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またまた異質共存を思う、の巻  [私の切り抜き帳]

昨年末に書いたこれらの記事で、「多様性」「異質共存」という話題がつづきました。

みんな違ってみんないい、の巻

いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと


勢いで、またまたその話題です。

今朝の「しんぶん赤旗」(1月4日付け朝刊)の、作家の高橋源一郎さんと文芸評論家の斎藤美奈子さんによる「新春対談」が掲載されており、興味深く読みました。おふたりは、『民主主義』をキーワードに語っておられますが、その一節にこんな下りがあって、目を引かれました。
 高橋 民主主義の理想の形は、真ん中に障害者や認知症の老人、子どもなど、いわゆる社会的弱者をおいて、それを囲むように、みんなが平等で同じ権利を持っている、そんな状態ではないかと思います。弱い彼らがいるおかげで周りの力が引き出されて活性化する。強い人ばかりだと一様で、逆に脆い世界になる。多様性が実現している世界が一番強いんです。

斎藤 効率は悪くても多様性を確保しておく方がずっと合理性が高いんですよ。長い目で考えると、そういう社会の方がはるかに豊かでうまく回る。


「しんぶん赤旗」は、学生時代からかれこれ40年以上も購読していますが、決して熱心な読者とはいえず、斜め読みして古新聞と化すことも多いですし、NHKラジオの朝番組に登場される「源一郎さん」の飾らぬ人柄には好感を抱いている程度で、対談者の高橋さん、斎藤さんの特別のファンというわけではありません(失礼)。

が、このご意見には大賛成です。

「多様性」「異質共存」に関連して、ふと思い出したことがあります。

1998年と言いますから、ひと昔もふた昔も前のことですが、わたしの所属していた教職員組合が、めざす学校像を求めて教育提言を行ったことがありました。

その中の一節に、こんな個所があります。

 「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。


この提言づくりには、私も、組合員の一人として意見を寄せたことがありました。

ちなみに、『提言』は総論部分といくつかの各論から構成されていましたが、その総論に当たる部分を、以下、引用させていただきます。


 提言1 こんな高校をつくろう
視点 子ども・青年の「自分づくり」を支援する学校

―――「いかに生きるか」という挑みが励まされ、
個性的な人格形成が促され、
進路選択の力が育てられる教育を―――



Ⅰ.「第二の誕生」の時期の課題に応える教育を
 高校生たちは、「いかに生きるか」を模索する「第二の誕生」の時期に直面しています。彼らの「自分づくり」を支援する高校像こそ、私たちの探求課題です。


 いま、学校でも家庭でも、「子どもが見えない」「子どもの心がつかめない」という嘆きが、しばしば聞かれます。簡単に「キレル」「むかつく」子どもたちの登場や、小学校低学年にまで及ぶ「学級崩壊」に象徴される「新しい荒れ」の進行は、その思いをいっそう募らせています。
 熾烈な「生き残り」競争をあおる社会状況、人工的に過ぎる生活環境、刺激的・刹那的・浪費的な文化環境、地域・家庭の教育力の低下、大切な「三つの間=時間、空間、仲間」の喪失など、さまざまな要因が、子どもたちの「育ち」を困難にしているのです。
しかし、それだけに、目の前の高校生たちは、それぞれの切実さで、「第二の誕生」(ルソー)の時期に直面しています。それは、内的な価値(理想)に目覚め
る時期であり、「いかに生きるか」の模索の時期であり、「産みの苦しみ」の時期でもあります。そのさなかにあって、彼らは、合理化されない感情の起伏に苛
まれ、孤独と集団性、劣等感と優越感、不信と友情のはざまを揺れ動く日々を体験しています。
 この時期こそは、彼らがどのような人間になるかを決定する、「生涯で最も激動的で実り豊かな時期」(竹内常一「現代青年論」)にほかなりません。
 いま、「日本の教育」を語り、「高校教育の改革」を語るとき、このような思春期・青年期の課題=「自分さがし」「自分づくり」の課題に応える学校づくりの模索こそ、主要なテーマの一つとなるべきでしょう。


Ⅱ.子ども期を奪われ、過度のストレスにさらされる日本の子ども
 国連「子どもの権利委員会」勧告(98年6月)が指摘するとおり、過度のストレスが日本の子どもたちを苦しめ、学校が「息苦しい場所」になっています。


 胸弾む「自分さがし」「自分づくり」のドラマを渇望しながら、その峠の迂遠さ・先の見えなさにたじろぎ、つまずき、もてあましている子ども・青年も少な
くありません。時には、向こう見ずな暴発への衝動にかられたり、モラトリアムや退行に逃避する場合もあるでしょう。彼らには、社会・家庭・学校のいずれも
が、切実な「自分づくり」への希求に応えてくれないばかりか、自分をそれから遠ざけ、単調な苦役を強いるだけの強迫的存在と映っているのかもしれません。
 とりわけ近年、学校が、多くの子どもたちにとって「息苦しい場所」になってきていることは、紛れもない事実です。
 
登校拒否・不登校の子どもの数が、ますます増えています。とりあえず、学校へは通っているが、様々な神経症状を抱えながら「苦痛に耐えている」子どもたち
を含めると、莫大な数に登ります。そして、その延長線上に、毎年十万人前後にものぼる高校中退者が次々と生み出されています。
 国連「子どもの権利委員会」は、98年6月、「日本の子どもたちは、高度に競争を強いる教育制度のなかでストレスにさらされ、発達障害におちいっている」と指摘し、「過度
なストレス、不登校を防止し、闘うための適切な措置をとる」ことなどを、日本政府に厳しく勧告しました。それは、「“豊かな国”日本社会における子ども期
の喪失」と題するNGO報告文書が浮き彫りにした、日本の子どもたちの実態をふまえたものに他なりません。

Ⅲ.「自分づくり」を励ませない上からの「教育改革」

 国や県が「上から」おし進めようとしている「教育改革」は、子ども・青年 の「自分づくり」を励ませるのでしょうか。


 いま、政府・文部省は、「偏差値排除」「競争緩和」「個性尊重」を謳い文句に、「新学力観」をつよく打ち出しながら、「教育改革」をおし進めようとして
います。また、岡山県でも、「魅力ある学校づくり」「特色づくり」を呼号しながら、学区解体・高校再編の動きが、急ピッチで進められようとしています。
しかし、これらの「上からの教育改革」は、子ども・青年の「自分づくり」を励ますものとなりうるでしょうか。残念ながら、現実の事態の推移は、より幼い
段階で自己の「可能性」に見切りをつけさせ、より早期に選別を完了するシステムとの危惧を裏付けるものとなっています。それは、「自分づくり」の願いに応
えるどころか、彼らをゆとりなく追いたて、同時に教師たちをも不毛な学校間競争へと追いつめてやまない道と言わざるを得ません。

Ⅳ.「自分づくり」を励ます高校像のポイントは
私たちのめざす「あるべき高校像」のポイントを、5点にまとめてみました。 
 では、子ども・青年の渇望に応えて、その「自分づくり」を支え励ましていく高校はどうあるべきでしょうか?
 そのこと自体をひろく「大人たち」の切実な問題意識として、様々な場で自由な論議を進めていくことが、いま第一に求められているでしょう。
 その呼び水となることを期待しつつ、「あるべき高校像」の必須の要件として、次の諸点を提起します。
①自己肯定感を育てる学校(自分の居場所があり「ほっ」と安心できる場の保障)
②仲間がいるコミュニティの場としての学校
③努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
④「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
⑤「社会」「世界」「人類」とつながった学校

(1)自己肯定感を育てる学校
 私たちのめざす高校は、何よりも第一に、「自分が自分のままであって大丈夫なのだ」という安心感=自己肯定感を育てることのできる場でなければなりません。      
自分に自信がもてない日本の子ども
「『学力』は高いが、自分に自信が持てず、自分を劣っていると考えている。」――多くの国際比較統計が描き出す「日本の子ども」像です。
その背景・原因は多岐にわたり、「国民性」や社会意識総体に深く根ざしているでしょうが、学校・教育のあり方を無視することはできません。
排他的競争を基調とする日本の学校・教育が、「自分の欠点ばかりが嫌でも目につき、いくら頑張っても満足を得られない」という強迫的不安へと子どもたちを駆り立て、往々にして「自尊心泥棒」(斉藤学)の役割を果たしている状況は誰しも否定できないでしょう。子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な強圧は論外としても、たとえ善意であったにせよ、あまりにも性急に「もっとがんばれ」「~べきだ、~ねばならない」と迫る学校・教師の「熱心な指導」が、時として子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面も見落とせません。
ありのままの自分が好きになれたら子ども(人間)は、「①”ありのままの自分”を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる」(高垣忠一郎)のです。
学校がこれを保障する場となるためには、根本的には、①今日の「高度に競争を強いる教育制度」(子どもの権利委員会勧告)そのものを転換して、子どもの成
長と発達を中心に据えた学校制度へと改めること、②過大学校・過大学級の解消など教育条件の充実をはかって、ゆきとどいた教育を保障していくことが、不可
欠です。そして何より、目の前の子ども一人ひとりに目を注げるゆとりと教育上の自主権限が、教師に豊かに保障される必要があります。

現行制度のもとで解決できることも
同時に、現行制度のもとでも、学校・教職員のささやかな配慮や努力で解決できるものも、決して少なくないでしょう。
昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高
校生は二割に過ぎません。「少し持っている」と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはな
らないでしょう。
「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。
いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。


(2)仲間がいるコミュニティの場としての学校
第二は、仲間がいて共同があるコミュニテイとしての機能を、十分に発揮できる場にしていくことです。 
友だちがいるからこそ
「自分にとって学校とはもっとも束縛される空間であり、いやいやながらに行かざるをえない場所である。学校に行く前は、常にそう思いながら登校していたもので
ある。しかし、行ってみると友人がいたり、意外に授業が面白かったりして、ああ来てよかったとも思うのである(ある女子学生の回想:講座学校第4巻1章よ
り)。」――これは、多くの高校生の偽らざる実感ではないでしょうか。
高教組の「高校生意識調査」でも、「学校のいいところ」として「友達がいる」を選んだ回答数が、群を抜いてトップです。「友だちと長時間人生について語り合った経験があるか」の問にたいして「何度もある」「一~二度ある」を合わせると6割強の高校生が友人と人生を語る経験を持っており、その相手は「高校が同じ学校の友達」に集中しています。「ひとり化・孤立化」「交友関係の希薄化」が指摘される現代高校生も、やはり、「友だち」をこそ第一義に大切なものと考えていることが示されています。
親身になってお互いのことを大切にし、時間を忘れて人生を語り合うようなかけがえのない「友だち」との出会いを、すべての子どもたちに用意してやること。これも、学校教育、とりわけ高校教育の、主要な責務の一つではないでしょうか。
 そのためにも、HRづくり、部活動、生徒会活動、行事はもとより、カリキュラム編成や教科の学習活動そのものも、「共同と自治」を育てる方向で再編をはかるなど、コミュニティづくりの工夫がつよく求められています。

「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。


(3)努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
 第三は、「わかる喜び」「達成する楽しさ」を保障し、努力のあてが見え、努力の結果が実感できる学校にしていくことです。
わかる喜び味わいにくい教育制度
高校生の多くが、「努力のあてが見いだせず、達成感も味わえない」と感じ、慢性的な無気力に追いやられています。
 
それは、おびただしい数の「学習についていけない子」の出現を前提に、過重・非系統的な学習内容を低学年にまでおしつけてきた歴代「学習指導要領」のもとで、早い時点でつまづき、意欲を喪失してきた結果でもあります。「個性重視」を唱える「新学力観」のもとで、「できないのも個性」として「基礎基本の修得」が事実上棚上げされていることが、事態を深刻化させています。
「成績の良い子」も、「わかる喜び」「発見の驚き」を十分味わうことができないまま、「勉強は苦痛」と感じています。彼らの多くは「立ち止まると置き去りにされる」という不安から、あてのない努力を強いられています。

「わかる授業」「楽しい学校」の復権を
70年代を中心に、私たちは、「わかる授業」「楽しい学校」のスローガンを掲げて授業づくり・学校づくりに取り組んできました。その達成と教訓が必ずしも十分生かされないまま、職場の多忙科の加速、「新学力観」と結んだ「多様化」政策の波などに影響されて、近年これらのとりくみは、一定の停滞を示しています。
いま、過去の実践の蓄積に再度光を当て、現段階にふさわしく発展させていくことがつよく求められています。
その際、①「“生きる力”を支える基礎学力とは?」の吟味、②「わかる喜びと探求心を育てる教育」への工夫、③その子の「つまずき」をときほぐす適切な課題の設定、④達成感、成就感を味わいながら次のステップに登っていける適切な仕掛けの設定などが、重視される必要があるでしょう。


(4)「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
 第四は、一方的な「教え」から、主体的な「学び」への転換を軸に、 子どもの学習権を真に保障していくことです。

授業に対する高校生の意識
高教組「高校生意識調査」では、授業についての設問に対して、次のような声が寄せられています。
「興味・関心を深める授業」は「かなりある」9.1%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が5割強と、授業の味気なさを訴えています。「かなりあ
る」が最も高かったのは農業科19.4%、続いて家庭科14.4%で、具体的な自然や実物に触れる機会の多い学習が、子どもたちの興味を引いていることを
うかがわせます。
「生活や体験と結びついた授業」も、「かなりある」8.9%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が56.9%となっ
ています。特に、普通科では「かなりある」がわずか2.1%で、実に75.9%が「あまりない」または「ほとんどない」と答えている点は注目されます。
「なぜ勉強するのかわからない授業」は「ある」が6割強。「視野が広がる授業」は「ない」が6割強を占め、特に普通科・商業科で、その比重が高くなっている点も特徴的です。
「一部の生徒しか聞いていない授業」が「ある」7割弱。「理解していないのに先へ進む授業」が「ある」8割弱。「生徒の参加を促す授業」が「ない」も、約6割。自分が授業の主人公だとは、実感しにくい実態があるようです。
このような点から、過半数の高校生は「楽しくはないが将来必要な基礎」だからと言い聞かせながらも、「ほかに本物の勉強がある」と感じているのです。
高校生の声を要約すれば
高校生たちの声を要約すれば、①自分たちの興味・関心に応え、②そのことを学ぶ意味が実感できて、③しかも、生活や体験に結びついた内容を含み、④それを学
ぶことで視野が広がるような、⑤本物の勉強を、⑥上から一方的に教え込まれるのではなく、⑦自分たちが主体的に参加できる授業を通して、⑧よく納得・理解できるように学びたい、と訴えているように思えます。
それらは、そのまま、ユネスコ「学習権宣言」の規定と通じるものです。私たちの「高校づくり」も、当然、この高校生たちの切望に応える「授業改革」を基本に据える必要があるでしょう。

(5)「社会」「世界」「人類」とつながった学校

  第五は、「自分も周りからあてにされている」「社会・世界に参加している」と実感でき、自らの存在や行動の社会的・人類的意味に気づける機会を保障することです。
いま、「生きる目あて」・「学ぶ目あて」を、見いだせないでいる高校生が増えています。
“他をけ落として勝ち抜く”ことが求められ、“知識をやみくもに蓄え込む”ことに追われる勉強は、彼らにとって、やればやるほど消耗する苦行であって、自分らしさ・人間らしさを脅かすものとさえ感じられるようです。
自分の役割が不分明な現代社会
「教育とは何か」(岩波新書)の中で、太田堯氏は、科学技術の進歩に伴い、「自分の意図を自分の手応えをもって実現するめやすを失い、社会生活の中での自分の地位や役割が不分明になっている」、それは「『どう生きるか』という人間にとって最も本質的な問が衰弱するということ」と指摘しています。
そして、競争中心の学校・入試制度のもとで、“成績・順位”が子どもたちの人間評価の中心的位置を占めるようになり、「一人ひとりの子どものもつ個性と、その個性の社会的出番の発見とを励ますような雰囲気は、学習環境からほとんど失われ」、「『どう生きるか』という人間にふさわしい目的意識を内面からきたえ、かつ育てるのはむずかしい」ため、「“目当てのない欲求不満”はいっそう増幅される」と述べています。
また、以前は家庭内外で数限りなくあった子どもの“出番”がなくなり、「専門化した知識・技術の修得が、自分の生き方、生活にとってどんな意味を持っているかという---手ごたえが---もちにくくなっている」と指摘しています。

自分の存在・行動の社会的・人類的意味に気づく機会
いま、子ども・青年に、空疎なおだて文句ではなく、心底「周りからあてにされ、頼りにされている」という手応えある実感を、体験させてやることが重要です。その機会を適切にふんだんに用意してやることも、学校の重要な役目となっています。
自分の存在や行動の社会的・人類的意味に気づいたとき、彼らは目を見張るほどの旺盛な行動力と探求心を発揮します。人権・平和・高校生活を主題とした高生部研のとりくみをはじめ、薬害エイズ訴訟や、神戸・淡路震災の復旧ボランティア、多彩な環境保護の取り組み、「平和ゼミ」をはじめ核兵器廃絶・平和のとりくみなど、無数の例がそれを示しています。



現時点でもなかなかいい線行っている提言ではないかと、身びいきながら思うのですが、いかがでしょうか?

異質共存の具体例、チラシ寿司。素材の味が補い合い、引き立て合う、伝統食ですね。

妻が腕によりをかけた、この正月のご馳走ですが、寿司酢の調合をネット検索したお陰で、美味しく戴きました。家族にも好評で、夕、朝、昼と三食続いても食べ飽きませんでした。


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BrerRabbit

「みんな違ってみんないい」ってこの政権の云う
一億総とは対極にある考え方で、何と言っても
みんな違って当たり前ですよね・・
本年もよろしくお願い致します。
by BrerRabbit (2016-01-04 22:50) 

kazg

BrerRabbit 様
「十人十色」を認め合うためには、強者の側、マジョリティの側に,より自覚的・自制的な分別が求められるのでしょうね。自己の尺度を問答無用で当てはめることの暴力性。これに気づかぬリーダーが担う政権は恐ろしいです。
今年もよろしくお願いします。
by kazg (2016-01-05 05:42) 

トックリヤシ

現政権の顔ぶれを思い出しながら読ませていただきましたが、
彼らにはこんな理想は1mmたりとも通用しないようですね、
出るのは溜息ばかりです。。。
by トックリヤシ (2016-01-05 10:38) 

美美

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します(^^)/
お手製のお正月料理、美味しそうですね。
主人の実家ではこういうことがないので淋しいです^^;
by 美美 (2016-01-05 19:09) 

kazg

トックリヤシ様
まことに、おっしゃるとおりですねえ。
聞く耳持たぬ為政者には、「降りていただくしかありませんか。。。
by kazg (2016-01-06 05:23) 

kazg

美美様
ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いいたします。
by kazg (2016-01-06 05:25) 

majyo

民主主義の形は、書かれているように真ん中に社会弱者を置き
それを取り囲むようにという事、大賛成です
また、弱者であっても、秀でたところもありますから、
それを活用する。生き生きと生きてもらう道も必要かと
多様性はいつも考えている事です
多様性の料理としてのちらし寿司ですが、まさに!

by majyo (2016-01-06 07:55) 

kazg

majyo 様
> 弱者であっても、秀でたところもありますから、
> それを活用する。生き生きと生きてもらう道も必要か
まったくです。「弱者は劣っている」という決めつけは、まるで根拠がないのに、まことしやかに流布しているのが、不思議ですね。
by kazg (2016-01-06 22:25) 

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