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おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け、の巻 [文学雑話]

先日来、木曾義仲の最後のいくさの場面を話題にしています。
今日の話題は、物語の時系列から言うと、この記事「巴の姿しばしとどめむ、の巻」に続く場面になります。
激戦をかいくぐった義仲の軍勢が、ついには主従5騎に目減りしてしまったなか、「五騎がうちまで巴は討たれざりけり。」とあります。武芸に秀でた巴は、愛する義仲の傍らに付き従って、無傷のまま奮戦を続けているのです。
その続き。

木曾殿、「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれたてまつりて、「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せたてまつらん。」とて、控へたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。

〔テキト-解釈〕
木曾殿(源義仲)は、「おぬしは早く早く、女であるゆえ、どこへなりとゆくがよい。わしは、討ち死にしようと思うのじゃ。もし敵の手にかかって傷を負うようなことになったら、自害をするつもり。それゆえ、世間の人々に、木曾殿は最後のいくさに、女を連れておいでだそうな、などと言われるようなことは、あってはならんことじゃ。」とおっしゃったが、巴はなおも逃げ落ちて行かなかった。

あまりに何度も繰り返し言われ申して、「ああ、適当な対戦相手がほしいもの。華々しく、最後のいくさをしてお目にかけよう。」と、馬のたずなをひきしぼっ て待ち構えているところに、武蔵の国に名をはせた大力の持ち主、御田八郎師重が、三十騎ほどで出て来た。
巴は、軍勢の中に中に馬で駆け入り、御田八郎の馬に自分の馬を並べて、むんずと組みついて八郎の身体を引き落とし、自分の鞍の前輪にぎゅっと押しつけて、少しも身動きさせず、首をねじり切って捨ててしまった。
そのあと、おもむろに、よろいかぶとを脱ぎ捨て、一人の女となって、いずこともなく東国のほうへ立ち去っていく。
残る主従4騎のうちの、手塚太郎は討ち死にした。
手塚別当は落ち武者となって去っていった。

「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。」
「とうとう」は。「疾(と)く疾く」のウ音便。「早く早く」と巴の戦線離脱を促しているのです。最愛の人義仲から、いかに命じられようと、巴には毛頭その意思はありません。決して怖じ気づいたりしませんし、死ぬなら一緒、と覚悟も定まっています。
しかし、義仲は繰り返し、離脱をせかします。「最後の合戦に女を連れてきたことが語りぐさになっては、武士の名誉に傷がつく」と強く言われては、巴も引くしかありません。

常な義仲の言い分は、男のエゴと言うべきか?それとも、愛する巴の命信治を願う愛情の故か?いずれにせよ、巴にとっては不本意な悲しい別れの場面です。し
かし、彼女は、決して女々しく泣いたり沈んだりしないのです。それどころか、実にドライに、痛快に、最後のいくさをピシリと決めて、どこへともなく去って
ゆく。その時、27歳。潔く颯爽とした、女傑の面目躍如です。
こののち、巴の行方は、杳として知れず、いくつかの伝承が残るのみ。それがまた、ゆかしさをつのらせます。

説に、その時巴は義仲の子を宿していたが、源氏勢に捕らえられ、命を奪われるべきところを、その武勇を惜しんだ和田義盛に請われて嫁ぎ、生んだのが、朝比
奈三郎(義秀)だともいいます。三郎は、将軍源頼家の御前で水中に潜って生きた鮫3匹を提げて戻り喝采を浴びたのをはじめ、数々の剛勇無双ぶりが後世にも
伝えられています。
先日の記事「薄氷は張つたりけり」、の巻は、巴が去り、手塚太郎、手塚別当がいなくなり、義仲と今井四郎兼平の二人だけが残ッt得、最後を迎える場面でした。
義仲は、馬が泥田に足を取られた隙に首を射貫かれて雑兵に討たれ、兼平は剣を呑んで馬から逆さまに飛び落ち、壮絶な自害を遂げます。
『さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。」
兼平は粟津の地に葬られ、義仲の墓は滋賀県大津市JR膳所駅北の義仲寺にあります。
ウィキペディアによれば、
 この寺(義仲寺)の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。

とあります。
江戸川柳に
義仲寺に和田内とした銀(かね)包
とあります。
和田内は、和田家内。つまり、巴のことだそうです。
境内には、芭蕉の墓があります。自身の遺言に依るものだそうです。
木曾殿と背中合わせの寒さかな    又玄(ゆうげん)
の句碑も建てられているそうです。
又玄(ゆうげん)は、芭蕉の門人です。

江戸川柳に
桃青が塚は尻から陽が当たり
朝日をば後ろに背負えど寒さかな
とあるのは、これに基づきます。

「桃青」は、芭蕉の別号。「朝日」は、朝日将軍、つまり義仲のこと。
安倍達二著「江戸川柳で読む平家物語」(文春新書)を参照しました。

江戸川柳で読む平家物語 (文春新書)

江戸川柳で読む平家物語 (文春新書)

  • 作者: 阿部 達二
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 新書

今日はここまで。


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コメント 2

momotaro

平家物語、人物像が印象的に描かれていますねぇ!
歴史と文学の香りを堪能してしまいました。
ありがとうございました。
by momotaro (2016-02-01 13:13) 

kazg

momotaro 様
描写に贅肉がなく、圧倒的な存在感で迫ってきますね。若い登場人物たちの、アイデンティティの確かさにも感心します。
by kazg (2016-02-02 05:14) 

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