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連休谷間のエトセトラ、の巻 [折々散歩]


連休の谷間の今日。

朝方はひんやり涼しい感じでしたが、日中、気温がみるみる上昇し、真夏の暑さでした。数日前から、ちょくちょく畑に出かけ、スイカ、カボチャ、トウモロコシなどの苗の植え付け、ジャガイモの芽欠きと土寄せ、追肥などの作業を短時間だけ続けています。それにつけても、抜いても刈っても処理しきれない雑草の勢いに驚嘆させられます。今日は、ホームセンターで草刈り鎌を新調し、草刈り作業の続き試みましたが、余りの暑さに、早々に退散しました。

お出迎えのアマガエル君を記念撮影しておきました。







小5の孫が、無事に登下校しているか、日々気になるところですが、今朝はママが学校まで送り届けたら、渋らずに登校。依然として教室には入れずに、保健室で対応していただいたらしいですが、帰りは歩いて下校しました。数日前の発熱の影響は影もなく、まったく元気そうに思えます。

ただ学校に対して身構え、緊張を強いられる状態は解消しているわけではなく、すでに死語と化した感のある「登校拒否」という言葉にリアリティを感じてしまいます。もちろん、「行きたいのに行けない」というのが不登校児の共通した感慨であることを思えば、登校を意識的に「拒否」しているわけでは決してないのですが、身体は登校を拒んでいるとしか思えないのです。

最近、古い友人のSさんから電話をいただき、教育相談のボランティアのスタッフとして協力を依頼され、気が進まないながらも、週一回弱の頻度で請けることにしました。その際のやりとりで、わが孫のケースを伝え、「何が原因かまったくわからない」ともらしたところ、Sさん自身のお子さんの不登校体験も含めて「原因は誰にもわからない」と即答され、深く納得したことでした。
原因はどうあれ、この先が大事。「自分が自分のままでいていいのだ」という自己肯定感の充足こそが、不登校から抜け出るポイントだとは、これまで肝に刻んできたつもりのことでしたから。

最近、妻が書棚から引っ張り出してきては読んでいる不登校関係の本のなかに、高垣忠一郎さん(臨床心理学者、立命館大学名誉教授、京都教育センター代表)の著作があります。その一冊『揺れつ戻りつ思春期の峠』(新日本新書
1991の、こんな一節が目に止まりました。
「見守る」ということは、何もしないことではない。それは親の愛を子どもに伝えるひとつの行為である。
遊園地で遊んでいる幼いわが子を見守る母親は、子どもが母親に手を振れば手を振ってこたえてやる。子どもが膝にきて抱っこを求めれば、しっかりと抱いてやる。決して放っらかしにして何もしないわけではない。かといって子どもの求めぬ手出し、口出しをするわけでもない。
それは、子どもに安心できる基地があることを伝えつづける行為である。
「信頼して待つ」ことは、何もしないで待つことではない。ただ待っていれば、やがて子どもが自然に立ちなおるという、空虚な根提のない期待を抱いて待つことではない。
それは、「信額する」という、たいへんしんどい仕事をしながら待つことだ。子どもの自己回復力を信頼し、それが発揮されるように援助しながら待つということだ。
そのためには、子どものなかに自分を愛し信頼する心、他者を信頼する心をよみがえらせること。
子どもへの親の深い愛と信頼が、それをよみがえらせる。
その親の深い愛と信頼を、子どもに、通じるように伝えつづけること。---それが「信頼して待つ」唯一の方法である、と私は思う。
その方法は一般的に用意されているわけではない。この親が、この子に通じさせる独自の方法。
それをそれぞれの家庭でみつけ出してほしい。
子どもの足を揉んでやることは、子どもの心を揉みほぐしてやることだと、子どもの足を心をこめて揉んでやる親がいる。
少しでも子どもをあたためてやりたいと、毎晩あたたかいごはんをつくって、家に寄りつかぬ子を待つ親もいる。
疲れた身体にムチうって、毎朝早く起きては、返事があろうとなかろうと「お早う」と声をかけ、共に食事をして「行ってらっしゃい」と子どもを送り出してやる親もいる。
残業、残業で運く帰宅しては、寝入った子どもの頭を「かわいい、かわいい」と撫でてやる親もいる。
それは、あたかも大きな氷の塊を自分の体温で溶かすような、気の長い努力の過程である。
その努力を通じて親の深い愛と倍頼が、子どもの心に注ぎ込まれるとき、子どものなかに自分を愛し信頼する心がよみがえる。
こんな自分であっても、自分は親から見捨てられていない、「自分が自分であって大丈夫なのだ」と自分を信頼し、他者を信頼する心、それがよみがえってくる。
それは人生の「浮き袋」のようなものである。
その「浮き袋」をもてばこそ、少々の困難やいやなことがあろうと何とかやってゆける。感情の荒渡にのみこまれ自分を見失う危機をのりこえてゆける。
ところが今、その「浮き袋」に空気が十分に入っていない子どもたちがいる。
大人たちは今、どれだけ子どもの心に共感の息吹を吹き込んでやれているのだろう。
「見て、見て、夕陽がきれいだねえ」という子どもに、「夕陽に感動しているヒマがあったら、漢字のひとつも覚えなさい」と叱咤激励するような関係に陥ってしまっていまいだろうか。
そのような関係のなかでは、夕陽の輝き失せ、こわいまなざしで自分を脅かす他者が心のなかに住むようになる。
こうして自已への信頼と他者への信頼はしぼんでゆく。

長い引用になりました。さらにもっと紹介したいところですが、我慢してここまでとします。



昨日で産休・育休が終わる長女が、保育園1ヶ月目の2歳児を連れて、遊びに来ました。いとこ達は大はしゃぎで、テンション高く遊びました。



















公園には、藤も咲いておりました。





お隣さんが、庭のサクランボを取りにおいでと行ってくださり、お言葉に甘えて、子どもたちは思う存分収穫し、たらふくその甘酸っぱい美味を味わっていました。













とりとめもなく、太宰の「桜桃」が脳裏をよぎります。

私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

夢中で収穫した桜桃のみずみずしさと、珊瑚の首飾りのように艶やかな赤さ、そのさわやかな甘酸っぱさは、子どもたちの「浮き袋」をわずかばかりでもふくらませてくれたでしょうか?

今日はこれにて。

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コメント 4

majyo

親業とは一生続くものだと思います
これで良いというのはない。
今までを思い起こせば紅顔のいたりです。
もし最後に言う事があれば、「ごめんね」でしょうか
by majyo (2018-05-02 07:50) 

kazg

majyo様
>これで良いというのはない。
まったくですね。「子育て」と言いますが、一方的に育てる側と育てられる側にわかれるわけではなく、育てたり育てられたりですね。孫も又しかりです。
by kazg (2018-05-03 11:40) 

U3

『信頼して待つ』かあ。
 親御さんに余裕があれば良いけれど、昔はみな貧乏である意味ほったらかしだった。それで実際に大きな心の傷を負ってしまった子もいた。それでも学校にはみな通っていたように思う。いじめられっ子もいじめっ子も。
 その中で鍛えられ逞しく育って来た様に思う。
 そうして育ったわたしが今ここにいる。 
 人は本来『自己修復力』を生まれながらに持っているのだと思う。それが発揮されない現代社会は何かが失われてしまったとしか言いようがないという気がします。今の親の世代はその親、さらにはその親から連綿と受け継ぐべき大切なものをどこかで失ってしまった気がします。これも一つの真実だとわたしは思います。
by U3 (2018-05-03 16:58) 

kazg

U3 様
>それが発揮されない現代社会は何かが失われてしまったとしか言いようがないという気がします。
大切な何かが欠如しているのでしょうね。
by kazg (2018-05-04 20:25) 

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