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連休末日の「悲劇」三題、の巻 [今日の「これなあに」?]

 【注】今日の記事は、お嫌いな方もありそうな、美しくない写真が含まれていますので、ご注意ください。

連休も今日で終わり。

最後になって、ちょっと風邪を引いたか、喉が痛くて声が出なくなりました。明日からの商売に差し支えます。のど飴を、幾粒もなめましたが、顕著な改善は観られません。

そんな体調のなか、お蚕様の桑の葉を採りに、田舎の実家まで行ってきました。

今朝のお蚕様はこんな様子です。

生まれ日の違いによって、大まかに3つのグループに分けて飼育しています。

第1世代




第2世代





第3世代



大きさの比較のため、画面の端に、爪楊枝を置いています。わずか数日の生まれの違いで、こんなに大きさに差があります。まだ、これから産まれてくる卵も残っています。いっぺんに孵化しないのは、「保険」??いわば、生存の知恵でしょうかね?

あまりの食欲で、桑の葉が足りません。昨日は、妻が友人に紹介していただいた農家の畑から一定摘んで帰らせていただきましたが、それも何日もはもちません。

連休が明けると、容易には実行困難なので、たまたま仕事がお休みだった妻と、実家までいってくることにしたのです。

早朝に、父が、実家付近の道路際に映えていた生きのいい桑の葉を枝ごと採ってくれていました。私達二人も、そこで、追加を摘み取って、しばらく不安がない程度を確保して持ち帰りました。



実家のすぐ近くの畑にある桑の木には、今日は手をつけず、次に供えて温存しておくことにしました。

帰宅後真っ先に、お腹をすかせていたお蚕様たちに、新鮮な葉っぱをどっさり与えると、喜んでしっぽを振理ながら〈しっぽはありませんが)大変な勢いでむしゃむしゃ食べます。観ていて気持ちのよい平らげぶりです。

が、しばらくするうちに、一匹、また一匹と、身体をねじって苦しんでいる虫が数匹います。口元に、吐瀉物のような緑色の液体が見えて、ただごとでない様子です。

ネットで検索してみると「蚕20万匹が全滅!エサの桑の葉の農薬が原因か―江蘇省大豊市」と題した記事があり、あるいはという疑いが脳裏をよぎりました。

自身の管理下の木でないため、あるいは農薬や除草剤などの散布がされていたのかどうか?確かめようがありません。あるいは、持ち帰る途中で異物に触れる機会でもあったでしょうか?

ともあれ、昨日、農家の畑でいただいてきた葉に、急いで交換しましたが、さてどうなりますか?



わが家の玄関先に巣を作っていた燕の、巣の真下の地面に、おびただしい量の枯れ草が知多飼っています。割れた卵も産卵しています。残骸の中には、育ちかけの雛の姿も確認できます。

ツバメがまだ渡ってくる前や、渡ってきてからも留守の間などに、わが家の屋根に済むスズメの一族が、巣の周りや、時には中に入って我が物顔に振る舞っているのを目撃していますが、それがツバメの雛に攻撃を加えたのでしょうか?

悲劇の後もツバメ夫婦は巣への出入りを繰り返していましたが、いつもは巣にこもるはずの夜になっても帰ってきません。



きょうの「これなあに?」。













くねくねと、いつまでも動き回ります。

妻がヤモリのしっぽを触ったらこうなったそうです。



今日の「これなあに?」をもう一つ。

実家付近から、正面の山を遠望しますと、こんな様子です。











父によると、これが月の輪古墳だそうです。

雑木が生い茂って、変哲のない小山に鹿見えない状態であったのが、最近整備が行き届いて、手軽に見学できるようになったようです。

月輪古墳について、久米郡美咲町のホームページには、

 月の輪古墳・・・4世紀末~5世紀初頭に築造された直径59m、高さ9mの円墳。

と紹介されています。

また、wikipediaによりますと、

 本古墳は、年代からも、内容からも、地域集団の首長の墳墓であると考えられている。
直径60メートル、高さ10メートルの大型円墳で中腹に1メートルの段が設けられ、北側裾に造り出しがある。墳頂の平坦部は直径17メートルで、木棺粘土
槨が2基あった。斜面には角ばった石で葺石が敷かれ、墳頂周囲・段上・裾には円筒埴輪と朝顔形埴輪が並べられていた。


1953年(昭和28年)8月から12月にかけて、岡山大学助手(当時)の近藤義郎を中心に地元の住民や教師、学生らによって発掘調査が行われた。この調
査は、周辺地域の関連遺跡と月の輪古墳の全面発掘が行われた。こうして弥生時代以降の生産力の高まり、さらに前期古墳の歴史的性格を理論的実証的に明らかにする道を開いた。この一連の活動・調査は「月の輪方式」と呼ばれ学術的、教育的、また地域運動としても当時の話題となった。この記録は翌1954年(昭
和29年)スライドと記録映画となり、文集『月の輪教室』として記録された。古墳は1959年(昭和34年)9月15日に岡山県指定史跡に指定された。



この調査で墳頂部の2基の木棺のうち、中央のものは全長565センチメートルで男性と見られる遺骸と首飾り・鏡・鉄製短甲・革製草摺・刀・剣・鉄鏃・銅鏃
などの副葬品が出土した。南側の木棺は全長310センチメートルで女性と見られる遺骸と首飾り・漆塗竹櫛・鏡・刀・剣・鉄針・石釧などの副葬品が出土し
た。北側裾の造り出しからも木棺粘土槨が発見されたが中からは何も出土しなかった。


これらの出土品は、山麓の飯岡地区に1974年(昭和49年)建造された文化財収蔵庫(月の輪郷土資料館)に収蔵されており、1984年(昭和59年)4月10日に岡山県指定重要文化財に指定された。飯岡地区では毎年8月15日頃「月の輪踊りの夕べ」を開催し、盆祭りのなかで月の輪古墳発掘調査を記念している


とあります。

子どもの頃、この記録映画を観たことがありますし、中学生の頃には、地元の友達と、飯岡地区からブッシュをかき分けてこの山に登り、雑木の中の古墳あとを見たこともあります。

月の輪古墳の発掘は、全国から学者・研究者・学生・学校教師・生徒・地元住民ら、延べ1万人が参加して行われ、地域住民の参加により郷土の歴史をともに学ぼうという画期的な発掘運動で、「月の輪方式」と呼ばれ、全国的に注目されたということは、のちに学びました。

しかし、自分が育った家でありながら、こんな目と鼻の先に月の輪古墳が見えるとは知りませんでした。
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コメント 4

majyo

道端の葉を食べて亡くなった犬もいます。
うちの愛犬も戻したことがありました。
お蚕さんは耐えられないようですね。
人間だけは、何とか生きながらえますが
そのうち、影響は出ると思います。
ご実家の近くから古墳がみえる。誇れる故郷ですね
by majyo (2015-05-07 09:07) 

kazg

majyo様
怖いですね。農薬や除草剤は、その植物を食べる生き物のことを想定して散布してはいないですからね。
by kazg (2015-05-07 15:44) 

Mitch

お蚕さん、何事もなく済むと良いですネ。
by Mitch (2015-05-07 18:27) 

kazg

Mitch 様
どうやら、被害は最小限で済みそうです。
ご心配いただき、ありがとうございます。
by kazg (2015-05-07 22:28) 

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