き延びてきたささやかな証であることには違いなく、振り返ればそれなりの感慨を覚えます。
さて、最近(2021-10-04)、こんな記事を書きましたので、近況報告代わりにコピーさせていただきます。
もちろん、お察しの通り、今日のお手紙の主旨は、来たる総選挙での野党連合の前進と比例区での共産党の躍進にお力添えをいただきたく、参考資料を同封させていただきました。別紙資料は、「岡山県女性後援会」が作成されたものですが、比例区候補者の大平よしのぶさんの素顔が端的に浮き彫りにされていて秀逸。一読をお勧めしたいと思います。
末筆ながら、季節の変わり目、くれぐれもご自愛下さいますよう。 草々

以下、百代に寄す、の巻 のコピー(省略)と、比例区候補者の人物紹介マンガ〈省略)のコピーほか諸資料同封。




PM157499


PM157515


PM157522


PM157547


PM157553


PM157570


PM157572


PM157577


10月になっても、「残暑お見舞い申し上げます」と書きたい天候は、今週で終わり、一気に冷え込みが始まるそうですね。皆様お達者で・・・


nice!(31)  コメント(6) 

歪んでますなあ!の巻 [日録]

バタバタしているうちに、おや、もう10月になってしまいました。


早いものです。


水曜日は、教育相談ボランティアの担当日で、ちょっとやるべき用事もあったのですが、断念し、当番の方は勝手ながら、相棒のH女史に全面的にお世話になりました。


というのは、先日の記事に「高齢者ドライバ-としてご紹介してきた92歳の父は、このところ体力気力が少し衰え---買い出しや通院の手伝いのため、田舎に帰る頻度が増えています。」と書きましたが、その老父がかかりつけ医から紹介状をいただき、地域の拠点病院で水曜日に検査を受けるというので、車で連れて行くことになりました。と言うのも、父が、以前から長く診療していただいている主治医が、水曜日だけの診察だと言うので、この日にあわせたのでした。(ところで訂正です。92歳の父と書いたのは誤りで、正しくは94歳でした)


朝の7時前に我が家を出発し、実家に着いたのは9時。父母とともに病院へ向かい、30分弱で病院に到着。おとろえた足で窓口まで向かい、受付を通過したのは10時でしたが、診察までの待ち時間は相当のもの。そのあといくつかの検査を経て、医師の説明をうかがうことができたのは、午後2時という按配でした。


「点滴と、より精密な検査のために短期間入院してみますか」との医師の勧めに、最近、何事もおっくうがることの多い父が、珍しく同意を示しますので、急遽そのまま入院する運びとなりました。


翌日、入院グッズをいろいろ揃え、病室まで届ける必要から、その夜は実家に一泊することにしました。面会は午後一時からとのことで、時間にあわせて病院へ。しかし、コロナ対策のため、面会や見舞いは禁止。一人限定でナースセンターを訪ね、看護師さんに荷物を預かっていただくことになります。ただ、老齢の母を配慮して、私の同行も認めてくれましたが・・・。


モズの高鳴きを聞き、姿も見ましたが、撮影チャンスはありませんでした。実家近くで、ホオジロだけ写しておきました。


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


そんなこんなでバタバタしているうちに、「新総裁岸田氏が・・・」「組閣の行方は・・・」などのニュースが流れてきて、プチ浦島太郎感覚を覚えました。総裁選の成り行きは、私にとって深い関心事ではない、と横目で眺めていたのではありますが、党員票の行方も決選投票なるものの経過も、まったく確認しないうちに、キシダ新総裁」がわが物顔で振る舞っているを目撃すると、想定通りとはいえ、寝過ごした朝のような落ち着かない気分になります。


それにしても、想定を超えて興ざめなのは、副総裁にはアソー氏、政調会長にはアベ氏を背後霊に持つサナエサン、そしてこともあろうに、幹事長にアマリ氏とは、、、、あまりと言えばあんまりな・・・。ジミントーサン、とことん歪んでますな!!


リテラのこの記事が、早速喝破してました。


昨日29日の自民党総裁選で新総裁となった岸田文雄氏は、第一声で「『生まれ変わった自民党』をしっかりと国民に示さなければならない」と宣言したが、一体これのどこが「生まれ変わった」というのか。本日、岸田氏が幹事長に甘利明・税調会長を、政調会長に高市早苗氏を起用する意向を固めたというからだ。

「生まれ変わった」どころか、その顔ぶれは安倍晋三・前首相の側近と腹心。ようするにこれ、「安倍体制の強化」が打ち出されただけではないか。

なかでも度肝を抜かれたのが、「甘利幹事長」という人事だ。
いくらなんでも甘利氏を、自民党の財政から人事までをも掌握し、さらには国会運営にも影響力を持つ幹事長のポストに就かせようとは、完全にタガが外れている。言わずもがな、甘利氏はいまだに「口利きの見返りで1200万円」という金銭授受問題で説明責任をまったく果たしていないからだ。

あらためてこの問題を振り返ろう。事の発端は甘利氏が経済再生担当相だった2016年1月、千葉県の建設会社・薩摩興業の依頼で都市再生機構(UR)へ移転補償金の値上げを“口利き”した見返りに、少なくとも総額1200万円の現金や飲食接待の賄賂を受けとっていたと「週刊文春」(文藝春秋)がスクープしたことだった。

〈中略)

どこからどう見ても“真っ黒”な経済再生担当相の大スキャンダル──。「週刊文春」の報道を受けて甘利氏は経済再生担当相を辞任したが、その会見では計100万円を受け取ったことを認めたものの後に政治資金収支報告書に寄付扱いで記載したと弁解し、「あっせん利得」の疑惑をかけられているのに政治資金規正法違反に当たらないと強調。挙げ句、涙を浮かべて「『秘書のせいだ』と責任転嫁するようなことはできない」「政治家としての美学」「政治家としての矜持」などと辞任理由を並べ、マスコミは“勇退”ムードをつくり上げた。

しかも、甘利氏は大臣を辞任すると「睡眠障害」を理由に約4カ月にわたって国会を欠席。「(秘書の問題は)しかるべきタイミングで公表する」などと言って大臣を辞めた人間が、参考人招致や証人喚問から逃げて雲隠れし、通常国会が閉会する前日に不起訴処分が発表されると、それから約1週間後に活動再開を表明したのだ。(後略)


歪んでいると言えば、こちらの写真・・・。


PENTAXQS1に魚眼レンズ03をつけてのお散歩写真です。


IMGP8473


IMGP8476


IMGP8478


IMGP8474


IMGP8501


IMGP8503


下は同じ組み合わせで、今朝のお散歩写真です。


中空に細い月が浮かんでいました。


IMGP8523


ムクゲと夜明けの空。


IMGP8526


コスモスと夜明けの空。


IMGP8532


IMGP8537


IMGP8529


IMGP8538


今日はこれにて。


nice!(26)  コメント(8) 

平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好き、の巻 [日録]

激しい雨が続きます。


皆様、ご無事でしょうか?


昨日は、新しい車の長距離運転テストも兼ねて、郷里に帰ってきました。


思わぬ場所に、全面通行止めの箇所があったりして、警戒感がそそられます。墓地のあたりから見下ろすと、川の濁流が、いつになく凶暴な様子を呈しているようです。


IMGP3187


IMGP3186


未だかつてないような、降雨が各地を見舞い、災害の情報も続いています。これは昨日の警報どの状況です。


keiho


一夜明けて、今日は、我が地方は、激しい雨はややおさまり、時折晴れ間ものぞくようになりましたが、全国の被害状況は深刻。さらに警戒が必要とのこと。気候変動も、感染症パンデミックも、詰まるところ歯止めのない乱開発・急激な自然破壊にたいする、地球からのしっぺ返しにほかならないのでしょう。SDGsの目標達成に、もはや猶予はないという警告とも言えるでしょうか。


最近の朝散歩のストック写真です。


八月七日。


pentaxk-1ⅡにSMCpentax100mmMACROを着けて写しました。


常山。


K1IM0588


アブラゼミ。


K1IM0585


サツマイモの葉の上のツチガエル。


K1IM0624


ツユクサ。


K1IM0565


八月八日。


PENTAXks-1+sigma70-300mm macroです。適宜トリミングしています。


ナミアゲハ。


KS_17886


コスモス。


KS_17892


常山。


KS_17904


稲葉の露。


KS_17900


飛ぶシラサギ。


KS_17934


イタチ。


KS_17925


KS_17919


ツチガエルたち。


KS_17941


KS_17936


KS_17945


KS_17958


八月十日。


PENTAX ks-1+TAMRON18-250mmにて。


田園風景。


KS_17987


稲田のアオサギ。


KS_17985


電線に止まるカワウ。


KS_18007


KS_18009


八月十三日。


雨なので、防塵防滴仕様のPENTAXk-30+smc PENTAX-DA 18-55mm F3.5-5.6 AL WR。


稲田の向こうの山の姿が雲に隠れて見えません。


IMGP3172


IMGP3175


アサガオ。


IMGP3167


IMGP3170


ツキミソウ。


IMGP3173


IMGP3174


今日は76回目の終戦記念日。


ちひろ美術館のブログ記事が心にしみます。


https://chihiro.jp/tokyo/blog/26091/


終戦の日に

2021.8.15 /その他

本日2021年8月15日は、76回目の終戦の日です。
いわさきちひろは青春時代に戦争を体験し、のちに次のように語っています。

「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」
いわさきちひろ 1972年

ちひろの描いた子どもや花は、いのちと平和の大切さを今も語り続けています。
https://chihiro.jp/forpeace/


今日はこれにて。


nice!(32)  コメント(4) 

父の日の長福寺、の巻 [日録]

昨日は父の日。


遠方の家族も、ラインでやりとりでき、互いの安否を知ることができます。


妻と一緒に、郷里の老父の顔を見に行ってきました。緊急事態宣言中とあって外食もままなりませんので、スーパーでお弁当とショートケーキを買い込んで、ノンアルコールビールで乾杯、お家会食です。


帰り道、長福寺三重塔に立ち寄ってみました。


IMGP3128


IMGP3139


たしか、アジサイがあったはずだと思ったのですが、記憶と違い、等から離れた場所に、一株だけでした。


00ZZ0007


IMGP3133


IMGP3134


IMGP3131


IMGP3135


KS_17735


以前、この記事で紹介した写真には、もっと盛大なアジサイが写っていたのですが、、、


作品展出品候補作品、の巻(2018-07-04)


そして、長福寺三重塔を写したこの中から数枚選んで出品しました。

「折々の美作長福寺」

s-R0014663.jpg

s-P4211880_1.jpg

s-P4211848_2.jpg

s-P4211830.jpg

s-E3024355.jpg

s-_K524716.jpg

s-_K524707.jpg

s-_K521401.jpg

s-_K521384.jpg

s-_K521381.jpg

s-_K521304.jpg

s-_K521290.jpg

s-_K521278.jpg


毎年恒例のこの写真展は、去年も今年も、コロナのため中止です、寂しいことです。


夕食は長男宅にお呼ばれして、ビールとカレーライスをご馳走になりました。


きょうは夏至だそうで、一年で最も昼が長い日。朝から晴れて、余計に日が長く感じられました。


IMGP3147


IMGP3153


今日はこれにて。


nice!(31)  コメント(2) 

当地も緊急事態宣言真っ只中、の巻 [日録]

公私ともに、ちょっと忙しがっている間に、いろいろなことがありました。


中でも影響が大きいのは、我が県もコロナの蔓延がとどまるところを知らず、緊急事態宣言が出されたこと。


こちらは、県のHPです。


pref


10万人あたりの感染者数は、あの大阪を抜いて第3位だそうです。容易ならざる事態です。


その影響で、予定がいろいろ変わり、生活スタイルの変容も余儀なきところです。


小5の孫は、今日予定されていた「海の学習」が中止になり、給食はないのでお弁当を持って学校で授業だそうです。部活に熱中している中二生も、高校生活余すところ僅かの期間の部活に未練を残す高三生も、しばらく部活は休止。思うようには参りません。


毎週水曜日に通っている教員相談のボランティアも、相談活動休止ということになり、そのためきょうはスケジュールが空いて、郷里の老父母を訪ねることができます。




予定されていた集まりも、つぎつぎに中止になりました。大きなものとしてはこれも中止。


nenkinsosyogenkokukaigi


その前日、土曜日にはこの「つどい」がありました。


会場参加のリスクも慮られ,web参加にしようかと、直前まで迷いながら、結局は出かけてきました。



講師の鈴木大裕さんはこんな人。こちらに記事多数https://webronza.asahi.com/authors/2018061800002.html


鈴木大裕(すずき・だいゆう) 教育研究者 土佐町議会議員

鈴木大裕

16歳で米国に留学。1997年コールゲート大学教育学部卒、1999年スタンフォード大学大学院修了(教育学修士)。日本に帰国し2002年から千葉市の公立中に英語教諭として6年半勤務。2008年に再渡米し、フルブライト奨学生としてコロンビア大学教育大学院博士課程へ。現在は高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組むかたわら、執筆や講演活動を行う。著書に『崩壊するアメリカの公教育:日本への警告』(岩波書店)


鈴木氏は、「先生」ではなく「ダイユー」と呼んで欲しいとおっしゃいます。で、私も、会場での質問・発言のなかで「ダイユーさん」と呼びかけてしまいましたが、いろいろ言ったあとで、「退職教員や、現役の教師に対していいたいことをひと言で」なんて、チョー安直な、かつ難しい質問をしちゃいました(油断してたのに、いきなり「当てられ」て発言機会を与えられ、考える暇もなかったので)。


ダイユーさんは、「退職教職員は『希望の星』、いろいろな活動に、元気に伸び伸びと参加している。”良い時代”を知っている皆さんが、今の絶望的な状況しか知らずに日々呻吟している現職の人たちに、あるべき教育や職場の可能性に気づかせる役割を果たしてほしい(kazg勝手訳)」旨強調されました。


確かに、私たちは「良い時代=まっとうな時代」を知っていて、それがだんだんと冒されてきた経過を身をもって体験してきた世代です。


そのあたりの愚痴は、以前こんな記事に書きました。


はてさて?大競争狂騒曲とな?の巻


以前(2004年)、こんな文章を、ある教育系雑誌に投稿したことがありました。「10年ひとむかし」と言いますがそれ以上の昔の話です。でも、読み返してみて、今なお、根本的な変化(改善)は、認められないと思えましたので、ここに再掲させていただきます。


岡山発「大競争」狂騒曲
一、トカトントン、あるいはハラホロヒレ
太宰治に「トカトントン」という小品がある。玉音放送の後、なお「徹底抗戦、自決」を叫ぶ若い中尉の姿に厳粛を感じた「私」は、「死のう、死ぬのが本当だ」と決意する。が、折しも兵舎の屋根からトカトントンと金槌の音が聞こえ、なぜか途端にすべてが白けてしまう。高校教師出身のミステリー作家、北村薫氏が、エッセイ集『謎物語ーあるいは物語の謎』で、これに触れておられるのを、最近、愉快に読んだ。
「たとえば、太宰の『トカトントン』を読んで、何も見えない人に向かい、《トカトントンはハラホロヒレである》と言ってしまうのが評論家ではないか。そのおかげで何かが見え、《ああ、そうか》という人が出て来る。/すると別の評論家が《いや、あれは断じてハラホロヒレではない。ガチョーンである》と演出するのである。そこで、まことに不敬ではあるが《トカトントン》を《ハラホロヒレ》に差し替えれば、こういうことになる。/もう、この頃では、あのハラホロヒレがいよいよ頻繁に聞こえ、新聞を広げて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、ハラホロヒレ、局の人事について伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、ハラホロヒレ、(中略)もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもハラホロヒレ、自殺を考え、ハラホロヒレ。」(中公文庫p二一〇)
二、「人皆か 吾のみやしかる」(山上憶良)
私は、五年間の夜間定時制経験を経て、「普通科単位制」を掲げる現任校での三年目を迎えている。当初、高速道路に自転車で迷い込んだような不安と居たたまれなさに、心身の不調が続いた。ある不登校経験者は、「校門が近づくと、ゴオッと大型ダンプに襲われるような威圧感を覚えた」と述懐していたが、今日の学校状況に内在するある種のテンションは、教師をも射すくめるものらしい。定時制では、多くの生徒が「三K=競争・脅迫(強迫)・強制が少ないから好き」と異口同音に語るが、その受容的な空気やゆったりとした時間感覚の対極に、今置かれている、と感じる。
もう十年近く前、高一で不登校のただ中にあった我が長男が、一切の「学校的なもの」に、怯え混じりの嫌悪を示したことがあった。その感性に波長をシンクロさせることで自己の安定を維持してきたせいか、私には「学校の息苦しさ」に過敏に反応する傾きがあるのだろうか。あるいは、五十代に入り教職最後の十年を消費しつつある私の適応能力にとって、環境の変化がいささか過酷に過ぎたかもしれないと解釈してもみる。
三、「一将功成って万骨枯る」(曹松)
だが、それらをさておいても、職場は多忙だ。どの学校でも、年々それは強まっている。
新指導要領実施に伴い、「総合的学習」の導入、シラバス(年間授業計画)作成、観点別評価など、教育内容・実務において激変とも言える変化が生じている。学校五日制で、逆に平日の過密化が進んでいる。「自主的」と称して、土曜日も補習講座に拘束される状況が広がっている。
近年、岡山では、長く続いた小学区・総合選抜制が廃止され、「特色づくり」の名による差別化と、「生き残り」強迫にせかされての熾烈な学校間競争が仕組まれてきた。例えば私の学校では、地域四校の総合選抜廃止に対応して、県下初の「普通科単位制」、「65分授業」、「2学期制」へと大幅な転換をはかることで、かつての兄弟校との序列競争・中学生獲得競争を生き延びようとしてきた。
今、こうした多大なエネルギーを傾注しての「特色づくり」の努力を総括・吟味する間もなく、県下全域に及ぶ大規模な高校再編(リストラ)が、問答無用で強行されている。それは、これまで職場や地域で培ってきた「学校づくり」の蓄積や合意を乱暴に消去・リセットする一大クーデターの様相を呈している。教職員、生徒、父母・住民という当事者が、学校づくりの主体から遠ざけられている。
これらの経緯の中で、「一将功成って万骨枯る」という事態が、少なからず現出している。手柄を買われて「栄達」の道を歩む元同輩を尻目に、茫々たる荒れ野に置き去りされた「兵卒」たちは、言いようのない徒労感と無力感にとらわれている。だが、スクラップ化の運命にある学校でも、「今いる生徒たちにはつらい思いをさせない」ために、涙ぐましい粉骨砕身を続けている。
四、再びトカトントン、あるいはハラホロヒレ
「進学校」を掲げる諸校の例に漏れず、我が校でも、ほぼ夏休み一杯進学補習が続く。新任の校長は、その期間に全教員と順に面談をするとおっしゃる。曰く、「進学重視型普通科単位制高校として、地元国立大学を中心に、進路目標を実現させることが重要。そのために、自分は何がしたいか、また、何ができるかを、聞かせてほしい。」近隣校でも、同様の動きが流行中との情報を、呆れた思いで聞いてはいたが、いざそれに当面すると答えに窮してしまう。
私の場合は、盆明け早々の補習の午後、校長室に呼ばれて開口一番「この学校のために何がしたいか。何ができるか。」へえ、本当にそうきましたか。日頃の仕事へのねぎらいの言葉すらなく?
私「いろいろ考えましたが、私にできることはなさそうなので、来年の三月にはよろしくお骨折りを願いたい。」/校長「それは、転勤希望と言うことかね。」/私「はい。」/校長「わずか三年目で、どういう事?」/私「前任校では、一応自分なりに自己完結したという思いがありましたが、この学校では、役割が見いだせない。仰るような学校には、別の適任の方がありそうです。」/校長「定時制の方がよかったと?では、どうして転勤したの?」/私「通院と健康管理の上から昼間の学校を希望したら、縁あって本校に。転勤に際しては前任校の校長にも本校の前校長にも義理を感じて、自分に鞭打って働いてきましたが、石の上に三年いても根が生えそうにありませんので・・」
語りつつ、私の耳にしきりにトカトントンが聞こえて、平静でいることが難儀だった。あるいはいっそ、ハラホロヒレ、ガチョーンと、口に出してしまいたい衝動に駆られる。衝動に駆られながら、その感情の正体がつかみかねていたが、後で胃の痛みとともにはっきりと気づいた。不当な仕打ちに対する屈辱感と、傷ついた自尊感情への憐憫。そして、全国津々浦々でこのような愚劣な問が発せられる状況のへの寒々とした白け。
「学校のため、君は何がしたいか、何ができるか」この問は言外に、「まつろわぬ者、働きが足りぬ者はおらぬか。”不適格”の烙印がイヤなら進んでもっと働け。さもなくば立ち去れ」という頭ごなしのメッセージを含んでいよう。そのような不信感むき出しの脅迫に怯え、失敗やつまづきへの不安にかられながら、果たして、教育という創造的な営みが成りたつのだろうか?さらに、この問は、従順なだけでなく、「上意」を自ら先読みし、すすんで遂行する「忠誠」競争を強いるものだ。だが、互いの事情や条件をふまえた、職場の合意形成への努力やプロセス抜きに「これがやりたい、あれがやれます」と名乗り出るお調子者が輩出したとしても、そんな学校に何が期待できるのだろうか?
小一時間に及ぶ、その日の校長面談の模様を克明に綴る気力はないが、もう一つだけ問答を付け加えておく。
校長「本校についてどう思う?」/私「みなさん忙し過ぎませんか?」/校長「定時制と比べたらね。だが、他の普通科進学校より特別に多忙だとは認識していない。」
職場の民主的リーダーたるべき校長が、職員の希望や提言に直接耳を傾けながら学校づくりをすすめる事は歓迎だ。その糸口となるなら、という微かな期待は、しかし、問答無用で切って捨てられた。再びトカトントンに襲われて、私は沈黙した。が、その沈黙を、後でひどく後悔した。その論法は、「職場に憲法なし」「働くルールの確立を」という要求に、どこそこの国よりましだろうとうそぶく経営者と同じではないか。そもそも人間として許せない酷い状態を、まだ下があるからと合理化されては困る。
その時言いそびれたことを、かいつまんで事実のみ記す。①私の転勤の前年。単位制移行のただ中に、S先生が38歳の若さで急逝。「次は自分かも」という不安を誰もが拭いきれないまま、慢性的なオーバーワークの実態は衰えをみせない。「健康は自分で守って下さい」「勤務時間が過ぎたら、帰れる時には出来るだけ早く帰ってください」という管理職の言葉が、苦笑混じりに聞き流される。②この4月、年度初めの勤務を終えて帰宅されたF先生が、ひとり暮らしのアパートで倒れ、意識不明のまま二日以上も推移して発見された。緊急入院・手術を経て、幸い生命に別状はなかったものの、復帰の見通しはなお立たないでいる。③今年転勤してこられた一人職種のT先生は、夏休み以来、長期の病気休暇に入られた。これらの欠如をお互いの「奮起」で補い合いながら、学校の歯車はうなりをあげて高速回転を続けている。この回転の先に、子どもと教育の未来の、信じられる者は幸いである。私の耳には、トカトントンが響いてやまない。


この状況に、今なお改善が認められないどころか、むしろ、抜き差しならない深刻な事態が進行しているとさえ思えてなりません。
文章執筆からまもなくして登場した第一次安倍内閣は、「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」と明言して戦後民主主義教育の制度と内容を支えてきた「教育基本法」(1947年制定)を乱暴に改ざんして、「愛国心」と競争を煽る「教育改革」をすすめてきました。
第2次内閣以降も、「強い日本をとりもどす」ための「教育再生」を重点政策にかかげて、
1:「教科書改革実行プラン」などの教科書政策に見られる国家主義的な「思想統制」、
2:「心のノート」改訂版や「道徳の教科化」に見られる新保守主義的な「人格統制」、
3:「小中一貫教育の制度化」などの「学校教育システムの再編」案に見られる新自由主義的な「教育機会の制度的格差化」、
4:全国学力テストの学校別結果公表や大学入試改革に見られる成果主義的な「教育統制」、
5:教育委員会制度改革により促進されかねない学校現場・教職員の管理主義的な「行政的統制」 (藤田英典『安倍「教育改革」はなぜ問題か』-岩波書店-参照)
など、がんじがらめの教育統制をすすめながら、教育を、国家と財界の利益に奉仕する道具に変質させる動きを強めています。
こうしたもとで、私の住む岡山県でも、賃金リンクを伴う教員評価制度の導入や、業績を上げた学校への報奨金制度の創設など、教育の条理を無視した民間企業経営の(安直な)手法によって、学校、教師、子どもたちを、容赦なく際限のない競争に巻き込んでいます。ちなみに、後者の報奨金制度 (頑張る学校応援事業)は、民間企業経営者(地元百貨店の世襲社長)出身の知事の肝いりで、「全国初の試み」として2年前に導入された事業。全国学力テストの成績が低迷していることなどから、現ナマのご褒美で学力アップをはかろうという、何とも下品な着想です。
「市内のどの学校も頑張っている」と、受け取りを拒否した玉野市など、良識ある対応がむしろ新鮮にうつるるほどの状況が、うら寂しさをつのらせます。

(後略)


そして、今の現役教師の皆さんは、教師としての出発時点から、息苦しい窒息状況を「普通の状態」と受け入れつつ教師生活を歩んでいるのかも知れません。ダイユーさんが紹介された、教育学部で教えるご友人のジレンマ---「この学生達を、今の教育現場に送り出すことが、果たして是なのか?」という自問が、決して驚愕なしに受け入れられてしまう今日の職場状況が、確かにあります。仮に鬱陶しがられ、迷惑がられても「これが決して本当ではないよ、教育にはもっと別の可能性があるはずだよ」と、外からメッセージを送り続ける役割が、退職教職員には今なお求められているのかも知れません。


それにしても、ダイユーさんのお話しを聴けば聴くほど、彼が研究対象とし、警鐘を鳴らし続けておられるアメリカの新自由主義的教育「改革」の大波が、遅れてじわじわと私たちを飲み込み、その毒が日増しに私たちを息苦しく窒息させて来ていたのだと、改めて思い知りました。


本題から離れますが、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』、大田 堯『教育とは何か』など、個人的に愛着のある作品が引用され、あれあれ、と引き込まれました。シカゴの教員組合の話題も、以前この記事に書いたサラ先生のことを思い出しながら聴くことが出来ました。


はしごもさすがに2軒が限度?の巻


午後は「シカゴ&岡山教育交流のつどい」と題して、アメリカ・シカゴから訪日されているサラ先生に、アメリカの教育事情をうかがう企画。

学力テストの成績を学校統廃合に結びつける動きに、広範な教職員、市民、生徒達が立ち上がりました。運動の先頭に立った若い女性教師サラ・チェンバース先生らは、当局ににらまれて馘首されますが、、、、。




深刻化する全国状況を受けて、全国的会議をzoomで行う機会も各分野で増えたようですが、私の関係する退職同業者の集まりでも差し迫られることになりました。要領がわからないのでできるだけ避けていたのでしたが、いずれ劣らぬ高齢者同士の中、とうとう借り出されることになり、17日(月)には全国各地のお仲間との接続テスト。若者の手助けも得て、どうにか成功しました。その際の最初の呼びかけの言葉「岡山、大変ですね」まったく全国レベルのうれしくない注目度です。


この同業者の会、実は先週の火曜日、会議が予定されていたのをすっかり失念して(予定表に記録していませんでした)すっぽかし、のんきに田舎へ帰って畑仕事をしてました。帰宅後に、責任者のFさんからお電話をいただき、うかつな失策に気づかされましたが、きついおとがめもなくまずは安堵した次第。代わりというわけでもないでしょうが、ちょっと骨の折れる原稿書きを仰せつかりました。それ以来、始終パソコンに向かうも少しもはかどらす、気が重く心が晴れません。


と言うわけで、「気分転換」のに、久しぶりにブログ執筆に取りかかりましたが、またまた冗長な文章になりました。


緊急事態宣言の影響で、各種の公的施設の閉館、休業が相次いでいます。たちまち私に直接関係あるところでは、図書館閉館のため、 いつも運転中に聴くための朗読CDが借りられません。「卓球を楽しむ会」の会場も閉館です。後楽園も休園になってしまいました。


先日の後楽園散歩は、梅雨入り前の雨の日でしたが、露を宿した梅が、もうすっかり熟していることでしょうか?


IMGP2973


後楽園散歩の記事、まだ続きを予定していますが、さすがにきょうはここまで。


nice!(33)  コメント(4) 

コロナにも負けず黄砂にも負けず九の日行動、の巻 [日録]

黄砂が襲来しています。我が地方ではしょっちゅうのことで気にも留めないでいましたが、全国ニュースによると、東の地方にも珍しく影響が及んでいるそうです。


黄砂の影響は、鼻水、くしゃみや、涙、目のかゆみなど体調変化でそれと知れます。症状的には単なる花粉症と区別がつかないけれども、必ず累乗効果があるに違いないと経験的に感じています。少ない車のボディやウィンドウが真っ黄色に汚れますので、これが体内に吸入されたら影響がないはずがありません。黄砂は単なる黄河の埃ではなく、ミクロサイズの各種化学物質・汚染物質の凝縮体なのでしょうから。


特に、昨日今日の空の眺めは、「霞か雲か見渡す限り」としゃれている場合ではありません。


これは昨日の早朝散歩の眺めです。


R0019276


image


image


一面の麦畑がいつも以上に黄金色がかって見えるのは、熟れて色づき始めているのか、それとも黄砂のせいなのでしょうか?


下は、同じあたりの今朝の様子です。


視界がかなり遮られます。


P5090028


R0019276


R0019303


   P5090034

  ところで、同じ麦でも、見た目の異なる品種もあるようです。


P5090035


P5090038


P5090040


これをもとに、今日書こうと思いついた記事は、大昔に書いたこの記事の焼き直しだったと気づきました


今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。

近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。

「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。
五月晴れの散歩道。(中略)

麦畑が様々な表情を見せてくれます。ついつい、何枚も写してしまいます。

_IMG1431_R.JPG

(中略)

この付近の、ほとんどの麦畑に植えられているのは、ビール麦のようです。

ビール麦は二条大麦と呼ばれる大麦で、穂についている実の列数が、上から見ると二条であることから名付けられたそうです。
ちなみに大麦には、結実する穂の数により、小花が六条に並んでつく六条種が有り、これはもっぱら食用に用いるそうです。

もし、9条があったら、宝物にするのですが。

一方、この種類の麦も、所々で見かけます。 今ちょうど穂に花が咲いています。

小麦ですかね?

_IMG1198_R.JPG


ところで、今日は五月九日。地元「九条の会」恒例の「九の日行動」で、午前9時から一時間、スタンディングを行いました。寒くもなく、暑くもなく、雨もなく、快適な条件でしたが、少々風が強いのと、コロナの影響が「カコサイタ」を更新していること(ニュースで「カコサイタ」の語が耳に入ると「サイタサイタ」と不謹慎なリフレインを繰り返してしまったりします)、さらに黄砂の来襲が、なんとも心を曇らせます。が、それにも負けず、スタンディングは元気に遂行しました。


参加者の方々との、あれこれの雑談のひとときが、いつも通り愉しく、知的好奇心をも満たしてくれる充実の時間でしたが、その詳細は割愛します。


気になっていた一点を、農家のSさんにお尋ねしてみました。つまり、近隣で栽培されている麦の種類はいかん?


すると、ビール麦として契約栽培している二条大麦が多いが、小麦、もち麦の三種が栽培されている、のだそうです。大麦と小麦の見た目の違いは、ノギの形状にあるそうです。傍らにおられたQさんによると、熟れたらビール麦は金色、小麦は焦げ茶色になり、色がまったく違うのでわかる、とのこと。そう言えば「小麦色」という形容がイメージさせるのは、黒褐色に日焼けした健康的な肌の色ですね。


実は、最近のネット検索の中で「ノギ」という言葉にぶつかっていたところです。ウィキペディアにこうあります。


芒(のぎ)は、コメ、ムギなどイネ科の植物の小穂を構成する鱗片(穎)の先端にある棘状の突起のこと。のげ、ぼう、はしかとも言う。ススキのことを芒とも書くが、これに似たイネ科の植物にオギ(荻)がある。ススキには芒があるが、オギには芒がない。二十四節気のうち芒種(ぼうしゅ)は、芒を持つ植物の種を蒔く時期のことである。また、陶器などの表面に現れる芒状の細長い斑紋を芒になぞらえて芒目(のぎめ)と呼ぶ。


「ノギ」には「禾」の文字を当てることもあるそうです。これで漢字の部首「ノギヘン」の理解が深まりました。同じくウィキペディアを探ると、、、


「禾」字はイネ科植物のアワを意味し、その穂が垂れる様子に象る。

黄河文明の主食はアワであり、長江文明の主食であるイネは殷周時代を通じて華北では作られることはなかった。また現在の主食であるコムギも後に伝来した。このため「禾」は穀物の代表であり、穀物一般の総称としても用いられた。

後代にはイネを意味するようになった。「米」が実だけを指すのに対し、「禾」は茎や穂を含めた全体を指している。

偏旁の意符としては穀物や農業に関することを示す。

禾部はこのような意符を構成要素に持つ漢字を収める。


なるほど。知りませんでした。


最後に、大麦と小麦の「ノギ」の形状の違いについて。


おいしい大麦研究所のHPに知っているようで知らない大麦と小麦の違いという記事から、一部引用させていただきます。


麦の粒が大きいのが大麦で、小さいのが小麦?そんなイメージがありますが、「大麦」「小麦」という名前は、実は粒の大きさとは無関係です。名前の由来は諸説あり、一説には大麦の葉は小麦よりやや短いものの幅が広く、発芽したての段階では大麦のほうが大柄に見えるため、「大麦」「小麦」の呼名がついたといわれています。

また、両者の違いは、背丈や葉の幅よりも穂から出ているひげのような突起の「禾(芒/のぎ)」に現れており、禾が長く穂よりも上に出ているものが大麦、短くて不揃いなのが小麦ともいわれています。しかし品種によっては大麦でも禾が短いものもあるため必ずしもそうとは言えず、穂の子実が上から見て対角線上に並んでいるのが大麦であると見分けるのが良さそうです。


ウィキペディアにも、大麦、小麦、もち麦のそれぞれについて詳細な解説が載っていますが、これまた一部引用させていただきます。


「オオムギ」は漢名の「大麦(だいばく)」を訓読みしたものである。「大」は、小麦(コムギ)に対する穀粒や草姿の大小ではなく、大=本物・品質の良いもの・用途の範囲の広いもの、小=代用品・品格の劣るものという意味の接辞によるものである。大豆(ダイズ)、小豆(アズキ、ショウズ)、大麻(タイマ)の大・小も同様である。伝来当時の漢字圏では、比較的容易に殻・フスマ層(種皮、胚芽など)を除去し粒のまま飯・粥として食べることができたオオムギを上質と考えたことを反映している。
また、オオムギをはじめ、コムギ、エンバク、ライムギ、ハトムギなど、姿の類似した一連の穀物を、東アジアでは総称してムギと呼ぶ。こうした総称はヨーロッパには存在せず、barley(大麦)、wheat(小麦)、oat(燕麦)、rye(ライ麦)のようにそれぞれの固有名で呼ぶのみである。
(中略)
オオムギの穂は基本的にすべて6列である。二条と六条の差は、実る穂が何列あるかの違いであり、読んで字のごとく2列実るのが二条オオムギ、6列すべてが実るのが六条オオムギである。実るのが2列だけであるぶん、二条オオムギの種子は大きく、大粒オオムギとも呼ばれる。これに対し六条オオムギはすべての列に種子が実るため種子が小さく、小粒オオムギとも呼ばれる。ただしすべての列に種子が実るため、全体の収量としては六条オオムギのほうが多い。
二条オオムギは主にビール生産用に栽培され、ヨーロッパで栽培されるオオムギの多くは二条種である。これは、二条種は種子の一粒一粒が大きく、しかも大きさがよくそろっているので、醸造の管理がしやすいからである。それに対し六条オオムギは収量が多く、オオムギを穀物として食べる地域においては六条種を主に栽培する。
(中略)
二条種と六条種は皮が実と糊状のもので固着しており、はがすのが難しい。この固着はオオムギだけの特質であり、コムギなどのほかのムギでも、コメなどほかの穀物においてもこういったことはない。皮をはがすのが難しいため、これらは皮麦(カワムギ)とも呼ばれる。それに対し、六条種の突然変異で糊状のものが存在しないものが生まれ、揉むだけで皮が簡単にはがれる品種が生まれた。これがハダカムギである。ハダカムギは食用にするのがより簡単であるため、チベットや日本といったオオムギを重要視する国々において多く栽培されるようになった。(中略)
また、上記の品種はすべてうるち性であるが、日本を含む東アジアにはもち性のオオムギも存在する。もち麦は日本ではもち米の代替として西日本中心に栽培され、団子などがこれで作られた。
特に日本で生産されるのは二条オオムギ、六条オオムギ、ハダカムギが多い。二条オオムギは明治時代以後にヨーロッパより導入され、ビールなどの醸造用の需要が多くビールムギとも呼ばれる。これに対し、六条オオムギとハダカムギは古来より日本で栽培されてきた品種である。六条オオムギは押し麦や引き割り麦などにして米に混ぜるなど雑穀としての使用が多く、また麦茶の原料ともなる。ハダカムギも同様に使用することはできるが、味噌の製造に使用されることが多い。


nice!(38)  コメント(2) 

立夏とな?の巻 [日録]

せっかくの大型連休ですが、例年のようには家族が集まれません。特に大阪在住の孫一家とは、テレビ電話での会話で安否を確かめるしかありません。


五月三日、憲法記念日。アベさんのならいを踏襲して、スガさんも、改憲派集会にビデオッセージを送り、改憲の口実としてコロナ対応を持ち出していらっしゃるそうな。


菅義偉首相は憲法記念日の3日、改憲派の集会に自民党総裁としてビデオメッセージを寄せた。新型コロナウイルスの感染拡大に触れ、大災害などの時に内閣が国民の権利を一時的に制限する「緊急事態条項」に関し、「極めて重く大切な課題」と語った。その上で、同条項や、憲法9条への自衛隊明記を含む自民党「改憲4項目」の実現をめざす考えを示した。(朝日新聞デジタル記事)


自らの無策を棚に上げた、どさくさ紛れ、火事場泥棒、居直り強盗にはあきれて物も言えません。


上からの一方的な主権制限を受けるまでもなく、庶民は怯えながら自粛の連休を差雨後しておりますよ。我が家では、従姉妹たちと一歳児の男の子が、新緑の自然環境体験公園で、ピクニック。お弁当を食べて楽しい思い出を作りました。


M1030834


M1030818



五月四日、郷里の老父母のもとへ、家族で集まる予定を立てていましたが、コロナを配慮して中止。私ひとりで農作業や生け垣の剪定に出かけてきました。そこへ、大阪の次男から、相前後して長女からテレビ電話をかけてくれ、曾孫達の顔を見声を聞くことができました。


今日の子どもの日はあいにくの雨。暦の上では「立夏」だそうですが肌寒いお天気です。子どもたちはお出かけもままならず、自粛生活継続中。


私は、用事のついでに立ち寄った岡山後楽園を、防塵防滴のカメラ・レンズで写しました。


まずは、周縁の散歩道。朝の時間帯のせいもありますが、人影まばらです。


IMGP2814


IMGP2815


IMGP2817


IMGP2820


IMGP2827


IMGP2830 IMGP2831

IMGP2833


IMGP2835


今日はここまで。


nice!(19)  コメント(2) 

花言葉は「長い友情」、の巻 [日録]

昨日の四月三〇日、年金者組合地元支部と隣接支部との合同交歓会が計画されていました。


yamaaruchirashi_1


今週の半ばは雨続きだっただけに、お天気の具合が心配でしたが、有り難いことにすっかり雨も上がり、久々の好天に恵まれ、チラシ通り「新緑の八丈岩山と小名合池での交歓」を楽しむことができました。


車に分乗して集合した参加者は、いったん小名合池のそばの広場にあつまり、お互いに自己紹介をして集合写真を撮影。そのあと二つのコースにわかれて、初夏の自然を満喫しました。


IMGP2757msk


多少のためらいはありましたが、私は「健脚コース」を選択。快い汗を流しました。


IMGP2761


よい見晴らしです。


IMGP2774


IMGP2763


IMGP2768


IMGP2781


IMGP2785


「新緑」とひと言で言っても、いろいろな木々の瑞々しい青葉若葉が、目を楽しませ、心を洗ってくれるようです。そうしたなかに、あちらこちらに、可憐な木花が咲いていて、同行の方々と「何の花だろうね?」と首をかしげ合いました。M女史が、スマホで写した写真をもとに、帰ってから詳しい人に尋ねてみる、と言ってくださり、その夜、「ツクバネウツギ」の名前をメールで知らせてくださいました


KIMG1022


早速、県本部発行の「年金者しんぶん」に、こんな記事を投稿してみました。採用・掲載されるかどうかはわかりませんが(笑)


私の花言葉

ツクバネウツギ

四月三十日、「新緑の八丈岩山・小名郷池を楽しむ」と題して、倉敷支部・岡山市南区支部合同の交歓会が催された。新緑に包まれた雨上がりの山歩きを楽しんだグループは、八丈岩山の山頂付近で弁当を食べたが、その山道沿いのあちらこちらに、可憐な木花が咲いていた。この花の名は、Mさんの調べでは、衝羽根空木(ツクバネウツギ)だそう。公園の生垣などでよく見るアベリアと同属で、 プロペラ状になる萼片が羽子板の羽(衝羽根)に似ることから名付けられたという。花言葉は「長い友情」。愉しい行事の記憶につながる印象深い花となった。

IMGP2779


取り急ぎご報告まで。


nice!(38)  コメント(2) 

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。