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旭川の岸辺散歩、の巻 [折々散歩]

台風一過のきのうは、夏ぶり返しの蒸し暑さでしたが、今朝はひんやりで、いつになく深い眠りに囚われて、目覚めるのが辛いほどでした。今日の服装に迷い、いったんは長袖を着て外出の準備をしていましたが、日が射すにつれじわじわと気温が上がり、外出間際に半袖に着替えて出かけました。

いつも通る旭川の岸辺の道が、空気が澄んで空の色が濃く感じられます。

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ススキの穂が季節を感じさせます。

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左端の建物が岡山県庁です。

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昔むかし、鳥人幸吉(浮田幸吉〉が、竹ひごに紙を貼った翼で世界で初めて空を飛んだという京橋付近に、『表具師幸吉の碑』が立っています。

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ウィキペディアには、こんな解説があります。

浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)は、日本で初めて空を飛んだとされる人物。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる

経歴

江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。

空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。

表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。

その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。

晩年は、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。

この「幸吉の碑」を右手に見て、県庁方面に向かう歩道の右側に、こんな碑があります。

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生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉   漱石 と刻んであります。そして傍らには、この句の解説が掲示されています。

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拡大してみます。

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夏目漱石は、明治43年6月上旬、小説『門』の脱稿前後、継続する胃の痛みを胃潰瘍(いかいよう)と診断され入院しました。7月末に退院し、門下の松根東洋城(まつね とうようじょう)の勧めで、8月6日から修善寺温泉の旅館「菊屋」(きくや)に転地療養に出掛けました。しかし、退院後も胃痙攣(いけいれん)は続き、8月24日夕刻から急変。胃潰瘍による大量吐血で、一時、生死の境を彷徨(さまよ)いました。この句は、辛うじて回復した漱石が、9月24日、世話になった周囲の人々に感謝しながら、無数の赤蜻蛉が飛び交うどこまでも高い秋の空を眼にし、しみじみと生きている感慨を詠んだ句です。

この句は、明治43年9月24日、修善寺温泉菊屋旅館で詠まれたもの。まさしく今の季節です。

それにしても、なぜ漱石の句がこんな場所にあるのか、不思議と言えば不思議ですね。そのわけは、このあたりが、若かりし日の漱石ゆかりの地だからだそうです。

句碑の傍らに「夏目漱石逗留の地」との説明板があり、それによると、明治25年7月、漱石は大学の暑中休暇を利用して、松山に帰省する正岡子規と共に関西方面を旅し、漱石は岡山に向かい、亡き次兄直則の妻であった小勝の実家・片岡家(岡山市内山下町百三十八番地)に一ヶ月ほど逗留していたそうで、それが、ちょうどこの辺りのようです。

岡山逗留中には、こんなエピソードもあったようです。
「七月二十三日から二十四日にかけて、岡山地方に大雨が降り、旭川の水が氾濫して河畔にある片岡家でも浸水が床上五尺に及んだ。これはこの地方でも未曽有の大洪水で、県下の死者は七十四人、流失破損家屋は五千五百余戸にのぼったという。(江藤淳「漱石とその時代」)

漱石の岡山滞在の主目的は、小勝の再婚にたいして夏目家総代として祝意を告げることで、漱石は、上道郡金田村にある岸本家(小勝の再婚先)を小勝の実弟亀太郎とともに訪ねて、歓待されています。

片岡家に戻ると子規から、学年試験落第を機に、退学して世に出る決意を告げる手紙が届いており、漱石は、翻意を促す手紙に添えて「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の句を送りました。

「同じ泣くなら、学業を全うし、卒業(満月)に臨んで泣け」という励ましを込めた句で、明治25年7月19日の作です。岡山ゆかりのこの句ではなく、修善寺で詠まれた「生きて仰ぐ---」の句を「夏目漱石逗留の地」の句碑に刻むことには、疑問の声もあることでしょう。
それはそれとして、いましたいました。旭川の赤蜻蛉。

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河川敷を真っ赤なヒガンバナが彩り、キアゲハが、花から花へと遊んでいます。

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今日はこれにて。


nice!(33)  コメント(4) 

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コメント 4

kenro okada

漱石と岡山、いいですね。
「漱石は、上道郡金田村にある岸本家(小勝の再婚先)を小勝の実弟亀太郎とともに訪ね」とあるのが、西大寺の南の方の今の[東区金田(かなだ)」で、「漱石ロード」と名付けて地元を盛り上げようとしているようです。一度行ってみたいと思います。
by kenro okada (2019-09-26 16:20) 

kazg

kenro okada 様
「上道郡金田村」と書き写しながら地理的イメージができずにいました。ご教示ありがとうございました。
by kazg (2019-09-26 23:44) 

momotaro

鳥人幸吉!
そんな傑人がいたのですね、岡山には。知らなかった。
by momotaro (2019-10-19 06:48) 

kazg

私の居住地の隣接地域の出身だそうです。
by kazg (2019-10-20 14:39) 

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