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蜂あれこれ [折々散歩]

以前、蜂についてこんな記事を書いたことがありました。
蜂は春の季語だそうです。
蜂にもいろいろ種類があるようですが、一番見慣れているのはアシナガバチでしょう。
この蜂が、一番活動的なのは夏ではないでしょうか?にもかかわらず、というか、それ故に、でしょうか?「秋の蜂」「冬の蜂」という季語はあるようですが、「夏の蜂」は聞きません。
志賀直哉の『城之崎にて』に出てくる蜂も、秋の蜂だったでしょうか。 秋になって気温が下がると動きが鈍り、冬にはほとんど活動をやめるそうです。わびしく哀愁漂う句材でしょうか?
女王蜂だけは越冬するが、ほかの働き蜂たちは冬の寒さで、凍え死にするのだそうです。
さて、ところで、我が家の軒下に、アシナガバチが巣を作り、増築に増築を重ねて、これまで見た事もない大きさの巣になりました。
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妻が言うには、この蜂の餌食とされたか、今年はショウリョウバッタも、ヒョウモン蝶などの青虫も、ほとんど見かけないそうです。言われてみると、こうやって「肉団子」を運んでいる蜂を見つけました。
 
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これは別の日の撮影ですが、巣の上で、一匹の蜂が肉団子を仲間に配給しています。細かく分けて、幼虫たちに与えるのでしょうか?贅沢この上もない生鮮食品ですね。
 
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ネット上に、金子兜太の句を鑑賞している田中空音さんのサイトがあります。
その中に、金子兜太の蜂の句に触れた部分がありましたので、引用させていただきます。

 眼ぐすりを注すときすずめ蜂直降


 「眼ぐすりを注す」という行為と「すずめ蜂直降」ということが響き合ってる。どちらにも快い刺激を伴う清涼感がある。
 兜太の蜂の句には快い清涼感を伴うものが多いような気がする。目が冴えるような感じというか、映像も鮮明な感じのものが多い気がする。今までに私が鑑賞した句にも

熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず           少年    
蜂に刺されて昼間が過ぎて星の雨           旅次抄録
人刺して足長蜂帰る荒涼へ              旅次抄録
二階に漱石一階に子規秋の蜂             両神    
蜂に刺されて傲慢人間喚きたり            両神    
春の城姫蜂落ちて水の音               両神

等がある。
 「狼」といい「蜂」といい、内側に闘争心を秘めた野性的な動物を兜太は好んだのではないか。そのような動物が兜太を生き生きさせた、逆に言えば兜太自身が闘争心を持った野性的な人間であるということである。兜太の句には「猪」や「犀」などもよく出てくるが、これらも内側に闘争心があり野生である。
 人間の分類でいえば、兜太は武士(クシャトリア)の質を持っているのかもしれない。それもどちらかというと野武士のような、あるいは黒沢明が描く用心棒のような風貌の益荒男を想い描く。さらに付け加えれば、禅的なあるいは瞑想的な資質もある。その意味でも次に取り上げる一句は面白い。そしてまた「蜂」の句でもある。


金子兜太つながりで、もう一つの話題。

埼玉県のある公民館で活動する俳句サークルは、毎月、会員互選の1句を「公民館だより」に掲載してきましたが、7月号に掲載予定だった会員の互選句が、「偏った意見」だとして掲載を拒否された事件があったそうです。
70代の女性の句で、
梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
というもの。

msn産経ニュースによると、概要は次のようです。
 
「憲法9条守れ」の俳句、掲載見送る さいたま市公民館「一方に偏った意見、ふさわしくない」  2014.7.4 12:51

さいたま市大宮区の三橋公民館が発行する月報に、俳句サークルが「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という市民の句を掲載しようとして館側が掲載を見送っていたことが4日、分かった。市は「掲載すると公民館や市の考え方だと誤解される可能性があり、判断は妥当」としている。

公民館を管轄するさいたま市生涯学習総合センターなどによると、三橋公民館は毎月、「三橋公民館だより」を発行。俳句欄があり同館で活動する俳句サークルが掲載する句を決めていた。6月24日、サークルが7月号用として女性が詠んだ9条の句を選び掲載を依頼、公民館側とセンターは相談の上、掲載を断った。

センターの小川栄一副館長は「公民館は政治的に偏った特定の事業を行ってはならないと法律で定められている。集団的自衛権をめぐる句と受け取られる可能性もあり、世論が大きく二つに別れるような問題で、一方に偏った意見を載せるのはふさわしくないと考えた」と話している。

 
この問題に触れて、「埼玉新聞」8月17日付けweb版が、「九条守れの俳句掲載拒否 俳人・金子兜太さん『文化的に貧しい』」という表題の記事を掲載しています。


その一部を引用します。
 
金子さんは旧制水戸高時代の18歳の時に俳句を始め、俳句歴は今年で77年に及ぶ。加藤楸邨氏に師事し、戦後は社会に生きる人間を詠む「社会性のある俳句」を唱え、「社会性俳句の旗手」と呼ばれた。

 「それまでは、俳句は花鳥風月を詠むものという高浜虚子の影響力が強かった。それに対して、昭和初期の新興俳句運動や戦後になって私や仲間たちは『自然とともに社会に生きる人間を詠みたい』と主張した。今では自然そして社会に生きる人間を詠み取ろうとするのは、俳句の世界では当たり前になった。今回の句もそういう自由な気持ちの中で詠んだ句で、このような句は毎日、どこかで作られている」

 今回の俳句掲載拒否の問題を戦前の治安維持法による新興俳句運動弾圧と重ねる見方もあるが、金子さんは今回の方が根深い問題を含んでいると言う。

 「新興俳句運動の『現実を俳句に書く』とするリアリズムが危険視された。だから取り締まりは、新興俳句系の俳誌だったり運動を担っていた人たちで、俳句を詠む一般の人たちにはそれほど影響がなかった。今回は一庶民の一つの句をやり玉に挙げて大げさな問題にした。こんな拡大解釈のようなことが、お役人だけでなく社会で行われるようになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つ一つの句がつぶされる事態になりかねない。有名な俳人だけでなく、一般の人たちも萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」と警告する。

■新興俳句運動

 高浜虚子の弟子の水原秋桜子(しゅうおうし)が1931年ごろ始めた文芸運動。水原は自然だけでなく、人間の胸のうちや生活の事実を詠むことを主張した。主張に多くの俳人が共感し運動は広がっていった。この運動から、加藤楸邨(しゅうそん)、中村草田男(くさたお)ら有力な俳人が輩出した。純粋な文芸運動だったが、治安維持法によって、40年に「京大俳句」、41年に金子さんが投句していた「土上(どじょう)」など有力俳誌が弾圧され、新興俳句運動は壊滅する。

 
私は、以前、この記事で、リボンプロジェクトの「せんそうのつくりかた」という絵本に触れたことがありました。用意してあって、広く閲覧、頒布ができるようになっていました。
 が、いま確認してみると、「2014年9月11日(木)、マガジンハウスより、大幅に資料拡充した改訂版『新・戦争のつくりかた』の発売が決定」したとのことで、旧版の閲覧が困難になっていました。
このサイトこのサイトこのサイトで実物を見ることができましたので、ご紹介させていただきます。
その 中にはこんな文章が出てきます
 
戦争のことは、ほんの何人かの政府の人達で決めていい、というきまりを作ります。

ほかの人には、「戦争することにしたよ」と言います。時間がなければ、あとで。

政府が戦争するとか、戦争するかもしれないと決めると、テレビや新聞やラジオは、政府が発表したとおりのことを言うようになります。



政府につごうのわるいことは言わない、という決まりも作ります。

みんなで、ふだんから、戦争のときのための練習をします。

なんかへんだな、と思っても、「どうして?」と聞けません。

聞けるような感じじゃありません。

 
公民館の職員のような、住民と直に接し、その文化的要求に具体的に応えることを職務とするような役目の人までが、ヒラメのように上ばかり向いて、「お上の意向」を先取りしてそれを具現することを第一義に考えるような空気が、世の中全体に広がっていくことが、この絵本の危惧した一情景ではなかったでしょうか?
 
仮に、国民の間に意見の相違があって、よしんば、それがマイノリティ(少数派)に属するものであったとしても、各人の信念によってそれを心に抱き、また表明することは、かりそめにも民主主義の社会においてはなんびとも妨げられることのない、基本的な権利です。ましてや、俳句を含めて文学や芸術の表現を、「思想」や「意見」というフィルターを通して評価する事自体、芸術・文化のなんたるかなんたるかを知らない粗野なふるまいと言わざるを得ませんし、その『思想』に難癖をつけて排除するなどは、暗黒時代の再来と言うべきでしょうか?しかも、問題の俳句に詠みこまれているのは、作者自身の意見というよりは、世の中の実際の「現象」、見過ごしがたい「世相」として確実に存在する実景に他なりません。 
 作者が、「女性デモ」を題材とした時点ですでに、それに共感しているかも知れないから、そこには暗黙裏に作者の意見が表明されているという強弁を労したとしても、それは、偏った意見とは言えないでしょう。
先ほど私は、「マイノリティ(少数派)に属するものであったとしても」と書きましたが、このニュースの場合は、少数派どころか、ほかなかならぬ「九条守れ」という国民多数の「意見」です。今年の実施されたどの種の世論調査でも、九条改訂反対が賛成を上回り、その差は開く傾向にあります。自前の改憲案まで掲げて世論喚起をはかってきた『読売新聞』でさえ、その世論調査(2014年3月15日)の結果は、こんな具合です。
Q、憲法9条は改正した方がよいと思いますか   思う  30%     思わない 60%    その他 10%
  9条第1項「戦争の放棄」については        思う 17%    思わない  76%     その他6%
  9条第2項「戦力の不保持」については       思う 39%    思わない  52%    その他 9%
 
こうした状況を踏まえれば、「九条守れ」を、偏った意見と言ってのけること自体、きわめて偏った意見ではないでしょうか?
ましてや、立憲主義のもとでは、憲法は、国家権力に縛りをかけ、国家権力の濫用を防止して国民の自由と権利を保障するために存在するものです。ですから、「九条」に限らず、行政なり公務員は、憲法を遵守することを義務づけられているのですし、公務員はみんな、憲法遵守を誓約・宣誓して任に就いたはずではないですか?
そのような大前提を足もとから掘り崩して、憲法を擁護する「意見」が時の政府の意向に沿わないからといって「偏っている」と断じていく空気は、なんかへんです。
なんかへんだな、と思っても、「どうして?」と聞けません。聞けるような感じじゃありません。---こんな事が重なっていくと、、、怖い怖い。

蜂とともに、 カマキリも、小さな虫たちにとっては脅威です。
 
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セセリチョウ
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ヤマトシジミ
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食草のカタバミの周辺に、群れ飛んでいます。
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かわいらしいテントウムシも、アリマキにとっては恐怖。
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昨日の記事の、「舌の根も乾かぬうち」に、今日のカメラはちょっと重たい取り合わせ。
PENTAXK5Ⅱ+AFAD×1.7倍(AFアダプター)+tokina 90mm f/2.5 AT-X Macro。
昨日、蜂の巣を、 PENTAXK5Ⅱ+AFAD+tokina 90mm f/2.5 AT-X Macroでマニュアル撮影してみて、気分よく撮れたので、夕方ぶらりと散歩道で撮影してみました。その作品は、またの機会に紹介させていただくとして、やはりマクロレンズは侮れないと感じた次第。マニュアル撮影でもいいのですが、間にAFADを挟んだのは、途中でレンズ交換をしてもカメラないにゴミ混入を防げるかもと考えたから。そして、交換レンズも持ち歩いたのですが、結局今日は交換せずじまいでした。
ほかの画像は、また今度の機会に紹介できればと思います。
追伸:昨日の記事のツチガエルの写真、あんまり可愛くも美しくもないので、ちょっと削除して整理しました。
 
 

 

 
 




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