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続 夾竹桃のこと  [私の切り抜き帳]

先日、夾竹桃にちなんだ記事を書いてから、そちらへのセンサーが敏感になったせいでしょうか、本棚の一角に並ぶ長く手をふれていない本の背表紙に「白夾竹桃の下」という文字がチラリと見えたのでした。見つけました。
分厚い箱入りハードカバー製の二〇巻ほどの全集もので、「日本図書センター」発行の『日本の原爆資料』(編集委員:家永三郎、小田切秀雄、黒古一夫)の第三巻でした。いきさつは忘れましたが、この『資料集』は、若い頃、奮起してローンで購入したまま、ほとんど本棚の重しで、「持ち腐れ」になっていたものです。
この第三巻には、1950年代始めに刊行された、次の二つの書物を復刻して収めてあります。
一つは、吉松祐一氏編、1951(昭和26)年、社会科学研究社出版部刊「白夾竹桃の下ーー女学生の原爆記」。
今一つは、原爆被害者の手記編集委員会(山代巴、隅田義人、山中敏男、川手健、松野修輔)編、1953(昭和28)年、三一書房刊「原爆に生きてーーー原爆被害者の手記」です。

前者は、長崎の被爆で、からくも生き残った女学生のクラスを担当した吉松祐一氏が、被爆直後に彼女たちに被爆体験を書きつづらせ、「この手記は、わたくし一人の読むべきものでなく、この惨状とこれらの生徒の労苦や遭難は、必ず後の世に伝うべきものと強く思」(後記)って、一五〇名の手記を秘かに筐底(きょうてい=箱の底)深くしまっておいたものを、後に機会を得て上梓されたものだそうです。

この本には、当時の長崎市長 田川努氏の「序」に始まって、14人の女学生の手記がおさめられていますが、2番目の川野静代さんの手記の表題が「白夾竹桃の下」なのでした。
手記はこう書き始められます。

暑い夏の太陽が、仕事場の窓からさし込んでいる。顔を上げて外を見ると、中庭の芝生に大輪の向日葵がいくつも咲いていた。
「きれいかねえ川野さんあれえー。」
松本さんが呼ぶので、私も立って、窓から身体をのりだして向日葵を見た。
「前田夕暮の歌があったねエ。”向日葵は黄金の油を身に浴びてゆらりとたかし陽のふさよ”って。こうしてみると本当に太陽が小さくミエルヨ。」
 
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このようなのどかな時間が、いつもと同じように流れていたその直後、「なにやらまぶしい異様な光」と「途端に、ズドンという轟音、メリメリ、バリバリ、ものすごい地響き」に見舞われ、被爆後の地獄絵が繰り広げられることになるのでした。
松本さんは、窓から墜落していましたが、いっぱいの火焰で助けることもできず、甘藷畑を経て山の方へと逃れます。その山かげに、大きな白い夾竹桃が咲き乱れており、その花片を浴びて重傷者が木の根もとに横たわっています。それは、同じクラスの山田さんで、ひどい苦しみようでしたが、手の施しようもなく、川野さんは居合わせた海軍の兵士に促されてその場を避難します。

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川野さんの手記はこう続きます。

ああ山田さんは、あの白い夾竹桃の咲いている山かげで、あの翌朝、非常にきれいな顔になってこの世を去ってしまったそうです。


いずれの手記も、この世の出来事とも思えない、惨く痛ましい体験を、抑制した筆致で綴ってあって、具体の持つ説得力に圧倒されずにいられません。
吉松氏の「後記」に引用されている、歌人、島内八郎氏の長歌に触れ、「いくさなき国」への悲願を改めて胸に刻んだことでした。

忘れめや葉月九日 朝もやや開くる頃ほひ 雲多き北のみ空ゆ プロペラの音近づくと いましむるひまもあらなく まなこ射る妖しき光り 耳朶をさくものの轟き  一瞬の夢かさあらず 襲い来ぬ襲い来たりぬ

まことその一瞬のなか 幾万のいのちほろびつ 数知れぬ家居燃え出づ 燃ゆる火は いや燃えさかり 救い呼ぶ声を包みつ 馳け惑ふ人を殺しつ 日もあらず夜さりもあらず 物なべて焼きはて終へぬ

悩ましき幾万のみ魂 眼も広き焼け跡の野辺 おとなへば土と石のみ とむらふはただ雑草(あらくさ)の 春近く燃えいづる青 ああ友よ妻よ子供よ 父母よはらからどちよ 安らけくみ魂眠らせ

いのちある 吾等誓ひて ふたたびはすまじいくさぞ 常安(とこやす)のみ国ぞもたむ 常安の国ぞ興さむ国ぞ興さむ


反 歌
いくさなき国を築けといふごとく、岩屋の山は聳えしづけし 


人類史上未曾有の惨事は、一人ひとりにとって別々の記憶でありながら、人々のともどもの体験でもありました。その意味で、それは叙事と抒情のふたつながらの要素を内包していたといえるでしょう。

この歌が、敢えて、万葉的な「長歌」という歌体を採用し、緩やかで大らかな調べに籠めて、荘厳荘重に歌いあげたのは、それが、まさしく民族的な『挽歌』に他ならなかったからでしょう。

それ故、この歌を安直に現代語に言い換えたとしても、空疎で軽薄なカラ文句にしかならないでしょうが、あえて試みてみることにしました。

【余計なお世話の現代文解釈】

わすれられようか八月九日を  朝もようやく過ぎようとする頃  夏雲覆う北の空から  B29のプロペラ音が接近中と  警戒を尽くすゆとりさえなく ピカリと眼を射す妖しいひかり   耳をつんざく凄まじい轟音  これはひとときの夢かしら、いやそうではなかった  襲ってきたのだ!襲ってきたのだ!

実にそのわずか一瞬間に  幾万のいのちが滅びてしまった  数知れない家々が燃えだした 燃える火は  ますます燃えさかり  助けを呼ぶ声を覆い包んだ  走り逃げ惑うひとを殺した  日中と言わず夜中と言わず  すべてのものを焼き尽くしてしまった!

悩み憂える幾万のみたまよ  見渡す限り焼け野が原が広がり 訪ねてみると土くれと石ころばかり  訪れるものはただ雑草の  春を待ちかねて萌えいづる新芽  ああ、友よ!妻よ!子ども達よ! ちちははよ!同胞たちよ!  安らかにお眠りください!

生きのびた 我らはちかって 二度と再び戦はすまいぞ!  とわに平和の国を持つのだ!  とわに平和の国を興そう!国を興そう!

反歌

「戦争のない国築け」というように岩屋の山は静かに聳える

 



憲法九条は、他国から押しつけられた教条でもなく、青白くあまったるいロマンでもなく、まさしく、この歌にこめられたような 、「幾万のみ魂」のなげきや怒りの声をしっかりと抱き、背負い、「常安の国ぞ興さむ」

 

と誓った、幾千万の人々の決意に他ならなかったのではないでしょうか。  

 

 


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