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明治の日?まっぴらごめん、の巻 [時事]

一昨日は憲法公布70年の記念日でした。

「文化の日」という曖昧な名前の祝日になっていることについて、ソネブロのお仲間、gonntan様は、当日の記事にこう喝破しておられました。
 昭和21年11月3日

今日は日本国憲法が公布された日

なぜこの日が文化の日となったのでしょう

「人権の日」であってしかるべきなのに


そして、こう続けておられます。
 基本的人権の尊重は弱者の希望の灯りです

強者はどのような環境でも自分の都合の良いように変えられ生きていけるでしょうが

弱者は基本的人権の尊重がなければ人として個人として生きることが難しい

私、ない頭を絞ってこんなコメントを書きました。
 ご指摘、共感いたします。
「文化の日」というとたしかに淡くやんわりとして、主題がぼんやりごまかされたような気がしますね。命名の意図は、そんなところにあったのかも知れませんね。しかし考えようによっては、「文化」というものは本来、人権をも人間の尊厳をも包摂した、人間活動の総体、人間存在の根幹をなすものかも知れません、その文化が見くびられ、不当にないがしろにされ、経済や損得感情に従属されている現状を破って、文化の復権を期する日、と考えようかと、こじつけてみています。
gonntan様からは、こんなコメント返しをいただきました。
 そういう深謀遠慮ならば良いのですが、文化を政治的経済的に利用できるものと考えている人たちのやることですから、末恐ろしいことです。

考えれば考えるほど、「憲法公布記念日」として祝うか、その意味を込めて「人権の日」と称することがふさわしいのではと思えてきます。

一方で、別の極から「文化の日」の呼称を不適切と考える勢力が動きを増していることにも驚かされます。
「時事通信」の記事を引用します。

 「明治の日」制定へ動き=文化の日、改称狙う-歴史に逆行と批判も・憲法公布70年


11月3日を「明治の日」に改めるよう活動する市民団体の集会であいさつする稲田朋美防衛相=1日午後、東京都千代田区

 2018年に明治維新から150年を迎えるのを前に、祝日法を改正して11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改めようとする動きが、保守系の市民団体や国会議員を中心に本格化している。戦前の「明治節」の復活を意図しており、識者からは「文化の日は憲法記念日と一対のもので、名称変更は歴史に逆行する」との批判もある。

 「日本の近代国家としての立脚の原点は明治。明治の時代こそ大切だったと全ての日本人が振り返る日にしたい」。1日に東京都内で開かれた「明治の日推進協議会」(会長・塚本三郎元民社党委員長)主催の集会。あいさつした自民党の古屋圭司衆院議員は、約140人の参加者に力強く訴えた。稲田朋美防衛相らも駆け付け、超党派の国会議員連盟結成に意欲を示した。
 同会は「昭和の日」制定を推進したメンバーらが11年に結成。役員にはジャーナリストの桜井よしこ氏や、安倍晋三首相のブレーンの1人とされる伊藤哲夫・日本政策研究センター代表らが名を連ねる。この日は約63万8000筆の請願署名を古屋氏に手渡した。
 11月3日は明治天皇の誕生日で、明治時代は天長節、その後は明治節として祝われていた。しかし、終戦後の1948年に成立した祝日法は明治節を廃止。日本国憲法の公布日とされたため、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ための祝日とした。
 同会の相沢宏明事務局長は「本来のあるべき姿に戻したいとの素朴な思いがあるだけ」と話す。政府も10月に明治維新150年を記念する施策を行うと発表し、「追い風になる」と期待を寄せる。(2016/11/02-16:27)

記事中に紹介されている「明治の日推進協議会」のHPを訪ねてみると、昨年10月22日「朝日」夕刊を誇らしげに掲載してありました。確かに、これを読むと動きや狙いがよくわかります。
 【朝日新聞】「明治の日」復活の動き 明治天皇の誕生日11月3日 「文化の日から変更を」(平成27年10月22日夕刊)

11月3日を「明治の日」に――。「文化の日」をそんな名称に改める祝日法改正運動が一部で熱を帯びている。「国家の独立を守り抜いた明治の先人に思いをはせる日に」と訴え、11月には東京で決起集会が開かれる。こうした動きに「戦後民主主義に反する流れ」と警戒する声も上がっている。

運動を進めているのは「明治の日推進協議会」(塚本三郎会長=元民社党委員長)。小田村四郎・元拓殖大総長やジャーナリストの櫻井よしこ氏らが役員になっている。2008年に発足し、文化の日を明治の日に改めることを求める国会請願のための署名集めや、世論喚起をめざす集会を各地で開催している。昨年の集会には、稲田朋美・自民党政調会長らがかけつけた。

今年11月11日の集会は、田久保忠衛・杏林大名誉教授が基調講演する予定だ。事務局によると、明治の日実現のための推進議連づくりを働きかけており、早ければ3年後の法改正につなげたいという。

役員の一人、大原康男・国学院大名誉教授は、明治天皇の誕生日にあたる戦前の「明治節」にちなんで、11月3日を「明治の日」と変える意義について、「明治天皇は近代国家日本をつくった一番の偉人。根拠があいまいな文化の日ではなく、本来の形に戻したい」と話す。
戦前の明治節は、国家の大事な行事、(1)元日の四方拝、(2)神武天皇が即位した日を建国の日とした紀元節、(3)天皇誕生日である天長節とともに、四大節の一角を占めていた。1927年、「明治天皇の偉業を永遠に伝えていくために」などとして制定され、官公庁、学校、軍隊などで盛大な祝賀式典がおこなわれた。
それが戦後、11月3日に日本国憲法が公布され、文化の日となる。11月3日が選ばれた理由については諸説あるが、暦の研究で知られた岡田芳朗・女子美大名誉教授(故人)の回想によると、戦後、再出発にふさわしい祝日を選ぶ際、文化国家の建設を目的とした祝日を加えたい思惑から文化の日が決まった。日取りを検討する中で、気候がよい明治節の日になったという。
なぜ今、明治の日にする必要があるのか。大原氏は明治の光と影を指摘したうえで、世界史的にも大変化をもたらした特筆すべき時代だったと、明治の重要性を強調する。

「中心は明治天皇であり、今の日本が明治の遺産であることを教育現場で教えれば、明治の日はおのずと実現に近づくはずです」

(後略)

役員の一人、大原康男・国学院大名誉教授の、「明治天皇は近代国家日本をつくった一番の偉人」「中心は明治天皇であり、今の日本が明治の遺産であることを教育現場で教えれば、明治の日はおのずと実現に近づくはずです」という言葉が、この勢力の歴史観、めざす方向を如実に表しているように思えます。
戦前、「明治節」として祝われた祝日について、平凡社「世界大百科」の解説にこうあります。
 世界大百科事典 第2版の解説
めいじせつ【明治節】
明治天皇を記念して制定された祝日。1927年1月25日,貴族院,衆議院は明治節制定の建議を可決し,同年3月3日の詔書で,明治天皇の誕生日である11月3日を明治節と定めることが公布された。祝祭日には,国家的な祝い日である祝日と,皇室の祭典を行う日である祭日とがあったが,明治節は新年節(1月1日),新年宴会(1月5日),紀元節(2月11日),天長節(4月29日)とともに祝日とされた。また祝日のうちでも新年節,紀元節,天長節,明治節は四大節として,学校や軍隊では祝賀式が行われた。

式では、こんな歌が歌われたそうですね。

  明治節(堀沢周安 作詞,杉江 秀 作曲)

一 亜細亜(アジア)の東 日(ひ)出づるところ
  ひじりの君の あらはれまして
  古きあめつち とざせるきりを
  大御光(おほみひかり)に くまなくはらひ
  教(をしへ)あまねく 道(みち)明(あき)らけく
  治めたまへる 御代(みよ)たふと。
二 恵の波は 八洲(やしま)に余り
  みいつの風は 海原こへて
  神のよさせる みわざをひろめ
  民の栄(さか)行く 力をのばし
  とつ国々の ふみにもしるく
  とどめたまへる 御名(みな)かしこ
三 秋の空すみ 菊の香高き
  今日のよき日を 皆ことほぎて
  定めましける みのりをあがめ
  さとしましける みことをまもり
  代々木の森の 代々とこしへに
  仰ぎまつらん 大みかど
http://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50

こんな時代を再現されたのではたまりません。



私にとって「歴史」は子どもの頃から苦手分野で、事件の前後関係やら人物名やら年号やら、いつもごちゃごちゃこんがらがり、調べてもすぐに忘れてしまいます。

でも、そんな歴史音痴の私にも、明治と言えば、西欧の列強に伍して近代国家の仲間入りを果たそうと、「富国強兵」と「殖産興業」を呼号して、近代的政治制度の導入と資本主義の発達を急いだ時代だという認識はあります。それは決して、「日本の近代国家としての立脚の原点は明治」「今の日本が明治の遺産」などと一面的に美化されるべき歴史ではなく、「萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされる絶対主義天皇制が確立・強化され、前近代的とも言える労働者、農民の犠牲の上に、あいつぐ戦争と、軍国主義化への道を突き進む過程だったことは、論を待ちません。

これまた、ソネブロのお仲間、momotaro様が、10月30日付記事◇戦争を待ち望む危険な心理 ③で、日本の参加した戦争史を『経済効果』の側面から、このように概観されています。


 戦争は経済行き詰まりの打開策として実行に移されることが多いようです。しかし本当にプラスの経済効果はあるのでしょうか?



 明治維新以後の戦争について、簡単に振り返ってみます。

 1894年の日清戦争では、朝鮮の独立を認めさせ、台湾、遼東半島などを手に入れ、賠償金2億両(約3億1000万円。当時の日本の国家予算の2倍以上の金額)をゲットします。さらに日清通商航海条約(欧米と同条件の不平等条約)を結ばせました。

 わずか8ヶ月の戦争で大儲けしたと言っていいでしょう。

 戦争とは儲かるものという印象を、多くの日本人が持ったものと思われます。

 しかし、日本が得たものは清国が失ったもので、支配権・利用権が移転したにすぎず、財貨が増えたわけではありません。戦争は破壊競争ですから、戦場(主たる戦場は朝鮮)で多くの死傷者と財貨の破壊があったわけです。日本側の死傷者約一万八千人、清国側の死傷者約三万五千人と言われています。



 日露戦争は1904年2月から1905年9月まで、遼東半島と満州を主たる戦場として行われました。当該地域の派遣覇権を巡って激しい攻防戦が繰り広げられました。

 当時の国家予算が2億5千万円、戦争遂行のために国債を発行するなどして調達した金額が18億円。そのうち、緒戦で15億円使ってしまい、戦争続行も難しくなり、アメリカの仲介で講和に持ち込みました。そして、日本の韓国における優越権を認めさせ、南樺太、大連、旅順を譲り受けましたが、12億円を要求していた賠償金は得られませんでした。

 人的損害は、日本側の戦没者9万人弱、ロシア側の戦没者約5万3千人と莫大です。



 次なる戦争は第一次大戦。1914年から1918年。ドイツ・オーストリア・トルコなどの同盟国と、イギリス・フランス・ロシアなどの連合国が、主としてヨーロッパを戦場として争った戦争。日本は連合国側につき参戦、中国の利権を拡大するなど、大いなる漁夫の利を得ます。

 しかし、大戦参加国の多くは国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされました。

 人的損害は、連合国側にあっては、戦死者 553万人、戦傷者 1,283万人、行方不明 412万人。同盟国側にあっては、戦死者 439万人、戦傷者 839万人、行方不明者363万人(wikipedia による)



 次なる戦争は、1931年満州事変、1937年日中戦争、1941年太平洋戦争と相継ぎます。多少の休戦期間はあるものの、あの敗戦へとつながる一連の軍拡時代、15年戦争とも呼ばれる時代です。

 主たる戦場は中国と南洋諸島及びその周辺海域ですが、やがて沖縄や本土も戦火にさらされることになりました。

 人的損失は、第二次世界大戦全体では5千万から8千万人、日本人については約3百万人と言われています。経済的な利益はあろうはずもなく、「欲しがりません、勝つまでは」私財の供出と耐乏生活を強いられた時代でした。

 その戦争の結果は言うまでもなくポツダム宣言の受託。植民地を失い米軍駐留が続くことになります。


明治以来の国家が進んだ、「戦争立国」の道程は、このように決してペイするものではなかったことは明らかです。

ここに回帰するような動きを、先日逝去された三笠宮さんならどう感じられるだろうかという思いが、ふと頭をよぎります。

明治天皇のお孫さんにあたる方ですから、個人的に、自然感情として御祖父様の誕生日を寿ぐ思いはおありでしょうが、このような世の中の再来は、断じて容認されないでしょう。

拙ブログの先日の記事◇月の輪古墳と三笠宮、の巻で引用した「リテラ」の記事◇逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判! 日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」とには、こんな文章がありました。

長くなりますが、この際ですので謹んで引用させていただきます。

 1915年生まれの崇仁親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書き、日本の侵略主義を批判したのだが、その文書が発見された1994年には、月刊誌のインタビューで“南京大虐殺はなかった”という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。



「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)



 このインタビューが収録された当時は、羽田内閣の永野茂門法相が毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」「太平洋戦争を侵略戦争というのは間違っている」などと発言するなど、戦中日本の戦争犯罪を公然と否定する流れが、すでに一部の右派だけでなくかなりの勢いを持ち始めていた時期である。



 とくに、日中戦争初期の1937年12月の首都・南京陥落以降に日本軍が行った捕虜や民間人の殺害行為については、論者・研究者によってその人数に20万人から数百人、そして「そもそも虐殺は存在しなかった」といういわゆる“マボロシ論”まで論じられていた。その“数字”をとりたてる流れは現在も続き、現日本政府もまた「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」としている。



 だが、崇仁親王はこうした“数字”の論に対して“むごたらしく殺せば人数は関係ありません”と、はっきりと批判したのだ。さらに同インタビューでは、自身の南京での従軍経験としてこうも述べている。



「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう」



 言うまでもなく、崇仁親王が戦争犯罪を正視し、歴史修正主義をけん制したのは、再びこの国が戦争をすることがないようにという強い思いがあったからだ。1956年の著書『帝王と墓と民衆』(光文社)に付した「わが思い出の記」のなかでも、南京に配属された当時を振り返り、こう記している。



〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉

〈わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである〉



 昨年、ユネスコの世界記憶遺産に「南京大虐殺」が登録されたことに対して、ユネスコへの分担金を留保するという“報復”に出た安倍首相にこそ聞かせたい言葉だ。だが、そうした誠実な態度を貫き通した崇仁親王に対し、これまで右派は「赤い宮様」などと揶揄し、「左翼」と批判してきた。前述した著書の一部が新聞で紹介されたときには、“これは日本軍を傷つけるものだ”という趣旨の脅迫まがいの手紙が当時品川区にあった三笠宮邸に届いたこともあったという。



(中略)
あるいは1966年の「女性自身」(光文社)のインタビューでは、皇室の民主化の停滞を嘆きながら、侵略戦争の認識についてこう述べている。



「太平洋戦争が終わったときには、もうこれで地球上から悲惨な戦争はいっさいなくなったのだと思いましたが、現状をみると、まことにあさはかな考えだったことがわかります。

 どんな大義名分をつけても、しょせん戦争は殺人です。人を殺すことは最大の罪悪です。戦争放棄を明記した新憲法の精神は、いつまでも大切にしなければなりません」

 しかし、2016年の日本はどうか。安倍政権はメディアに圧力を加え、言論弾圧まがいの行為を繰り返し、さらに憲法を変えてこの国を戦争へと導こうとしている。そして、天皇の「生前退位」についても一代限りの特別法でお茶を濁し、抜本的な天皇や皇族の人権問題には決して触れようとしない。さらには、国民の多くはそんな安倍政権を支持し続け、歴史修正やその強権政治への国内外の批判に対しては、束になって「反日」だと襲いかかる。まるで、みずから民主主義を手放そうとしているかのようだ。

ついでのついでに、意表を突く記事を紹介します。

この文章の出典は?

 平和と自由を愛した庶民派の歴史学者。27日に死去した三笠宮崇仁(たかひと)氏の自著からは、そんな人物像が伝わってきます▼戦前、皇族男子は軍務につくと定められていたことから1939年、陸軍大学校に。「今もなお良心の苛責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」と述懐します。43年、陸軍参謀として中国・南京に赴任。そこで日本軍の残虐行為を知らされました▼略奪、暴行、放火、強姦(ごうかん)。「罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない」。驚くのは44年、参謀でありながら日中戦争に疑問を呈し、幕僚に「内省」と「自粛」を促していたことです▼講話のやりとりをまとめた文書の表題は、「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。筆者は若杉参謀。三笠宮の別名です。冒頭、言論が極度に弾圧されている中、一般幕僚が大胆な発言をするのは困難なので自分が発言する、と述べています。日本軍の毒ガス使用にも触れ、「聖戦」「正義」と宣伝される時代ほど、事実は逆に近いような気がする、とも▼戦後は新憲法の「戦争放棄」を積極的に支持。50年代後半、「紀元節」復活を目指す動きにも歴史学者として反対しました。「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた。…それは過去のことだと安心してはおれない」▼モットーは、「真実は何か」。残された言葉の重みをいま改めてかみしめたい。

日本共産党発行の「しんぶん赤旗」10月31日付コラム「潮流」でした。「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた。…それは過去のことだと安心してはおれない」。重い言葉です。

「文化の日」の11月3日、郷里の老父母のもとを訪ね、畑で採れた野菜や、叔母や従姉から戴いた食材をお裾分けしてもらって帰りました。川辺を散歩してみますと堰のほとりにダイサギが数羽採餌しています。



河原でも採餌中。ここには猛禽はいないのかな?



カワウの群れが、行儀よく並んで水辺を眺めています。川には鴨たちが浮かんでいます。











ホオジロもいました。





空を見上げると、ミさゴがいました。



トリミング画像です。



















月の輪古墳が見えました。



今日はこれにて。
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hatumi30331

私も、人権の日にして欲しいです。^^
by hatumi30331 (2016-11-05 21:49) 

kazg

hatumi30331様
よくわかります。
hatumi様は、毎日が「人権の日」でしょうけれど、、、。

by kazg (2016-11-06 07:05) 

えんや

歴史から学び、未来を描き邁進することが大事なんですね。
古き想いに生きたく歴史を都合よく解釈し権力を死守したい
アベ首相、、、自民党と早くサラバしたいですね。
by えんや (2016-11-06 20:17) 

kazg

えんや様
まったく同感です。
たとえ声は小さくとも、発言しつづけることが肝要なのでしょうね。
by kazg (2016-11-06 20:27) 

momotaro

文化の日にちなんで素晴らしい記事を書かれましたねぇ
明治の日?私も真っ平ごめんです。
三笠宮様の数々の貴重なお言葉に触れることもできました。
こんな素晴らしい記事に、小生の拙い文章が採用されているとは・・・身に余る光栄です。
by momotaro (2016-11-08 00:11) 

kazg

momotaro様
いやいや、過分のお褒めにあずかり、赤面します。
貴ブログからの無断引用、失礼しました。おかげさまで、明治以降の日本の近代の「陰」の部分が端的に概括できました。
by kazg (2016-11-08 21:45) 

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