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原民喜『原爆小景』のことなど [私の切り抜き帳]

勢いづいて、8月6日の記事のつづきを書くことにします。

原民喜の『夏の花』には触れました。

彼の詩は、それとは別の強いインパクトで読者を撃ちます。
片仮名書きの独特の表現のなかから、現出する地獄絵、とても正視するに堪えません。 しかし、原水爆による被害の種子が、世界中から消滅してしまうその日まで、後の世の私たちは、悲しみに堪えて見つめなければならないのでしょう。

悲惨と恐怖のみを強調する「平和教育」には賛同できません。取り巻く環境のすべてが平和で安全で、身も心も安らかにくつろぎ、未来への希望が輝いているような、名実ともに「平和」な状態を、子ども達に感得させる事のできる教育が本当の「平和教育」だと信じます。

同時にそれを脅かし踏みにじる凶暴で理不尽な力に対しては、それを排除して、子ども達を守ることが、大人の責務と言わねばならないでしょう。

青空文庫版『原爆小景』から、数編引用させていただきます。

  コレガ人間ナノデス

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

 

  燃エガラ

夢ノナカデ
頭ヲナグリツケラレタノデハナク
メノマヘニオチテキタ
クラヤミノナカヲ
モガキ モガキ
ミンナ モガキナガラ
サケンデ ソトヘイデユク
シユポツ ト 音ガシテ
ザザザザ ト ヒツクリカヘリ
ヒツクリカヘツタ家ノチカク
ケムリガ紅クイロヅイテ

河岸ニニゲテキタ人間ノ
アタマノウヘニ アメガフリ
火ハムカフ岸ニ燃エサカル
ナニカイツタリ
ナニカサケンダリ
ソノクセ ヒツソリトシテ
川ノミヅハ満潮
カイモク ワケノワカラヌ
顔ツキデ 男ト女ガ
フラフラト水ヲナガメテヰル

ムクレアガツタ貌ニ
胸ノハウマデ焦ケタダレタ娘ニ
赤ト黄ノオモヒキリ派手ナ
ボロキレヲスツポリカブセ
ヨチヨチアルカセテユクト
ソノ手首ハブランブラント揺レ
漫画ノ国ノ化ケモノノ
ウラメシヤアノ恰好ダガ
ハテシモナイ ハテシモナイ
苦患ノミチガヒカリカガヤク

 

 

  日ノ暮レチカク

日ノ暮レチカク
眼ノ細イ ニンゲンノカホ
ズラリト河岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ頭ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ細イ眼ニ
翳ツテユク 陽ノイロ
シヅカニ オソロシク
トリツクスベモナク

 

 

  水ヲ下サイ

水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
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『夏の花』でも見たとおり、原民喜は、被爆の前年、妻を病気で亡くしています。

 

「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。」(「遙かな旅」)という痛切な悲しみを抱えた彼は、皮肉にも、妻の死の1年後、疎開先の幟町の生家で被爆するのです。四十歳の時でした。幸い便所にいたため、いのちは助かりますが、家は倒壊し、二晩野宿するという経験します。その間に彼の目に映るすべての出来事は、阿鼻叫喚の地獄絵図そのものでした。

「今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」 (『原爆被災時のノート』)と感じた彼は、その後、生き残った者の責任として、原爆で逝った人々への鎮魂と妻への哀悼の思いを込めて、被爆体験・惨状を伝える作品を多数書き続けました。

しかし、人々の願いを踏みにじる朝鮮戦争の勃発や、トルーマン米大統領の「原爆使用もありうる」との声明に大きく失望し、1951年
3月13日、東京中央線の線路に身を横たえ自殺するのです。46歳でした。

広島市中区大手町の原爆ドーム前に「遠き日の石に刻み  砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか  一輪の花の幻」 と遺書に添えられていた詩句を刻んだ詩碑が建てられています。

この碑は、もとは、亡くなった年1951年の11月に、梶山季之ら、親交のあった作家や文学者たちが故人を偲んで建立したもの。もとは広島城跡の大手門前に石垣を背にして建てられていました。

設計は谷口吉郎(東京工大教授)。碑文の陶板は加藤唐九郎作。さらに、裏面の銅板には、佐藤春夫の追悼文が刻まれていました。

しかし子どものいたずらか、心ない人達の悪ふざけか、無思慮な石投げの的とされ、表面の陶板は穴だらけとなり、裏面の銅板も盗まれてしまったことから、1967(昭和42)年7月29日に修復移設されたそうです。その後、歩道工事に伴い、数メートル移設され現在に至っているそうです。その際に、陶板が黒みかげ石に替えられています。

さらに詳しくは、広島市立中央図書館の広島文学資料室のページをオススメします。



  


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