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五月尽受け容れ兼ぬる訃報かな [折々散歩]

30度を超える暑さで、それだけで疲れます。

ベトナム出身の留学生が、「暑い」「クーラーをつけてください」と訴えます。日本の学校環境では、5月にはまだクーラーがつかないのが一般的でしょうが、考えてみると「非人道的」かも知れません。何人もが机に伏さって、暑さに耐えております。日本人の学生の我慢強さがよくわかります。

そんな仕打ちを受けてもアベ政権を許容する我慢強さと通じているか?と思ったりしています。

訃報を聞きました。高校時代の敬愛する恩師。

授業を受けたのは、「補習」の何時間かだけですが、いろいろないきさつで大人の方たちの「句会」に誘っていただき、一人前扱いをしてくださったことを嬉しく思い出します。

この記事のM先生がその人です。

草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら)

 木下透は私の高校生時代の筆名です。

そのころ、こんな句を作りました。

屈まりて草むしる老婆の背に真夏   透

「こごまりて」と読ませるつもりでした。

国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。

「バッテリー」や「NO6」などで世に知られるようになった作家、あさのあつこさんは、私の通った高校で2歳ほど年若い同窓生ですが、国語教師に「君の文章が好きだ」と言われた一言が、後に作家の道へ進む遠いきっかけとなった旨、語っておられました。

WEB本の雑誌【本のはなし】作家の読書道第34回:あさのあつこさんという記事 に、こんな風にありました。

あさの : それと、ちょっと遡るのですが、高校生時代に現国の夏休みの宿題で短い物語を書いてくる、というものがあって。
20枚くらい書いて出したら、先生が「オレはお前の文章が好きだ」といってくれて。後で聞いたら結構いろんな子にそう言っていたらしいんですが、「文章が
好きだ」と言われたことがすごく嬉しくて、書きたいな、という気持ちはその時に芽生えていたんです。ただ、それをどういう形で作品化したらいいのかをずっ
と考えていました。それで、後藤さんの作品に出会って、このやり方でできるんだ、ということを教えられたんです

詮索好きの仲間が、あさのさんご本人に質したところ、記憶の細部は曖昧であるらしく、あるいは授業担当だったM先生だったかも知れないということのようです。私などの印象では、上のエピソードから彷彿とさせられるのは、亡くなったU先生の面影です。でも、あさのさんの別の文章では、中学時代の事として語られていますし、実のところは謎。いやむしろ、「秘すれば花」なのかもしれません、、、。

私自身はU先生の授業を受け、部の顧問という縁もあって深く敬愛しておりましたが、俳句に関しては、時折句会などに交えていただいたことがあるだけの縁であるM先生に、格別の敬慕の念を抱いていました。

「こごまりて」は決して私の日常の語彙ではなく、長年の農作業と老いのために、肩や背の骨そのものが曲がり、からだが縮こまって小さくなってしまった様を伝えるニュアンスを、より表しているような気がしたのでした。「かがまりて」は「かがんで」という言い回しとさほど遠くなく、それだけにありきたりな感じがしたのですが、、拘泥するほどのものでもありませんね。

季は変わってしまいますが、

草むしる老婆の肩に重たき春    透
というのも作り、添削を仰ぎました。「重たき春」が字余りという指摘をいただいたように記憶しています。「重き春」「春重く」「春重し」、、どれでも言いようにも思いますが、絡みつくような春愁の感じを、字余りで表現してみたかったのでしたが。

いずれにしても、遠い昔のエピソードとなりました。

「モデル」となった「老婆」はとっくに亡くなられ、数えるに第三世代の時代となり、家屋敷は残したまま、都会に出られて幾星霜となりました。年に何度か帰郷し

て草取りや家屋敷の掃除・管理をなさっていますが、庭草の勢いはさかんで、今の季節には枯れムグラ に覆われることになります。

そこで一句。

草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら)


M先生との思い出は、こんな記事ともシンクロします。



ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

【解釈】「人の死」というきわめて重い事実を、「(無常のこの世であるから)そういうこともあるのだと聞いている自分がある。折しも表は、激しいにわか雨が降りしきっていることよ。

 初めは「他人の死を」と書いて「他人」に「ひと」というルビを振って、句会に出しました。一種の「偽悪」というか「露悪」の意識もあって、所詮他人の運命は、他人事なのだから、という虚無感を協調した傾向があったかもしれません。それは、エゴイズムの宣言と言うよりは、人間存在の孤立性への自覚または諦観といったものの誇張表現だったのでしょうが、さすがにそれが誰の目にも鼻についたようで、せめて「人」または「ひと」と表記することをすすめられました。

「ひとの死を」と改めてみて、句境が随分平凡になったような気が、当時はしていましたが、「さもありと聞く」よりほかにはいかようにもし難い、人間存在の否応なさが、自ずとあらわれているように、だんだん思えてきました。


追憶はとりとめもない物思いに私を誘い、そのいかんともしがたい懐かしさをもてあますことになります。

明日は葬儀に参列する予定。

遠く郷里近くの会場ですので、明日はブログ更新はお休みです。



今日の写真は、昨日の散歩画像の残りから。

毎日同じような画像を載せていますが、これはリコーGR200による広角写真です。



正面は常山です。







手前はスズメ。向こうは?



今度は手前が、、、、ヒバリ。



頭上に、時ならぬバトルが展開されています。















鳶と烏の攻防です。

小川のアオサギが、採餌中です。



獲物をゲット。









悠然と飛び去ります。



モンシロチョウ、花から花へ。













今日はこれにて。


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yakko

こんにちは。
6月1日から 新ブログ に移行します。ゆっくり のんびり ブログ
 新URL は http//jyakko.blog.so-net.ne.jp/ です。
     よろしくお願いいたします。(_ _)
by yakko (2017-05-30 16:33) 

momotaro

「 ひとの死をさもありと聞く驟雨かな 」 いいですねぇ
恩師はほぼいなくなりました。寂しいことです。
この間、麦畑でモンシロチョウを撮る機会があったのですが、どうしたことか、みなピンボケでした。近いのにズームを伸ばしたからかなぁ・・・
by momotaro (2017-06-07 09:41) 

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