沖縄の方々の気持ちにより添うってどういうこと?? [時事]
昨日は、カーラジオから流れてくる安倍さんの施政方針演説を、聞くともなく聞いていました。
第168回国会の代表質問を前に、突如辞任された第一次安倍内閣の頃に比べて、お声にも張りがあり、若々しく、お元気そうで何よりでした。
演説の内容も、安定多数の余裕のためか、年齢的成熟のためか、ソフトタッチで、一般国民の日常に根ざしたささやかな喜怒哀楽の心情にも配慮しつつ、レトリック的にも論理と情緒の均衡において破綻の少ない、ソツのない演説とお聞きしました。
しかし、最近露骨には表に出ることの少なかった、「戦後レジームの転換」という持ち前の「信念」が、衣の下から見え隠れしているという印象は、強く感じました。
「朝日新聞digital」2014年1月25日04時04分は、この演説を次のようにまとめ、各方面からのコメントを載せていますが、うなずかざるを得ません。
24日に開会した通常国会。安倍晋三首相は施政方針演説で「新しい国づくり」を宣言し、集団的自衛権の行使容認などに意欲を見せた。戦後日本の歩みが転機を迎える国会になるかもしれない。
この演説を聴いていて感じたことは、あの秘密保護法案強行への国民の不安や憤り、普天間基地辺野古移転問題を焦点とした名護市長選挙での住民の明確な移転NOのメッセージ、消費税増税、TPPなどなど、国論を二分する諸問題での、大勢の人々の声や運動の高まりに、一切顧慮のそぶりさえ示さず、まるでそれらがなかったかのように朗々と自己の「信念」を語り、「やればできる」と繰り返す「強さ」です。
「安倍暴走内閣には、ブレーキがない」という、政敵からの揶揄も、言い得て妙と感じてしまいます。
「演説」では沖縄について、こう触れています。
アジアと日本をつなぐゲートウェイ。それは沖縄です。
「舟(しゅう)楫(しゅう)を以て万国の津(しん)梁(りょう)となし」
万国津(しん)梁(りょう)の鐘にはこう刻まれています。古来、沖縄の人々は、自由な海を駆け回り、アジアの架け橋となってきました。そして今、自由な空を舞台に、沖縄が二十一世紀のアジアの架け橋となる時です。
アジアとの物流のハブであり、観光客を迎える玄関口として、那覇空港第二滑走路は日本の成長のために不可欠です。予定を前倒し、今月から着工いたしました。工期を短縮し、二〇一九年度末に供用を開始します。
高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ち溢れる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。二〇二一年度まで毎年三千億円台の予算を確保し、沖縄の成長を後押ししてまいります。
沖縄科学技術大学院大学には、世界中から卓越した教授陣と学生たちが集まっています。更なる拡充に取り組み、沖縄の地に、世界一のイノベーション拠点を創り上げてまいります。
あの名護市長選挙で、保守候補の応援に立った元官房長官の野中さんの発言が、こんな記事に紹介されていました。
「沖縄の人たちを札束でしばき、踏みつけるような手法を取ってはならない」。野中広務元官房長官は18日、沖縄県名護市で街頭演説し、安倍政権の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題への対応に苦言を呈した。
安倍晋三首相は昨年12月、普天間飛行場の移設先とする名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を仲井真弘多知事から得る際、3000億円台の沖縄振興予算を2021年度まで確保すると表明した。野中氏はこうした経緯が念頭にあるとみられ、演説では「今回の一連の流れに怒りを持ってきた」と語った。
小渕内閣の官房長官などを務め、沖縄の基地問題に深く関わった野中氏は当時、頻繁に沖縄を訪れ、名護市を含む本島北部地域の首長らと膝詰めで話し合うなどした。それだけに、着工に前のめりな安倍政権の姿勢に不満が募ったようだ。
このような政友からの「ブレーキ」にも、まるで斟酌の様子もなく、話題は安全・安心の問題に及び、自衛隊員の献身性への慰労、感謝、激励、賛美の言葉が続きます。続けて、「積極的平和主義」「集団的自衛権」などの持論が展開され、日米同盟・在日米軍の重要性が強調されます。その文脈の中で、沖縄問題が語られるのです。
在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めてまいります。
特に、学校や住宅に近く、市街地の真ん中にある普天間飛行場については、名護市辺野古沖の埋立て申請が承認されたことを受け、速やかな返還に向けて取り組みます。同時に、移設までの間の危険性除去が極めて重要な課題であり、オスプレイの訓練移転など沖縄県外における努力を十二分に行います。
沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、「できることは全て行う」との姿勢で取り組んでまいります。
でも、安倍さん。「沖縄の方々の気持ち」とは、「沖縄の苦難を他の地方に押しつけない。」、「沖縄を二度と侵略の足場にさせない。」 、「核も基地もない緑で平和な、自然豊かな沖縄をまもる」、「札束で心は売らない。」ということではなかったでしょうかね?
そして、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というなら、先の戦争が、他国に対しては侵略の、自国民に対しては抑圧と暴虐の歴史に他ならなかったこと、そして唯一戦場とされた沖縄の悲劇の大本はその点にあることを、まず真摯に認める所から出発しなければならないのではないでしょうかね?
私の、実家のおよそ何の装飾もない玄関に、簡便な額に入れて、一枚の色紙が飾られています。
その色紙には、絵に添えて、特徴的な味わいのある筆文字で一首の短歌が書かれています。
手拭いで口ふさがれて洞窟にひそとひそみし四歳の頃 沖縄にて山原健二郎
高知県出身の元衆議院議員故山原健二郎さんの書画(の複製)です。
山原さんの話題には、以前この記事でも触れたことがありました。
この色紙は、四十何年前の学生の頃、山原健二郎学生後援会が主催する親睦ボーリング大会に誘われ、意外と良いスコアが出て、賞品にもらったものです。
山原さんご本人とは、学生時代から、何度となくその熱い演説を間近で聴いたこともありましたし、卒業後も、文教委員会所属の有力な国会議員として、何度か要請やら懇談やら、いろいろな機会でお目にかかったことがあります。
山原さんと沖縄とは、復帰以前から深い縁があり、「沖縄にヤンバルという土地があり、私はヤンバルさんと、親しみを込めて呼ばれる」などのジョークも、ほほえましいものでした。「ヤンバルクイナ」のことを後に知り、私は山原さんを思い出したりしたものでした。
さてこの短歌は、沖縄戦の末期の頃、米軍の攻撃から身を守るため、ガマ(洞窟=壕)に潜んだ子ども連れの住民が、子どもが泣き声などを上げることで敵に発見されるとして、味方であるはずの皇軍=日本軍からとがめられ、時には壕から放逐され、また甚だしい場合は殺害されたという史実(証言)に基づいた歌だといいます。
今の世ではとうてい信じがたいこの出来事は、しかし、動かしがたい史実であったことを、たまたまネットで探し当てた林博史先生(関東学院大学)のホームページのこの記事が丁寧に論証しておられます(無断でリンク貼らせていただいています)。
関連部分を少しだけ引用させていただきます。
沖 沖縄戦研究の視点と課題
筆者は以前に「南京大虐殺-沖縄戦-本土決戦-自衛隊」の連関の中で, そ
れぞれをとらえることを仮説として提起した(拙稿「南京にて」『軍事民論』特
集46号,1986年)。これは近代日本の侵略戦争から,今日の日本の軍事的役割ま
でをも見通した中で,沖縄戦やそれぞれを位置づけようとするものである。この
点をさらに具体的に論ずることは別稿に譲り,この視点を前提としたうえで,沖
縄戦研究をすすめるにあたっての筆者なりの視点と課題 を述べてみたい。もち
ろん以下は,筆者の問題関心にそった課題だけで,沖縄戦研究の一面にすぎない
ことは言うまでもない。
1.日本軍の敗北過程の中の沖縄戦
沖縄戦における大きな特徴として)日本軍が沖縄住民をスパイ視し,多くの住
民を殺害したこと,また住民の集団自決があちこちでおこったことがあげられる。
日本軍による住民殺害は,今日,明確に確められているものだけでも40件以上,
犠牲者は200人以上にのぽっており,闇に埋もれたままの件数を考えるとこれを
はるかに上まわると考えられる。また直接,日本軍の手によって殺害されたので
はなくても,壕から追い出されたため米軍の砲爆撃の犠牲になったり,日本軍に
食糧を強奪されたため餓死等にいたったりした, いわば間接的に日本軍によっ
て死に追いやられた例は,万を下らないとみら れる。(注)
(注)厚生省の調査によると,14歳末満の戦没者1万1,483人のうち,「壕
提供」が1万0,101人,「食糧提供」76人,「自決」313人,「友軍よりの射殺」
14人,などがあげられている(大田昌秀『総史沖縄戦』208頁)。
集団自決は,日本軍の命令によるものとは必ずしも言えないが,手榴弾や青酸
カリが配られて自決を強いられる状況があったり,また日本軍が,住民が米軍支
配下に入ることを認めず,玉砕を非戦闘員にまで求める状況の下では, 集団自決
は,日本軍の存在と切りはなして考えることはできない。住民殺害と集団自決の
関係については,大城将保氏の次のまとめがある (『琉球新報』1985年7月13日)
。
「結論をまとめると住民虐殺も集団自決も第三二軍の住民,県民に対する防諜
(ちょう)対策の最後の究極の破局として達成したコインの裏表。つまり敵につ
かまったらスパイになる。スパイにならないためには自決しなければならない。
しかし自決できなくてうろうろしていて敵につかまったものは,スパイとみなさ
れ処刑される。だから,集団自決と住民虐殺は表裏一体であるといえる。」
こうした日本軍による住民(日本人)殺害や住民のスパイ視,壕からの追い出
し,食糧強奪,あるいは集団自決は,必ずしも沖縄戦だけの特徴ではないことに
注目する必要があろう。
サイパンでの集団自決は,「バンザイ・クリフ」などの名で知られているが,
筆者が少し調べただけでも,サイパン,テニアン,フィリピンのミンダナオ,パ
ナイなどで日本人の非戦闘員に対して沖縄戦と同様の事態が生じて いる。
サイパンの例をあげると,壕の中で将校が親に乳児を殺せと銃をつきつけて強
要し,窒息死させたり(『沖縄県史10』1,010頁,『宜野湾市史』513 頁),住
民をスパイだといって撃ち殺そうとしたり(沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体
験』1986年,335頁),住民に自決せよと青酸カリを配ったり (『母たちの戦争
体験』315~316頁),壕から追い出したり(沖縄県退職教職員の会婦人部『ぷっ
そうげの花ゆれて』ドメス出版,1984年,273頁)している。また米軍に収容さ
れたキャンプで,現場班長らが山に隠れている日本兵に殺害されることもあった
(注)(『沖縄県史10』1010~1011頁,『ぷっそうげの花ゆれて』279頁)。
(注)この件については,殺害した本人の証言があり,米軍に協力的な人
物を殺害したという(『那覇市史』第3巻8,616~617頁)。これは,遊撃戦によ
る「スパイ」摘発・殺害のケースである。
ミンダナオでは,日本軍による食糧強奪や日本人住民の殺害(『宜野湾市史』
454,464,490頁),パナイでは.集団自決を日本軍が手伝った例である が,住
民の輪の中に日本兵が手榴弾を投げこみ,生き残ったものを銃で撃ち殺しさらに
鋭剣で殺したという例(『那覇市史』第3巻8,599頁),テニアンでは,米軍に
捕まりそうになったらこれで死ぬように,と日本兵から手榴弾を渡され,約80人
が集団自決をおこなったり(『浦添市史』422頁),壕の中で泣く子を日本兵が
殺した例(『宜野湾市史』522頁)など,沖縄戦と共通したことが続々と起こっ
ているのである。またロタでは,米軍が上陸するというので,女子供は明方に自
決するように言われ,子供に死装束をさせて待ったが,幸い米軍はロタには上陸
せず,助かったということもあった(『浦添市史』475頁)。
こうして見てみると,日本軍による日本人の殺害等は,米軍の反攻によって日
本軍が玉砕していった島々において,共通にみられる現象といってもよかろう。
日本人の非戦闘員におしなべて死を強要し,スパイ視し,彼らから食糧を強奪し
たりすることは,一部の心ない日本軍人の行為というよりも日本軍に広く一般的
にみられる行為であり,日本帝国軍隊の体質にかかわる問題であるといえよう。
沖縄においては,それに加えて沖縄差別が加算されていると考えていいのではな
かろうか。日本軍が,占領した島々の民衆を虐待 し,しばしば殺害したことと,
日本人の非戦闘員をも上記のように扱ったこととの関連を含めて,アジア太平洋
地域における日本軍のあり様の中で,沖縄戦を位置づける視点と,その作業が必
要である。
仮に、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」というのなら、歴史の事実をその目で確かめ、住民の声に真摯に耳を傾け、相手を思いやる、嘘をつかない、信義を守るといった最低限の「道徳」を、みずからが行動で示す必要はありませんか?学校で「道徳を特別の教科として位置づけること」に執心なさる前に。
今日は、三月下旬から四月上旬並の暖かさになったところもあったそうです。
それでも散歩に防寒帽は必要で、手袋を忘れて来たことは後悔ものでした。
またまた岡山後楽園の散歩です。梅のつぼみも、前回よりは少しほころびてきたようでした。先日、枝の剪定をしたというローカルニュースがあったのを思い出しました。枝振りが、スッキリした感じはありました。
ほかに写した写真がありますが、紹介は、また今度にさせて戴きます。
今日は、念願のカワセミに出会いましたので、記念写真をアップしておきます。
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