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百舌とブンナと彼岸花、の巻 [折々散歩]

昨日の記事の続きです。
劇団「青年座」の「ブンナよ木から下りてこい」公演で、百舌(モズ)を演じるのは、小豆畑雅一(あずはたまさかず)さんです。
彼のブログに、こんな記事(9/21付)を見つけました。

 途中 岡山城のすぐそばを通りました。
すると、その広場の入り口に
綺麗な彼岸花が咲いていました!
{実は、百舌の台詞に 出てくるんです、彼岸花。
なんだか 明日からの台詞に変化が生まれそうな
嬉しい帰り道でした。

百舌の台詞に登場する彼岸花?とっさには思い出せませんでしたので、原作を確かめてみました。
「第三章 雀 と 百舌 が ながい 後悔 の はて に むかし話をすること」の一節です。

 「でも、百舌さん、わたしらには、人間というヤツは敵だったな」
と雀はいいました。
「人間は敵の中でもいちばん頭がよかった。 秋になると稲がみのって、 なんといってもわたしらのとり入れどきだったのに、人間はかすみあみを張つて、わたしらをいけどりにして、羽をむしって、たべたんですから」
「おれたちの仲間にも人間にたべられたのがいたさ。 おれたちはかすみあみにはかからなかったが、 子供らの空気銃がいちばんこわかったね。 てっぼうってヤツは大変なしろものだぜ。なにせ、たまがまっすぐとんできて、おれたちに命中するんだからな--」
百舌はそういってから、 しんみりと、
「おれの仲間がそのたまにあたったときのことをおぼえているよ。 さっきもいったとおり、おれたちは電線にとまるくせがあるだろう。木にとまっても、おふくろは、えもののよくみえるところは、こずえの先だといったんで、めったに、しげみの中になんかとまったことがない。 その上、また、おれたちのなき声は、人間によくおぼえられているんだ。おれたちは、えものをおどかすつもりで、あんな声をあげるんだが、人間の子供は、その声で、すぐみつけだして、空気銃をとりだして、おれたちをうつんだ。あの日友だちは、頭をやられて落ちたよ。血が花びらみたいに空にちったと思うまに、 友だちは羽をひろげて雪の中へ落ちていって雪の上へうつ伏せになって、 弾丸のぬけた頭を雪につっこんでこときれていたよ。ああ、血のふき出た友だちは彼岸花みたいにきれいだった。 人間の子供というヤツはひどいことをするね。おれたち鳥の世界では、いくら悪いヤツがいても、あんなひきょうな武器はつかわないよ。
人間の知恵というのは野蛮だよ、道具をもつと手の負えない悪魔になるのが人間だった」
百舌はそういうとまた舌打ちして、痛みが出たのか、あいててててといいました。
人間の子供は残酷だという百舌の話にブンナは感心しました。かえる仲間にもじっは人間の子供は恐れられてい た の です。 いったい、 人間 の 子供 は、 どうして かえるみる と、 あれ ほど 意地 わる を し た がる の でしょ う。 こっち が なに も 害 を 加え たり し ない のに、 足 で 追いたて たり、 ふん だり、 石 を 投げ たり、 まあ、 みつかっ たら さい ご、 ひどい 仕打ち をさ れ まし た。  

>ああ、血のふき出た友だちは彼岸花みたいにきれいだった。
凄絶な美しさです。痛ましい限りです。
彼岸花、まだまだ咲いています。









我が家の庭にも咲いています。これまた灯台もと暗しでした。

「血のような」赤い彼岸花ばかりでなく、白やクリーム色の者も風情があります。







なんと、我が家の庭にも、白花が咲いています。ずっと昔に球根を植えたのが繁殖したモノで、この季節になって思い出したように一気に咲いてくれるので、驚きます。

さて、鳶の暴虐の前には、哀れな百舌はなすすべもなくその命を差し出すしかないのですが、カエルは常にその百舌の犠牲者です。
以前書いたこの記事では、はやにえとされた無惨なカエルの骸を話題にしました。
◇冬天(とうてん)を仰ぎて骸(むくろ)乾きたり

新潮文庫の「ブンナよ木から下りてこい」の末尾には、作者水上勉からの「母への一文」というメッセージが添えられています。
一部を引用します。

 私は、この作品を書くことで、母親や子供とともに、この世の平和や戦争のことを考えてみたかった。 それから子供がよりぬきんでたい、誰よりもえらい人間になりたい、と夢を見、学問にも、体育にも実力を発揮し、思うように他の子をしのいでゆくことの裏側で、とりこぼしてゆく大切なことについても、いっしょに考えてみようと思った。まことに、今日の学校教育は、人なみの子にするというよりは、少しでも、他の子に勝る子にしあげようとする母親の願いを、ひきうけているようなところがあって、子は、ひたすら学習であけくれている。 いったい誰が人なみでいることをわるいときめたか。また、人なみでないことをダメだときめたか。そこのところをも、私は子供とともに考えたいと思った。生きとし生けるもの、すべて太陽の下にあって、平等に生きている。蛙も鳶も同じである。 だが、この世は、平等に生きているといっても、弱肉強食である。賢い者は愚かな者を蹴落し、強い者は弱い者をいじめて生きている。動物の世界だけではない。人間の世界がそれである。
ブンナは、こんな世の中で、もっとも弱いものの象徴である蛙である。ブンナという名は、釈迦の弟子の一人の名にちなんでつけられているが、賢明な弟子の苦悩を、ブンナは蛙の身でなめるという物語である。
母たちに、 右のような作者の思いがったわっておれば、子供に話しきかせる方法もまたちがってくるだろう。 今日の学歴社会を生きぬこうとする凡庸の子らに、どのような夢を作者は托したか。凡庸に生きることが如何に大切であるかを、 母親は先ず自分の心の中で抱きとって、子に話してほしい。そうであれば、ブンナが木の上で体験した世にもおそろしく、かなしく、美しい事件のすべてが、子供に、なんらかの考えをあたえ、この世を生きてゆくうえで、自分というものがどう確立されねばならぬかを、小さな魂に芽生えさせてくれる、と作者は信じる。


今日はこれにて。

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コメント 4

風船かずら

力の中身を問いたいですね。他の子に勝る力をと考える母親の考える力というのは利己的な力ですね。命の本能は利己ですが利己だけでは人を救うとは思えませんね。
by 風船かずら (2017-10-02 23:21) 

majyo

>思うように他の子をしのいでゆくことの裏側で、とりこぼしてゆく大切なことについても、いっしょに考えてみようと思った

はい、大事な物を取りこぼしていきます。
優しさは必要ないのです。勝つことに意義を見出す教育は


by majyo (2017-10-03 05:59) 

kazg

風船かずら様
「他の子に勝る」ことと、「幸せになる」こととはまったくつながらないのに、イコールに思えてしまうことは悲しいですね。他の子と補い合って、一緒に幸せになる方が、もっと現実的でしょうに。
by kazg (2017-10-03 23:41) 

kazg

majyo様
お互いの良さに気づき、それを慈しむこと、尊び合うことの方がどれほどか大切、と思います。勝つこと、他に勝ること、のみに囚われて、自分の良さを愛することもできず、自己肯定感も育たない、という不幸を再生産している教育、社会風潮に気づかされますね。
by kazg (2017-10-03 23:57) 

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