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コロナの合間に理知の光を考える、の巻 [私の切り抜き帳]

昨日の記事の終わりに「津山の洋学を彩るもう一人の立役者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門についての話題は次回に。」と書きました。


「城東町並み保存地区」の一角に箕作阮甫旧宅という表示があり、家屋の内部を見学できます(無料)


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阮甫とその一門の業績が紹介されています。


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阮甫については、洋学資料館のこのページにも端的な紹介があります。http://www.tsuyama-yougaku.jp/mitukurigennpo.html


箕作阮甫
(みつくり・げんぽ)

1799-1863

津山西新町で代々町医師を営む家に生まれる。父の代から津山藩医に取立てられた。京都に出て医学を学んだ後、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研さんを重ねる。幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。
彼の子孫にも有名な学者が多い。
箕作阮甫肖像


コロナの合間に訪ねた津山でしたが、この箕作阮甫、感染症とのたたかいに深く関わっていたことを、改めて教えられました。当時猛威を振るっていたのは天然痘でした。


http://www.tsuyama-yougaku.jp/Vol34.html


Vol.34 阮甫とお玉ヶ池種痘所

▲お玉ヶ池種痘所跡に建つ碑と種痘の様子

(『種痘伝習録』津山洋学資料館寄託資料)

江戸時代に猛威を振るった伝染病の一つに天然痘があります。感染しやすいうえに死亡率が高く、古くから不治の病として恐れられていました。

1796年、イギリスの医師ジェンナーは牛痘(牛の天然痘)を人体に接種してその後の感染を防ぐ牛痘種痘法を発見します。この方法はとても効果があり、蘭方医たちの間に知識が広まっていました。しかし、肝心の痘苗の効果が日本まで運ぶ途中に失われてしまうのです。何度も失敗を繰り返して、嘉永2年(1849)にようやく痘苗が長崎へ届けられました。

種痘の実施には、西洋医学に不信を抱く漢方医たちの反対もありましたが、わずか半年で各地に広められていきました。津山でも嘉永3年(1850)に藩医の野上玄雄らが種痘を始め、万延元年(1860)には二階町に種痘所が開かれます。

一方で、漢方医たちの抵抗が特に強かった江戸では、なかなか種痘が広まらずにいました。安政4年(1857)6月、津山藩医の箕作阮甫は蘭方医の伊東玄朴、戸塚静海らとともに大槻俊斎の屋敷に集まり、江戸にも種痘所を設立しようと相談します。

2カ月にわたる協議の結果、勘定奉行の川路聖謨に協力を依頼し、川路の名前で幕府に願書を提出することになりました。川路は、ロシア船が来航して阮甫が長崎に赴いたときの上司で、海外事情にも詳しく、阮甫をとても信頼していました。種痘所の設立には、この二人の信頼関係が大きな役割を果たしたと考えられます。

翌年1月に設立が認可されると、江戸や近郷の蘭方医が資金を出し合い、薬商人の援助を受けて、5月7日に神田お玉ヶ池にあった川路の拝領地に種痘所が開かれました。そのとき、阮甫は先頭に立って尽力したようで、設立人の名簿には筆頭に名を連ねています。

お玉ヶ池種痘所は開設してわずか半年後に大火で焼失しますが、場所を移して活動を続けました。万延元年(1860)には幕府の直営となり、西洋医学の学校兼病院として発展し、明治10年(1877)に東京大学医学部となります。阮甫は東大医学部の始まりにも深くかかわっているのです。


旧弊な陋習を廃して、理知の光で道を照らすことの尊さを改めて感じます。


ところで今日は12月8日。日米開戦の日です。


地元紙「山陽新聞」の昨日(12月7日)付コラム「滴一滴」に共感しました。


終戦記念日の8月15日は知っていても、米国や英国との無謀な戦争が始まった「開戦の日」を心に留める人は少ないのではないか。1941年12月8日、日本軍が仕掛けた真珠湾攻撃により、太平洋戦争が始まった▼奇襲に参加して戻らなかった5隻の特殊潜航艇の乗組員9人の名前を大本営は大々的に発表し、新聞は「九軍神」とたたえた。岡山県出身者も含まれ、本紙の前身である合同新聞には「不朽の偉勲」などと最大級の賛辞が並ぶ▼国民の戦意高揚を図るため、大本営は戦果を過大に発表する一方、都合の悪い事実はひた隠しにした。実は乗組員はもう1人いた。徳島県出身の酒巻和男さんが捕らえられ、捕虜第1号となっていた▼手記によれば、「捕虜は死すべし」との呪縛を解くきっかけとなったのは収容所で手にした現地の新聞だった。辞書を引きながら読み、米軍の局地的な敗北や政府批判の声までも伝える報道の自由さに驚き、「思慮のある日本人になろう」と決意したという▼後から収容所に入ってくる日本人に命の大切さを説き、覚えた英語で米軍とも交渉した。戦後はトヨタ自動車に入り、ブラジル現地法人の社長などを務め、81歳で生涯を終えた▼昨年復刻された酒巻さんの手記を読みながら、メディアの責任の重さをかみしめている。あす、開戦から80年を迎える。


これまた理知の光の大切を考えさせるエピソードです。


今日のTVニュースでは、こんな話題が流れていました。


80年前、太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃でただ1人、アメリカ軍に捕らえられて「捕虜第一号」となり、復員後は愛知県豊田市で暮らした酒巻和男氏の激動の生涯を伝える石碑が、極秘の訓練所があった愛媛県伊方町で披露されました。
元海軍少尉の酒巻和男氏は、80年前の真珠湾攻撃でほかの9人とともに小型の潜水艦で出撃した際、ただひとり生き残り、アメリカ軍に捕らえられました。
4年におよぶ捕虜生活のあと復員してからは、愛知県豊田市で暮らし現在のトヨタ自動車で働きました。
命を落としたほかの9人は「九軍神」と称賛され、極秘の訓練地があった愛媛県伊方町に慰霊碑が建てられています。
今回、この隣に新たに建てられた石碑には、酒巻氏が仲間とそろって写った写真がはめ込まれました。

(以下略)

NHKwebニュース


今日はこれにて。


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コメント 2

momotaro

「理知の光」こそ大事ですね。根性論ではお先真っ暗です。
種痘を広めた頃のご苦労にも思いを馳せました。
by momotaro (2021-12-10 06:41) 

kazg

momotaro 様
>根性論ではお先真っ暗
まったくです。が、しかし、根性論は威勢がよくて、異論や批判を、問答無用で蹴散らしてしまう横暴さがつきまといますね。これに太刀打ちするには、、、、やはり辛抱強さが必要でしょうかね?
by kazg (2021-12-13 09:19) 

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