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桜 [文学雑話]

先週末のお四国ぶらり旅で、荘内半島の紫雲出山に上りました。



先輩ブロガーdendenmushi さまの、でんでんむしの岬めぐりの記事(1350 箱崎=三豊市詫間町箱(香川県)まことに見上げた三豊市コミュニティバスが行くこの“箱”はあの「箱」のことなのだった)に、三豊市荘内半島一帯に語り伝えられる浦島伝説にちなんで、玉手箱から出た煙から「紫雲出山」の名が付けられたということです。驚きました。
紫雲出山は「千本桜」で有名なのだそうです。



山桜の花は、薄赤色の葉っぱとともに山を飾っていましたが、ソメイヨシノはまだ咲き始めたばかりのようす。しかし、あと数日の先、おびただしいほどの桜の樹林が、一斉に花をつけた様は、さぞ壮観だろうと思われました。











同じくso-netブログのお仲間、momotaro様のブログ「日本の政治と地球の未来」3月25日付記事に熊谷桜の話題がありました。早咲きで有名な桜だそうで、1年前のこの記事を拝見すると、このように紹介して下さっていました。

 東京新聞が
「 早咲きのサクラとして知られる熊谷(くまがい)桜が熊谷市鎌倉町の石上寺(せきじょうじ)(岡安隆哲住職)で七~八分咲きとなり、見ごろを迎えている。小さな苗を含めると約五十本が植えられている同寺では二十日、お花見イベントが開かれる。
熊谷桜は熊谷市ゆかりの武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が源平合戦で先陣争いをした故事から名付けられた。江戸時代には儒学者の貝原益軒(えきけん)が編さんした「大和本草(ほんぞう)」で代表的な四種類のサクラの一つとして紹介されたが、明治末期ごろに姿を消し「幻の桜」に。一九九三年に熊谷市内の市民団体が茨城県内から苗木を譲り受け、石上寺などで増殖活動を続けてきた。 」
と取り上げました。

熊谷次郎直実については、私も、過去の孫殿の誕生待つや誕生寺という記事で、こんなことを書きました。

誕生寺は、浄土宗の開祖法然上人の生誕地に建立された浄土宗の寺院で、建久4年(1193年)。法力房蓮生が建立しました。

この蓮生は、『平家物語』「敦盛(あつもり)最期」の段に登場し、17歳の貴公子敦盛を討ち取る巡り合わせとなった熊谷次郎が、殺生を性(さが)とする武士の身を厭い、この世の無常を嘆いて出家し、法然の弟子となったのでした。

『平家物語』から「敦盛の最期」(巻第九)の一節を引用します。
いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大将軍にくまばや」とて、磯の方へあゆま
するところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたうたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはききりふの矢おひ、しげ籐の弓もて連銭
葦毛なる馬に金覆輪の鞍をいてのたる武者一騎、沖なる船にめをかけて、海へざっとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、
 熊谷、
「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」
と扇を上げて招きければ、招かれてとつて返す。みぎはに打ち上がらんとするところに、押し並べてむずと組んでどうど落ち、とつて押さへて首をかかんと、か
ぶとを押しあふのけて見ければ、年十六、七ばかりなるが、薄化粧してかねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
「そもそもいかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせたまへ。助けまゐらせん。」と申せば、
「なんぢはたそ。」
と問ひたまふ。
「ものその者で候はねども、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実。」
と名のり申す。
「さては、なんぢにあふては名のるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも、首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ。」
とぞのたまひける。
 熊谷、
「あつぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべき戦に勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべき戦に負くることよもあら
じ。小次郎が薄手負ひたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ、助けたてまつらば
や。」

と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥・梶原五十騎ばかりで続いたり。
 熊谷涙をおさへて申しけるは、
「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵雲霞のごとく候ふ。よも逃れさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、のちの御孝養をこそつかまつり候はめ。」
と申しければ、
「ただ、とくとく首を取れ。」
とぞのたまひける。
 熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな。」
とかきくどき、そでを顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。
 やや久しうあって、さてもあるべきならねば、よろい直垂をとって、頸をつつまんとしける
に、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさされたる。
「あないとおし、この暁城のうちにて管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛をもつ人はよもあらじ。上ろうは猶もやさしかりけり」
とて、九郎御曹司の見参に入りたりければ、是を見る人は涙をながさずといふことなし。後にきけば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心のおもひはすすみけれ。件の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによって、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。     


【解釈】敦盛(あつもり)の最期(巻第九)

一の谷のいくさに、平家が敗れていまったので、源氏方の武将、熊谷次郎直実は、「平家の公達が、助け舟に乗ろうとして、波打ちぎわのほうへ落ちて行かれるであろう。ああ、手柄をあげるにふさわしい立派な大将軍と取り組みたいものだ。」と思って、磯の方へ馬を歩ませて行くところに、ねりぬきに鶴を縫い取っ
た直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)においの鎧(よろい)を着て、鍬形(くわがた)を打ったかぶとの緒を締め、黄金作りの太刀を腰にさし、切斑の矢を負
い、重藤の弓を持って、連銭あしげの馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者一騎が、沖の舟をめざして、海へざっと馬を乗り入れ、五、六段ほど泳がせている。

 熊谷が、

「そこを行かれるのは大将軍とお見受け申す。卑怯にも敵に後ろをお見せになることよ。お引き返しなさいませ。」
と扇を上げてさし招くと、(平家の公達は)招かれて引き返す。(その公達が)波打ちぎわに上がろうとするところに、(熊谷は馬を)並べてむんずと組んでど
うっと落ち、とり押さえて首をかき切ろうと、かぶとを押しあお向けにして、(顔を)見ると、年十六、七くらいの(若武者)で、薄化粧をしてお歯黒をつけて
いる。わが子の小次郎の年齢くらいで、顔立ちが誠に美しかったので、どこに刀を突き立ててよいかもわからない。
「そもそも、どのようなお方でいらっしゃいますか。お名のりください。お助けいたしましょう。」と申すと、
「そなたは誰じゃ。」
とお尋ねになる。
「名のるほどの者ではありませんが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実。」
と名のり申す。
「それでは、そなたには名のるまい。そなたにとっては、よい敵だ。名のらなくても、首を取って人に尋ねてみよ。見知っているだろうよ。」
とおっしゃった。
熊谷は、
「ああ、りっぱな大将軍だ。この人一人お討ち申したとしても、負けるはずの戦に勝てるはずのものでもない。また、お討ち申さなくても、勝つはずの戦に負け
ることもまさかあるまい。(息子の)小次郎が軽い傷を負っただけでさえ、(この私)直実はつらく思っているのに、この殿の父が、(この殿が)討たれたと聞
いて、どれほどお嘆きになることだろう。ああ、お助け申したい。」
と思って、後方をさっとすばやく見ると、土肥・梶原が五十騎ほどで続いている。
(もはやお助けすることはできないと判断した)熊谷は、涙をこらえて、
「お助け申そうとは存じますが、味方の軍兵は雲霞の如くにございます。決してお逃げにはなれないでしょう。ほかの者の手におかけ申すより、同じことなら、直実の手でお討ち申し上げて後のご供養をいたしましょう。」
と申すと、
「ただ、早く早く首を取れ。」
とおっしゃった。
 熊谷はあまりに気の毒で、どこに刀をつき立ててよいのかもわからず、目もくらみ気も動転して、呆然としていたけれども、(いつまでも)そうしているわけにもいかないので、泣く泣く首を斬ったのだった。
「ああ、武士の身ほど情けないものはない。武芸の家にうまれなければ、どうしてこのようなつらい思いを見ることがあろうか。情けなくもお討ち申しあげたものよ。」
と繰り返し嘆いて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。
 ややしばらくして、嘆いてばかりもいられないので、若武者のよろい直垂を取って、首を包もうとしたところ、錦織の袋に入れた笛を腰にさしておられた。
「ああ、いたわしい。今日の夜明け方、陣の内で管弦の遊びをしておられたのは、この人々でいらっしゃったのだ。現在、味方に東国の軍勢が何万騎かいるだろうが、戦の陣に笛を持ってきている人は、よもやあるまい。身分の高い人はやはり優雅なことよなあ。」
と言って、源氏の大将軍九郎義経にお見せしたところ、これを見る人々で、涙を流さない者はなかった。のちになって聞くと、この若武者は、修理大夫経盛の子息大夫敦盛と言って、当年十七歳になっておられた。このことがあってから、熊谷の発心の思いはますます強くなった。この笛は祖父忠盛が笛の名手なので、鳥羽上皇より賜わった。その後父の経盛さらに敦盛へ伝わったといわれている。名前をさ枝の笛(青葉の笛)と言う。

この熊谷次郎直実=法力房蓮生が師と仰いだ法然は、この土地で押領使の漆間時国(うるまときくに)の子として生まれます。勢至丸と名付けられた彼が9歳の時に、父は預所の明石定明によって殺されます。九歳の勢至丸は小弓で敵将定明の右目を射て退散させましたが、父時国は臨終に際して、勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言したといいます


また、別の記事青葉の笛に江戸川柳、そしてお次は蕎麦と鳩でも続きを書いています。


岡山県久米南町の法然の出生地に、「誕生寺」を建立した蓮生=俗名熊谷次郎直実は、源平の合戦の際、息子の小次郎と同年代と見える公達平敦盛を、心ならずも手に掛けた悔悟から、出江戸川柳で読む平家物語 (文春新書)家して法然の弟子になったと伝えられます。

その、熊谷次郎直実と敦盛の逸話を読み込んだ江戸川柳のいくつかを、「江戸川柳で読む平家物語 (文春新書)」(阿部達二著 文春新書)から引用してみます。


敦盛も討たるるころが声がわり        「武玉川(むたまがわ)」5篇
敦盛は数え年で一六・七歳の少年でした。今でいう中学生か高校低学年でしょう。

世に青葉残し二八の花は散り  「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」52篇

二八は、九九で、十六を意味します。
洒落っ気で九九を取り入れた表現は、古典文学にしばしば見られる遊び心です。
たとえば「万葉集」は、日本語を漢字のみで表記した作品ですが、そのために涙ぐましい工夫が凝らされています。
チョー有名なクイズネタに「山上復有山」をどう読む?というのがあります。
たとえば、笠金村(かさのかなむら)の長歌に、
毎見 恋者雖益 色二山上復有山者一可知美  (巻九。一七八七)
とあります。

これは、「見るごとに恋はまされど 色に出でば ひと知りぬべみ」と読むそうです。
【解釈】
見るたびに恋しい思いはつのるけれども 恋心が表面にでちゃうので 人が知ってしまいそうなので、、、、

 「山上復有山」は、山の上に山がある、すなわち「出」という漢字を戯れ書きしたものなのです。このような頓知に寄る遊び書きを、「戯書」(ぎしょ)といいます。いわゆる万葉仮名のバラエティの一環と言えるでしょう。
では次の戯書の読み方は?

二二

重二

並二

いずれも二が二回で「シ」と読ませます。

では、十六は?
そのとおり、「シシ」と読ませます。

というわけで、二八が十六であることは、おなじみの表現といえます。

そして、「青葉」とは、敦盛が奏した笛の名と伝えられます。前述のように、『平家物語』では、「さ枝」という名が記されていますが、この事情について、前掲の「江戸川柳で読む平家物語」にはこうあります。

「謡曲「敦盛」では、蓮生坊が戦後、一の谷を訪れると草刈りの男たちが笛を吹きながらやってきて、互いに笛の話に興ずる.その中に「小枝蝉折さまざまに笛の名は多けれども、草刈りの吹く笛ならばこれも名は青葉の笛と思し召せ」とある。この謡曲の詞章から出たものと思われる。

文部省唱歌「青葉の笛」の一番は、これをもとにしています。
須佐卓郎さんのサイト「たくろうの名曲玉手箱」からコピーさせて戴き、紹介します。なお、このページでは、懐かしい歌を、MIDIで聴くことができます。

文部省唱歌 青葉の笛

作詞 大和田建樹 (1857~1910
 作曲 田村虎蔵  (1873~1943)
一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵」の歌

「行き暮れて 木下蔭を 宿とせば
      花や今宵の あるじならまじ」

一番は平敦盛(あつもり)を歌った詞
 鵯越えで有名な一の谷の合戦で、海上に逃れようとした敦盛は、熊谷直実に呼び戻された。
 敦盛を組敷き首を刎ねようとした直実は、14歳の敦盛に驚き逃がそうとしたが、敦盛は断りそのまま討たれた。
 その時腰に携えていた笛「名笛小枝」を歌ったもの。

二番は平忠度(ただのり)(薩摩守で無賃乗車の代名詞として使われている)平家都落ちの時、途中から引き返して、和歌の師藤原俊成に詠草一巻を預け立ち去った。
 俊成は鎌倉幕府に遠慮して読み人知らずとして「千載集」に下記の和歌を載せている。


さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな


二八と聞いて敦盛を打ちかねる    「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」57篇

二八は、二八蕎麦。蕎麦粉八割、つなぎ二割の割合。蕎麦粉の含有率が高いほど蕎麦打ちの難度が上がります。

「敦盛」は、「熱盛り」と掛けていて、「打つ」は「蕎麦」の縁語です。一六歳の少年と聞いて敦盛を討ちかねた、という表の意味の裏に、二八蕎麦の熱盛りを打つのが難しいという洒落を隠した言葉遊びです。

蓮生が馬上朝日が背へ当たり   「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」82篇

 蓮生(俗名熊谷直実)は、信仰心が篤く、決して西に背を向けなかったそうです。もちろん、西には仏の住む西方浄土があるからです。蓮生は、東に行くときは後ろ向きに馬に乗ったとか。

蓮生の馬子尻へ来て吸付ける   「俳風柳多留(はいふうやなぎだる)」153篇

 蓮生が乗る馬の馬子(馬引き)は、馬の後ろにやってきて(蓮生の正面にやってきて)、タバコの火を借りるというのです。

ちなみに、 京都寺町と東京銀座に店舗を持ち、お香や文具のお店として知られる鳩居堂(きゅうきょどう)は、熊谷直実から数えて二〇代目の熊谷直心が江戸時代に創立して、今日に至るといいます。鳩居堂のホームページにはこうあります。
屋号は儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)※2の命名です。由来は中国の古い時代の民謡集『詩経』の召南の篇にある「維鵲有巣、維鳩居之」で、カササギの巣に託卵する鳩に、「店はお客様のもの」という謙譲の意を込めたものです。また、室鳩巣の雅号と熊谷家の家紋「向かい鳩」にちなんだ屋号でもあります。


饒舌はこれくらいにして、桜の話題に戻ります。

わが家の近くの散歩道が、この季節は桜の花で彩られます。

日当たりの関係か、毎年、決まって真っ先に開花する場所があります。昨日の朝には、こんな具合になっていました。

ソメイヨシノの開花

ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



ソメイヨシノの開花

ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg





今朝は、さらに開花が進んでいました。

ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



ソメイヨシノの開花

ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg


 ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg

 ソメイヨシノの開花


ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg 



ソメイヨシノの開花

ソメイヨシノの開花 posted by (C)kazg



今日はここまでです。


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momotaro

いやはや恐れ入りました。
「桜」の御題で熊谷桜から「敦盛最期の段」、さらに江戸川柳から「青葉の笛」に至るまで解説をいただき、知らないことだらけで、文学に興味を持たれる方の知識の豊富さに感心するばかりでした。
プリントして勉強させていただかなければと、六十七歳の熊谷市民、ハッとしております。
by momotaro (2016-04-08 03:07) 

kazg

momotaro 様
にわか仕込みのインスタント知識。聞きかじり(読みかじり)のままに、書きちらかしたことをすぐに忘れます。でも、あとで読み直せば思い出せるので、自分の「調べノート」のつもりでメモしています。調べることのおもしろさは、ネット社会ならではの便利さ気楽さによるところ大とおもいます。
by kazg (2016-04-08 08:48) 

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