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四歳の目に焼きつきし夏の空 [時事]

先日、水島空襲の記事を書きましたら、読んでくださったM先輩からご丁寧なメールをいただきました。そこには、思いもかけない、ご自身の幼時の体験が、生々しくつづられていました。
大変衝撃を受け、感ずるところ大でしたので、不躾ながら当ブログへの転載をお願いしましたところ、快諾いただきましたので、以下ご紹介します。

なおMさんは、私達の世代からすればひとまわり年上の先輩で、同じ職場に働いたことはありませんが、若い頃から今に至るまで、仕事を初め多方面にわたって、「先達」としていろいろな機会に親身に相談・助言に応じてくださっています。そのような関係で、水島地区のご出身であることは、前々から存じ上げておりましたが、このお話は初めてうかがい、なおさらに強く心打たれたのでした。




  70年前の6月22日朝、私は水島が見渡せる連島町大江の自宅の庭に掘られた防空壕(菜園の庭を掘った)の中に家族と居ました。祖母だけは何処に居ても死ぬのは同じだと防空壕に入るのを拒んで入りませんでした。
当時4歳の私は岡山市の空襲は覚えていませんが水島空襲は覚えています。兄が覗き穴から外を見せてくれました。
夏の青い空に幾筋もの真っ白い飛行機雲が入り交じって浮かんでいました。恐らく松山の航空基地から飛び立った源田部隊の紫電改が迎撃戦を挑んだのでしょう。


爆撃が終わり空襲警報が解除されてから、近所の人が隠れていた共同の防空壕がある裏山に上がり水島方面を見るとまだ爆撃による火災の黒い煙が上がっていま
した。その時、東の方から飛行機が二機飛来しドンドンと爆弾か高射砲の発射音かの様な音がしました。飛行機は反転して逃げて行った様に思いました。

大人になってその話しを兄弟にするとそんな事はなかった、4歳のお前にそんな記憶があるはずがないと否定されました。そうかなと思っていましたが、10年程前水島空襲を調べていた日笠先生(引用者注 日笠俊男氏: 岡山空襲資料センター代表)の調査記録に、6月22日姫路空襲に来たB-29二機が残った爆弾を、海上投棄するより有効活用しようと水島に廻って投下したと、米軍の記録に残っているとあるのを発見して、私の記憶が間違いなかった事が判りました。
三菱水島工場では一式陸攻が生産されていましたが、その1号機が完成した時、婦人会の人が日の丸の小旗を持って祝賀に行くのを、姉の自転車の後部座席で見た記憶があると言っても、そんな小さいときの事を覚えているはずが無いととり合ってくれませんでした。
終わり頃には川西の紫電改も作ったが完成したのは数機だったようです。当時三菱に務めていた長兄は川西と三菱では設計図の描き方が違うので苦労したと言っていました。勤めていた工場が壊滅した兄は、その後軍隊に招集されたようです。
昭和20年の夏の終わり頃の夕方、家族が裸電球の暗い部屋に集っていた時、我家に向かう石段を上がって来る軍靴のカッツ!カッツ!という音が響いて来ました。(昔は靴の裏に鉄の鋲が打ち付けてありました)
姉が「あっ!兄さんが帰って来た」と言うとその場がぱっと明るくなったように感じました。その後どのような展開があったかは何も覚えていませんが、兄が復員して来たあの靴音だけは良く覚えています。
兄弟と言っても16歳も年が離れていると、話しをする事はほとんどありませんでしたので、一ヶ月少々の兄の軍隊生活がどんなものだったか全く知りませんでした。最近時々ハガキのやり取りをする様になりました。


兄は定年退職後NHKの短歌教室に入って勉強したようです。その教室の仲間で作った短歌の本が送られて来た時に兄の「軍刀を抜いて我に特攻を迫りし上官あ
り・・・」という歌を目にしました。飛行機は作っていたけれど操縦も出来ない兄に、どんな特攻かと思って質問したら、次の様な返事が来ました。
 「8月15日負けたと判った時、中隊長が地上勤務の者、整備兵も含め全員を乗せ、四国沖の米軍攻撃をすると云い、16日に赤飯を食べて出撃のお祝いをしたが、翌日作戦中止命令がきた。九十年生きたが、生きて良かったとは思わない。」と書いてありました。

最後の「生きて良かったとは思わない」という兄の思いを知った時、切ないと言ったら良いのか無惨と言ったら良いのか表現しがたい感情におそわれました。(完)


一読して、生活の隅々にまで戦争が及んだ時代の空気を、改めて間近に嗅いだ思いがしました。耳で聞き、文字で読んで、ある程度は知っているつもりであったそれが、まがうことのない実体として、確かに存在し、今につながっているということの実感は、圧倒的な重みを持って迫ってきます。是非、それを、少しでも広くお伝えしたい、と切実に思ったことでした。

ところで、Mさんの出身地である「連島」は「つらじま」と読み、高梁川下流の河口東側に位置し、水島工業地帯のベッドタウンとしてての様相を示すとともに、田畑も多く残っていて、現在、レンコン、ゴボウ、などのブランド農産物で、よく知られています。今の時期、レンコン田には、ハスの花が咲きはじめているでしょうか?

と、いつもながらの強引な話の運びで、おしまいにハスの花を少々upすることにします。

後楽園の、大賀ハス(古代ハス)が、見頃を迎えていました。

岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス)

岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス) posted by (C)kazg



岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス)


岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス) posted by (C)kazg



岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス)


岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス) posted by (C)kazg



岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス)


岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス) posted by (C)kazg



岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス)


岡山後楽園の古代ハス(大賀ハス) posted by (C)kazg

 

後楽園の大賀ハスについては、過去、以下の記事などで紹介しました。興味をもっていただけましたら、閲覧くだされば幸いです。


大賀ハス開花記念日

後楽園の古代蓮

蓮の花あれこれ

蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス

蓮の花あれこれvol3 岡山後楽園の蓮の花

蓮の花あれこれvol4 古代ハスに咲く優曇華?

今年の大賀ハス(岡山後楽園) 

きょうはこれにて。

 


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コメント 4

momotaro

よい記事に、また貴重な回想文に出会うことができました。
またひとつ素晴らしい繋がりができたという思いでおります。よろしくお願い致します!
by momotaro (2015-06-25 21:58) 

kazg

momotaro 様
ご訪問&コメントありがとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
by kazg (2015-06-26 06:19) 

majyo

M様のお兄さんのお話し、ドキドキしました。
あの敗戦間近の時に 軍刀を抜き、特攻を迫った狂気
そして、16日に米軍艦隊へ突撃の計画・・・
「生きて良かったとは思わない」という現在のお兄様
やはりその後の人生まで、大きな爪痕を残されたのだと思います。
無残に感じます。

正しい戦いも、きれいな戦いもありません。
今だからこそ話せることなんでしょうか?
古代ハスですが、やはり仏様の台座ですね


by majyo (2015-06-26 18:57) 

kazg

majyo様
ドラマや小説よりもスリリングで、痛切と感じます。このような無数の体験を背負って、戦後の平和社会は支えられてきたはずなのでしょうが・・・それを意に介さぬような政治の動きは、ご免ですね。
ハスの花は、清浄感がにじみ出ていますね。
by kazg (2015-06-26 20:07) 

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