くどい!ようですが、、、の巻 [折々散歩]
朝の涼しいうちにと、散歩に出かけますが、朝日が覗いてくるとすぐに汗が流れ出ます。
くどいようですが、毎年のようにセミの写真ばかり写しています。
空蝉=抜け殻に撮影意欲(笑)をそそられるのは、毎年のことですが、ついつい写してしまいます。
アブラゼミが、一番よく目につきます。
シャンシャンシャンと、家の中までとどろいてきて、思考を妨げ、暑さをつのらせます。「あなかま!」(うるさい!静かに!の意。「あな、かまびすし、の略)という古語がしきりに浮かんできます。
暑さがたけなわになればなるほど、クマゼミの勢いは強まっていくことでしょう。
幼年時、田舎では、セミといえばニイニイゼミが最も一般的でしたが、他の種に比べて大人しいせいか、温暖化に伴ってか、個体数がぐっと減って来ています。鳴き声も控えめで、動きも静かなので、見つけることが酷く困難です。
実は今朝の散歩でも、同じような写真を何枚も写し、その中には少しだけ気に入った写真が残せたかなと期待していたのですが、途中で気がつきました。カメラに、メモリーカードを入れ忘れていました。とほほ。
今日の誕生花は「ムクゲ」だそうです。
昨日の写真を載せておきます。
孫の一人が、今日、三歳の誕生日です。
コロナのため、長く会うことができません。
郷里の父が、家族LINEでお祝いメッセージを載せてくれました。
くどいようですが、同じような話題を、去年のこの記事でも書きました。
夏の日の思い出、の巻
郷里の老父が、『ライン』にこんな写真を送ってくれました。そして、こんなメッセージを添えてくれています。
「7月26日の、誕生日の花は、むくげです。花言葉は、デリケートな美。 柔和です」
「おのずから今日を選びて咲きにけりいちにち花よ白いムクゲよ」
と歌にあるとおり、ムクゲは、朝に咲いて、 翌日の夕には萎む一日花だとされています。
(中略)
ムクゲについて書いた過去記事で、思い入れの深いものを再掲しておきます。散ってまた咲く無窮花や野分ゆく(2016-09-05)
(中略)
「皇民化」の名の下に、名前を奪い、言葉を奪い、愛する花まで奪う?
そんなトンデモバナシを、最近読んで驚きました。
先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。
しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。
つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。(中略)
『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。さらに、こんなことが行われたのだそうのです。
(中略)日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。
(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。
くどいようですが、いつものとおり長い長い引用で、失礼しました。
さらになお、くどいようですが、昨日の地元局TV放送に、再び父が登場しました。前回と同じチャンネルですが、今度は中国地方一帯で放送されたようです。
こんな番組でした。
番組タイトル そ~だったのかンパニー 放送日時 2021年07月25日(日曜日)09:30~ 番組内容 八嶋智人司会で送る中国地方の元気カンパニーを紹介する「そ~だったのかンパニー」。今回は、岡山県美作市で金属を加工する産業機械カンパニー「株式会社 英田エンジニアリング」が登場。1974年創業のカンパニーは、1990年代からコインパーキングでお馴染みのフラップ板の製造を開始。中でも地面に埋まるタイプのフラップ板は、カンパニーが独自に開発した人気商品に。そんなカンパニーが去年8月に開発し、2021年度中国地域ニュービジネス大賞を受賞したのが、高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違い事故防止装置。その画期的な仕組みと開発秘話とは!?さらに、社員の健康と意欲向上を狙った社長の秘策もご紹介! 出演者 八嶋智人・曽田麻衣子
ウィキペディアには、この番組についてこう説明してあります。
『そ〜だったのかンパニー』は、テレビ新広島(TSS)の制作により、FNS中国地方ブロックネットで2012年4月8日から放送されている経済情報番組である。毎週日曜日 9:30 - 10:00(JST、テレビ山口のみ土曜17:00 - 17:30)に放送されている。
孫たちのママが、父の登場場面を録画して、LINEで家族みんなに知らせてくれました。その一部分を静止画でご紹介します。
きょうはこれにて。
続報プラスアルファ、の巻 [家族]
先日記事で話題にしたテレビ番組が、地元局OHK社のHP上で紹介されています。
https://www.ohk.co.jp/data/10839/pages/
一部コピーして紹介します。
アクセルとブレーキの踏み間違いを防げ!美作市の産業機械メーカーが開発した新装置(ビズワン!2021/7/10放送)
次世代を担うキーパーソンの働き方や考え方に迫る「ミライビト」のコーナーです。
自動車のアクセルとブレーキの踏み間違いによる事故を防ごうと、美作市の産業機械メーカーが、ある装置を開発しました。
開発の先頭に立ったミライビトが頭に描くのは、高齢化する地域の活性化です。
美作市の山間部を走る車。運転しているのは***さん94歳。夫婦2人暮らしで、生活の足として車は欠かせません。
(***さん)
「ご存じの通り、店もない病院もない。買い物も。妻だけのせて10キロほど週に1回から2回言っている。たまたま社長に出会い車やめないといけないと言ったら、うちで何とかしてあげると言って見てもらって付けてもらった。」
こう話す**さんの車のアクセル部分につけられたこの装置。
「アイアクセル」というものでアクセルを過度に踏むとブレーキが働く仕組みで踏み間違いによる事故を防ぎます。
この装置を開発したのが、美作市の英田エンジニアリングの万殿貴志(まんどのたかし)社長。今回のミライビトです。
(英田エンジニアリング 万殿貴志社長)
「地元に住んでいたら分かるが車が無かったら生活できない。地元の人が困っているのでそれを何とかできれば今乗っている車をちょっと改造することで安全安心の車になればいいなと思い始めた」
高齢化する地域の課題にどう対応し活性化につなげるかが、ミライビトのビジネスの根源だといいます。
(英田エンジニアリング 万殿貴志社長)
「団塊の世代が高齢化。その人たちが健康的に生活するためには色んな事が整備されないといけない。なのでそのお手伝いができればいいと思う
そのことによって地元も活性化するし当社も並行して伸びて行けば」ミライビトが率いる英田エンジニアリングは、
鋼板を加工するロール成型機の金型を作る産業機械メーカーとして1974年に創業しました。
今では、金属の加工技術を生かし、コインパーキング機器で全国トップクラスのシェアを誇るなど幅広い商品開発にも挑戦しています。
その企業理念は「ちょっと進んだモノ作り」です。
そうした理念の中、ここ数年、ミライビトが力を入れてきたのが「高齢者による車の事故をどう減らすか」でした。
(英田エンジニアリング 万殿貴志社長)
「地元にこの企業があって良かったなという企業になりたいという思いがあり困っている高齢者に健康寿命伸ばして欲しい。
長く働いてきた高齢者が無残な事故にあうのはある意味被害者だと思う。 そういう事故が起きないような製品を作って提供するそれにより地元の高齢者が健康で素晴らしい人生を送る手助けになれば」注目したのは、高齢者のブレーキとアクセルの踏み間違いによる事故。
岡山県警によりますと高齢者の人身事故は過去5年で119件発生(県警返信待ち)し、4人が亡くなるなど危険な事故が後を絶ちません。
それを解決しようとしたのが「アイアクセル」なのです。
今年から本格販売を始めた「アイアクセル」。去年8月、国土交通省から性能認定を受けた後付けペダルで踏み間違急発進抑制装置です。
一番の特徴は、装置を後付け出来ること。車を買い替えなくても乗り慣れた自分の車に取り付けることができるのです。
(英田エンジニアリング 万殿貴志社長)「やはり乗り慣れた車につける方が、お年寄りなので自分の乗ってきた車にまったく同じ感覚でアイアクセルが付くことで違和感なく運転ができるのがポイント」
こうしたアイデアが評価され、「アイアクセル」は、中国地方の独創的な事業を表彰するニュービジネス大賞も受賞しました。
そして今日、地元紙「山陽新聞」にもこんな記事が掲載されていました。
正直な気持ちを申し上げれば、こんな踏み間違い防止装置なんか用のない世の中の方が望ましいと思います。日本全国どんなところでも、「健康で文化的な最低限度の」暮らしに不可欠の、衣食住、医療、行政サービスなどの必要が十分に満たされ、ちょっとしたお出かけにも、便利なゆきとどいた公共交通網が完備していて、、高齢者をはじめ老若男女、誰にも優しい社会であってほしいと思うのです。前回記事にたいするmomotaro様のコメントに対して、こうお返事しました。
momotaro様
自動車産業優先の国策の結果、どんな片田舎でも(片田舎こそ)クルマがなければ暮らせない交通事情になってしまっています。貧乏だった昭和三〇年代、郷里の僻村にも、ゆきとどいたバス路線が巡らされていましたし、徒歩数分のところにある小さなお店で、食品、雑貨など生活必需品は大抵間に合いました。「買い物難民」「医療難民」などの実態は高度経済成長以降に急激に進行してきたことが実感されます。高齢ドライバー問題の一側面です。
最近つくづく、こんなことを思っています。
思えてしまいます。その上、コロナ感染の危険に直面しながらの命がけの競技参加強要。古代ローマのコロシアムで、「剣闘士」同士、あるいは猛獣を相手に命がけの戦いをけしかけて、高みの見物としゃれる有閑貴族たちの悪趣味は、過去のものではなかったようです。
朝散歩の景色も一気に夏模様です。
まずは梅雨明け前のストック写真から。
エノコログサ(ネコジャラシ)
ホオヅキ。
アサガオ。
ヒャクニチソウ。
これはなんでしょう>
フヨウ。
タチアオイ。
てっぺんまで咲くと梅雨が明ける、とかいいますね
。
梅雨明け
郷里の庭のオニユリ。
朝焼け。
そして今朝の日の出。
すっかり夏景色です。
アブラゼミ。
クマゼミ。
きょうはこれにて、
父のテレビ出演!の巻 [家族]
老父がテレビ出演しました。
といっても、ローカル局の地元密着番組で、旧タイプの自動車にも後付けできるブレーキ踏み間違い装置を開発した地元企業の社長さんを紹介するコーナーで、その恩恵にあずかっている利用者第一号として、ひと言インタビューやら運転実技の披露やらの場面を、短時間紹介してくれたのでした。
実は、父は、先日、地元新聞の読者投稿欄に、こんな投稿をしていたのですが、どうやら不採用らしいと落胆しております。
ブレーキ踏み間違い防止措置のこと
高齢者の大きな運転事故は、ブレーキの踏み間違いによるものが多い。高齢ドライバーの免許返納が推奨される事情は十分理解しているつもりだ。
しかし、私の地区にはスーパーもなく、買い物には10km位離れたスーパーへ週一回か二回は必ず行っている。また、毎月、複数の病院へ行き、薬をもらっている。車は、僻地で生きていく上での必需品である。
免許の書き換えは、認知症の検査も問題なくパスした。踏み間違い防止の装置が出来るようになり、市から補助金も出るので、乗るためには絶対取り付けようと思って、車検を受けている店へ相談に行ったが、車が古い型式なので取り付けが出来ないと言われた。町内には新しい設備などを開発しているA会社がある。その社長のお宅が近所にあり、たまたまお会いした機会に私の車は型式が古くて踏み間違い防止の装置が取り付けられないので、運転をやめなければと思っていると話したら、会社でなんとかしてみると言ってもらった。
特別に設計してもらい、取り付けてもらった。半年以上になるが何の違和感もなく、安全運転が出来ている。取り付け後の状況などを、先日、Oテレビ局が取材に来た。離れて暮らしている家族たちも安心してくれているが、私本人が今まで以上に安全運転して、一日でも長く運転したいと思っている。
折も折、2019年4月、高齢ドライバーによる悲惨な「池袋暴走事故」(乗用車が暴走して通行人を次々とはね、31歳の母親と3歳の長女が死亡し、9人が重軽傷を負った事件)の公判が東京地裁で行われ、4月27日には飯塚幸三被告に対する被告人質問が行われ、自らの過失を強く否定した、というタイミングだったことも関係あるのかも知れません。
免許証返納問題については、当ブログの過去記事でも何度か触れてきました。
例えば2019年の年賀状を紹介したこの記事。
今年もよろしく願います、の巻(2019-01-01)
二〇一八年わが家のニュース
(前略)
田舎の父母 父九一歳、母八八歳、おかげさまで健在です。父は、免許返納をどうしようか迷いながらも、もうしばらくは運転を続けるようです。
また、四月にも新聞投稿不採用を話題にしています。
思いつきの津山城址見学、の巻(2019-04-16)
もう一ヶ月ほどで92歳になる老父が、地元新聞の読者投稿欄に掲載してもらったのを励みに、その後も何度か投稿しているのですが、どうもボツになる回数が多いようです。
たとえば、こんな投稿。もうだいぶ前に書いたものですが、掲載の兆しがありません。もうボツだろうと踏んで、こっそり当ブログに紹介させていただきます。
高齢者の免許証の返納に悩んでいる
私の住む地区にはスーパーがない。
毎月1回診察して薬を貰いに行く病院が遠いので、どうしても自家用車で行く事になる。 事故をする前に免許証を返納する人が多いけれど、 私は悩んでいる。
今1週問に1度リハビリにいっているので送迎車利用している。何時も助手席に乗せてもらっているので、 職員の運転手さんの技術を隣の席で良く見ている。 それは本当に模範運転である。 制限速度は厳重に守り、急ぐ車には道を譲り、 信号は黄色になる前に停止する位の絶対安全運転を見習えば、 高齢者も事故をしないと信じている。
週に1回か2回位買い物に行っているが、 妻以外の人は乗せない様にしている。 慣れた道でも夜間や雪の日の運転、 飲酒運転は絶対しないで模範運転を見習って、 事故をしない様1日でも長く健康で連転したいと思っている。高齢者は、できるだけ早く免許返納するよう勧めるのが社会の風潮だから、まだ運転を続けようという投書は載せてもらえないのだろうと、父は解釈しているようです。その父が、免許更新前の高齢者講習を受けることになりました。認知力のテストで、前回よりも何点か下がっていたので、3時間の講習が必要なのだそうです。
示された絵を見覚えて、描いてあったものを思い出す問題で、「ペンギン」という言葉を思い出せなかったこと、トマトを果物に数えたので、「野菜」の数が足りなくて困った、などのことがあったようです。これは、恥ずかしながら、この自分によくある現象なので、他人事とも思えません。
冒頭に紹介したテレビ番組は、あらまし、こんな具合でした。
アナウンサー1 岡山県内で高齢者による アクセル とブレーキ の踏み間違い による事故ってどれぐらいになると思いますか?
アナウンサー2 日々扱うので かなり多いのではないかと思いますね 。
アナウンサー1 岡山県警によりますと過去5年で 人身事故119件発生 して。四人の高齢者が なくなってるんですね。 こういった事故を防ごうと美作市の メーカーがある商品を開発しました。と、踏み間違い防止装置の紹介に入ります。画面に郷里の父母宅近辺の映像と、車庫と周辺道路を運転する父の姿が映ります。
アナウンサー1 美作市の山間部を走る車。 運転してるのは○○さん94歳。 夫婦ふたり暮らしで生活の足として車は欠かせません。
ここで、踏み間違い防止装置開発メーカー社長と父が登場し、自宅前でインタビューを受けます。
さすがに地元に根ざした企業家だけあって、田舎住まいの高齢舎にとっての車の必要性を、肌身を持て感じておられ、こうおっしゃることばが切実に感じられました。
開発メーカー社長 地元に住んでたらわかるんですけど、 車がなかったら生活できないんですよ。 地元の人が困ってられるんで、それを何とか、 できれば今お乗りの車をちょっと改造することによって、 安心安全の車にすることができればいいなと思って、はじめたんです。
先日の記事で、投稿短歌が新聞に掲載していただいたことを書きましたが、その時同時に投稿していてボツになった歌はこんなものでした。
僻村の父九十四老いたれど運転免許まだ手放せず
蛇足ながら、一緒に投稿したのは、これ。
芽吹きたるベニカナメモチ賞めをれば母は昨日の夕焼けを語る
説明を加えないとわかりませんね。父母宅の道路際の垣根に、ベニカナメモチを植えており、春から初夏にかけて、新芽の燃えるような紅色が樹全体を覆い、息をのむほどの美しさ(安直ながら、アベ前首相の言い回しを借りました)に打たれます。しかし、必要以上に背丈が伸び過ぎていることが気になり、遅まきながら初夏になってから私が剪定をしたのでした。せっかくの紅色の若葉が切り落とされて、みすぼらしい様子に心を痛めていたところ、ようやく新芽が再度芽吹き始めていることを話題にしたのでした。耳の遠い母が、聞き違えたのか、あるいは紅色から連想してか、昨日の夕焼けはなんとも言えず綺麗だったと、感慨を込めて語りました。ベニカナメモチを植栽している生け垣に沿った道路は、西に向かって延びていて、遙か向こうに、山と空とが眺められるのです。さぞや赤々とした夕焼けだったのでしょう。
ちょうど,この画面の向かって左側の木が、ベニカナメモチです。テレビ画面をデジカメで写したものですので、色合いはイマイチです。
今日はこれにて
7月7日のこと、の巻 [今日の暦]
昨日も郷里へ帰ってきました。
先日、耕運作業中に耕運機を転落させて作業が途中やめになっている畑に行き、その片隅に繁茂している笹を伐って持って帰るのが目的です。七夕の飾り付けをしたいという、小1の孫に頼まれたのです。
この畑、作物を植え付ければ、必ず、イノシシや鹿の被害にあい、獣よけの網で囲ったわずかの範囲では玉ねぎの収穫に成功しましたが、そのあと何を作付けするか、悩ましいい限りです。獣よけの周囲には、今年は妻が綿を植え付けてみました。無事に育っている部分も一定程度あるのですが、新芽や若葉を鹿にかじられたものも少なくないのです。
このような悪条件の畑は耕作放棄してしまいたい(現に周囲の畑は、持ち主が亡くなられたり後継が遠隔地にお住まいであったりのために、耕作放棄地になっているところも多いのです。)ところですが、耕作放棄すると瞬く間に夏草の繁るに任せる事態となること必定ですので、最低限の草刈りや耕耘は、私がやろうと思っています。不運にも、先日、転落して故障した耕運機は、業者の見たてでは修理不能との由で、グレードを下げてでも新機を購入する運びになっているようです。
草刈りも、ちょっと油断すると、ススキや茅の類が大繁茂するばかりでなく、笹竹が地下茎を伸ばして勢いよくはびこるので厄介極まりないのですが、年に一度、七夕の時には重宝します。現に孫には感謝され、友だちにもお裾分けできたようです
さて、今日7月7日は、七夕ですが、どうやらあいにくの雨のようです。旧暦にあわせてもう一月ほど。願い事を書いた短冊飾った笹を軒下に立てておくことにしましょう。
先日の伊豆地方での土石流災害がまだ救援活動のさなかですのに、線状降水帯の猛威は収まらず、島根・鳥取県地方など各地で被害が広がっている模様。心が痛みます。そういえば、岡山県真備地区などを襲った洪水被害は、3年前、2018年の今の時期のできごとでした。
ところで、7月7日には、忘るべからざる世界史的重大事件がありました。
1937(昭和12)年に起きた盧溝橋事件がそれです。
事件の概要をネット記事から引用します。
1937年7月7日夜,中国,北京南西郊の盧溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に,日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。中国では「七七事件」として知られる。最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。 11日未明には一応現地で停戦が成立した。しかし,当初不拡大方針を声明していたにもかかわらず,第1次近衛内閣は 11日内地3個師団の動員を決定,軍部内でも,拡大派と不拡大派が激しく対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は次第に拡大し,同 28日の北京,天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した。中国側ではこれを契機に第2次国共合作がなり,抗日の機運が高まった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
これをきっかけに泥沼の侵略戦争に突き進んで行った側の私たちにとっては、記憶の隅に追いやられた、思い出したくない過去の一コマであるかもしれませんが、最近のこのホットニュースは、立場の違いに伴う認識の差を改めて思わされたことでした。
【ウルムチ共同】ソニーの中国法人は2日までに、盧溝橋事件から84年となる7日夜に新製品の発表を予定していたのは不適切だったとして謝罪した。事件は日中戦争の発端となっており、事前の告知に対して中国のインターネット上で批判の声が殺到していた。
ソニー中国は北京時間の7日午後10時からイベントを開き、新しいカメラを発表する予定だった。批判を受け、中国の短文投稿サイト「微博(ウェイボ)」で1日に「日付の選択で誤解と混乱を招いた」と謝罪した。
カメラの発表は日本や欧米と同時に行われる見通しだったが、ソニーは「中国でのイベントは中止する」としている。
最近、図書館で続けて借りて、車の運転中に聴いている半藤一利さんの「昭和史」CDに、こんな一節があります。
作家 の 野上弥生子 さん が、(昭和12年の) 年頭 の 新聞 で こう 書い て い ます。
「…… たった ひとつ お願い ごとをしたい。 今年 は 豊年 で ござい ましょう か、 凶作 で ござい ましょ う か。 いいえ、 どちら でも よろしゅう ござい ます。 洪水 が あっ ても、 大地震 が あっ ても、 暴風雨 が あっ ても、…… コレラ と ペスト が いっしょにはやっても、 よろしゅう ございます。 どう か 戦争 だけは ござい ませ ん よう に……」
という こと は、 戦争待望論 という か、 昭和 十 二 年 に なっ た 段階 で、 日本 には「 中国 を 一撃 すべし」 の 空気 が かなり 瀰漫 し て い た ん じゃ ない かと 思う の です。
「苛政は虎よりも猛なり」(礼記)に通うギリギリの願いです。凶作、洪水、大地震、暴風雨、コレラ、ペスト・・・。コロナ禍の只中、未曾有の土砂災害、洪水のニュースを聞きながら、この引用を紹介するのも気が引けるのですが、戦争の災禍はそれよりも凶だという予感は、現実となって人々を覆い尽くしていくことになります。
CDを少々早送りします。
少し 脱線 し ます が、 それ まで わが 日本国 は「 日本 帝国」「 日本国」「 大日本帝国」 など、 天皇陛下 の こと も 国際的 には「 皇帝」「 天皇」 など いろいろ 呼び 方 が あっ て 統一 さ れ て なかっ た の です が、 昭和 十一 年 四月 十 八日、 外務省 が 日本 を「 大日本帝国」 と 呼称 する こと に 決定 し まし た。 この 言葉 そのもの は どう って こと ない の です が、 そう 決定 する こと で 国民 は「 大日本帝国」 つまり「 日本 は 大 なる 国 で ある」 と 思い込む よう に なっ て いく。 日本 は 昭和 八 年 に 国際連盟 を 脱退 し て 国際的 に 孤立 し て いる の です が、この 時 に なっ て「 大日本帝国」 と 称し た こと は、 なんとなく 閉塞 的 な 現状 を 打破 し たい、 そんな 国状 を 物語っ て いる よう に 思い ます。
という 大前提と状況 の もと、 昭和 十 二 年 七月 七日 に いわゆる 盧溝橋事件 が 起き た の です。
北京 郊外 の 盧溝橋 で 銃撃 が あっ て、 日中 両軍 ─ ─ 当時 は 中国 を 支那 と いっ て い まし た ─ ─ 日支両軍が銃火を交えたという第一報 が 届い た時 に、 時 の 総理大臣 近衛文麿 は「 まさか、 また 軍の計画的行動では なかろうな 」 と、 また 海軍次官 山本五十六 中将 は「 陸軍のやつらは 何をしでかすかわかったものではない。 油断がならん よ」 と 言ったといい ます。 つまり 上 の 方 の 人 たちが、 事件の 第 一報 を 聞い た時点 で、陸軍の陰謀 だ、 また 満州事変と同じようなことをやっ たな、 と思ったのは 事実 のようです。
さらに早送り、、、。
盧溝橋事件 は 当然 の こと ながら、東京裁判 で 取り上げ られ まし た。大体 において検察側 は、 日本 軍 の 無謀 なる 攻撃、策略的な仕掛けについて 糾弾 が 厳しく、当時、北京駐在武官 だった アメリカ の バレット大佐も 次 の ように証言してい ます。 「中国 軍 に対する 日本軍の態度は傲慢 で、 攻撃的 で あり、 多く の場合、その 行動 は 中国 の 主権 に対する 侮辱 と、直接 の 冒涜 で あっ た と 思う。 私 の 考え では七月 初 週 の、 宛平県城付近で行なわれた日本軍の夜間演習 は、挑発的なものであった」
両軍の演習がそれぞれに行われていた深夜,数発の銃弾が飛来したが、誰一人として負傷などの被害もなく、一時行方不明とされた一人の兵士も、少し離れた場所で小用を足していただけというできごとは、のどかな笑話です増されるべきエピソードに過ぎず、大戦争の引き金になるような凶悪な事件では決してありえなかったでしょう。小さな小競り合いとして、事態を収めるチャンスはたびたびあったようですし、戦線が拡大してからも講和の努力は重ねられそのチャンスはあったのに、なぜ破滅の泥沼に一路突入して行くことになるのか?
「 一ぐん 二ぐん 三もぐん、 ぐんぐん ぐんぶで 押し通す」(画家 ・ 中川 紀元)と、心ある人々にその驕慢を嘆かしめた軍・政府の指導者たちの、事態への客観認識を欠いた根拠のない驕りと面子、止めどもない手柄欲が、間に合ううちに退く機会を奪ってしまったのでしょうか?
と考えているとき、「命より五輪が大事」とばかり、道理(ことわり)もなく、悲劇へと突き進む現代の指導者たちの埒なき姿が、二重写しに見えてきて、大いに心が沈みます。
最近の朝散歩の様子です。
アサガオの季節になりました。
ヒャクニチソウ。
エノコログサ(ネコジャラシ)
この花はなんでしょう?
そしてこの花は?
これはゴボウの花かな?
今日はこれにて
半夏生その他、の巻 [折々散歩]
臨時ニュースです。
(この記事執筆中に、熱海の土石流のニュースを知り、軽口は不謹慎と思いましたが、乞ご容赦)
昨日、親愛なる友人H女史からメールで知らせていただきました。実は私はまだ見ていなかったので、すぐに確かめてみました。
「しんぶん赤旗」日曜版の7月4日号に、投稿歌を載せていただきました。実は、同じページには、敬愛する大先輩K女史(89歳)の投稿(たびたび同紙や地元新聞等にも投稿を寄せられ、ご壮健を喜ぶとともに励まされています)がちょうど掲載されており、先ずそちらに目が行きましたが、確かに、私のものも片隅にありました。
かなり前に投稿していたものですが、三首投稿したうちでは、三番手の出来でした(笑)何しろテーマがあんまり文芸的でない。しかも元の作品からはずいぶん雰囲気が変わったような気がして、確かめてみると元はこうでした。
朝四時を過ぐれば空もほの白み今の季節は早配も愉し
確かに「早配」という略語は世間の公用語ではないでしょうね(笑)
「多数者革命」を標榜し、国民の多数を結集することを通して社会変革を実現していくことを基本路線としている日本共産党の前進に期待するところ切ですので、その機関紙を少しばかり配達するささやかなお手伝いは、学生の頃からやってます。当時は、朝起きが苦手で、自転車で一時間ほどの配達を終える頃には、授業に間に合わなかったり、時には何軒か配達をサボって早じまいしたことも、少なからずありました(いまでも悪夢を見ます)。
就職後も、転地先ごとに、相応の協力をしてきました。このブログ執筆動機の一つとなった入院・手術の前後をきっかけに、数年間はお断りしていた時機もありましたが、快復(特に目の複視の症状の解消)と、配達員の方の死亡や不都合などが重なり、またお引き受けすることになって数年を数えます。
かといって「早朝配達愉しき季なり」とまで大らかに断言する楽天的不屈性は、私には欠如していまして、「(本音では憂鬱な)配達も、今の季節は愉しく感じられるヨ」というレベルが正直なところです。
くねくねした坂道や隘路、路地裏の細道などを自動車で通行しながらの、週1~2回、通常一時間余りの作業ですが、雨の日や、夜明けが遅い冬の時期、特に雪の朝などは、緊張もし、前夜からストレスもつのります。
その点、今の時期、朝日が顔をのぞける前後の時間帯の田園風景や、朝風のそよぎ、ウグイスや小鳥のさえずり、時には農家のニワトリの時を告げる声など、得難い出会いに愉しみを覚えているのは、誇張や強がりでは決してありません。
本当に日が長くなりました。それもそのはず、投稿したのはたしか夏至が近付いていた時分でしたが、今や雑節の一、「半夏生」です。
この時期、繰り返し、こんな記事を書いています。
五番煎じの半夏生、の巻(2017-07-02)
当ブログ「ナードサークの四季」は、2013年の夏に書き始めました。「退職記念」と銘打ちましたが、もっと直接的には、「肺癌手術記念」とも言えます。七月に入院手術した頃の日録や退院直後の日録を綴り始めたのが出発でした。
そうこうするうちに、もうすぐ4年目を迎えようとしており、「5年生存率九〇%」といわれた、その5年目を生きて迎えることも、まんざら夢ではなさそうです。
それにしても、時々過去記事を見ていると、二番煎じ三番煎じが重なり、ネタ切れ状態を痛感するところです。(中略)さて、今日のラジオで半夏生の話題が流れていましたので、今日の記事はこれを題材にしようと思ったのですが、確かめてみると、過去にこんなに何度も書いていました(汗)。
たとえば去年の記事。
稲苗に朝露繁き半夏生今日は一年の折り返し点。一年のちょうど真ん中の日だそうです。
(中略)
去年の「半夏生」の日にはこの記事を書きました。
せせらぎのかそけき音や半夏生
今日も危うく、同じ題材で終わりそうでした。一昨年の七月二日に書いたのがこれ。せせらぎのかそけき音や半夏生
今朝の地元紙=「山陽新聞」のコラム「滴一滴」に、しばし考えさせられました。
指揮者小澤征爾さんが、24歳で国際指揮者コンクールで優勝した時の、わざと間違って演奏された楽器の音をすべて聞き分け、正したという予選でのエピソードが紹介され、「安倍さんには国民の声がどれだけ耳に届いただろう」と問いかけています。
そして、5月1日付の文化面での内橋克人さんの言葉を引用しています。
「戦争はある日ここからといって始まるのではない。いつしらず、せせらぎの流れのように始まる。」
そしてコラムは、こう結びます。最初はせせらぎのようにかすかな軍靴の響きも、やがて勢いを増す恐れがある。意に沿わない叫びに“耳”を貸さない為政者では、国は危うい。
本当に、何度も耳にたこができるほど聞き、口が酸っぱくなるほど繰り返し行ってきたこの懸念が、いまほどリアリティを増したときはないかも知れません。
聞き飽きて、またか、まさか、と多くの人が受け流してしまいかねない、今のご時世。まだまだ、内閣支持率の下降が緩やかなうちに、「多数議席」を活用してやれることはやってしまおうという算段でしょうが、それだけにますます、せせらぎの音に耳を澄まさねばなりますまい。
なんと、いつもいつも同じ繰り言を重ねるブログだわいと、われながら「感心」しますが、しかし、事態が少しも良くなっていない以上、今後も繰り返すしかないでしょうね。
最近、自動車運転中に、県立図書館で借りて聞いているCD=半藤一利「昭和史」は、第四 章 「軍国主義 への 道 は かく 整備 さ れ て いく 」第五 章「 二・二 六 事件 の 眼目 は『宮城 占拠 計画』 に あっ た 」が終わりました。第五章の副題は「大股 で 戦争 体制 へ」とつけられています。
半藤さんは、二・二 六 事件を総括してこうまとめています。
何 が この 事件 の 後 に 残っ た のか。 簡単 です。 松本清張 さん に『 二・二六事件』 という 大著 が あり ます が、 その 結論 で 述べ て いる 言葉 が 一番 適し て いる かと 思い ます。 「( これ 以後 の 日本 は) 軍部 が 絶えず〝 二・二 六〟 の 再発( テロ の こと) を ちらちら さ せ て 政・財・言論 界 を 脅迫 し た。 かく て 軍需産業 を 中心 と する 重工業 財閥 を( 軍 が) 抱き かかえ、 国民 を ひきずり 戦争 体制 へ 大股 に 歩き 出す ので ある。( 日本 の 国 が ここ で がらっと 変わる の です が) この 変化 は、 太平洋戦争 が 現実 に 突如 と し て 勃発 する まで、 国民 の 眼には わから ない 上層 部 において、 静か に、 確実 に 進行 し て いっ た」 清張 さん が 言う とおり で、 これ 以後 の 日本 は テロ の 脅し が テコ に なっ て、 ほとんど の 体制 が 軍 の 思う まま に 動い て いく こと に なる の です
話を「半夏生」に戻します。先の引用のつづきです。
「半夏生」については、この記事でふれましたので再掲してしておきます。
半夏生ですか?それとも別の方?スーパーの魚コーナーにパートに出ている妻が、「半」に「夏」に「生」と書いてどう読む?尋ねるので、うろ覚えで「ハンゲショウ」と答えました。
「たこ」に関係ある?と聞くので「知らない」と答えたものの、気になるので、ネット検索してみました。
「デジタル大辞泉」にはこうあります。
1 雑節の一。太陽が黄経100度にある日で、夏至から11日目。7月2日ごろにあたる。このころから梅雨が明け、田にカラスビシャク(半夏)が生えるのを目安に田植えの終期とされてきた。半夏(はんげ)。《季 夏》「いつまでも明るき野山―/時彦」
2 ドクダミ科の多年草。水辺に生え、高さ約80センチ。全体に臭気がある。葉は長卵形で互生。6、7月ごろ、上部の葉が数枚白くなり、これと向かい合って花穂を出し、白い小花が咲く。名は1のころ咲くからとも、葉の下半分が白いので半化粧の意ともいわれる。かたしろぐさ。農家では、この日までに田植えを終わらせる節目の日とされ、地方によっていろいろな伝承があるようです。
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたこともあったそうです。三重県では、ハンゲという妖怪が徘徊るとされ、この時期の農作業を戒めたようです。(中略)
「2ドクダミ科の多年草」とある『ハンゲショウ(かたしろぐさ)」の写真は、この記事にも載せました。
七夕雑話
【今日の付録】
木曜日、郷里の父の定期診察のための運転に、田舎へ帰りました。その帰り道、「タンチョウの雛』観察のリベンジのために、再度自然保護センターを訪ねました。
実は、先日後楽園を歩いたときにも鶴舎を覗いてみました。
久しぶりにタンチョウの撮影を試みてはみましたが、金網越しですので思うにまかせません。
さて、自然環境体験公園はというと、今回も放飼場にタンチョウ親子の姿は見えません。すごすご引き返すのもしゃくなので、職員の方に訪ねてみましたら、きょうはもう、飼育ケージの方に帰したとのことでした。そうか、前回もそうだったのか。
案内図をもとに、ケージを覗いてみると、
やはりフェンスが邪魔をします。
隙間から見え隠れする雛は、想像よりも大きく育っているようです。
場所を変えて、狙ってみますが、蓮の葉影に隠れて雛がよく見えません。
どうにか姿を捉えることができたのがこの写真です。
今日はここまで。