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桑畑の歌から始まった、の巻 [時事]


今朝のニュースを見ておりますと、政府与党は、「新安保法制」について、すでに審議を尽くしたとして、既定方針通り15日の衆議院採決企図を公言しています。そのような中ですので、我がブログも、話題はそちらに傾きます。

日曜日に参加した、退職同業者の寄り合いのことを少し書きます。
親睦・友好を旨とする、本来の会の性格や目的に関わらず、安倍政治への不安や危惧、怒りや憤りに彩られた会になりました。
開会に先だって、アコーディオン伴奏によって、皆さんで歌を歌いました。
伴奏してくださるH先輩は、実は専門は理科(生物)なのですが、美術も絵画も堪能で知られています。お噂で聞き及んだところでは、若かりし頃は、平均台の上で横転も軽々こなされたとか。天は二物も三物も与えられるものですな。

 導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。
誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。

汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
畑(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
汽笛(きてき)をならし
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
けむりをはいて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
明るい 希望が 待っている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れ
が、その元の歌詞は、こうだったと、H先輩はおっしゃいます。
 (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌の題も「兵隊さんの汽車」といい、御殿場小学校教師であった作詞者が、出征する兵士を見送る内容の歌として作ったもので、戦意を鼓舞するために歌われたが、戦後、今の歌詞に改められたのだそうです。
ウィキペディアの記事にはこうありました。
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと一部異なり、蒸気機関車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。
作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍の演習場があった御殿場線の御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。
後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日にNHKラジオの『紅白音楽試合』(NHK紅白歌合戦の前身)で川田によりこの曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた。 
ネット検索してみると、一番から三番までの歌詞はこのようだったそうです。
 兵隊さんの汽車
作詞:富原 薫
作曲:草川 信
歌唱:川田正子
制作:滝野細道
    (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
 
    (二 )
汽車汽車 來る來る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

    (三)
汽車汽車行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

また、「海は広いなおおきいな」と歌う、「海」の歌。
 海

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

海の雄大さと美しさへの子どもらしい驚嘆と憧れを歌った童謡として親しまれていますが、この歌が作られた背景には、「南方雄飛」を進めようとしていた当時の国策があり、「行ってみたいな よその国」というのは、単に観光としてではなく、兵隊になってよその国に出かけていくことを、子ども達にあこがれさせる意味があったそうです。

歌には、それぞれ、このように背後に歴史がある、として、紹介されたのが、「桑畑の歌」です。

 桑畑
作詞 門倉 訣
作曲 関 忠亮
1.桑畑の しげる葉は
  亡き母の 背におわれ
  苗植えた 昔から
  とぶ鳥さえ なじんでたが
2.桑畑は 今荒れて
  爆音は ワラ屋根に
  さける程 たたきつけ
  桑畑は 吹きさらし
3.桑畑は 握りこぶし
  振り上げて ならび起ち
  畑守る この私と
  芽ぐむ春を もとめうたう
4.春になったら 枝を伐り
  かおる葉を カゴにつもう
  むく鳥よ 高く舞い
  このよろこび 告げてくれ
 


1956年10月の、米軍基地拡張に反対し断念させた砂川闘争から生まれた歌です。
米軍基地の違憲性を争った「砂川裁判」において、一審伊達判決(米軍駐留を憲法9条違反とし、被告全員無罪)を破棄し、現状追認のために苦し紛れで作文した最高裁判決(「砂川判決」)を、今頃になって、事もあろうに「集団的自衛権」を合憲と強弁する根拠として持ち出してきている安倍政権の動きのなか、この歌は、特別の感慨を呼びます。静かで平和な、ささやかな幸せの日々を、ちからづくで奪い、破壊する暴虐を許さない、、、参加者の共通の思いでした。
この歌については、ブログを始めた初期の頃、この記事で触れたことがありました。そこにも書きましたように、学生時代、好んで友人達と歌った歌の一つで、当時の友人達との「同窓会」的な集まりの場でも、必ず歌われる歌の一つです。
お隣の広島県で、労働運動・平和運動の重責を担って奮闘する傍ら、市民音楽活動でも活躍しておられるS君などは、ことにこの歌を気に入って、いつも、指揮棒を振りながら歌ったものでした。そのS君は、昨年8月に74人もの犠牲者を初め、多大な被災者を出した土砂災害に、自身も遭遇しながら、その後、災害対策・支援の運動に奔走されていると聞きます。ご自愛なされよ。

話がそれました。

今日の記事は、開会前の紹介で、力尽きました。
会の内容は、友好的で親密で、知的で、平和への思いのみなぎる、刺激的なものでした、と、漠然と書いておきます。(一般論過ぎて、書かないに等しいですが)。

会の終わりに、こんなアピールを採択しました。
私自身、この思いをさらに広げたい気持ちがありますので、勝手ながらご紹介します。

総会アピール 
    -戦争法をやめさせ、憲法が輝く平和な日本を次代に引き継ごう-

 6月23日、「沖縄慰霊の日」の戦没者追悼式で、地元の高校三年生、知念捷(まさる)君が、「みるく世(ゆ)がやゆら(今は平和でしょうか)」と題した自作の詩を朗読し、深い感動を呼びました。「花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉」は、沖縄戦で22歳の夫を失い、遺骨も見つかっていません。無念を抱えて戦後を生きてきた彼女は、認知症を発症した今も、「すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして」、出征する夫を思う「軍人節」を繰り返し歌い続けます。「あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしています」と。詩は、古(いにしえ)の琉歌(りゆうか)を踏まえて、「弥勒(みるく)世(ゆ)がやゆら」と何度も問いかけ、「伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを」と、平和を引き継ぐ大切さを17歳の胸に刻みつけようとしています。
 安倍内閣は、「消費税率引き上げ延期の是非を問う」と称して、抜き打ちで強行した解散総選挙で多数議席を得たのを好機に、宿願の「戦後レジーム脱却」への道をひた走っています。最大の眼目として、今期通常国会では、会期を史上最高の95日間も延長して、集団的自衛権行使に道を開く「戦争法案」を、強引に押し通そうとしています。この法案については、衆院憲法審査会で参考人として招かれた三人の憲法学者が、全員「違憲」と明言したのにつづき、 衆院特別委員会の参考人質疑でも、元内閣法制局長官の二人が、「(集団的自衛権は)進んで戦争に参加することで、国民を守るというより国民を危険にさらす」阪田(さかた)雅裕(まさひろ)氏)、「従来の憲法解釈と相いれず、憲法違反」(宮崎礼(れい)壹(いち)氏)などと厳しく指摘しました。批判の声は、閣僚経験者を含む古参の保守政治家や、現職自民党議員にも広がり、国民的な反対運動も、党派や思想信条を超えて大規模に繰り広げられています。各種の世論調査でも、批判と懸念の急速な高まりを伝えています。ところが、多数議席を恃(たの)む安倍内閣は、「合憲と考える憲法学者もたくさんいる」「憲法学者の数の問題ではない。」(菅官房長官)、「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者でなく政治家だ」(自民党高村副総裁)などと強弁する一方で、いみじくも若手議員の集まりで露見したように、乱暴な言論弾圧・報道統制への指向をあらわにしています。これらの事態は、九条のみならず、憲法の理念そのものを敵視する安倍政治の特異性を示すとともに、国民の意思や利益を踏みにじりながら、4月訪米時の誓約を最優先させるという、露骨な対米従属姿勢を発揮したもので、決して容認できません。
 高知県の元中学校教師竹本源治さんは、教え子を戦場に送り出した自責と悲嘆を、「戦死せる教え子よ」という詩にあらわしました。そして、詩の最後には、「送らじな この身裂くとも 教え児を理(ことわり)もなき 戦(いくさ)の庭に」という痛切な誓いの歌が添えられています。
  教え子の幸せな未来をこそ願って、教職の仕事に励んできた私たちは、ふたたび彼らを「理(ことわり)もなき 戦(いくさ)の庭に」送り出そうとする戦争法案を許すわけにはいきません。そのため、私たちは、「未来をひらく憲法9条と子ども・青年の命を守る 退職教職員1万人アピール」にとりくみ、その声をさらに広げてきました。戦後七〇年の今年、私たちは、まさに「この身裂くとも」の思いで、戦争法案反対の声を高く上げ、憲法が輝く平和な日本を次代に引き継ぐために、一人ひとりの持ち味と、専門性、つながりを生かして、全力で奮闘するものです。                                                                      2015年7月12日

 
下は画像ファイルです。
 
Image1.jpg

 

 

 


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コメント 4

majyo

汽車までが戦後に歌詞が変えられたのですね。
そして「海」ですが
行ってみたいなよその国が
南方雄飛の国策だったとは・・・・

私も「むらのはずれの船頭さんは」の歌が
戦前は歌詞が違う事を知り、ブログに書きましたが
きっといっぱいあるのでしょうね
by majyo (2015-07-15 16:31) 

kazg

majyo様
「汽車」は、最初の紅白歌合戦(GHQにより、「合戦」という名前が戦争につながるとして許可されず、「紅白音楽試合」という名前で放送されたそうですが)で、童謡歌手の川田正子が、歌ったそうですね。 「兵隊さんの汽車」のレコードで有名になり、戦意高揚の歌を歌わされてきた彼女は、明るい「汽車ぽっぽの歌」を喜んだそうです。(wiki)
by kazg (2015-07-15 20:00) 

momotaro

> 会の内容は、友好的で親密で、知的で、平和への思いのみなぎる、刺激的なものでした
素晴らしい集まりですねー
同業の方って、そんな方が多いのでしょう!
ということは次の世代の多くの人がその影響を受けて育っているんですよね。
今の政権だけが、変な方向に突出しちゃっているんじゃないでしょうかねー。強行採決なんかするようでは、もはや犯罪行為・犯罪集団ではないでしょうか。。。
by momotaro (2015-07-15 22:17) 

kazg

momotaro様
年齢で言うと20歳以上年上の先輩方も含めて、皆、意気盛んでいらっしゃいます。
> 次の世代の多くの人がその影響を受けて育っている
そう望みたいものですが、、、。

by kazg (2015-07-16 07:41) 

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