20年前のベトナム訪問記(10) [木下透の作品]
20年前のベトナム訪問記(9) [木下透の作品]
20年前のベトナム ハロン湾スケッチ
20年前のベトナム訪問記(8) [木下透の作品]
「ホ・チ・ミンは米国との戦いが頂点に達していた1969年9月2日、この世を去った。三通の遺書を残していた。ホ・チ・ミンは遺書の中で、こう訴えている。戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母、妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。戦争に勝ったら、農業税を一年間免除すること。遺体を火葬にして、遺灰を三つに分け、北部、中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めて欲しい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるような建物、記念に植樹ができるようにしてもらいたい。日がたてば、森林となるだろう。」「眠っているようだが、いまにもすっとたちあがることができるような、生命が宿っているようだ。正直に言うと、彼の遺言通りに、静かに眠らせたいと思う。聞けばソ連の遺体処理専門家が遺体の処理をしたという。ヴェトナム人の気持ちには合わない。」
ホーチミンの性格には他にも何ものかがあって、他のいかなる最高の政治家にも、(より人間的と見られる二人だけをあげるが)ガンディやネルーにさえ認めがたいものである。それは孔子が「恕」と呼んだものである。正確にそれに対応する言葉は、英語にはない。しいて近い言葉を挙げれば、人間はみな兄弟であると自覚している二人の人間の間のあの反応という意味での”相互関係”である。ホーの本能は頭脳からというよりはむしろ、こころから発するものだったように見える」「ベルナール・ファルが提起しているように、『ホーはいつも親しく、いつも近づきやすく、いつも本当のおじさんだった。これを毛沢東、または周恩来さえもが持っていたよそよそしさや厳しさと比較すべきである』」(Ⅳマルクスレーニン主義者)「1967年正月のよく晴れわたったある朝、私たち12人(日、米、仏、オーストラリア人)はホ-・チ・ミン主席とファン・ヴァン・ドン首相に会見するために、ハノイの大統領官邸を訪れた。(中略)私たちが首相と話し合っていると、いまはいって来た正面玄関とは反対の廊下からホー主席があらわれる。みんな一斉に立ち上がって拍手。白人の何人かが近寄って握手しようとすると、ホー主席は笑いながら出された手を払いのけるようにして、皆さんまずお座りなさいという身振りをする。みんなが座るのを見とどけてから、ホーおじさんは立ちあがり、ポケットから名刺大の紙を取り出して、それを見ながら例のユーモアたっぷりに、『ただいまから点呼をやります、名前を呼ばれた人は手をあげて返事をしてください。』という。(中略)みんなが笑う中で、ホーおじさんの”点呼”に『ウィ』『はい』『イエス』の各国語が飛びかう。それが一段落つくと、ホー主席は開口一番、『皆さん、ベトナムへ来て、よく食べていますか、よく眠れますか。よく食べて、よく眠らなければ、良い仕事はできません。』と言う。ホーおじさんの口癖である。」(訳者解説)
20階建ての巨大な高級ホテル”ハノイ・ソフィテルプラザ”は、チェック・バック湖とホン川の間に位置し、さらにハノイで最も美しいといわれる西湖をのぞむことができる抜群のロケーションにあります。集客数はハノイでもトップクラスで、各国のVIPが滞在することからもセキュリティーの高さがうかがえます。東南アジア初という開閉自在の屋根付きプールなど施設も充実しており、最高のホテルライフを満喫できることまちがいなしです!
20年前のベトナム訪問記(7) [木下透の作品]
松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより
- 作者: 松本 清張
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1974/02/20
- メディア: 単行本
三月十九日午後五時、私と朝日新聞の森本哲朗君とはICC(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座った。ベルトを締めたものの、互いに顔を見合わせた。ビエンチャン空港の東の空は厚い雲に閉ざされている。これまでこの空港からだけでも四回この古い四発のストラトライナー機に乗ったのだが、その都度、ハノイの天候が悪いというので飛べなかった。一度などは、ラオスと北ベトナムの国境にあるアンナン山脈の上に出ながら引き返したものである。(中略)五時半、とにかく、機はビエンチャンの空港を離陸した。とにかくというのは、飛び立っても目的地に行かないことがたびたびだったからだ。コントロールタワーのラジオ・ビーコンが故障するという珍事でも分かるように、この空港は日本のローカル線なみである。その代わりラオス空軍機がいかめしく並んでいる。飛び立った飛行機は同じ空を旋回するばかりで容易に舞え西住まなかった。蛇行しているメコン河に夕日が映え、河畔のビエンチャンの細長い町も上から眺めるとなかなか風情があるが、その風景が窓から繰り返し回ってくる。機は狭い範囲の空を渦巻きながら、直昇しているのである。これには理由があって、ある人の話では、山岳地帯上に入ると、ときどきパテト・ラオ軍が射撃するので、それを避けるためにという。米機やラオス政府軍機に爆撃されている彼らは、雲の上の爆音を聞けば何でも撃つのだそうである。(中略)夜になった空に、翼の右についた青ランプ、左についた赤ランプの光がさえた。この標識が国際休戦監視委員会で決まった「曜日・時刻・コース」などと友に連絡機であることを北ベトナム軍とアメリカ軍の双方に確認させているのである。戦争する当事国の間を細々とつなぐ一本の平和の糸の上をいま、われわれを乗せたICC機は頼りなげに滑っている。戦争に対してジュネーブ協定の無力さを表徴しているような小さな、旧式の飛行機だった。この機が必ずしも安全でないことは、数箇月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機まで撃ち落とされそうになったことでもわかる。また、いま乗っている四十過ぎのスチュワーデスの夫はICC機のパイロットだったが、数年前この国境地帯で消息を絶った霧で、撃墜されたか故障によるものかいまだに真相は不明だという。(中略)七時二十分、窓の下に都市の灯が見えてきた。ついにハノイにきた。紅河らしい黒い帯のふちを車のヘッドライトが一列に進んでいる。家々にも灯がついている。予想に反して灯火管制は行われていない。機はそれらの風景を窓に繰り広げながら舞い降りる。車輪が地に着く軽いショックは、ハノイにきたという全身の手応えであった。
いま、世界の焦点となっているハノイには入国の申し込みが世界中のジャーナリストや作家から殺到し、ハノイの係官の机の上には、以来の手紙や電報がいつも三十センチ以上の高さに積まれているということだった。そのことは一九六六年のクリスマスにハノイにはいったニューヨーク・タイムスのハリソン・ソールズベリ記者も書いている。ソールズベリは、北ベトナム政府に対して執拗にハノイ入りを手紙や電報で頼み続けていたが、クリスマスの近いある日、ついにハノイから一通の招待電報を受け取る。彼はその電報を机の上に置き、タイムスの外報部長と、これがそうでしょうかね、と半信半疑で眺めたものだった。それほど資本主義国からのハノイ入りは困難なのである。
20年前のベトナム訪問記(6) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム(3)
「これを見てください。人間の遺体を手にして、笑っているんですよ。なんということでしょう。相手を人間だと思ったらこんなことはできるはずがありません。」何度も何度も、観光客を案内してきたはずですが、この写真の前ではいつも、憤懣やるかたない思いにかられるのでしょうか。あたかも自分が叱られたかのように、身を縮めながら、写真を正視できずにいる私でした。
戦後日本の路上の靴磨き少年、あるいは花売りの少女、はたまた、「ギブミーチョコレート」を口々に唱えながら、進駐軍のジープに、争って痩せた手を差し出したかつての子どもたち(私たちよりわずかに年上の世代でしょう)の像と、なぜかダブって、痛ましさを禁じ得ません。誇りもモラルも崩れ落ちた敗戦日本の混乱状況ではなく、「日本、フランス、アメリカの三つの帝国主義を追い払った一小国という名誉」を誇りうるベトナムで、その未来を継ぐ子どもたちが見せるこの状況は、「生活のため」のみでは説明されない「拝金主義の毒」を感じずにはいられないのです。しかも、子どもたちが差し出す手は、間違いなく日本人というターゲットにまっすぐ向けられています。改めて、日本および日本人の立場について、思いを致さないわけには行きません。つづく
20年前のベトナム訪問記(5) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム (2)
20年前のベトナム訪問記(4) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム
翌朝午前八時ホテル発。念のために付け加えますと、ホテルは外国人向けの一流ホテル。冷房完備で肌寒いほど。朝食のバイキングのメニューも豊富、味も上々です。フランス統治のなごりか、コーヒーはとても美味。フランスパンの味も格別でした。
この日は、少女と言ってもいい初々しさのハンさんも、「ガイド見習い」として同行してくれました。日本語教室で勉強中の彼女は、「日本語は難しいです。」「日本に行くのは私の夢です。でも、それにはお金がとても必要です。」と、明晰な日本語で語ります。
バスの車窓から眺めるサイゴンは、「生き馬の目を抜く」という死語を思い出させるようなエネルギッシュな活気に満ちています。道路沿いには多彩な小商店が立ち並び、道ばたにも、果物、野菜、食品、小間物などをとりどりに積み上げた露店が、思い思いに場所を占めています。そのあちらこちらで、人だかりあり、通行人とのやりとりあり、近隣同士の語らいありで、日本のさびれた商店街を見慣れた目には、人々の豊かな交流・コミュニケーションに彩られた日常の姿が、ひどくまぶしくうらやましく感じられました。
20年前のベトナム訪問記(3) [木下透の作品]
2.韓国からベトナムへ
韓国仁川を経由して分断国家の不幸を担いながら、しかも、他民族に対する侵略戦争に全面加担していくという、二重の不幸。そして、侵略政策を強引に遂行するために、歴代軍事独裁政権が繰り返した乱暴な人権抑圧・迫害の数々。「金大中氏拉致事件」「徐勝・徐俊植氏兄弟投獄・拷問問題」「詩人金芝河の受難」など、パクチョンヒ時代の暴政の数々は、いずれも30年前のホットニュースでした。
20年前のベトナム訪問記(2) [木下透の作品]
1.ベトナムは「わが青春」? 第2回
-----わずかながらの情報から、私の中に漠然とイメージされた彼らへの印象は、不屈で誇り高く、かつ謙虚で無欲、気さくで人なつこい人々---でした。
偶然とは言え、ちょうど、そんなある時、高知で障害児学校教員をしている学生時代の友人が、自分らが企画したベトナム旅行への参加者を募りに、旅行業者を伴って岡山までやってきたのです。在岡の共通の友人Mさんと共に、数刻歓談しましたが、これもまた魅惑的な企画でした。
20年前のベトナム訪問記(1) [木下透の作品]
「ベトナムへの旅」に参加して
1.ベトナムは「わが青春」?
ましてや、先の大戦中、日本軍統治下において多大な餓死者を含む犠牲者を産んだ直接の侵略の歴史。またその後も、フランスの後を継いだアメリカの忠実な盟友として、戦争放棄の憲法を持ちながら、侵略戦争の最前線基地としての役割を全面的に果たした日本。そして同時に、自らの血は流さずに、ちゃっかりと軍需で大儲けし続けた日本、、、。
これらを思うとき、日本人「観光客」の訪問に対しては、外貨獲得を動機とする表向きの歓迎の裏で、内心の反感と憎悪を伴った冷遇に接しないわけには行かないだろう、との懸念も、気軽な訪問をためらわせたのです。