重ね着の紅葉の錦や村時雨 [折々散歩]
地元の紅葉情報で、今が「見頃」と伝えられる場所の一つに、「近水園(おみずえん)」が上げられています。
他には後楽園や宝福寺も紹介されていますが、これは、最近見てきました。
同じく、最近何度か訪ねて紅葉を確認できた「深山公園(みやまこうえん)」は、猪の出没情報のため、案内は控えるとの由、テレビが伝えていました。確かに猪の足跡や、掘り返した跡が、至る所に生々しく残っていました。
「近水園」はこれまで訪ねたことがありません。岡山市北区足守にある、旧足守(あしもり)藩主木下家の庭園だそうです。
妻も、気になる様子なので、一緒に出かけてみることにしました。
朝は、陽射しもあったのですが、丁度現地に着いた頃から、またまた冷たい雨。傘を差しての見学となりました。
足守と言えば、かつて従弟が、縁あってこの地に赴任していたことがあります。赴任したての頃、「いいところですよ」と「緒方洪庵、木下利玄、メロン、蛍」などの自慢をしてくれた記憶があります。
緒方洪庵は、幕末の蘭学者。この地の下級藩士の子として生まれました。大阪、長崎で学び、大阪に「適塾」をひらき、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末・明治維新の時代に活躍した多くの人材を育てました。
司馬遼太郎は、その作品「花神」の中で、こう書いています。
なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころ
と死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵
はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土か
ら考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒っ
たりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。
木下利玄は、白樺派の歌人です。
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
などの歌は教科書にも採られてよく知られています。他にも、 今日の季節に通じる、こんな歌を残しています。
庭見れば土にしみ入りしみ入りて冷え冷え雨の降り出でしかな
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
今年の葉うづたかく散りこの森のどの木の幹にも冬日ぞあたる
葉より葉へつたふ雫の音久しく軒端ひそけき昼間の時雨
こんな歌も利玄らしいと感じます。
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
生きものの身うちの力そそのかし青葉の五月の太陽が照る
桃の実の肌のやうなるうぶ毛して少年の頬のうひうひしさよ
近水園には、歌碑が建てられ、この歌が刻まれています。
花ひらをひろけつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼をはなるゝ
残念ながら見つけることができませんでした。
足守というのは、秀吉が備中高松城の水攻めに利用した足守川の西岸に位置します。ここに侍屋敷跡など、古い街並みが連なっています。
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