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コロナの合間に洋学を見学、の巻 [折々散歩]

昨日の記事のつづきです。
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「ようがく」と入力すると「洋楽」と変換されてしまい、「洋学」と訂正するのに手間がかかります(さすがに今日は、IMEの学習効果のおかげか。一発変換してくれます(笑)

今日の話題は、「洋学」です。

「洋学」といえば、即座に「蘭学」が連想されます。

「蘭学」と言えば「解体新書」(ターヘルアナトミア)が心に浮かびます。以前、こんな記事を書きました。

ウにサギに スズメにヒバリ フルヘッヘンド(2013-09-10)

杉田玄白というと「解体新書」(ターヘルアナトミア)ですか?小学校だったか中学校だったかの教科書で、「フルヘッヘンド」という言葉を翻訳する苦労を描いた文章を読んだ記憶がありました。そうそう、菊池寛の「蘭学事始」でしたね。
「青空文庫」から引用しておきます。
彼らは、眉、口、唇、耳、腹、股、踵などについている符号を、文章の中に探した。そして、眉、口、唇などの言葉を一つ一つ覚えていった。
が、そうした単語だけはわかっても、前後の文句は、彼らの乏しい力では一向に解しかねた。一句一章を、春の長き一日、考えあかしても、彷彿として明らめられないことがしばしばあった。四人が、二日の間考えぬいて、やっと解いたのは「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」という一句だったりした。四人は、そのたわいもない文句に哄笑しながらも、銘々嬉し涙が目のうちに滲んでくるのを感ぜずにはおられなかった。
眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。
むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。
四人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」
四人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申(さる)の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。
「解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつま)れば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ」といった。
四人は、手を打って欣びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲(と)るよりも勝(まさ)っていた。

解体新書と言えば、吉村昭「冬の鷹」がありました。これは、前野良沢にスポットを当て杉田玄白、平賀源内の、三者三様の生き方が描かれていておもしろい。
良沢のことば、「人の死は、その人間がどのように生きたかをしめす結果だ。どのように死をむかえたかをみれば、その人間の生き方もわかる」一応メモしておきましょうか。

「解体新書」は、ドイツ人J.クルムス著『解剖図譜』"Anatomische Tabellen"第3版のオランダ語訳書"Ontleedkundige Tafelen" を、杉田玄白・前野良沢らが苦心の末日本語訳して刊行したもので、日本初の西洋医学翻訳書として知られています。

が、それは、解剖学・外科の分野を扱ったもので、内科の分野では、江戸詰の津山藩医宇田川玄随(うだがわ げんずい、号は槐園(かいえん)がオランダ人ゴルテルJ.de Gorterの内科書を翻訳した「西説内科撰要」が最初とされます。

津山洋学資料館のホームページから、関連箇所を引用します(ww.tsuyama-yougaku.jp/Vol3.html)。

『解体新書』を出版した杉田玄白が活躍していたころ、津山藩の江戸屋敷に宇田川玄随(槐園)という藩医がいました。

(中略)

この宇田川玄随が、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)の刊行を開始したのは、寛政5年(1793)、39歳のときでした。

日本の医学は古くから中国の医学を基礎に発達してきたので、それを信じて疑わない漢方医たちは、新しい西洋医学に強く反発していました。もちろん、玄随も最初はその一人でした。しかし、杉田玄白らの蘭学グループと交流したことにより西洋医学を志し、10年もの歳月をかけてこの内科書を翻訳したのです。

出版したとき『解体新書』の刊行からすでに19年経っていましたが「西洋医学とは外科だ」と言われるほど、西洋内科に関する知識はほとんどありませんでした。この書の刊行によって次第に知識が広まり、西洋内科の専門医が生まれることになったのです。

では、この事業をやり遂げた玄随とは、一体どのような人物だったのでしょう。『西説内科撰要』の序文には、中国のことわざなどが巧みに引用されています。また、残されている手紙を読んでも、文章や用語、筆使いとも群を抜いていて、大変な勉強家だったことがうかがえます。杉田玄白も『蘭学事始』で玄随のことを「漢学に詳しく、非常に物知りな人である」とか、「もともと秀才で、その上根気強い人なので、彼の研究は大変進んだ」と高く評価しています。

『西説内科撰要』は18年をかけ、3巻ずつ6回に分けて刊行されました。しかし、惜しくも玄随は、最初の出版から4年後、刊行半ばに43歳で世を去ります。そのため、その後の刊行は養子の玄真によって引き継がれたのでした。

津山洋学資料館の前庭には、宇田川玄随をはじめ、養子の玄真(げんしん)、そのまた養子の榕菴(ようあん)と続く宇田川三代のブロンズ号が見学者を迎えてくれています。

同ホームページから関連部分をひきつづき引用します。

http://www.tsuyama-yougaku.jp/untitled20.html

洋学の家 宇田川(うだがわ)三代

宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、玄随のとき蘭方医に転向しました。玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕菴へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といい、その功績は明治以降の近代科学の発展に大きな影響を与えました。

宇田川玄随(槐園) 1755年(宝暦5)~1797年(寛政9)

~初めて日本に西洋内科学を紹介 津山に蘭学をもたらす~

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

津山藩医・宇田川道紀の長男に生まれ、槐園と号しました。

初めは漢方医として蘭学を嫌っていましたが、25歳のとき幕府医官・桂川甫周や仙台藩医・大槻玄沢から西洋医学の正確さを教わり蘭方医に転向、大槻玄沢や杉田玄白らについて蘭学を修めました。

桂川甫周のすすめに従ってオランダの医者ゴルテルの『簡明内科書』を10年かけて翻訳し、日本初の西洋内科学書『西説内科撰要』を著述しましたが、刊行途中に43歳で亡くなり、養子の玄真が遺志を継ぎました。

杉田玄白は回想録「蘭学事始」の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。

津山に蘭学をもたらした先駆者です。

宇田川玄真(榛斎) 1769年(明和6)~1834年(天保5)

~翻訳力は当代随一 蘭学中期の立役者~

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

伊勢の安岡家に生まれ、江戸で大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。杉田玄白にその才能を見込まれ養子になりますが、身を持ち崩したために離縁されます。のちに苦学して再起し、稲村三伯を手伝い日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』の編さんに従事しました。寛政9年(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぎ、榛斎と号しました。

西洋の解剖科や病理学、生理学まで紹介した『医範提綱』や、薬学書『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』などを著して、全国の医師を指導しました。また、幕府天文方の蕃書和解御用(外国文章翻訳の仕事)にも出仕しました。

箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの蘭学者を直接育成したことから、「蘭学中期の大立者」と称されました。

膵臓の「膵」やリンパ腺の「腺」という字(国字)をつくったことでも知られています。

宇田川榕菴 1798年(寛政10)~1846年(弘化3)

~近代科学の確立に貢献 江戸時代最高の化学者~

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

大垣藩医の江沢養樹の長男として江戸に生まれ、14歳で宇田川玄真の養子になりました。のちに馬場貞由についてオランダ語を学びました。

日本初の本格的西洋植物学書『植学啓原』や日本初の本格的な化学書『舎密開宗』を著し、近代科学の確立に大きな功績をあげました。

さらに、オランダの地理や歴史、西洋の度量衡の解説書や西洋音楽理論書、コーヒーについてまで、幅広い分野にわたって研究しました。オランダ語の書物をもとに、大量の下書きや模写も残しています。シーボルトとは江戸で親しく交流しました。

「細胞」「繊維」「葯」「柱頭」「酸素」「水素」「酸化」「還元」「温度」「圧力」などの植物・化学用語を造語し、「珈琲」の当て字をした人物として知られています。

好奇心が旺盛で、語学力や文才・画才にたけた榕菴は、魅力あふれる江戸時代の蘭学者です。

上に記事に登場する緒方洪庵(おがたこうあん過去記事で話題にしたことがありました。

重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)

足守と言えば、かつて従弟が、縁あってこの地に赴任していたことがあります。赴任したての頃、「いいところですよ」と「緒方洪庵、木下利玄、メロン、蛍」などの自慢をしてくれた記憶があります。

緒方洪庵は、幕末の蘭学者。この地の下級藩士の子として生まれました。大阪、長崎で学び、大阪に「適塾」をひらき、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末・明治維新の時代に活躍した多くの人材を育てました。

司馬遼太郎は、その作品「花神」の中で、こう書いています。

なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。


足守の先は吉備路の紅葉かな(2014-11-08)

足守と言えば、もう一人、歴史に名を残す偉人があります。

江戸時代の医師、蘭学者として知られる緒方洪庵が、この地の出身です。

洪庵は、適々斎とも名乗り、大坂に適塾(適々斎塾)を開き、福沢諭吉ら多くの人材を育てました。

種痘の普及にも尽力して天然痘治療に貢献するなど、日本の近代医学の基礎を築いたことで知られています。

その緒方洪庵の誕生の地を、初めて訪ねてみました。

IMGP6355_R.JPG

矢印に沿って歩きますが、最後の0.1kmの表示の先が、どう進んで良いのかわかりません。

看板の脇をこんな道路が走っており、「洪庵トンネル」というトンネルがありましたので、これをまっすぐ通り抜けてみました。

でも、とても0.1kmとは思えない長さでした。出口まで歩いてもそれらしいものは見つかりませんので、すごすご引き返しました。

IMGP6342_R.JPG

「この先行き止まり」とある表示がありましたので避けたのですが、よく見ると自動車が通れないという意味らしい。

その細道を少々歩いて見ますと、なんだ、すぐそこにありました。

白黒画像になっているわけは、カメラ(pentaxq7)
の設定ダイヤルが勝手に回って、モノクロ設定になっていました。便利なダイヤルですが、摩擦によってダイヤルが回り、設定が変わるのは迷惑です。その都度
確かめればいいのですけれど、うっかり何枚か写して気づくことが多いです。

oIMGP6343_R.JPG

oIMGP6344_R.JPG

設定ミスに気づいて、 カラー撮影に戻しました。

大きなブロンズ像と顕彰碑が建てられています。この碑の下には、洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているそうです。

そしてシーボルトに関連してこんな記事も書きました。

ん?健忘斎?の巻

いつも通る商店街のあちらこちらに、「オランダ通り」と書いた旗が掲げられています。

RICOH gx200で撮影。

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オランダ通り商店街のページにはこうありました。

●オランダ通りは岡山県の中心市街地、表町商店街のアーケード通りに平行して位置する南北1km程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいます。
●オランダおいねとゆかりの深い場所であることから「オランダ通り」と名称がつけられました。
●平成10年(1998年)には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先の街路に変身しました。

シーボルトの娘楠本 イネ(「オランダおいね」)は、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られます。彼女と。この「オランダ通り」との縁については、岡山県立図書館提供のレファレンズに詳しい紹介があります。

質問
(Question)

オランダ通り(岡山市)について知りたい。

回答
(Answer)

オランダ通りがある岡山市表町に関する資料『岡山表町飛翔記』及び表町の開発計画を記す『商業近代化地域計画報告書』によれば、オランダ通りは 江戸時代長崎県出島のオランダ商館医であったドイツ人医師シーボルトと楠本お滝との間で生まれた娘、楠本イネ(俗にオランダおいね)にちなんで名付けられた。

  楠本イネについては『岡山県歴史人物事典』に記事があり、また石井宗謙との関係で『勝山が生んだ人物略伝』などにも記述がある。それによればイネはシーボルトの教えを受けた蘭学者たちの支援を受けて長崎で成長し、19歳になると、現在の岡山市内に移り住み、シーボルトに学んだ石井宗謙のもとで産科医を学び始めた。この間6年あまり岡山で過ごす。この石井宗謙の居宅があった通りがこのオランダ通りであった。やがてイネは石井宗謙との間で子どもをもうける。しかし、この妊娠は本人の意志ではなかったようで、身重にもかかわらず、直後に岡山を離れ、故郷の長崎に帰っている。彼女はその後、開国後来日した父シーボルトと再会を果たすとともに、明治になると東京に移住、産科医として活躍した。この楠本いねについては司馬遼太郎『花神』でも取り上げられている。

  一方、商店街の再開発については『商業近代化地域計画報告書』で様子が分かる。それによれば表町商店街は1970年代から再開発の議論が頻繁に行われるようになっていた。そのような中、岡山地域商業近代化委員会によって出された1986(昭和61)年の「商業近代化地域計画報告書」で、オランダおいねにちなんで、オランダというテーマで町を再開発する計画が示される。ちなみに議論が行われていた1970年代後半の77(昭和52)年には『花神』がNHK大河ドラマに取り上げられている。

  計画でのオランダ通りのテーマは「オランダを感じさせ、人々が集い親しめるまちづくり」で、通りを北から南へ「芸術」「ファッション」「大衆」「庶民」性のある四つのゾーンに分けて整備を行うことになっていた。そして実際の整備は『岡山表町飛翔記』に記事があり、1990(平成2)年のオランダ風の外壁を持った「エターフェビル」の完成などを経て、1999(平成11)年の「オランダ東通り」の完成で終了している。

津山の洋学を彩るもう一人の立役者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門についての話題は次回に。

今日はこれにて・・・


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momotaro

へー、洋学黎明期の頃のことをたくさん学んじゃいました。どうせ覚えられはしないのですが。
それにしても岡山は文化が高いですね、素晴らしい!
by momotaro (2021-12-10 06:30) 

kazg

>洋学黎明期の頃のこと
まったくにわか仕込みの付け焼き刃で、お恥ずかしい限りです(汗)
>岡山は文化が高い
はい。掘り起こして光を当てれば、価値あるものが確かに少なからずあるようですが、どうやら、目先のことに拘泥するガメツイ「県民性」のせいもあるのか、十分受け継ぎ、生かす事にかけては、おろそかと思えます。残念なことですが・・・
by kazg (2021-12-12 10:45) 

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