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別荘での優雅なプチ休暇!の巻(4)霧の朝 [健康]

濃い霧の朝でした。
あとでニュースを見ると交通渋滞のほか、列車船舶など交通機関の運行(航)に大きなな影響があったようです。

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 日が高くなると昨日とは打って変わって上天気になりました。

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病棟を少し歩いて、見晴らしの良いエリアに移動してみます。

正面に常山が見えます。 

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これは別の方角です。 
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昨日の記事を読み直してみると、思わぬ変換ミスがたくさなりました。気づいた幾つかは訂正しておきましたが、otokomaeda様がコメントに書いてくださったとおり、「野党格闘」は言い得て妙なので残しておきます。
記事投稿後に思い出しましが、もとの記事では公明党についても感想を書いていたのに、復元しそびれています。
自民党や、野党を名乗る「維新」や「日本の心」が、私達のような多くの下積みの一般国民の 代表ではなく、「社会的強者」「勝ち組」たる資産家や大企業(あるいはギャンブラー)の代弁者であろうことは、なんとなく匂いで嗅ぎ分けられます。踏みつけられている側の苦しみにはもともと気づきもしない立ち位置で発言、行動しておられるようですから。
それに比べて、公明党は、どちらかと言うと弱者、庶民の側の願いや祈りを背負って、平和や福祉を売りに活動してこられた政党とお見受けします。その立ち位置と、支持層からの素朴な信頼、期待をいいことに、万事、「公明党が努力して歯止めを作ったから大丈夫」との論を繰り返し、「生活困窮者には援助金が支給され、本当に困っている人は年金が下がることはない」 として「審議時間は十分」と言ってのけ、強行採決への下端を正当化するのは、悪質ではないですか?とくに、カジノ法では、自ら沢山のモン問題点、疑問点を提示しながら、それが解決されたわけでもないのに、「プログラム法田赤ら」と称して不問に付し、党内異論には「自主投票」という離れ業を使って、わっズカ5時間あまりの審議での採決強行を合作した罪は、許されません。これって、仏罰ものではないでしょうかね。
12月2日付の読売新聞の記事を一部引用してご紹介します。 
自民党は、観光や地域経済の振興といったカジノ解禁の効用を強調している。しかし、海外でも、カジノが一時的なブームに終わったり、周辺の商業が衰退したりするなど、地域振興策としては失敗した例が少なくない。
そもそもカジノは、賭博客の負け分が収益の柱となる。ギャンブルにはまった人や外国人観光客らの“散財”に期待し、他人の不幸や不運を踏み台にするような成長戦略は極めて不健全である。
(中略)
公明党は国会審議で、様々な問題点を列挙した。ギャンブル依存症の増加や、マネーロンダリング(資金洗浄)の恐れ、暴力団の関与、地域の風俗環境・治安の悪化、青少年への悪影響などだ。 
 いずれも深刻な課題であり、多角的な検討が求められよう。
(中略) 
 だが、法案は、日本人の入場制限などについて「必要な措置を講ずる」と記述しているだけだ。 
 
 日頃自民党の政策広告塔としての役割を自認しているかに思われる読売新聞でさえ、この指摘です。
>他人の不幸や不運を踏み台にするような成長戦略は極めて不健全である。
誠におっしゃるとおり。大概の国民の懸念そのものです。
これを押し切って急ぐからには、よほどの理由があるはずだ、と考え始めると、「あやしうこそものぐるほしけれ」の境地に陥ります。
今日もまた、点滴に繋がれて日中過ごしています。
整腸剤を処方していただきました。
ネット環境は思うに任せず、機器の扱いにも慣れなくて、 
結構苦労しています。でも、他にやることもないので、ネットの世界をゆっくり散歩しています。皆様のところへの訪問は、こころははやれど遅々として進みません。あしからずご了承ください。
今日はこれにて。 

別荘での優雅なプチ休暇!の巻(3) 国会討論会も体調に悪い [健康]

深夜、目が冴えます。
病室から見える夜景です。
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ワインでも傾けたいところです。
ひとねむりしてめざめると、うすあかるくなりはじめています。
夜明け頃の見晴らしです。
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霧が出ています。
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だいぶ明るくなりました。方角を変えてみました。

 

 

 

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西から天気が崩れるとの予報です。

そうこうするうちに 、五分粥の朝食、これも完食。今日は画像なしです。

退屈しのぎに、テレビのチャンネルをあれこれ回します。我が家と違ってBSも出ます。流石に優雅な別荘ぐらしです。スキージャンプ競技、ニュース、バラエティ、自然紹介番組などと切り替えます。NHKのこうした自然取材番組は、いつも感心します。昨日は南米の高地にある砂漠地帯と氷河が太陽光のために溶解即気化してできた鋭い氷の剣山。今日は、アサギマダラの旅など。蝶が天空を舞う姿や、花にとまって吸蜜するクローズアップを瞬時に捉えるカメラの性能と、カメラマンのスキルは「神って」います。

せっかく手に入れた身体的自由もつかの間で、今日はまた8時間の点滴だそうで、またチューブに繋がれる羽目になりrました。

折しもテレビは地上波で、格闘代表による国会討論番組。ハラワタに良い影響がないと知りつつも、じっくり視聴してしまいました。

討論テーマは、年金切り下げ法、TPP、カジノ法など。それらを貫く共通ワードは「強行採決」...。

与野党各党の代表といいますが、「日本維新」とか「日本のこころ、、」などは、歯の浮くばかりの政権ヨイショと、他の野党への罵倒役を買って出て、補完勢力という正体をあらわにしています。売り込みに腐心して、閣僚の椅子でも狙っているのかと疑います。

他の野党代表は、それぞれ立場の違い、スタンスの違いはありながらも、持ち味 ある追及でした。

 このあたりまで書いて昼食をとり、ほとんどさっき記事が完成したと喜んだ瞬間、指がタッチパネルの何処かを触り、バックアップ以降の後半部分が消えてしまいました。

討論で話題になった幾点かについて思いつくまま感想などを書き散らしたのですが、さすがに体調万全ならざる身ですので、復旧の気力がわきません。

折しも、鳥インフルエンザの感染拡大を恐れて、数万羽、数十万羽という鶏やアヒルが殺処分を受けたというニュースが、つい先日ありました。 鳥たちには可哀想ですし、飼育者の方々には気の毒なことですが、健康被害のリスクを少しでも取り除くために、万全の対処をしてほしいというのが国民の気持ちでしょう。鳥インフルエンザ治療薬の開発予算をつけたから、感染鳥の流通も解禁などの方針はありえないでしょう。一部の限定された地方のことだから、問題は小さい、という人はいないでしょう。
ところがカジノ法案は、依存症のリスクは否定できないが、依存症対策予算をつけたか大丈夫とおっしゃる。パチンコや公営ギャンブルが全国に存在することに比べれば、該当する場所はほんの一部分だから問題にならないとおっしゃる。

多大なリスクへの懸念にたいしては、たくさんの国で行われているから大丈夫とおっしゃる。例示されたシンガポールでも、深刻な依存症や自己破産などの問題が現れていおるとの指摘にも忖度の様子がない。法が禁じている博打を解禁するのだから要件を議論すべきだとの意見にも、枠組みを決めるだけのプログラム法なので、具体的には改めて具体的法案が出されてから議論すると先延ばし。 

問題山積、党内意見もまとまらない状況さえ抱えながら、「議員立法」だからと強弁し、わずか5時間あまりの審議で強行採決を急いだのは何故?あまりに乱暴、あまりに拙劣、あまりに杜撰、愚の愚の策をわけは? 

疑問が募ります。

このカジノ法によって莫大な利益を得るヒトタチがいて、背後からさぞや強力なプッシュをくわえたのでしょうか?あるいは、こうした場合の世の常で、巨額の運動資金も、どなたかのフトコロに 流れ込んだのでしょうかと、ありきたりな想像をたくましゅうしてしまいます。

もそれはもはや、その方面の消息を知るひとには周知の事実なのかもしれないと思われてきて気になりますが、残念ながらこの病室には調べるすべも資料もありません。 

やはり、ハラワタにはうれしくない話題でした。

そうこうする うちに、点滴が終わりました。

病室の 外は、予報通り雨が降っています。しかもかなり激しい吹き降りになってきました。

 

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きょうはこれにて。

別荘での優雅なプチ休暇!の巻(2) [健康]

鴨長明は一丈四方の庵の中で、人生のあれこれや、世の中のいとなみ、天下国家のことを、思いのままに「方丈記」につづりました。一丈四方の庵といえばこの病室ほどの広さでしょうか。
今回のプチ休暇での別荘住まいで、環境は整いましたが、心静かにもの思う境地には至らず、些細な気がかりや雑念に翻弄されて時間が流れます。心に浮かぶよしなしごとを、文字にするのも詮無いことです。
窓の外の景色でもご紹介したいところですが、今の環境では画像の利用が厄介です。
ガラケーの画像を添付メールで送ってみました。
 
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ちょっと別の方法を試してみました。お昼過ぎの景色です。とおく正面に常山が見えます。
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深夜、睡眠中に点滴の管が外れて液がこぼれていたことに気づき、ナースコールをして、シーツやマットを交換していただいたり、心電図の装具が外れていたりで、「気をつけてくださいね」と叱られたばかりなのに、また歩行中に点滴チューブを血液が逆行しているのを見つけられ、「大丈夫ですか?」と呆れられたり、こんな瑣末なデティルは、さっさと忘れたい一コマです。
そんなことを愚痴っているうちに、朝食の時間です。
五部粥が出ました。一昨日(木)の三時のおやつの頃にミカンを食べて以来の固形物です。完食しました。
 
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朝の往診で、主治医は、昨日の内視鏡検査では出血部位は確定できないが、出血も止まっているようなのでこのまま食事をだんだんもとに戻して様子を見る。出血は腸殻に間違いないと思うが、希望があれば念のために胃カメラの検査もしておこうかとおっしゃるので、その旨お願いしました。
午前中には点滴の残りが全部終わり、ひとまずこれで点滴から解放されました。心電図につながるコードも取り外されてされて、身体的自由を大いに回復しました。移動の自由、経済的自由、社会的自由、政治的自由などは制限されたままですが、、、。(精神的自由は何ものにも縛られないでいる、、、つもいではいますが、危なっかいいことです。気づくともう昼食。
お腹はすきませんが、完食です。
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お腹にものが入ると胃腸が刺激されて、トイレの回数が増えます。血はまじっていない
ようです。快便とは言い難いですが。
今日はここまで。とりとめもない中間報告です。 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

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別荘での優雅なプチ休暇!の巻(1) [健康]

去年の夏こんな記事をかきました。

窓の外からしきりに蝉時雨が聞こえています。
クマゼミのようです。
気づけば、2年前の肺ガンによる入院手術の記念日です。
可笑しい事に、またまた同じ病院に入院してます。2年前は呼吸器内科→外科。今度は消化器内科ですが。念のために付け加えれば、2007年には、脳外科で検査入院しました。これも結構辛かった。
 
前回、記事の更新をした日の夜、救急外来を受診し、そのまま入院となりました。
と書くと、大変深刻な事態が想像されますが、人騒がせでごめんなさい。
ビロウなはなしで恐縮ですが、経験したことのない血便で便器が赤く染まったので、なんの苦痛もないのですが、念のため病院に電話したところ、「心配なら救急外来に来てください。割増料金が必要ですが」とのこと。
中略 
腸の壁がなにかのはずみで傷ついて出血したらしい。
最近何か断腸の思いを体験したっけ?
 
全く同じ症状で、昨日救急外来を受診し、そのまま入院しています(とほほ)。
医療ドラマさながら、左腕には点滴、右腕には輸血の管が装着され、指には、血中酸素濃度計、胸には心電図などの計器の端末がつながり、身動きするともつれてしまいそうな窮屈さです。
それより何より、しもからの出血は便器の水を真っ赤に染め気持ちのいいものじゃありません。
一夜開けて、今朝は経口腸管洗浄剤という液体を2リットル近くも、ちびりちびりと時間をかけて飲み、何度も排便を繰り返します。そうするうちに、無残な犯罪現場を思わせるわせるようだった便器の鮮血のあとが、やがて透明な液体に変わっていくのはうれしいことでした。
午後は、内視鏡検査で出血部位を確認できれば、止血の処置も可能とのよし。今日の最大のイベントです。
鎮静剤(眠り薬)注入のお影かうとうととしている間に、苦しみらしいものもないまま検査が終わりました。出血場所はないということで、あとは経過を見守るということのよう。
そのあと、救急病棟から一般病棟に移り、一般入院患者のゆとりを取り戻すことができました。
以前の入院で
退屈と言うたらあかんバチあたる
という川柳調の句を作ったことがありました。すべからく、退屈とは無事の別名であるらしいですね。
入院予定は1週間程度だそうです。
その間、何かとnet環境が不便で、ブログの更新、皆さんのところへの訪問など、思うに任せません。不本意ながら、失礼させていただきます。
 
 まずは取り急ぎご報告まで。 

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ウルフを倒した膵臓癌に思う、の巻 [健康]

今朝のニュースで九重親方の訃報を知りました。
現役時代のあだ名はウルフ、史上3位の31回の優勝を誇る横綱千代の富士。61才の若さです。
ところで、今日の記事は、千代の富士の追悼記事でもなく、大相撲の話題でもありません。
千代の富士といえば、小兵ながら、精悍にして頑健、スピーディにしてパワフル、とにかく「強い横綱」という印象があります。その彼をむしばんだのが膵臓癌でした。

膵臓癌は、初期の状態では自覚症状も少なくて発見されにくく、癌と診断された時には進行している場合が多いことから治癒率(5年生存率)の非情に低い癌の一つだそうです。



膵臓癌と言えば、以前、この記事に書いたIさんを、45才の若さで奪い去った病でした。

キンモクセイに誘われて、の巻
一部分を再掲します。


思い出しついでに、このIさんを偲んで作った歌を、備忘的に記載しておくことにします。
ライオンのあだなゆかしも デモ隊の旗追い越して歩き行く君
かつての生徒達がつけたあだ名が「ライオン丸」だそうです。「怪傑ライオン丸」というテレビ番組にちなんだものだそうですが、たてがみを靡かせ、雄々しい咆吼をあげて味方を激励しながら、巨悪に立ち向かう姿は、たしかにライオンを彷彿とさせました。
性急(せっかち)を性(さが) とせし君 たばこ喫(の)む暇(いとま)をすらも受話器はなさず
やりたいこと、やるべき事がありすぎて、我々の運動がそれに及んでいないことをもどかしく感じてでしょうか、それとも生来の性分のせいでしょうか、まことにせっかちなライオンでした。私のようなのんびりは、きっといらだつ存在だったでしょう。すみません。
満員の電車のゴトと揺れるとき 
”む“と息つめて苦笑しあえり

東京は人住むところにあらじという
会話幾度も交わせし終電

教え子を語れる君の頬ゆるみて 
遠きまなざしいよよ慕はし

通勤電車に、ともに乗り合わせる事もしばしばありました。その時のIさんの話題は、多くは故郷のことでした。

急な病を予知することはできませんでした。脚の痛みがまず出て、外科的な診察・治療を続けておられましたが、CT撮影により内臓の癌であったことが発見された時には、進行が進んでいました。当時は、CTを初め検査の態勢も現在と比較にならないほど遅れていたでしょうし、治療のレベルもまた然りで、文字通り「不治の病」でしたし、今では隔日の感がありますが、本人への告知もなされませんでした。病院の婦長をしておられた奥様の葛藤はいかばかりだったかと、今、改めて推し量られます。
悔しいことでした。

あわせて思い出すのは、私の思い出記事に度々登場する高校時代の恩師U先生=内田喬先生のこと。高教組委員長・県労会議議長という要職を果たし終えて定年退職されてつかの間、同じ膵臓癌で性急に冥府へ旅立たれました。

こんな過去記事に、ふとした思い出を綴りました。

夕顔の花と瓢

夕顔も人待ち顔に咲く朝(あした)
患うて日ごと癒えゆく瓢(ふくべ)かな

「源氏物語」に登場する夕顔は、本当は何の花だったのかねえ、と恩師の故内田喬先生はよく話題にしていました。夕顔の実が瓢(ふくべ)。この皮を干したものが干瓢です。ごつくて無骨なこの瓢は、今にも消え入りそうな、はかなげな少女夕顔とは、いかにもミスマッチだとおっしゃるのでしょう。
白い清楚な花は、決して優美でないとは言えず、よく見ると瓢の実までもなにやらゆかしく思えますが、この花、扇の上に載;せて差し出すには、やはり大振りに過ぎますかねえ。
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戦前 戦中 戦後 戦後後 そして”戦前” 補遺   木下 透
ところで、昨日アップした詩「春 其の2」は、「うららかの春の一日(ひとひ)/萌える若草の香を淡く感じながら/私はひとり寝そべっていた/柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた」と、つづく。

二つのかげとは何だろう?などと疑問に思われる人はまずあるまいが、「戦争の影」なんてモノではなさそうだ。ましてや、グラマンだとかB29だとか、そんな即物的な形象でもまさかないだろう。

「ゆうるりと」と言う表現からも、文字通りのどかな、平和な情景にふさわしい、トンビかなんかだろうと思って間違いない。

「ゆうるりと」というフレーズは、文芸部の顧問でもあった恩師U先生の、お好みの表現だったように思う。そんな言い回しまで、知らず知らず感化を受けていたのだろう。



恨まれぬやうに自慢を小出しにし
自分にその気がなくとも、幸せ自慢ととられてしまって、途方に暮れる、、ようなことがあります。
年賀状のデザインに、自分の家族の集合写真を使っていたことがあります。
恩師が、生前、洒脱なタッチのペン画(鉛筆画)風の自画像と家族の肖像画(クロッキーというかイラストというかポンチ絵というか俳画というか、古代中国の仙 人が描きそうな独特のもの)に、短く近況を添えた年賀状を、いつもくださっていました。幼いお嬢様が、学齢期を迎え、やがて娘さんに成長してゆかれる様な どが、ほのぼの窺えて、いいな、と思っていました。
真似できる手業の技量など、とんと持ち合わせていませんので、趣向を真似たつもりで、 冒頭のような方法をとっていたのです。当時まだ孫はいませんし、子ども達も独身、というか学齢期だったと思います。何かのイベントの機会や、里帰りの時 の、私の老父母も交えた写真などを使ったと思います。「プリントゴッコ」を使ったり、初期の頃のカラープリンターを使ったりしたのでしたか。ある年、昔の教え子からの返事に、『先生、お幸せですね。私、離婚しました。』と、一言あり、私は激しく衝撃を受け、自分の脳天気さに、気が滅入りました。
1年生の時に担任をしました。器用ではないが誠実な、時折投げやりな態度を見せる一面もありましたが、人一倍人情に厚い女の子でした。クラスで文集を作ろうと 提案した時、今時はやらないよとしらけた空気のなか、私が「昔作った文集だけど」と、この記事で書いた文集の実物を見本としてみせると、表情を改めて食い 入るようににみつめ、「本当に作ったんだね。凄いね。やるね。」みたいな感想をくれました。建前や、リップサービスとは違う、真実味のある反応を、うれし く好ましく見た記憶があります。
彼女の結婚後は、幸せそうなお知らせを貰い、姓も変わり、住所も教わって、年賀状も何年かやりとりしたはずですが、、、、離婚については、初耳でした。

人生ですから、ほかにも、離婚、再婚は、いくつかの事例を承知しています。自ら報告してくれる場合もあれば、人づてに聞き及ぶ場合もあります。無力なもので、遠く見守る事しかできません。
この彼女にも、何か適切な言葉をかけてあげるでもなく、そのあと、いつか賀状の返事も間遠になり、何か後味の悪い思い出が残りました。水くさいことだ、何か力になれることがあったかも知れないのに、と悔やまれてなりません。
ちょうどその頃、私自身、息子の不登校に翻弄され、先の見えないトンネルの中で、家族の誰しもが、ともすればくずおれてしまいかねない危ういバランスの中にあった頃だったと思います。突然に、わけのわからない憤懣が胃袋のあたりから突き上げてきたり、対処しかねる悲しみの発作をもてあましたり、ということを繰り返していた時期ではなかったでしょうか?
その頃私の書いた文章の大半は、徹頭徹尾不登校に関係し、または不登校というバイアスのかかったものでした。書くことで、何かわかることがあるかもしてない、いや、心の平安を保つことができるかも知れないと、無意識のうちに考えていたのでしょう。
「幸せそうな」家族の写真は、決して、人様へのこれ見よがしの自慢のつもりなどなく、崩落の危険をはらんだわが『家族の絆』を、辛うじて確認しておきたい思いのあらわれだったようにも思います。

郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第1回

 今日掲載するのは、高3の時の作品だ。

門閥(封建)制度は親の敵(かたき)でござる」と、福沢諭吉は言ったそうだが、「受験制度は親の敵(かたき)でござる」と言いたい思いが私にはある。私の親が受験制度によって被害を受けたわけではないが、私にとっては、恨み重なるにっくき仇と思えたのだ。


当時、「受験戦争」という言葉はすでに存在していて、「四当五落」(睡眠時間を四時間にして勉強に専念すれば合格するが、五時間得ると失敗する)などという「スポ根」まがいの檄言がまことしやかに喧伝されていた。

自己の存在の全てのものに超越して、「受験」なるものが君臨し、それへの無条件の隷従が求められる生活。拒みながらも拒みきれない不本意さ。

一方、東大安田講堂事件を頂点とする「大学紛争」の風は、地方の寒村にもかすかに伝わってきてはいた。社会的政治的諸課題とともに、「大学解体」というテーゼも、高校生の情緒を揺さぶり不安定にさせるに十分だった。

そんな中で「自分探し」「自分づくり」にあえぎつつ、かなりの時間を費やして原稿用紙に向かったのは、確かに逃避であり、ある種の防衛規制でもあったろう。

折 しも、国語の宿題で、「小説を書け」と命じた人があった。このブログで過去にも話題にした、敬愛する恩師故U先生だ。いわば「自由課題」で、強制的なもの
ではなかったが、今なら、高三の「受験生」にこんな要求をすることは、「無謀」のそしりを免れまい。しかし、高三といえば、「自分探し・自分づくり」の仕上げにかかる時期でもあって、そんなとき、この課題は、「表現」を通して自己と世界(外界)への「認識」を深めるという、有効で得難い体験だったと思う。



草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら)

「バッテリー」や「NO6」などで世に知られるようになった作家、あさのあつこさんは、私の通った高校で2歳ほど年若い同窓生ですが、国語教師に「君の文章が好きだ」と言われた一言が、後に作家の道へ進む遠いきっかけとなった旨、語っておられました。

WEB本の雑誌【本のはなし】作家の読書道第34回:あさのあつこさんという記事 に、こんな風にありました。

あさの : それと、ちょっと遡るのですが、高校生時代に現国の夏休みの宿題で短い物語を書いてくる、というものがあって。
20枚くらい書いて出したら、先生が「オレはお前の文章が好きだ」といってくれて。後で聞いたら結構いろんな子にそう言っていたらしいんですが、「文章が好きだ」と言われたことがすごく嬉しくて、書きたいな、という気持ちはその時に芽生えていたんです。ただ、それをどういう形で作品化したらいいのかをずっと考えていました。それで、後藤さんの作品に出会って、このやり方でできるんだ、ということを教えられたんです。

詮索好きの仲間が、あさのさんご本人に質したところ、記憶の細部は曖昧であるらしく、あるいは授業担当だったM先生だったかも知れないということのようで
す。私などの印象では、上のエピソードから彷彿とさせられるのは、亡くなったU先生の面影です。でも、あさのさんの別の文章では、中学時代の事として語ら
れていますし、実のところは謎。いやむしろ、「秘すれば花」なのかもしれません、、、。


私自身はU先生の授業を受け、部の顧問という縁もあって深く敬愛しておりましたが、俳句に関しては、時折句会などに交えていただいたことがあるだけの縁であるM先生に、格別の敬慕の念を抱いていました。


記憶の中のチリクーデター 「パブロ・ネルーダ プレセンテ」
「失語症」という診断名をもらっているわけではありませんが、言葉が浮かんできません。また、思考がしばしば途切れます。加齢のせいか、脳血管手術のささやかな影響か?いずれにせよ、自分の身体環境につきあうしかありません。
昔、尊敬するY先生が、退職前後に、「最近言葉が思い出せないことが多い。Uさん(これも敬愛する我が恩師)も、まず名詞を忘れ、今では形容詞や動詞さえ思い出せないことがある、と言っているが、まさにそのとおり」と述懐されていたことがありました、読書家で緻密な理論家だったY先生でさえそうか、と半分驚き、半分安心した覚えがあります。自分がその年齢になると、いやはや、これはなかなかの新境地。中島敦の『名人伝』(弓の名人が、修行の末、弓矢なしに獲物を射る境地に達し、さらについには、弓矢というものの存在自体を名前もろとも忘れてしまう)もかくや、と笑ってばかりもいられません。

こんな事を思い出しながら、捜し物をしていましたら、やっと見つかりました。追悼文集に寄せた私の文章です。
もっともっと大きくなれ  kazg(教え子)
 子どもと教育を深く愛し、人々の幸福と社会進歩のために身を砕いて献身された先生の、志の高さと人格の大きさを敬愛する思いは、人後に落ちぬつもりです。しかし、私にとっての先生は、いつまでも、懐かしく温かい「恩師」であり、無理に頼み込んで仲人までお願いしたという私的な意味でも、「特別な存在」でした。
 先生との出会いは、三十余年前にさかのぼります。高校時代の私は、ご多分に漏れず、「自分探し」と「自分づくり」の葛藤をかかえて、きわどく不安定な神経状態にありました。学業成績の下降と、「学び」の意味への懐疑、交友をめぐるありがちな軋轢や、将来と人生への漠然とした不安---などに由来する自己喪失感に苛まれていた私は、自己回復と確かなアイデンティティの形成を渇望する日々のなかで、いつしか「文芸部」というささやかな「居場所」に身を置くようになっていました。その顧問が内田先生でした。思えば、30代半ばの青年教師でした。
 生徒食堂の二階の端にある、こぢんまりとした畳敷きの「作法室」が、私たちに与えられた部室でした。穏やかな陽だまりのなか、また、夕映えから日没へと移ろう緩やかな時間の流れのなか、多忙な先生にしばしば同席をねだっては、作品の批評や詩論に花を咲かせ、とりとめもない談笑に時を忘れた放課後のひとときを、日なた臭い部屋の空気の感覚とともに、今もありありと思い出します。
 今、私の手元には、黒表紙に白抜き文字で「ゆずり葉」と題字のある雑誌が二冊、かなり色あせくたびれた姿で保存されています。私たちが高校二・三年の頃に発行した文芸部誌で、そこには、私たちの、未熟な、しかしそれだけにひたむきな、詩や短歌や俳句や小文が、載せられています。
 そこに内田先生が寄せて下さった巻頭言から、一部を引用します。「人はみな詩人である。なぜなら詩は心だからである。だから心のある人はみな詩人になれる。だが多くの人は詩人になりたがらぬ。それはあたかも自らの心をまさぐることを拒否しているようだ。ピアノのキイのようにボク達の心は、どこを押さえてもきっと音色が出るはずだ。そして時には不協和音に身を震わすこともあるのです。しかも詩には感動と思想がなくてはならぬ。ボク達は、今、それを忘れかけている。それは、人間を忘れかけているといえるだろう。なぜなら人間は感動と思想が存在そのものであるからだ。ここに完成したゆずり葉二十三号は、まだ生まれたての蜻蛉のように、はかないものかも知れない。でも、忘れかけた感動を思想をまさぐる志向の表れなのです。(後略)」
 このようなエールに促されながら、自己をまさぐり、言葉をまさぐり、拙いながらも「創作」という形での自己表現に取り組む機会を得たことは、私の「自分づくり」の模索にとって、幸運なことでした。
 授業では、2年・3年と、古典を教わりました。朗々とした名口調や、軽妙洒脱なユーモアも、私たちを魅きつけてやまないものでしたが、何よりも、作品そのものの面白さに触れる悦びと、知的好奇心の充足を味わえる、待ち遠しい授業の筆頭でした。もしも、先生との出会いがなかったら、国語教員としての私はなかったかも知れません。
 「もっともっと大きくなれ」---その頃、先生から頂いた年賀状にしたためられたこんな言葉を、今も自分に言い聞かせたい私です。

時系列をたどれば、この記事↓に登場する、私の幼なじみの「Mちゃん」も、還暦を待たずに膵臓癌でなくなりました。

リユース2題、の巻
昨年(1995年)の正月、30年ぶりに小学校のクラス会がありました。県北の過疎地の、今では廃校になった小規模校です。総員17人の級友のうち、他界 した者、家族の入院・介護などで取り込み中の者を除き、白髪混じりや太鼓腹が顔を揃え、お互い「ちゃん」づけで呼び合って、子ども時代へのタイムスリップ を楽しみました。
 子ども時代「学校嫌い」など、聞いた覚えもありませんでした。比較的教師に可愛がられる「学校適応児」だった私の主観のためかと、常々疑問に思っていましたので、集まった級友たちに質してみると、やはり、誰もが「学校は楽しかった」と述懐します。往々に追憶が美化される点を差し引いても、当時の私たちにとって、少なくとも小学校は、居心地がよく楽しく温かい場所でした。(中学校以降には、選別と競争に苛まれる機会は増えていきましたが、でもそれを相対視できるだけの「自己肯定感」は、幼年期に培うことができたのではと、ありがたく思っています。)
 そのクラス会を一番親身に世話をしてくれたのは、「居残り勉強のMちゃん」とみずから苦笑する元「腕白少年」でした。そのことを、誰もが意外に思わないほど、教室での成績が人格の一面に過ぎないことは、子どもたちにとって自明でした。ソフトボール、山登り、泳ぎ、魚捕り、農作業と、その場その場で秀でた面を発揮したり、逆にかばい合ったりすることで、お互いを認めあうことができていたと思います。
(注:このMちゃんは、還暦を待たずして、病没しました。この記事小学校時代の同窓会歩ちゃんを死なせた「疫痢」に思うことなどの記事参照。残念な事でした。)
 また、逆に、「勉強ができる」ことも、「読書好き」であることも、決して煙たがられたり茶化されたりの対象とはならず、その方面に自分を発揮することで、誇らしい感情を満たされることは、幸福なことでした。誰もが、学校の(生活の)主人であって、多かれ少なかれ、自己の自尊心を満たされる思いを経験できたことが、「学校が楽しかった」理由ではないか、と思います。
 ちなみに、小学校時代、制服はなく、鞄も自由、頭髪自由、校則などというものは聞い たこともありません。制服や鞄を新調することがなじまぬほど、地域社会が貧困であったことが最大の理由かもしれませんが、一面では「戦後民主主義」「戦後 民主主義教育」の息吹が、学校にも社会にも残っていたのかもしれません。思えば高度成長の前夜でした。


東京都知事選で、「初めての女性都知事」に当選された小池百合子さんも、経歴をたどってみると、どうやら、私たちと同世代であるらしい。でも、どのような生い立ちをたどられた故か、「戦後民主主義教育」に根深い憎悪を抱いておられるのは、いぶかしい限りです。小池さんの政治とカネ問題や、タカ派ぶりについては、この記事で簡単に触れてみました。いずれ検証される時が来るでしょうから、くどいようですがもう一度掲載しておきます。
 一方、小池百合子サン。「がけから飛び降りる覚悟で」知事選に出馬し、自民都連にいじめられながらも叛旗をひるがえす“平成のジャンヌダルク”を演じていますが、カネには汚いらしい。代表を務める「自民党東京都第十選挙区支部」の政治資金収支報告が話題になっています。それより何より、超タカ派集団「日本会議」の「国会議員懇談会」の重要メンバーとして、改憲策動の先頭に立ってきた人物で、アベ内閣による集団的自衛権容認よりも10年以上前から、「集団的自衛権の解釈変更は国会の審議の場において、時の総理が『解釈を変えました』と叫べばよい」(『Voice』2003年4月号)と豪語したり、小泉内閣で環境相時代には「日本の核武装構想について」、「国際情勢によっては検討すべきだ」と回答(03年11月衆院選候補者アンケート)するなど、異常なタカ派ぶりを発揮してきた人物です。

教育にたいする姿勢を追加しておきます。

「新しい歴史教科書をつくる会」という団体があります。

オフィシャルブログによると、会の目的などをこう説明しています。

Q1 
「つくる会」の目的は何ですか?
A1
これまでの教科書が日本を不当に悪く描いていたのを改め、子供たちが日本に誇りを持てる教科書で学べるようにすることです。

Q2

そのために何をするのですか?

A2

主に2つの柱があります。

その1は、適正な教科書を新しく作って、子供たちに届けること。

その2は、これまでの不健全な教科書を是正すること。

Q3

これまでに実際に何をしてきたのですか?

A3

①『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』(ともに中学生用)を検定合格させ、各地の公立・私立の中学校で採択されています。すでにこれらの教科書を使用した授業が行われています。



②これまでの教科書の問題点を追求して、その結果、教科書の記述内容が改善されたり、不適切な教科書が採択数を激減させ、教科書会社自体が解散に追い込まれた例もあります。



③教科書採択のゆがんだ実態を明らかにし、各地で正常化に取り組んでその成果として、

健全化した教科書の採択数がはっきり増加してきました。



④教科書問題を広くアピールするために、単行本の刊行や講演会・シンポジウムの開催などを、行ってきました。



そのブログに、小池百合子候補を支持する声明を発表というニュースを掲載しています。一部を抜粋して引用します。

「新しい歴史教科書をつくる会」は小池百合子候補を支持します

 東京都知事選挙は中盤にさしかかろうとしています。当会は教科書の改善をめざす民間の任意団体であり、国または地方の選挙において、特定の政党や候補者を推すことは、原則としてさけてきました。

 しかし、地方選挙でも教科書改善運動への影響があまりに大きい場合は、私達の目標を成し遂げるためにも、一定の立場を表明することが必要な場合があると考えられます。そして今回の都知事選挙は、まさにそうした場合にあたると考えます。

 私達は7月31日に投票が行われる東京都知事選挙において、知事として最もふさわしい候補者として、小池百合子氏を支持します。
〈中略)

 第三に、歴史観についても、小池候補はしっかりとした見解を持っておられます。国会議員として教科書問題にも取り組んでこられ、3人の候補のなかで、「つくる会」の運動を支持してくださった唯一の候補でもあります。

 以上のことから、「つくる会」は小池候補を支持します。


PN(peace-news)様のhpに「作る会教科書」の的確な批判が掲載されていましたので、引用させて戴きます。

歴史事実ではなく、神話と戦争賛美を教える「つくる会」歴史教科書

「つくる会」歴史教科書は歴史的事実ではない神話を事実と混同しやすい形で載せ、天皇制と大日本帝国憲法、日本の過去の侵略戦争を賛美し、植民地支配を正当化しています。また南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦など戦争の悲惨な事実を認識させないなど、徹底した国粋主義・戦争賛美の教科書です。

 韓国や中国の強い対日批判は小泉首相の靖国参拝だけが問題ではありません。侵略戦争と植民地支配を賛美し正当化する「つくる会」教科書に対する検定合格や国会議員・政府・官僚の後押しに対する強い批判でもあるのです。

 「つくる会」歴史教科書の問題点について、以下にいくつか取り上げてみました。

1 皇国史観に貫かれ、科学性を無視しています。
●神話が登場する歴史教科書

 「神武天皇の東征伝承」と「日本の神話」と題するコラムで、『古事記』『日本書紀』の神話が、かなりのページ数を割いて紹介されています。実在しない神武天皇の東征の記述を読めば、実在したと誤解しても不思議ではありません。古代から天皇が権力を掌握していたことを読者に印象付けることを狙っています。

●天皇中心の歴史

 神話の神武天皇が登場することからもわかるのですが、この教科書は日本の歴史が天皇中心であったことを強調しています。さすがに神話を歴史として扱うことはできないので、代わって登場するのが聖徳太子です。(第1章第3節「律令国家の成立」)すなわち、この頃から天皇の名称が使われ始め、「日本の伝統」が確立したとの見方です。

2 自国中心で、他民族への侵略や支配を肯定しています。

●日清・日露戦争

 日本が日清・日露戦争を行ったのは当然であると主張します。その後のはてしない侵略戦争へ導いた対外膨張戦略を当然とする一方的な考え方です。それを前提にして、「日露戦争は、日本の生き残りをかけた戦争だった。日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した」と述べ、その後の戦争全体も肯定します。


●韓国併合

 日清戦争の前に「朝鮮半島と日本」という「読み物コラム」をもうけ、「日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。」「朝鮮半島に日本の安全をおびやかす勢力がおよんだこともあった」と述べ、さらに元寇のことまで持ち出して、「元寇の拠点となったのも朝鮮半島だった」として、朝鮮半島の存在自体が日本にとって危険であるかのような認識にみちびこうとしています。そのうえで、韓国併合については、「日本の安全と満州の権益を防衛するために必要」だったという政府の考えと、欧米諸国も承認したことだけを述べて、日本側の立場を一方的に記述しています。韓国併合後の日本の統治によって生じた被害の実態や、それに対する抵抗運動もごく簡単に扱われているだけです。


●中国侵略

 満州事変にはじまる日中15年戦争の記述は、「中国の排日運動」の記述からはじまります。満州の権益は条約で合法的に認められたものであり、それに対し中国側の排日運動が激しくなったから、日本が軍事行動をおこしたのだという記述です。

3 侵略戦争を植民地からの「解放戦争」と美化します。
●「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)
 他社の歴史教科書が「太平洋戦争」と記述しているのに対し、「大東亜戦争」という名前を用いています。これは当時の日本政府が、「アジアを欧米の植民地支配から解放するための戦争」だという意味でつけた名前ですが、「つくる会」教科書はこれを認めて使用しているのです。しかし当時の日本政府は、日本の植民地だった朝鮮の独立を認めるとは一言も言いませんでした。この事実だけをみても、アジア解放のための戦争というのは嘘だったことがわかります。それだけでなく、日本が占領したアジア太平洋各地から石油・ゴムなどの資源を奪い、住民を強制動員して過酷な労働に従事させました。また、多くの女性を日本軍の「慰安婦」として性奴隷にまでしたのです。
 こうした事実を無視して「つくる会」教科書は、「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育んだ」と述べ、さらに「アジアの人々を奮い立たせた日本の行動」「日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々」という資料まで載せています。



●日本の加害の事実もできるだけ隠蔽
 「慰安婦」は全くかかれていません。南京大虐殺については、199ページの注に「南京事件」として一応書いていますが、「この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され」と否定論を追記しています。強制連行については、「徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され」と、あたかも強制ではなく法にもとづく徴用であるかのように記述し、強制の事実を隠蔽しています。東南アジアでの労務者の強制動員、植民地朝鮮での日本への同化政策と天皇への忠誠心の強制など、アジアへの加害の事実はほんの申し訳程度にふれているだけです。


憲法を教えず、大日本帝国憲法と改憲を教える
「つくる会」公民教科書

 「つくる会」公民教科書は大日本帝国憲法を積極評価し、憲法についてはその意義を教えず「改憲」の動きをことさら強調しています。国防の意義を強調し自衛隊の世界での活躍を賛美しています。国旗・国家、領土問題と拉致問題を詳述し、家族の意義を強調しジェンダーフリーを毛嫌いして否定します。

「つくる会」公民以外の各社の公民教科書がいずれも、国民主権と基本的人権、平和の意義、つまり憲法の基本を教え、主権者としての個人に必要な社会の仕組みの基本を教えているのとは大違いです。
特定の偏った政治的見解・思想を宣伝する「つくる会」公民は教科書と呼べるものではありません。

 「つくる会」公民教科書の問題点を、日本国憲法についての記述を中心に紹介します。

1 「日本国憲法の基本的原則(第3章第1節)」について

憲法について学ぶ箇所ですが、項目は (23)大日本帝国憲法と日本国憲法、(24)国民主権、(25)平和主義、(26)憲法改正、(27)基本的人権の尊重・・・・という順番となっています。

-(23)大日本帝国憲法と日本国憲法:

大日本帝国憲法が、天皇主権の国家体制をつくり、国民の自由を奪い、人権を抑圧した非民主的憲法だったことにはふれずに、「国民にたたえられた大日本帝国憲法」という資料を掲載しています。日本国憲法については、占領軍から押しつけられた憲法だということを強調しますが、憲法の精神や内容についてはほとんど触れていません。そのうえ、日本国憲法が「改正」されていないことを非難するため、「世界最古の憲法」と揶揄する産経新聞記事を資料として引用しています。

-(24)国民主権: 国民主権の説明に天皇の写真 

 国民主権の説明をすべきなのに、なぜか「国民統合の象徴としての天皇」についてスペースを割いて記述し、天皇の写真までも掲載しています。「皇室は、国の繁栄と人々の幸福を祈る祭り主として、古くから国民の敬愛を集めてきた」、「国家が危機をむかえたときには、国民の気持ちをまとめ上げる大きなよりどころとなってきた」などと特異な歴史観まで述べ、あえて国民主権を説明しません。

-(25)平和主義: 平和主義の記述がなぜか自衛隊の発足

 憲法の平和主義のことにはほとんど触れずに、代わりに「自衛隊の誕生」という説明をしています。「国際情勢と占領政策の変化によって、憲法に対する考え方も大きな影響を受け」自衛隊が発足とし、憲法の平和主義についてもまともに書きたくないことが明白です。

-(26)憲法改正:

 前項で憲法のことをまともに説明していないのに、早々に「憲法改正」の記述が登場します。現行憲法は「改正」すべきもので、内容を理解する必要はないという執筆者の意図が露骨に表明されています。

-(27)基本的人権の尊重

 2ページのうち半分は「公共の福祉と国民の義務」にあてられ、さらに国防の義務についても記述しています。基本的人権を尊重よりも、「公共の福祉」の名の下で、社会の秩序維持という理由で人権を制限できることを重視した内容です。


2 その他の記述について

●自衛隊

 「つくる会」教科書は「自衛隊は自国の防衛のために不可欠な存在」としたうえで、「日本国憲法における位置づけが不明瞭ならば、憲法の規定自体を変えるべきだとの意見もある」として、事実上憲法改悪を推進する記述となっています。

湾岸戦争以後の自衛隊の海外派兵(後方支援)の実績をあげ、自衛隊の「軍事的な面での国際評価も高まりつつある」、わが国が「責任ある国際社会の一員として認められるようになってきた」などと述べて、自衛隊の海外派兵を全面的に肯定しています。さらに「自衛隊がより国際的な責任を果たせるよう、集団的自衛権を『行使することができる』と解釈を変えるべきだという主張もある」などと、今日の憲法「改正」論にいっそうふみこんだ記述となっています。

日米安全保障条約については「わが国だけでなく東アジア地域の平和と安全の維持に大きな役割を果たしている」と評価し、批判的意見はまったく紹介していません。周辺事態法の成立によって「米軍との協力・支援体制が強化されることになった」と、全面的に肯定しています。


●「男女共同参画社会の課題」: ジェンダーフリーの否定
 「つくる会」教科書は男女共同参画社会に異論を唱えています。「男女共同参画社会の課題」というコラムをもうけ、ジェンダーフリーが「男らしさ・女らしさという日本の伝統的な価値観まで否定している」という意見をことさらにとりあげたり、「男らしさ、女らしさを一方的に否定することなく」と定めた宇部市の特異な条例を大きく紹介したりしています。両性の平等をなんとか否定する方向に誘導しようとする教科書です。

●「愛国心」の強制、伝統文化の強調
 「つくる会」教科書は、国旗・国歌を大きくとりあげ、「国旗・国歌に対する意識と態度」という2ページのコラムももうけて、愛国心と結びつけて教えようとしています。また「日本の文化を見つめ直そう」という2ページの課題学習を新たにもうけ、日本の伝統や文化の継承者としての自覚を育もうとしています。それを通じて自国中心、他民族蔑視の「日本の一員としての自覚」を育てることがねらいです。
参考文献:
●『使ったら危険「つくる会」歴史・公民教科書--子どもを戦争にみちびく教科書はいらない!--』
 上杉聰・大森明子・高嶋伸欣・西野瑠美子著 明石書店
●『ここが問題「つくる会」教科書--新版歴史・公民教科書批判--』
 子どもと教科書全国ネット21編 大月書店

「つくる会」歴史教科書は歴史的事実ではない神話を事実と混同しやすい形で載せ、天皇制と大日本帝国憲法、日本の過去の侵略戦争を賛美し、植民地支配を正当化しています。また南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦など戦争の悲惨な事実を認識させないなど、徹底した国粋主義・戦争賛美の教科書です。

 韓国や中国の強い対日批判は小泉首相の靖国参拝だけが問題ではありません。侵略戦争と植民地支配を賛美し正当化する「つくる会」教科書に対する検定合格や国会議員・政府・官僚の後押しに対する強い批判でもあるのです。

 「つくる会」歴史教科書の問題点について、以下にいくつか取り上げてみました。

参考文献:
●『使ったら危険「つくる会」歴史・公民教科書--子どもを戦争にみちびく教科書はいらない!--』
 上杉聰・大森明子・高嶋伸欣・西野瑠美子著 明石書店
●『ここが問題「つくる会」教科書--新版歴史・公民教科書批判--』
 子どもと教科書全国ネット21編 大月書店

※扶桑社「新しい歴史教科書」(改訂版)は、「つくる会」HPに抜粋が紹介されています。
http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisi_kaitei.html
子供たちが日本に誇りを持てる教科書」と称して、このような、時代錯誤で非科学的な教科書を子どもたちに押しつける運動を展開している団体から、「3人の候補のなかで、「つくる会」の運動を支持してくださった唯一の候補」と賞賛されているヒトが、都知事としてどんな教育政策を実行していくのか、よっく見守っていかねばなりますまい。

小池新都知事、「ソダチ」がおよろしいのかどうか、そもそも、社会的弱者の痛みなど、とんとおわかりにならぬらしい。

「人々が甘えを持ち『働かなくても、国がなんとかしてくれる』と依存する社会になってしまえば日本は生活保護大国になります」(「女性が活きる成長戦略のヒント」)と書きつのり、13年度予算での生活保護予算大幅削減を、「今回の予算で特筆すべき(本会議代表質問)」と称賛した感覚の持ち主。明日は今日よりもっといい」と信じられる日本つくりとおっしゃいますが、だれにとっての?と疑問がわきます。

「待機児童の言葉をぜひとも4年後、間に合えば4年後、できるだけ早く死語にしていきたい。待機児童ゼロを目指す」と威勢はよろしいが、.よくよく聞くと、、、。

RITERAの記事をご覧ください。
騙されるな! 小池百合子は“女性の敵”だ! 待機児童を狭い部屋に詰め込み、女性だけに育児押しつけ、性差別丸出しの少子化論
 まず、選挙公約には、〈「待機児童ゼロ」を目標に保育園受け入れ年齢、広さ制限などの規制を見直す〉とあり、小池氏は保育園の規制緩和策を打ち出している。だが、現状でも保育園設置の面積最低基準は狭く、小池氏の政策は“子どもをさらに狭い場所に詰め込めることができる”ようにするだけだ。当然、こうした規制緩和策には、保育関係者や保護者のあいだから安全面や健康面の観点が抜け落ちていると批判が上がっている。

しかも、小池氏は街頭演説で、保育園問題の根本になっている保育士の待遇改善について、“お給料を上乗せするという平面的ではない小池式の考え方”があると主張。「空き家ですよ! 空き家はたーくさんあります」と前置きして、こんなことを話している。


「(保育士に)その空き家でもって生活をしていただくことが、真の意味の待遇改善に繋がると、このように思うんですがいかがでしょうか! 家を使うんです!」

 つまり、保育士の給料は増やさないが、「ただ空いているアパート、ちょっと古びた一軒家」(小池氏)に住まわせてやる、と言うのである。

 規制緩和で無人になっているアパートが保育園になり、狭い部屋に子どもたちがぎゅうぎゅう詰めにされ、ついでに保育士たちもそうした場所に押し込められる。──小池氏の話からは地獄絵図のような状況しか目に浮かばないが、こんな政策をドヤ顔で「真の待遇改善だ!」と言える神経がさっぱり理解できない。


小池さんが勝ってそれで終わり、主権者の出番はそこまで、というわけではないでしょう。監視し、声を届け続けることが、いよいよ大事と言えるでしょう。



ガラス瓶で飼育中のアゲハがまた羽化しました。
しばらく壁に止まってくつろいだ後、窓の外に飛んで行きました。












ブラックベリーが、日々収穫できます。
リカーに漬けてブラックベリー酒は製造中ですが、まだ次々に採れます。
生食にも限度があるので、ジャムづくりに挑戦しています。数日前ほぼ成功したので、今日も追加を作りました。








砂糖をまぶして、レンジで加熱します。
分量、加熱時間は、適当。
レシピには、600w4分とありますが、分量がいくらにたししてだったか未確認。


加熱して柔らかくなった身を、ザルの目で漉して種や皮を取り除きます。
種ごとでも野趣があっておいしいのですが、子どもたちが敬遠しますので、種なしのジャムを目指します。
もう一度レンジで加熱〈4分9下後、低温で煮込みます。
これが150w10分くらいの状態。


まだ水っぽいので、さらにもう少し加熱して煮詰め、さましてからビンに詰めます。








甘酸っぱい濃厚なお味で、美味ですよ。
廃物利用で、棄てる前の種と皮の周りのジュースを、もう一度水に溶かしたら、なんと言うことでしょう、美しいブラックベリージュースができあがりました。


今日はこれにて。

入院記念日に思うこと、の巻 [健康]

このブログを書き始めた最初の頃、こんな記事を書きました。ちょうど今頃の季節でした。

◇これでまた病気自慢に箔がつき

自身の備忘のために古い記事を掲載しておきます。


開票速報見ながらの夜更かしでしたが、熟睡できました。

選挙結果も、自民圧勝はいただけませんが、対抗の受け皿がほかになく、共産党への期待につながったというのは、わかりやすくて大変結構。

東京の吉良よし子さん、キラキラしていてまぶしいです。学生時代、この人のお母さんは、私たち夫婦の共通の友人でした(もちろん、みんな未婚でしたが)。



さて、私は、今日の午後入院、明日が手術です。



   明易や さも遠足の朝のごと



入院手術を前に、日常から非日常へ足を踏み入れるわくわく感を覚えている、なんて言うと不謹慎で罰が当たりそうですが、強がりばかりでもない、不思議な心境です。(7/22記) 



昨日は丑の日でしたか。入院の初の食事に鰻の蒲焼き二切れが供されました。明日に向けて暫し絶飲食ですから、噛みしめていただきました



   入院の祝いか土用鰻かな



夜はにわか雨、明るい満月、ひっそりとした夜景と,病室の窓はの外は様々な表情を見せてくれました。



   病室の窓一面に朝焼ける

                    (7/23記)



昨日の手術は約4時間かけて無事終わりました。といっても,私が覚えてえいるのは、手術室に入って麻酔の注射を打ってもらっている場面と、「終わりましたよ」と看護師さんに呼び掛けられた場面だけ。間はぐっすりねていました。

医師によると内臓脂肪が邪魔で苦労したが、手術は大成功。すぐに退院できるだろう、とのこと。



   またひとつ拾うたいのち夏の宵



あれこれの管や機器に縛りつけられた窮屈な「重症患者」の一夜が明け、今朝は、胸の患部に挿入した管を抜き、尿をとる管も抜き、点滴だけの自由な体になりました。たち歩きも、もうできます。回復順調で、この調子だと、退院も早い、とのこと。



   あっけないと言うてはあかん罰当たる

   (NHKぼやき川柳もどき)(7/24記)



最短記録で明日にでも退院できる見とおし。さすがに傷口の痛みは、夜中には気になりますが、昼間は平気、病室の窓越しに見下ろすと、なにやら人だかり、、、朝のラジオ体操でした。



   見下ろせば路地裏にラジオ体操の夏

                        (7/25記)



昨夜は、痛み止めを使わないで眠れました。

朝の散歩で廊下を歩いて見ると、さすがに息切れはするし、痛みや突っ張りががあって自分の体じゃないみたい。そのうち慣れるでしょうけれど。

入院中、用意してきたものの多くを、使わないまま持って帰ります。本も、何冊も持って来たのに、一ページもめくることがありませんでした。学生時代の長期休業明けの心境でしょうか。あと、落語のcd,dvdは、有用でした。

それに引き換え、テレビは、番組表もなしに漫然と眺めていると、退屈しごく。



   何となく心残してシャバに出る



シャバが変換できません。(7/26記)



   これでまた病気自慢に箔がつき




続けてこんなことも書きました。

◇退院翌日の朝散歩
 

    この娑婆は 炎熱地獄や 肺灼くる

     ↑昨日の昼下がり。



   遠慮げに 孫ら諍(いさか)う 夕餉かな

     ↑昨日の夕食。いつもの情景ですが、多少私を気遣っている様子。



   第三の人生という語を知りぬ

     ↑長男が「第三の人生」という語をメールで言うてきた。なるほどごもっとも。

「不摂生をせず」といらぬ一言が余計ですが。



月齢表によると、手術した夜(23日)が満月だったようです。明るい月でした。

週末の今日の早朝、空に浮かぶつきはかなり欠けています。天文の運行は,着実ですね。

しっかり体を動かして、肺を広げなさい(欠損部分を補うように)。というわけで、涼しいうちに散歩してみました。日の出前の時間帯ですが、それでもかなり汗ばみます。今日も暑くなりそう。 (7/27記)



それから二年経った去年の今頃の記事です。

2年目も病室で聞く蝉時雨

 窓の外からしきりに蝉時雨が聞こえています。

クマゼミのようです。

気づけば、2年前の肺ガンによる入院手術の記念日です。

可笑しい事に、またまた同じ病院に入院してます。2年前は呼吸器内科→外科。今度は消化器内科ですが。念のために付け加えれば、2007年には、脳外科で検査入院しました。これも結構辛かった。



前回、記事の更新をした日の夜、救急外来を受診し、そのまま入院となりました。

と書くと、大変深刻な事態が想像されますが、人騒がせでごめんなさい。

ビロウなはなしで恐縮ですが、経験したことのない血便で便器が赤く染まったので、なんの苦痛もないのですが、念のため病院に電話したところ、「心配なら救急外来に来てください。割増料金が必要ですが」とのこと。妻の運転で連れて行ってもらいました

癌の転移を見守るための検査の結果を、近々聞くことになっていたので、関連を怖れたのですが、無関係の由。ホッとしました。

腸の壁がなにかのはずみで傷ついて出血したらしい。

最近何か断腸の思いを体験したっけ?

格安スマホしかないので、更新も訪問もおろそかになりますが、悪しからず。

ではまた。


続けてこんな記事も。

◇丑の日の腹に沁み入る三分粥

 大腸憩室出血というのだそうです。

この年になって、いろいろな病名をいただきます。まだ初心者のつもりですが、高齢者道の入り口というところですかな。

大腸の内視鏡検査については、体験者から聞き及んではおりましたが、結構辛いものですね。30代のはじめに胃の内視鏡を初めて飲んだ時に、地獄を経験したような気がしたものでしたが、回を重ねるごとにだんだん慣れて、「飲み方がお上手ですね」とドクターに褒められるほどになりました。多分、スコープも径が細くなり、部分麻酔などの改良もあるのでしょうが。

ですから、胃カメラ検査は苦痛じゃありません。

それに引き換え、大腸の内視鏡検査は、聞きしにまさる大仕事ですね。

それでも、病気自体に大した苦痛がないのは、ありがたいことです。歯の治療のほうがよりストレスが大きいかもかもしれません、

辛いことといえば、四六時中点滴チューブと心電図計などに繋がれて、行動が制限されることと、 ネット環境が不自由なこと。そしてスムーズに入力することもできなくて、ブログ更新をへこたれそうになることですね。写真掲載の方法もわからないので、今日も文字だけ記事です。



点滴だけで食事が摂れない不満を書こうと思っていましたが、昼食から、三分粥を食べられるようになりました。夕食は、今日は丑の日、うなぎを食べる習慣がありますと、メモが添えてありましたが、オカズはうなぎではなく、白身の魚の煮付けでした。でも美味しゅうございました。

今年の丑の日は?と思ってググってみましたら、七月三〇日だそうですね。たとえサンマやちくわの蒲焼きであっても、できれば、我が家で迎えたいものです。


ところで、このような記事のことを思い出すきっかけがありました。昨日も書いた都知事選のニュースで、小池百合子候補が「この人なら勝てると言って、政策も名にもない人、病み上がりの人をただ連れて来ればいいと言うものではないんです。」と街頭演説で鳥越候補を揶揄・中傷した件。これを聞いた時から、得体の知れない不快感が私のはらわたに居座って、いつまでも気分が晴れませんでした。



後日、鳥越さんの言葉で、ようやく、私の不快なしこりの意味がわかりました。

 鳥越氏 これはガン・サバイバーに対する大変な差別ですよ。偏見ですよ。

 小池氏 もし言っていたならば、失礼なことを申しあげました。

鳥越氏 失礼で済まされますか。僕に対する問題じゃない。ガン・サバイバーは何十万、何百万といるんですよ。そういう人たちに「1回がんになったら、あなたはもう何もできないんだ」と決めつけるのは…。



小池氏 いや、そこまでは言ってないですよ。それを決めつけているのは鳥越さんでしょ。これが選挙なんですよ、坂上さん。



19日のフジテレビ系バラエティー番組「バイキング」での一コマです。

「スポーツ報知」の記事【都知事選】「病み上がり発言」小池氏「記憶にないです」…バラエティー番組で鳥越氏と白熱バトルを少々引用します


都知事選告示から6日目。3人の候補は異例のバラエティー番組内での討論会に出演した。これまで街頭演説などで一切失言のなかった小池氏が、意外な形でほころびを見せた。


 互いに質問を投げかける形式の討論開始から10分。冷静沈着だった小池氏がうろたえた。過去にがんを4度経験した鳥越氏が「(街頭演説で)『病み上がりの人を連れてきて、どうするんですか』と言われま
したか?」と険しい表情で尋ねると、政策以外の質問に虚を突かれた小池氏は「言っていません。記憶にないです」と反論した。だが、鳥越氏は証拠としてテレビのニュース番組で文字テロップが映された場面をプリントアウトして持参。「これはがんサバイバーに対する偏見ですよ」と激高した。小池氏はしどろもどろになり、最後は「言っていたら失礼しました」と謝るしかなかった。

 やり取りの中で小池氏が口走った「記憶にないで す」。これは「政治とカネ」にまつわる疑惑を追及されたときに政治家らが繰り出す常とう句だ。都では猪瀬直樹元知事(69)、舛添要一前知事(67)と2
代にわたって「政治とカネ」の問題で知事を辞職。この問題は都知事選の争点の一つで、都民もこれまで以上に「クリーン」な新知事を求めている。今回は、もちろんカネの問題ではないが、追及され「記憶にない」の対応は、都民に過去、2代続いた疑惑の知事を思い起こさせるかもしれない。


「病み上がり」の言葉に込められた「役立たず」「社会お荷物」というメッセージの毒に全く気づかず、それを人に投げつけることができるヒトは、よほど鈍感と言わざるを得ないでしょう。いや、気づいていないはずはない、その言葉が政敵を撃つにふさわしい攻撃力を備えた言葉だと知っているからこそ、街頭演説で勝ち誇って宣言したのでしょう。

でも、鳥越さんを撃つつもりのこの言葉が、すべてのがん患者を、そしてすべての闘病者を、冷たく嘲ったことにはお気づきにならなかったのかもしれませんね。

 鳥越氏 失礼で済まされますか。僕に対する問題じゃない。ガン・サバイバーは何十万、何百万といるんですよ。そういう人たちに「1回がんになったら、あなたはもう何もできないんだ」と決めつけるのは…。

小池氏 いや、そこまでは言ってないですよ。それを決めつけているのは鳥越さんでしょ。


ウマクかわしたおつもりかもしれませんが、いいえ、事実上、そこまで言っているんですよ!がんサバイバーの一人として、私もいたく傷つき、憤りをおさえかねているのですよ、小池サン。

どうもこの方がたは、いつも自分が強者、勝者の側にいるものだから、弱者の痛み、足蹴にされる側の傷を慮る想像力が欠如しておられる。何もかも、「これが選挙なんですよ」「これが政治なんですよ」「これが権力なんですよ」で片付けるおつもりらしい。


昨日は孫の保育園の「夕べのつどい」でした。

一番下の保育園児は、甚平さんを着せてもらってはしゃいでいます。中1生の兄に手を引かれて、保育園まで歩きます。







道ばたにベニシジミ。





空には赤とんぼ。

青空を舞う赤とんぼ

青空を舞う赤とんぼ posted by (C)kazg 

 


青空を舞う赤とんぼ
青空を舞う赤とんぼ posted by (C)kazg


年長組のおんなの子は、初めて浴衣を着て嬉しいです。台の上で太鼓をたたく出番がありました。

モノクロ処理をしてみました。



きょうはここまで。


病窓を吹き入る真夏の風ゆかし [健康]


見晴らしの良い病室です。
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日頃、通勤やら買い物やらで行き来する生活圏を俯瞰すると、また新鮮な眺めです。
今朝は、看護師さんが窓を少し開けて換気する方法を教えてくださいました。数日ぶりに外気を吸って、清々しさを堪能できました。
 

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病室読書もまた楽しの巻 [健康]

看護師さんに「粥が食べられるようになってよかったですね」と言われ、 「 ええ、ずっと絶食でしたから」と答えると 「 いつから?」と尋ねられます。
「 え~と、月曜に入院して、翌日からだから、火、水と、、、今日は金曜でしたっけ?」と言いましたら「土曜日ですよ」と笑われました。日にちの感覚と記憶のデティルが曖昧になってしまっています。
先日、たまたま立ち寄った古本屋の100円コーナーで、 「 夏休み」用の充電&娯楽用に、目についた本を大人買い(笑)しました。京極夏彦、宮部みゆき、あさのあつこetc.と、読み慣れた作者の作品を適当にかごに入れ、あと、これまで一冊も読んだことのない作者のものに手を出してみました。

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丑の日の腹に沁み入る三分粥 [健康]

大腸憩室出血というのだそうです。

この年になって、いろいろな病名をいただきます。まだ初心者のつもりですが、高齢者道の入り口というところですかな。

大腸の内視鏡検査については、体験者から聞き及んではおりましたが、結構辛いものですね。30代のはじめに胃の内視鏡を初めて飲んだ時に、地獄を経験したような気がしたものでしたが、回を重ねるごとにだんだん慣れて、「飲み方がお上手ですね」とドクターに褒められるほどになりました。多分、スコープも径が細くなり、部分麻酔などの改良もあるのでしょうが。
ですから、胃カメラ検査は苦痛じゃありません。

それに引き換え、大腸の内視鏡検査は、聞きしにまさる大仕事ですね。

それでも、病気自体に大した苦痛がないのは、ありがたいことです。歯の治療のほうがよりストレスが大きいかもかもしれません、

辛いことといえば、四六時中点滴チューブと心電図計などに繋がれて、行動が制限されることと、 ネット環境が不自由なこと。そしてスムーズに入力することもできなくて、ブログ更新をへこたれそうになることですね。写真掲載の方法もわからないので、今日も文字だけ記事です。

点滴だけで食事が摂れない不満を書こうと思っていましたが、昼食から、三分粥を食べられるようになりました。夕食は、今日は丑の日、うなぎを食べる習慣がありますと、メモが添えてありましたが、オカズはうなぎではなく、白身の魚の煮付けでした。でも美味しゅうございました。

今日はこれにて。


2年目も病室で聞く蝉時雨 [健康]

窓の外からしきりに蝉時雨が聞こえています。
クマゼミのようです。
気づけば、2年前の肺ガンによる入院手術の記念日です。
可笑しい事に、またまた同じ病院に入院してます。2年前は呼吸器内科→外科。今度は消化器内科ですが。念のために付け加えれば、2007年には、脳外科で検査入院しました。これも結構辛かった。
 
前回、記事の更新をした日の夜、救急外来を受診し、そのまま入院となりました。
と書くと、大変深刻な事態が想像されますが、人騒がせでごめんなさい。
ビロウなはなしで恐縮ですが、経験したことのない血便で便器が赤く染まったので、なんの苦痛もないのですが、念のため病院に電話したところ、「心配なら救急外来に来てください。割増料金が必要ですが」とのこと。妻の運転で連れて行ってもらいました
癌の転移を見守るための検査の結果を、近々聞くことになっていたので、関連を怖れたのですが、無関係の由。ホッとしました。
腸の壁がなにかのはずみで傷ついて出血したらしい。
最近何か断腸の思いを体験したっけ?
格安スマホしかないので、更新も訪問もおろそかになりますが、悪しからず。
ではまた。

2年目と言われて気づくうかつかな [健康]

「安保関連法案」が、今日にも衆院委員会採決、という動きが伝えられています。

昨日も何人かの友人と話しましたが、実に不愉快。不本意。精神衛生に障ります。

「丁寧に説明する」とおっしゃりながら、一方的に自分の理屈を繰り返すだけで 、相手の質問に答えない、はぐらかす、時には恫喝する、、これで審議は尽くしたとして採決をごり押しする。やっぱ、なんかカンジワルイわるいですよね。

過去にも、語彙力の貧困が話題になった宰相は複数おられました(現在、副総理をなさっておられるお方なども)が、アベサンの場合、その饒舌さとは裏腹に、語彙認識がかなりずれていらっしゃるのではないかと感じるフシがままありますね。

普通「丁寧に」というからには、たとえ意見が違ったとしても、相手の存在を認め、その気持ちを斟酌し、思いが少しでも通じ合うように、相互の間隙を埋め、一致点が広がり、合意が進むように、心を砕くことを、期待します。でも、あべサン達の「丁寧」には、そんな要素はひとかけらもないらしい。

たとえば、デジタル大辞泉の解説にはこうあります。

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春長けてハチマルニーマルを考える、の巻 [健康]

「8020(ハチマルニーマル)運動」という言葉には、聞き覚えがありましょう。

1989年(平成元年)より厚生省(当時)と日本歯科医師会が推進している「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動だそうです。

詳しくはこのサイト参照 。

愛知県に住む私の親しい友人I君が、以前、電話のよもやま話で、「8020(ハチマルニーマル)の20(ニーマル)は、頑張れば大丈夫そうだが、80(ハチマル)のほうが、怪しいね」と、出色のジョークを飛ばしていました。「座布団1枚」です。
このネタ、著作権は彼に属しますが、使わせて貰いますよ。
「80(ハチマル)」の方の保障はおぼつきませんが、「20(ニーマル)」目指して今日も歯医者通いです。
二本いっぺんに、金属を被せたのですが、一本は、昔、「根の治療」をして神経を殺していますので、痛みは感じませんが、もう一本は、神経がある「生きた歯」だそうで、治療後も滲みるのです。できるだけ、神経は生かしておく方がよろしいそうで、その点には依存はないのですが、歯の痛みは、なかなか辛いものです。

「枕草子」にこんな段があります。

十八九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、たけばかりに、裾(すそ)いとふさやかなる、いとようこゑて、いみじう色しろう、顔愛敬づき、よしとみゆ
るが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどになきぬらし、みだれかかるもしらず、おもてもいとあかくて、おさへてゐたるこそ、をかしけれ。 

【解釈】

18~9くらいの女房で髪が大変きちんと整っていて、身の丈ほどもあって
、裾のほうがとてもふっくらして、とっても肥えて、チョー色白で、顔立ちが愛らしくて、器量も教養もありそうに見える人が、たいへんな歯痛で、
垂らした前髪もぐしょぐしょに泣き濡らして乱れ掛かっているのも知らず、顔も真っ赤にして押さえて座ってるのは、風情があるわ。

 歯の痛みは、その一個所にとどまらず、神経経路を通して他の歯にも、頭の奥にも、首筋や肩にも、不快な疼痛を及ぼしますので、まったく侮れません。

願わくば、苦痛を味わうことなく、 「健康寿命」をまっとうしたいものです。

そのため、というわけでもありませんが、 歯医者に出かける前、今朝もせっせと散歩いたしました。初夏を思わせる強い陽射しで、最後はワイシャツ一枚になりましたが、それでも汗ばむほどでした。

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鮟鱇も目には泪か寒戻り [健康]

予報通り、寒の戻りとかで防寒着の必要な朝でした。

まだ歯医者の治療が続いていて、 朝9時からの予約。「今日は2本いっぺんに治療しましょう」ということで、たっぷり注射器2本の麻酔を打って、ドリルの穴あけに耐えました。

こちらは十二分に口を開けているつもりが、「もっと大きく口を開けてください」と責められて、顎が外れそうな体勢で、1時間ほどもかかりました。

私、このブログの執筆動機(?)が「病気自慢」でした。
2007年の脳動脈瘤の手術、2013年の肺癌の手術、どちらも、オペの前に執刀医が「頑張りましょう」と声を掛けてくださり、オペ中も、麻酔でうつらうつらしている中で、「大丈夫ですか~?頑張って~」とドクターの声が聞こえてきます。
でも、点滴針から伸びる管や、計器につながった配線が身体にまとわりつく姿のままベッドに固定され、半身、または全身の麻酔によって身動きならない状態で、頑張ろうにも、頑張れることはありません。「頑張ってください。」」は、こちらのセリフで、心身共に消耗する長時間の手術を、頑張って遂行してくださるのは、あなたがた医療スタッフの皆さんでしょ。と反論したくなりましたが、それは遠慮して、「はい」とうなずいたものでした。

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歩ちゃんを死なせた「疫痢」に思うこと [健康]

NHKの朝ドラでは、花子の愛息で、わんぱく盛りの歩君が、急病であっけなく亡くなりました。
病名はどうも疫痢らしい。
疫痢といっても、今では過去の病気で、若い方には、ぴんと来ないかも知れません。
エボラ出血熱の方が、よく知られていて恐れられているでしょうし、少々旧聞に属するかも知れませんが、O157も、まだイメージしやすいでしょうか?


ネットでちょっと検索してみますと、「疫痢」とは、主に赤痢菌の感染による、小児の重症型の伝染性下痢症を呼ぶそうです。
赤痢固有の症状である嘔吐、高熱、下痢、腹痛などのほかに、昏睡、けいれん、自家中毒症状などを呈する、とあります。顔面蒼白・血圧低下・ひきつけ・意識混濁などを伴い、進行が急で死亡率が高いことから「はやて」とも呼ばれたそうです(「大辞林」、「デジタル大辞泉」など参照)。
 小児がどうして疫痢症状を示すのかという本態については、ヒスタミン中毒説、体質説、副腎皮質機能不全説、低カルシウム血症などの諸説が出されたが、未解決のまま推移しているうちに疫痢そのものが64年以降ほとんどみられなくなった(世界大百科事典 第2版)とあります。
先日のこの記事で、「小学4年生の時、近所の同級生の女の子が伝染病で亡くなりました。田植えの繁忙期で、農家の両親は、子供の健康状態などを斟酌するゆとりもなかったのでしょう。ほんの二三日前には、一緒に遊んだ覚えがあるのに、あっけない最期でした」と書きましたが、この女の子の病気が疫痢でした。
その訃報を聞いた私も、下痢症状を呈して寝込み、あるいはと疑いましたが、町医者の診療で単純な腹下しとわかり、、少しの間の絶食ののち、重湯→おかゆと、おなかをいたわるうちに回復したのでした。

私の生まれた集落には、近所に幼なじみの同級生が3人いました。
ひとりがこの女の子=Fちゃん。
もうひとりは、この記事「相前後して、幼なじみの同級生が病のため死亡しました。私のアルバムには、小学校入学式の日でしょうか、今ではとっくに廃校となったその小学校の校門の前で、彼とツーショットで写った写真が貼ってあります。」と書いた男の子(もう「子」ではないでしょうが、私の脳裏には、子ども時代の彼の元気なわんぱくぶりが焼き付いています)のM君でした。
ちなみに、私の「とっくに廃校となった小学校」は、同級生が17人でした。壺井栄を真似て言うなら、いわば「34の瞳」です。

その中で、最初に逝ったのが、このFちゃんでした。次に、20歳過ぎの頃に、T君が、虫歯(親知らず)の治療のさなか、悪いバイキンが入ったとかで急に亡くなったと聞きました。日に焼けて、俊足で身が軽い少年時代の笑顔が浮かびます。次いで、先ほどのM君。40歳を過ぎた頃、小学校の同窓会を中心になって世話をしてくれたのが彼でしたが、病を得て、定年を前に早期退職し、病気療養中でしたが、この記事の通り、2007年、帰らぬ人となりました。
すでに、数少ない同級生のうち、すでに3人が旅立ったわけです。

ついでに言うと、Fちゃんの家は、細い小路を挟んで、我が家の向かいにありました。4人兄弟で、一番上の兄がSさん、その下に三姉妹がつづき、同級生のFちゃんは、下から2番目でした。
農家の庭は、ちょっとした広さがあって、よく茂った見事な築山の他に、農作業をすることの出来る平らな広いスペースがありましたから、長兄のSさんやその友達など、異年齢の子ども達と、その庭でよく遊びました。軟式のテニスボールやピンポン球を投げて、バドミントンのラケットで打つ野球ゲームで、夕暮れまで遊ぶことが日課でした。外遊びは、男の子同士になりますが、座敷まであがらせて貰い、家の中で遊ぶこともしばしばあり、そうなると、三姉妹も一緒の遊びに交えて貰ったことでした。私にとっては、ちょっとうらやましい、大人数の兄弟の味でした。
ところが、兄弟の中では、最初にFちゃんが、次いで人生中盤で末の妹が嫁ぎ先で、さらに五〇代で長兄が、それぞれ病気で亡くなられました。今は、県外に嫁いだお姉さんが、折を見て入院中のお母さんのお世話をするという状態で、屋敷は、田舎の多くの家がそうであるように、しばらく空き家になっています。その庭にも、夏になると百日紅の花が咲きますし、前にも書いたとおり、お墓にも百日紅の巨きな木がありました。
このようなわけで、百日紅は、Fちゃんのお墓を思い出させ、「疫痢」という病気を連想させ、そして絶食と重湯→おかゆという夏の日の経験を蘇らせる花なのでした。そして、はるかに遠ざかるこれらの日々と、人影も次第に薄らいでゆく過疎の故郷にまつわる、淡く懐かしい郷愁を誘う花でもあるのです。

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 孫たちは、思い出し思い出し、何日分もの一行日記を苦労して書いていますが、私の一日遅れの日記は、まだマシというものでしょうか?

昨日は、午後、倉敷詩の自然史博物館に出かけました。前回休館日でしたので、リベンジです。

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入り口付近にある、恐竜の頭蓋骨模型。
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世界の昆虫の標本が子どもの心を引きつけます。
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私のカメラを奪って、小一の孫が撮りました。
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これは剥製のブッポウソウ。
今シーズンは、本物に会えませんでした。
いつか本物を見ることが出来るでしょうか?
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手術記念日 [健康]

今日のブログ記事は、どのカテゴリーに分類しようか迷いました。

最初は 「文学雑話」で書き始めました。

「家族」にも「趣味」にも関係ありそう。

やっぱり「散歩」かなとも思いました。

「園芸」も「食材」も「nature」も 無関係じゃないですし。

でもまあ、一番字数を費やしたのは「健康」の話題でしたので。


先日の記事で内田百閒を話題にし、その師匠の夏目漱石にも触れました。

そのついでに思い出したことがありますので、記憶の彼方に消えてしまわないうちに、書いておきます。
2007年の脳動脈瘤手術のための入院生活の無聊を慰めようと、当時学生だった末っ子(二男)が、私に見舞いを持ってきてくれました。
手足や身体の麻痺が残り、本を読むためにページをめくるのも億劫だった私のために、ニンテンドーDSに添えて「DS文学全集」と「脳トレ」のソフトを買ってくれたのでした。
今なら、タブレット端末とか、スマホがあれば、十分、読書も音楽も動画まで楽しめて簡便な退屈しのぎができたでしょうが、当時のこととて、すでに時代遅れの「シグマリオン」(PDAとして用いるためヤフオクで入手していました)を持って入院していましたが、元々通信機能は契約もしていないので、ダウンロードしてためていた青空文庫のデータや、音楽データなどを再生させることは可能でしたが、面倒くさくて使う気にならず、せいぜい日記入力機器として時々使うだけでした。
ベッド脇のテーブルにおいていますと、若い男性看護師さんが「シグマリオンですか?ぼくも使っていますよ」と、親近感を示してくれたりしました。
退院後、次の入院がもしあった場合の備えのために(笑)、WILLCOMの「zero3」シリーズ(今日のスマホの黎明期の端末といえるでしょうでしょうか?)を何世代か、しかもその都度、型落ちで値崩れした頃に、買い換えて使いましたが、いずれも「帯に短したすきに長し」で、不満が残りました。
最初に使ったのは「WZERO-3」二代目に当たる「ws004sh」という機種でした。今のスマホに比べると分厚く重い無骨さはありますが、収納式のキーボードや無線LANまでついていてよくできた機種だと思います。ただ、ホストUSB機能を持たないので、拡張性に難がありました。
そのあと、いろいろ「進化」が喧伝されるたびに、目移りして乗り換えてみましたが、極端に画面の文字表示が小さかったり、入力操作にストレスがあったり、通信感度が低くて電波を拾えなかったり、大変不便を感じました。「W-SIM」と呼ばれるSIMを転用できるので、通話用には「9(nine)」シリーズや、「nico」というシンプルな通話とメール機能だけの機種を用い、必要に応じて「WZERO-3」を使う、というスタイルを長く続けました。「WZERO-3」の各機種のうちで、やはり私の用途に適していたと思えるのは、「ws004sh」でした。
ただ、前述の拡張性の問題と、やはり、旧機種ですので、CPU性能の見劣りは覆うべくもありませんでした。
などなど。脇道にそれているうちにふと、古い記事で似たようなことを書いたことを思い出しました。
本当に、耄碌というのは、厄介なものです。

話の筋をもとに戻します。二男が見舞いにくれたニンテンドーDSと、「DS文学全集」は、重宝しました。気力が続かないので、一回わずか数分間、2~3ページからせいぜい10ページ前後をちびりちびりと読み進み、どこまで読んだか忘れては引き返しという能率の悪い読書を、ノルマも目標もなく、気が向くままに進めたものでした。
ミステリー小説や軽読書程度が、よりふさわしいレベルの心理状態でしたが、この「DS文学全集」に収められているのは、青空文庫所収の旧時代の著作権フリーの「名作」だけですので、その中でも、気軽に読めそうな、夢野久作や、海野十三といったところから、芥川や、太宰、藤村など、なじみの深い作品をアトランダムに読む日々でした。
その中で、最も頻度高くページを開いて、最も長時間をかけて、読んだのは「吾輩は猫である」でした。

 そういえば、定年退職で職場を離れるときにこんな退任挨拶をしました。

先ほどは、身に余るお言葉に加えて、過分なお餞別をいただき、恐縮しております。記念になる品物に換えて大切にしたいと思います。
さて、10年ひとむかしという言葉がありますが、私の勤続年数はそれを超えました。それは、2007年を境に大きく二つに分けることが出来ると思います。
2007年問題という言葉があります。一般に、戦後ベビーブームに生まれたいわゆる団塊世代の人たちが、大量退職することに伴う社会問題をそう呼ぶのですが、私には、もうひとつの2007年問題がありました。
その年の1月1日に、我が家の犬が,19歳で死にました。子犬の時、車にはねられて骨折していた捨て犬を、小学校低学年だった長男が拾ってきて飼い始めたのですが、人間に換算して90歳以上という天寿を全うしたのでした。
夏には、幼なじみの同級生が、病気で亡くなりました。小学校に入学したばかりの彼と私が、桜の木の本でツーショットで写っている写真が、アルバムに残っています。
それと前後して、敬愛する先輩教師が、退職間もなく亡くなりました。最初の勤務校以来のおつきあいで、無理にお願いして、私の結婚式の司会を引き受けていただいたこともありました。
私にとって、2007年は、このように、あの世とこの世の境目が薄らぐできごとが相次いだ年でした。
そして、その冬、私自身、脳動脈瘤の手術のために、大阪の病院に緊急入院しました。
(中略)
その時の生徒たちは、受験準備の限られた時間を割いて、みんなで千羽鶴を折ってくれました。病室に飾っていると、看護師さんや、見舞い客が、すごいなあと感嘆するほどに真心のこもった励ましで、本当にそのおかげで私は、手術に立ち向かうことが出来たと感謝しています。
結局、私は、彼らの卒業式にも出席できず、感謝の言葉を直接伝える機会もないまま、今日まできてしまいました。心残りの一つはそのことです。
クリスマスの夜、私は集中治療室のベッドに横たわって、どこかのラジオからかすかに流れてくるらしいジングルベルの音色を、かすかに聞いていました。ありがたいことに手術は成功し、命の危機からは脱することが出来ましたが、手足の麻痺、嚥下障害、言葉の障害など、いくつかの後遺症は残りました。言語聴覚士、作業療法士の先生の指導で、リハビリに励む毎日が続きました。
寝たきり状態から、車いすへ、次は歩行器、そして壁伝いの歩行から、杖をついての歩行と、少しずつ歩けるようになると、作業療法士の先生は、私が教員であることを知って、片手に重い本を何冊か持って歩く訓練など、職場復帰を想定したメニューを考えてくださいました。
 言語聴覚士の先生は、「アメンボ赤いなあいうえお」など、定番の発声訓練とともに、文学作品の一部をコピーしてくださって、声に出して読む練習を続けてくださいました。
ここに、その時のコピーをもってきました。
いずれもよく知られた作品の冒頭の文章ですが、思い通りに発音することができず、再び国語の教員として教壇に立つ事など夢にも思い浮かべることすらできませんでした。
 あれから5年が経過し、通常の文章ならまずまず読める程度には回復できた事に、我ながら感慨を覚えています。一つチャレンジしてみますので、聞いてください。

「吾輩は猫である」の 冒頭部分です。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間とい
うものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮 て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げ
られた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。こ
の時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後猫にもだいぶ逢 ったがこんな片輪(かたわ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷ
うと煙を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。
 

翌年の1月に退院し、自宅療養しながら、最寄りの病院でリハビリを続ける毎日でしたが、回復は遅々として進まず、職場復帰など先のことだとあきらめておりま
した。でも、当時の教頭が、学校へ出てきながら徐々にならすという方法もあるし、無理だったらまた休めばいいとおっしゃってくださいました。年取った私の母親なども「そんな体でがんばっているところをみせることが、生徒にとって励ましになる場合もあるじゃろう」などと言ってくれました。気は進まないけれど成り行きで復帰と言うことになりました。
4月からの復帰が決まると、住まいが近くだからと、K先生が、運転の出来ない私を、学校の行き帰りをまいにちお車に乗せてくださいました。先生の車からみた、通勤路の桜の花盛りが、美しくありがたく目に焼き付いています。本当にありがとうございました。
 
こんな状態の私を、学校中の先生方も、生徒の皆さんも、本当に暖かく迎え入れてくださり、お陰様で授業や仕事に大きな穴を開けることもなく、復帰から5年
が過ぎました。私はついつい、自分のちからでここまで回復できたと慢心しておりましたが、今日の離任式を前に色々とふり返っている中で、本当に周りの皆さんに支えられ、はげまされて、今日の日を迎えることが出来たのだなあとつくづくありがたく感謝しているところです。
人生に「もしも」はないといいますが、もしも本校でなかったら、違った展開をたどっていたかもしれません。改めて、心から感謝を申し上げます。
【後略】


ところで、去年の昨日、7月22日は、私の肺癌手術記念日です。
この入院がきっかけになって、私はブログを始めたようなものです。
いわば、知人に向けての生存証明・安否情報として。あるいは自身の備忘の記録として。
この記事は、入院中、nexus7で書きましたっけ?
残念ながら、私はこの機器を使いこなせません。WIFI接続しないと無用の長物ですし。
今は、経済的理由からWIMAX回線を解約中で、用をなしません。
おとくな接続方法ってあるのでしょうか?

さて、「Nature」ネタに移ります。

脱皮中のクマゼミ。

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次は「園芸」ネタ。
今朝の収獲。いろいろな方からも旬の作物をいただき、日々新鮮お野菜の贅をあじわってますが、我が家の庭でも採れました、

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最後は「食材ネタ」 。ブラックベリー。

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雪解や まずはめでたく 父帰る [健康]

今日は、肺炎で20日近く入院していた父親がやっと退院できて、一安心。IMGP9055_R.JPG

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いったん父親を実家まで送り届け、風邪の後遺症で痛めた耳の治療のために、母親を耳鼻科まで送りました。ところが、思いがけない患者数で、待たされること待たされること。
なんと、今月は、週2回、しかも午後だけの診療だとか。その午後というのが、今日は3時からだったのです。

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この医院は、父親の入院した病院にも近く、実家から一番近い場所にある耳鼻科なのですが、その距離約10km。車がないと、とても通えません。
皮肉なことに、1960年代頃には、実家のすぐ近所の停留所から、バスに乗ってこの町まで容易に行くことができました。まもなくこのバス路線は廃止され、川向こうの道路を走るバス路線を利用するために、1.5kmの道のりを歩くことが必要になりましたが、まだ交通機関利用による移動が可能でした。そのバスは通勤通学のためにも利用できました。
しかし、やがて、その路線も縮小され、今では日に数本が運行されているのみで、高齢者や年少者は、交通難民の状態に置かれています。その上医療機関もこのありさまときては、ほとんど医療難民でさえあるのです。
診察が終わるまでの待ち時間、暗澹とした気持ちで、そんなことを考えながら、近辺を少々散歩してみました。
私が40数年前に通った高校の近辺なのですが、通りも駅前の通りもバスステーションも見るかげもなく寂れ果てていて、うら悲しいので、写真に撮るもはばかられました。

町並み写真は遠慮して、代わりに川景色を写してみました。


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2時前に受付を通り、診察が終わったのは5時半。
実家に帰り着いたのは、日もとっぷりと暮れた頃でした。

ひえびえとした月明かりが静かに照らしています。

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ぽつんと街路灯がともる田舎家。
この2軒とも、何年も前から空き家です。
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私の病気自慢 再び2007年問題 [健康]

今日は、一日雨で、散歩も撮影もできませんでした。

昨日行きそびれた実家に、野菜をもらいに行ってきました。

氷雨に濡れる南天の実。

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かろうじて枝に残る紅葉。
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木瓜の花が咲いていました。
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さて、先日の日曜日に、定年退職する方々に退職前後の体験を話すという機会を与えられ、準備している中で引っ張り出した資料がありました。
結局、紹介しないままに終わりましたが、我ながら思い入れのある文章ですので、備忘的な意味を込めて掲載させて戴きます。

今年の3月 退職まぎわに、機会を与えられて生徒に話した話の抜粋です。


おととい後楽園を散歩していましたら,去年の卒業生にバッタリ出会い、声を掛けてくれました。うれしい「縁」を感じました。
後楽園は,桜のつぼみがふくらみはじめた状態でしたが、色とりどりの梅や椿が咲きそろい、タンポポやナズナやオオイヌノフグリといった野の花が、春を謳歌していました。
ふと、37年前の同じような春の日、友人と後楽園を訪れたことを思い出しました。

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 私は、その春、新採用でT高校へ赴任することになったので、学生時代を過ごしたK県から,T市の下宿先まで引っ越し荷物を運ぶ必要がありました。
私は当時、運転免許も車も持っていなかったので、借り物のおんぼろワゴン車を友人に運転してもらって,T市へ向かう途中、後楽園で一休みしたのでした。
まだ瀬戸大橋も高速道路もない頃で、大歩危小歩危などという有名な難所を越え、宇高フェリーを使っての長い旅でした。友人は、岡山には用事もゆかりもなかったのですが、友情を発揮して,ドライブがてら私の引っ越しの手伝いを引き受けてくれたのでした。大原美術館にも寄ったりしながら、,T市まで私を送り届けてくれて、彼は、K県に引き返しました。教師生活のはじまりから、こうして人のお世話になり続けて37年経ちました。
それから37年間、教え子と同僚になったり、教え子の子どもがまた教え子になる例も、ままあり、不思議な巡り合わせを感じます。私はおととい、しみじみ「縁」という言葉を想いながら後楽園を散歩しました。
さて、その後楽園を散歩しながら、もう一つ気づいたことがあります。私は授業で松尾芭蕉の号が、植物の名前だと説明したついでに、後楽園に芭蕉が植えてあるエリアがあったはずだと言いました。しかし、それは勘違いで、後楽園に植えてあったのはソテツでした。お詫びして訂正しておきます。
その芭蕉の「奥の細道」に「平泉」という章があり、授業では省略しましたが,その冒頭は、「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」という文で始まります。
奥州平泉は、今の岩手県にあたります。藤原清衡、基衡、秀衡の三代にわたって奥州藤原文化と呼ばれる黄金の文化を築いたのですが、源義経をかばったために頼朝の鎌倉幕府に滅ぼされます。栄耀栄華も、うたた寝の間に見る夢のようにはかないというのです。
この元ネタは漢文にあって、「邯鄲の夢」[盧生の夢]「黄梁一炊の夢」等たくさんの故事成語の元になっています。
私の今の心境を一言であらわそうと思うと、これらの故事成語があてはまりそうです。これらは、人の営みは「はかなくむなしい」という点にウエイトがあるのですが、私の場合はそうではなくて、「あっけないほど短い」という点にウエイトがかかります。
私は教師として,これまで、「悔いのないようにがんばれ」というメッセージを常に送ってきたと思います。次の文章を引用したこともありました。
 岩波文庫の訳で紹介します。
「人間にあって、もっとも大切なもの──それは生命だ。それは一度だけしかあたえられない。だからあてもなく過ぎ去った歳月にいたましい思いでを痛めることのないように、いやしく、くだらなかった過去に、恥で身を焼くことないように、また死にのぞんで、生涯を一貫して、持てるすべての力が、世の中でもっとも美しいもの──人類解放のたたかいのために捧げられたと言いきれるように、この生命を生き抜かなければならない。」
ロシアの革命運動に参加した作家であるオストロフスキーが、作者の分身ともいえるパーベル・コルチャーギンという登場人物に語らせている言葉です。
これにはさらに続きがあって、「しかも急いで生きなければならない。いつ偶然のアクシデントによって、突然生命が絶たれることがあるかもしれないからだ」という趣旨のことを付け加えています。
実は、近年私は、「がんばれ」という言葉を封印して、滅多に使わないようにしてきましたし、さっきのオストロフスキーの言葉も,長くお蔵入りさせていました。
というのも、私の長男が高校時代、不登校の長いトンネルに迷い込み、親子共々非常に苦しい経験をしたことと、前任校である夜間定時制のS高校でも、多くの不登校経験者と接する中で、「がんばれ」という言葉が、時に人を追い詰め、責めたて、ひどく傷つける場合があることに気づいたことも、きっかけでした。
しかし、今年は最後だからという思い入れからか、授業などでも例年以上にがんばれメッセージを発する機会が増えているかもしれません。そこを汲み取って受け止めてくれたらうれしいと思います。
さて、授業に皆さんには、4月の最初の自己紹介で話しましたが、2007年の暮れに、私は、脳動脈瘤という病気の手術を受けました。
ボールペンの先ほどの太さの脳の血管が直径3センチほどに、タマゴを飲んだヘビのようにふくれて瘤になって、他の組織や神経を圧迫するのです。何年か経過観察するうちにそのスピードが速まってきたので、手術しましょうということで、当時担任していた3年生の推薦入試の時期でしたが、急いで推薦書や必要出願書類は作り上げて、緊急に入院手術ということになりました。クラスの生徒が受験準備のさなかに折ってくれた千羽鶴,病室に飾って励みにしました。
心のこもった鶴を見て、看護師さんたちもしきりに感心してくれました。そんな彼らの卒業式にも出席できないまま、お別れしてしまい、心苦しい思いが残っています。

初めての入院手術が命がけ
大手術控えて心境まとまらず
これきりと言われちゃ困る命かな
『まあだだよ』『まだまだだよ』と口ずさみ



川柳風に心境を詠んでみました。最後の、「まあだだよ」というのは、夏目漱石の弟子で岡山出身の文学者内田百間をモデルにして、「七人の侍」で知られる世界の黒沢明監督が作った映画の題名です。「もういいかい」とあの世からのお迎えが呼びかけても「まあだだよ」と返事をする,という軽妙洒脱な生き方が、愉快に描かれています。私は、入院中、先ほどのオストロフスキーの文章を思い浮かべる一方で、この映画にあやかって、声を張り上げて「まあだだよ」を唱え続けたいと思ったことでした。


まあだだよ デジタル・リマスター版 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 角川映画
  • 発売日: 2010/07/22
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何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって

何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって

  • 作者: 黒澤 明
  • 出版社/メーカー: スタジオジブリ
  • 発売日: 1993/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ノラや―内田百けん集成〈9〉  ちくま文庫

ノラや―内田百けん集成〈9〉 ちくま文庫

  • 作者: 内田 百けん
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 文庫

幸いに,命をとりとめて、こうして退職の時を迎えることが出来るのは、暖かく励まし支えて下さった同僚の先生方や、素直で優しくひたむきな生徒の皆さんのおかげと感謝しています。改めて「ありがとう」を申し上げます。
今 こうして、夢のように過ぎ去った教師生活をふり返って、「悔いはないか」と自問しても、なかなかYESとは答えられないことを恥ずかしく思いながら、今も 「まあだだよ」と繰り返しています。私自身「がんばろう,悔いなく生きよう」と思いながら、「だけどそれが難しいんだよね」としょげることの繰り返しでし た。でも、人生の味わいは、その葛藤の中にあるのかもしれません。相田みつをさんなら、「だって、人間だもの」といってくれるかもしれません。

にんげんだもの

にんげんだもの

  • 作者: 相田 みつを
  • 出版社/メーカー: 文化出版局
  • 発売日: 1984/04
  • メディア: ハードカバー

 

にんげんだもの 逢 (角川文庫)

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  • 作者: 相田 みつを
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2000/06
  • メディア: 文庫

 

100点満点ではないけれど、納得の出来る教師生活だったと思います。

めでたさも中くらいなりおらが春 (小林一茶)


昨日準備していたお話はここまででした

今日ここで思いついて、一点訂正させてもらいます。

 

めでたさもマクシマムなりおらが春


おあとがよろしいようで。(2013.3月)

 


 

後日談ですが、37年前に私と引っ越し荷物をワゴン車に乗せて運んでくれた友人と、今年になって、ブログ上で、そしてfacebook上で、再会することができました。

彼の専攻は物理学でしたから、科学の波を乗りこなしていることは自然でしょうが、生粋の「文系」だった私が、CPUだのLANだの、インターネットだので遊んでいることは、意外だったようです。なにしろ、当時の勢いでは、自動車運転免許さえ、下手すると一生取りそうになかったですものね。

 



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病院の日はまな板の鯉になる [健康]


今日は病院の予約日。
肺癌手術をして戴いた外科は、先月「卒業」を宣言して下さり、 呼吸器内科の主治医のもとに戻されて、最初の診察。
11時半の予約ですが、10時半には病院に行き、待合で待ちます。レントゲンを撮る時以外は、ずーっとイスに座って、時間の過ぎるのを待ちます。
若い頃なら、必ず文庫本でも用意して、一瞬のロスも惜しむように、むさぼり読んだかも知れません。「読むべき本」と「読みたい本」最低一冊ずつは用意して、交互に読んだでしょう。でも、最近は、視力と集中力の衰えで、 そんな習慣はどこかに行ってしまいました。
最近の若い人なら、スマホでも片手に、それなりに時間を費やすのでしょう。でも、私、スマホ持っていません。最近、PHSからガラケーに「乗り換えた」ばかりです。
ですので、病院の日は、私はまな板の上の鯉になって、無念無想で時間の流れに身をゆだねます。 何かを考えるともなく、あれこれと、とりとめもなく浮かんでくる思念は、蟹のあぶくのように、はじけてどこかへ消えていきます。
予約時間を30分以上も過ぎた頃、診察の順番が来て、経過は順調、今後継続的に、転移はないか、経過を観察することで、今日の診察終わり。
お昼をとっくに過ぎているので、一旦帰宅し昼食をすませてからとこかへ出かけてみようか。冷え込みはきついけれど、よく晴れているので。
________________________________________
ところが、帰宅して、郵便ポストをのぞくと、携帯電話のW社から封書が来ています。私は、十何年、この社のPHSの愛用者でしたが、少々不満が溜まったので、この夏別の社の携帯電話に乗り換えたところでした。
元お得意様に、何か特別セールの案内か?と明けてみたら、全く思いがけない手紙。一部引用します。
さて、先般Wホームアンテナレンタルサービスの解約のお手続きをさせていただきましたが現時点でレンタル機器のご返却が確認できていない状況でございます。
まだご返却がお済みでない場合については、平成25年12月31日までに、同封させていただいております着払い伝票にてご返却いただきますようお願い申し上げます。(中略)返却の確認できない場合、違約金30000円(税込み)をご請求させて戴く場合がございますのでご了承の程お願いいたします。(後略)
寝耳に水の通告で、私としては不愉快きわまりなく、憤懣やるかたない思いに襲われました。こればっかりは、「まな板の上の鯉」
などと、すましてはいられません。
それは、以下のような事情によるものです。
1.w社PHS電話解約の際、最寄りの店舗を尋ねましたら、解約日によって違約金等が発生すると説明され、違約金が発生しないタイミングを知らされたので、その場は手続きをキャンセルし、引き返しました。 (その際、ホームアンテナの話題は一切提示されませんでした。)
2.解約違約金が発生しないタイミングまで、時間の経過を待って、改めて、解約手続きのために店舗を尋ねました。(当然その間の契約料金は支払い続けたことになります)その手続きの最後になって、 ホームアンテナの返却を要求されました。事前に聞いていなかったので、手続きは中途でキャンセルし、すごすごとその場は引き返しました。
3.自宅に戻って、家捜しをし、ホームアンテナを探しましたがすぐには見あたりませんでした。その理由は、場所により電波状態が非常に悪く、ホームアンテナによっても有効な改善が見られず、長い間現実には使用していなかったためです。
4.もう一度販売店に赴いて無駄足になるのも負担なので、サポート電話に電話し、オペレーターに事情を説明しましたら、それではこちらで処理しますとの返事で、解約手続きが終了しました。(その際、ホームアンテナ紛失を伝えましたが、違約金3万円等という説明はありませんでした。もし聞いていたら、無理に解約したかどうかは疑わしいでしょう)
5.それは、丁度肺癌の入院手術を間に挟んだ7月下旬のことでした。 それから、何ヶ月経ちましたか?いまのタイミングで、一方的にこの通告は、心外と言わなければなりません。
6.ホームアンテナは、当時最新のスマートフォン的要素を持つ「HYBRID W-ZERO3 」という機種が、電波状況に弱い傾向がありましたので、多少なりとも改善するかと、無料レンタルのアナウンスがありましたので利用させていただいた次第です。しかしながら、上記の通り、使用に耐えませんでしたので、現実にはほとんど使わないままお蔵入りとなっていました。
7.代わりに、電話、メールのみの利用には、以前使用していた、nineやnicoを使用することが多く、スマートフォン的利用が必要なときには、W-ZERO3(二代目WS004SH)もしくは、アドエスに、w-sim を差し替えて使うことがほとんどでした。(これらの機種は、w-simと呼ばれるsimを装着することで、通話・通信できるもので、同一のsimを差し替えれば、使い分けることが可能でした。sim-styleと名づけられたこのシステムは画期的なものだったと思いますが、すでに商品展開は終了しているようです。)
8.そうこうするうちに、旧機種のWS007SHを廉価で購入する機会がありましたので、これを使うことが多い状況でした。
9.これらの機種の使用感を主観でまとめると
① WS004SH は、液晶もある程度大きく、良い出来でしたがホストUSBが使えない点が不自由でした。「重く分厚い」のは、許せます。
②アドエス(WS011SH)は、携帯ライクな大きさで、非常にコンパクトなスマホといえますが、老眼の目には文字が小さすぎ、最大限拡大しても使い物になりません。
③WS007SHは、アドエス(WS011SH)に先行するモデルですが、使い勝手は良かったです。ただ、スペック的に貧弱でモタモタ感にストレスがありました。また、裏蓋など全体にチープで、強度的に長くは使えない筐体でした。
④「HYBRID W-ZERO3 」(略称ハイブリ)は、携帯超小型PCという面で、現行のスマホの先駆け的な存在ですが、同社PHSの別機種なら通話できる場所でも電波を拾わないし、ましてやネット接続は問題外です。
⑤にもかかわらず、DDIポケット時代からのPHS利用者としては、過去への郷愁もあり、ある種のFAN意識もあって、他社携帯をもたないまま最近まで来ました。
⑥その間、キャンペーンごとに「お得」感を刺激され、契約面でも色々おつきあいをしてきました。もしw社のw-simスタイルの「スマホ」の完成度が今少し高かったならば、
2台持ちキャンペーンに魅力を感じることはなかったでしょうが、現実は上述の通りでしたので、電話とメールは専用機で利用しようかと、 2回線利用をしばらく経験しました。ただ、実際には煩瑣な使い分けを使いこなしていないことが自覚されたので、解約を申し出ましたら、かなり多額の違約金を提示されました。損得勘定で言うと違約金を払うよりは、2回線使用の契約を続けていた方が有利だったかも知れませんが、不必要なものを維持し続けることを潔しとしない思いから、違約金を支払って解約しました。その商法に接して、W社への親愛感は、大きく揺らいだ感が否めません。
10.またまた違約金、しかも3万円かと、暗い気分にさいなまれながら、午後は一生懸命家捜しをしました。あきらめ半分の、気の重い大掃除でしたが、日暮れ頃、奇跡的に見つかりました!早速送り返すことにしますが、 不毛の時間の浪費に、消耗感は癒しがたいところがあります。
というわけで、今日は散歩が不発でしたので、今日の写真は、昨日見た鴨川の鴨。カルガモの家族ですか?

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右肘手術?ただし皮膚科! [健康]

 今日は、前々から、学生時代の同郷の旧友たちの再会計画を、M女史が企画してくれていた。車で二時間ほどの所にあるYさんの旦那さんの実家が会場で、Mさんが、落 ち合い場所で私を拾って、目的地まで運んでくれる手はずになっている。近隣在住者中心だが、兵庫、大阪に住むYさん、Kさんたちも、実家を集まる予定。懐かしく、心弾む企画だ。

当初、9月に計画されていたものの、事情で延期になっていただけに、待ち遠しさはひとしおだった。


が、こんな時は思わぬ邪魔が入るもの。

右肘が痛い!

「肘を痛めたって?ピッチャーでもやったのか?」とツッコム人もあるまいが、実は、先週、肘の皮膚を手術して、幾針か縫ってもらったのだ。

手術というと大仰に聞こえるが、「イボ」を除去する小手術だ。というのも、ずっと前から、右肘に小さな突起物があって、最近豆粒ほどの大きさのそれが、少々目立つようになってきた。何かと不快だし、ものに触ってこすれると痛い。2歳の孫娘なども、目ざとく見つけて、回らぬ舌で、「痛いの痛いの飛んでけ」などと言ってくれるし、退職して拘束される時間も少ないので、思い立って皮膚科医院を訪ねてみたというわけだ。

20 年ほど前か、それ以上になるだろうか、もう記憶も曖昧だが、最初は、 小さなニキビかなんかのように、毛穴のあたりにポチッとしたしこりができた。ギュッとつまんでしぼると、にゅるっと白い、ちょうど芥川竜之介の『鼻』に出て くる禅智内供の、「虫」もかくやと思われる、ゲル状の脂肪様のものが出てきて、「ニキビ」は小さくなる。

放置しているとまた同じ状態になるので、それを繰り返すうちに、うっすら血が混じるようになる。というような経過をたどり、だんだん気になるようになった。

胃潰瘍の治療をしていた頃だから 今から10数年も前のこと。内科のついでに同じ病院の皮膚科にも寄って、相談したら、「尋常性のいぼですね。悪性のものではないでしょう」「気になるようなら治療しましょうか」というわけで、その時は液体窒素の塗布をしてもらった。

二度ばかり通ったが、大きな改善もなかった。長かった胃潰瘍の治療も、ピロリ菌の退治が成功して終わり、他地域の職場に転勤したこともあって、その病院とは疎遠となり、皮膚の治療もうやむになった。

それからかなりの年月が経って、脳動脈瘤で通う事になった病院でも、ついでに、皮膚科を訪ねてみた。そのときは、頬にできた黒い大きなシミを、周囲が「悪性のものでは?」と心配するので、診察を受けてみたついでに、肘のこと も相談したが、「どちらも悪いものではないでしょう」「頬のは老人性のシミですね」と聞いて、「老人性」はショックだったが、若い女医さんから見れば「老人」に相違あるまいと、妙に納得して診察を終え、主要な関心事は脳動脈瘤と高血圧に戻った。


余談になるが、先日、何気なく聞いていたラジオから、童謡が流れていた。

「船頭さん」作詞:武内俊子  作曲:河村光陽
  (一)
   村の渡しの 船頭さんは
   ことし六十のおじいさん
   年はとっても お船をこぐ時は
   元気一ぱい ろがしなる ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ    
(二)
   雨の降る日も 岸から岸へ
   ぬれて舟こぐ おじいさん
   けさもかわいい 子馬を二匹
   向こう牧場へ 乗せてった ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ

(三)
   川はきらきら さざ波小波
   渡すにこにこ おじいさん
   みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
   どうもご苦労さんと いって渡る ソレ
   ギッチラ ギッチラ ギッチラコ    

子供の頃は、何の違和感も感じなかったが、改めて聞いてみて、「ことし六十のおじいさん」という歌詞には、一人笑った。この話題に触れても、若い人は反応しない。別段可笑しくもないらしい。


ちなみに、この歌は、戦前の唱歌で、元の歌詞では二番三番はこうなっていたそうだ。

     
(二)
雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
それ ぎっちら ぎっちら
ぎっちらこ
  
(三)
村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 舟をこぐ
それ ぎっちら ぎっちら
ぎっちらこ


歌は時代を映している。


さて、2007年と2013年の相次ぐ手術の成功で、脳動脈瘤と肺癌という巨大な関心事が、まずは意識から遠のいたおかげで、「イボ」のこともまた気にかかるようになった。これは「病気」とも言えぬ些細な「不快」であるが、「不快」であることは間違いない。

というわけで、たまたま、孫娘が皮膚炎の治療に通っている皮膚科を受診したところ、前述のように、切除手術となった。小手術ではあっても、三十分ほどもかかり、細い糸で幾針も縫われたあとは、小さくはない。取り除かれた患部は、ダイズというよりソラマメほどの大きさの固まりで、つまむとかなりの堅さのものだった。

肺手術のあとに加えて、今度の縫い跡で、なかなかのブラックジャック状態だ。


うかつと言えばうかつだが、今日は、その通院の予約を入れていた。深くも考えず、両方の予定を容易にこなせるものと、安直に思い込んでいた。昨日のMさんとの打ち合わせで、私の当初の計画のずさんさに気づかされた。

早朝医者の用事を済ませて、すぐさまMさんとの落ち合い場所に向かおう、と、ぼんやり考えていたのだが、二時間ほどの旅程であるので、それでは間に合うはずがない。
Mさんのアドバイスで、通院時間を夕方の五時頃に設定すれば可能であることに気づいた。

一件落着のつもりで、昨夜は寝床についたが、深夜、寝返りを打つ際に無意識に右肘に力が加わったのだろうか、その弾みで思わぬ痛みが走った。

 今朝見ると、ガーゼの下に、出血が伺われるし、これまで以上に患部が腫れている。

というわけで、勝手ながら通院を優先し、再会計画の方はドタキャンさせてもらう事にした。


 この辺までを書いて、朝の診療を受けるために医院を訪ねた。

出血あとと、患部の腫れを確認し、予定の抜糸を半分だけ実施。半分の糸は残しておいて、2~3日後に残りを抜糸することになった。

念のための組織検査では、悪性のものではないことがわかり、一安心。

頬の「老人性」の黒いシミも、前回処置した液体窒素の塗布の結果、かなりの部分がはげ落ちて、元の皮膚の状態に戻っている。残った部分に、もう一度処置。

というわけで、次回頃までには、もとの「美顔」にもどれるかもしれない。

 


黒と白にちなんで、今日見た鵜とサギの写真を貼る。カメラはPENTAX k10 、レンズはTAMRON SP500 レフレックスレンズ。

 

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今日ぐらい明るいとシャッター速度が稼げる、、、はずだが、手ぶれ補正を使っても、簡易的にコンパクト三脚を使ってみても、なかなか手ぶれが避けられない。実は、橋の上の歩道から写しているので、自動車が通るたびに橋が揺れることも影響しているだろう。完全マニュアル操作だから、ピントもぴったり合わせるのは難しい、、、、。というわけで、いつもの事ながら満足できる写真が残らない。特に、遠い被写体を鮮明にとらえることはむずかしく、こんな事ならお手軽ズームの300mm側で撮って、トリミングした方がましだろうか?と悩む。

撮っているときは、ファインダーの中の望遠世界が魅力的で、それを覗く喜びを経験できることだけでも良しとするか、という気持ちもあるが、鮮明な画像が記録できればなお嬉しいのだが。 

技量のせいか?レンズ個体の状態のせいか?レンズそのものの限界か?

渡り鳥が飛んでくる季節だ。倉敷川に、カモの群れが遊泳していた。

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何の脈絡もないが、庭の菜園でトカゲ(かなへび)を見たので、愛くるしいところを2枚ほど。

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これはコンパクトデジカメの、PENTAX X5。

 




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肺腺癌という言葉さえ知らざりき 私の病気自慢最新版 [健康]

肺癌手術から、約一ヶ月が経過しました。
予約してありましたので、午前中、病院へ行ってきました。血液検査、レントゲン検査、肺機能検査とスムーズに済ませて、診察を待ちます。予約の時刻より、1時間以上前には待合室にいましたが、なかなかお呼びがかからず、40分ほど遅れて、順番がきました。
手術で切除した肺の、組織検査の結果を知らされました。「肺腺癌」の初期で、リンパへの転移はないとのことで、今後は特別の治療はなく、転移・再発がないか、経過を見ていくことになります。
そもそも肺は、大きく左右に部屋が分かれており(左肺・右肺)、さらに右は上中下の三室。左は上下の二室に分かれていますが、私の病変は左肺下葉に発見されました。
手術前には、CT画像による診断で癌の疑いがあるが、気管支鏡検査および同時に実施した組織検査では、グレーなまま。PET検査(「陽電子放射断層撮影法」=Positron Emission Tomogoraphy)でも、陽性とは断定できません。
一番確実な診断は、実物を取りだして顕微鏡で検査する方法。ただ、うかつに触ると転移しやすいので、2~3センチの影が見つかった左肺下葉を全部摘出し、同時に転移を封じるため周縁のリンパ腺を切除するというのです。当初、病変部位を中心に、多少大きめに切り取るのかなと、安直に想像していましたら、相当大がかりな手術なのです。しかも、肺は、心臓と動脈で直結し、毛細血管が網の目のように張り巡らされているので、それらを慎重に止血しながら摘出するのだそうで、それに伴うリスクはこれこれのものがあります、と説明を受けますが、「じゃ結構です」とも言えず、了承の印をついてしましました。
医師は、画像診断ではほぼ癌に間違いなく、ほかの場合は考えにくいが、絶対に癌だとも断定できないので、「もし間違っていたらごめんなさい」と、冗談めかしておっしゃいます。
患者にとっては、もし間違っていたら、健康な臓器を切除された痛ましさはあるけれど、転移の恐れが解消するという意味で、ラッキーなことです。私も、心の片隅で、その僥倖を期待しないわけでもなかったのですが、やはり事実は冷厳でした。
「肺腺癌」という言葉も知りませんでしたが、①多く肺の末梢に発症する、②発生頻度が高い、③転移しやすい、などの特徴があるようです。あなどれません。
とは言え、想定される範囲での、最上の展開ですので、何の異存もありませんとも。早期発見、早期治療というラッキーに恵まれ、名医の執刀で手術も成功し、人事は尽くした(私は何も頑張っていませんがね)訳ですので、この後どう転ぼうと「天命」とみなすしかないでしょうね。
but、いつも平常心でいられるほど人間ができてはいませんので、まだまだじたばたあがくつもりです。このブログ、いつまで続くかお楽しみ。
写真は、青空の下で実った若い棗(なつめ)。もうしばらくすると、熟れて赤茶色に色づきます。
漢方でいう大棗の原料。癌に効くという情報もありますが、どうでしょう?
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