げにやげに天の網こそ疎(あら)からめ [折々散歩]
ただ、朝から陽射しがありましたので、散歩に出かけることにしました。どこを歩こうか迷いましたが、昨日、偶然ミサゴの食事風景を見たので、今日は狩猟風景を写してみたくて、またまた児島湖へ向かうことにしました。
良い天気です。
方角を変えて常山を望みます。常山は、児島富士とも呼ばれます。
湖面に映って、逆さ児島富士です。
水鳥も優雅に泳いでいます。
岸辺近くに、マガモの群れがいました
師走の児島湖のマガモ posted by (C)kazg
師走の児島湖のマガモ posted by (C)kazg
師走の児島湖のマガモ posted by (C)kazg
オオバンを追い抜いていきました。
オオバンも何羽も一緒に行動しています。
いろんな鳥に逢いました。
うまく写せたり、写し損なって悔しかったりの繰り返しです。
うまく写せたジョウビタキをご紹介して今日の写真はおしまいにします。まずは♀から。
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
♂です。
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
師走の児島湖付近のジョウビタキ posted by (C)kazg
散歩しながら、漢文の一節を思い出そうとして思い出せず、家に帰って調べてみました。高等学校で学ぶおなじみの「孟子」の一節でした。「梁恵王」編という文章は、こんな書き出しではじまります。
【白文】 孟子見梁恵王、王曰、叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎、孟子対曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣、王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而国危矣、万乗之国弑其君者、必千乗之家、千乗之国弑其君者、必百乗之家、万取千焉、千取百焉、不為不多矣、苟為後義而先利、不奪不厭、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、王亦曰仁義而已矣、何必曰利、 【書き下し文】 孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ。王曰(いは)く、「叟(そう)、千里を遠しとせずに来たる。亦(また)将(まさ)に以(も)って吾が国を利することあらんとするか。」と。孟子 対(こた)へて曰(い)はく、「王 何ぞ必ずしも利と曰(い)はん。亦(また) 仁義有るのみ。王は 何を以(も)つて吾が国を利(り)せんと曰(い)ひ、大夫(たいふ)は何を以つて吾が家(いへ)を利せんと曰ひ、士(し)・庶人(しよじん)は 何を以つて吾が身を利せんと曰はば、上下(しやうか) 交(こもごも)利を征(と)りて国危(あや)ふからん。 万乗(ばんじやう)の国、其(そ)の君(きみ)を弑(しい)する者は、必ず千乗(せんじやう)の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗(ひやくじやう)の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為(な)さず。苟(いや)しくも義を後(のち)にして利を先にするを為さば、奪はずんば癡(あ)かず。未(いま)だ仁にして其の親を遺(す)つる者有らざるなり。未だ義にして其の君を後(のち)にする者有らざるなり。王も亦(また) 仁義と曰はんのみ。何ぞ必ずしも利と曰(い)はん。」と。 【kazg語訳】 孟子が、梁の恵王にお目にかかったときのエピソードじゃ。開口一番、恵王はこうおっしゃった。 『先生、千里の道もなんのその、はるばる我が国へやってきてくださった。あなたもまた、ほかの賢人達と同様に、きっと、私の国に利益をもたらして下さるアイディアをお持ちでしょうかな。』 孟子はすかさず、こう答えたのじゃ。 『王よ、なにゆえに利益、利益とおっしゃるのですかな?王におかれては、仁義だけが大切ですぞ。王が、どうすれば国の利益になるかとおっしゃり、上級役人が、どうすれば家の利益になるかと言い、下級役人や庶民が、どうすれば我が身の利益になるかと、それぞれに言ったとしましょうか。すると、上下入り乱れて、利益を争い合うことになり、国家が危うくなってしまいましょうぞ。一万の戦車を保有する国で、その君主を討ち殺す者があるとするなら、きっと、千台の戦車を動かせる大家老の家でしょうな。千の戦車を保有する国、その君主を討ち殺す者があるとするなら、きっと、百の戦車を動かせる家老の家でしょう。一万の戦車に相応の国力を持つ王から千を与えられ、千の戦車に相応の国力を持つ王から百を与えられる家臣は、決して待遇が見劣りするものとは言えますまい。ですが、仮にも義(人の道)を後回しにして、利益を優先するならば、すべてを奪い取らねば満足できなくなるものですわい。仁(人の心)を身につけた人で、親をないがしろにするような者は、いまだかつて見たことがありませんわい。義を尊ぶ家来で、主君を後回しにするような者も見たことがありません。じゃによって、王も、ただ仁義のみをモットーになさるがよろしいのじゃ。どうして利益のことなど言う必要がありましょうぞ?』 |
ちょっと省略して先へ進むと、こんな話が出てきます。(参照したテキストのせいで、漢字が旧字体になります。あしからず。)
【白文】 梁惠王曰、寡人之於國也、盡心焉耳矣。河内凶、則移其民於河東、移其粟於河内。河東凶亦然。察鄰國之政、無如寡人之用心者。鄰國之民不加少、寡人之民不加多何也。 孟子對曰、王好戰。請以戰喩。塡然鼓之、兵刃旣接、棄甲曳兵而走。或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。曰、不可。直不百歩耳、是亦走也。曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也。 孟子對曰、王好戰。請以戰喩。塡然鼓之、兵刃旣接、棄甲曳兵而走。或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。曰、不可。直不百歩耳、是亦走也。曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也。 不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。 五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之敎、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉、黎民不飢不寒、然而不王者、未之有也。 【書き下し文】 梁の惠王曰く、「寡人(かじん)が國に於ける、心を盡(つ)くせるのみ。河内(かだい)凶なるときは、則ち其の民を河東に移し、其の粟(ぞく)を河内に移す。河東凶なるときも亦然(しか)す。鄰國の政を察するに、寡人がごとき心を用うる者無し。鄰國の民も少なきをことを加えず、寡人が民も多きことを加えざること何ぞ。」と。 孟子對へて曰く、「王戰を好む。請ふ戰を以て喩(たと)へん。塡然(てんぜん)として之に鼓し、兵刃(へいじん)旣に接(まじ)はるとき、甲を棄て兵を曳いて走(に)ぐ。或は百歩にして後に止まり、或は五十歩にして後に止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則(すなは)ち何如(いかん)。」と。曰く、「不可。直(ただ)百歩ならざるのみ、是も亦(また)走ぐるなり。」と。 曰く、「王如(も)し此(これ)を知らば、則ち民の鄰國より多からんことを望むこと無かれ。農時に違はずんば、穀勝(あ)げて食らふべからず。數罟(そくこ)洿池(おち)に入らずんば、魚鼈勝げて食らふべからず。斧斤時を以て山林を入らば、材木勝げて用うべからず。穀と魚鼈と勝げて食らふべからず、材木勝げて用うべからざれば、是れ民をして生を養ひ死を喪して憾(うらみ)無からしむなり。生を養い死に喪して憾無きは、王道の始めなり。五畝の宅、之に樹うるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣るべし。雞豚狗彘(こうてい)の畜(やしない)、其の時を失うこと無くば、七十の者以て肉を食らふべし。百畝の田、其の時を奪うこと勿くば、數口の家以て飢うること無かるべし。庠序の敎を謹んで、之に申(かさ)ぬるに孝悌の義を以てせば、頒白の者道路に負戴せじ。七十の者帛を衣て肉を食らひ、黎民飢えず寒からず、然して王たらざる者、未だ之有らず。(後略)」 【kazg語訳】 梁の恵王が、こうおっしゃった。 『ワシは国政に当たって、精一杯、心を尽くしてきたつもりじゃ。河内(黄河の内側)地方が飢饉になったら、住民を河東(黄河の東)地方に移住させ、河東地方の食糧を河内地方にまわしたのじゃ。河東地方が飢饉になったら、また、同じように対処したわい。隣国の政治をうかがい見るに、私ほど国政に誠心誠意を尽くしている君主はおらぬ。しかし、隣国の人民は先を争って逃げ出しても良さそうじゃのに、人口はちっとも減らぬ。ワシの国の善政の評判を聞きつけて、移民がこぞって押し寄せてもよさそうじゃのに、わが国の人口も全く増える様子がない。これは、どういうわけであろうかの?』 孟子は答えた。 『王様のお好きな戦争で喩えて見ましょうかな。戦闘開始の合図の太鼓が、ドンドンと威勢よく鳴り響き、いざ、チャンチャンバラバラが始まったとしましょう。とたんに、怖じ気づいて甲冑を脱ぎ捨て、武器を引きずってすたこらトンズラを決め込んだ者がありました。ある者は百歩逃げて止まり、ある者は五十歩で踏みとどまったとします。五十歩逃げた者たちが、百歩逃げた者たちを嘲笑したとするなら、王様、それはいかがなものでしょうか?』 恵王がおっしゃった。 『ダメダメ。百歩逃げなかっただけのことで、逃げたは逃げたで、おんなじことじゃ。』孟子が言うには、 『もしその道理をお分かりであれば、人口が隣国よりも増えるなどと期待することはございますまい。王が、公共工事の労役に、農作業の妨げとならない季節を選ばれたならば、穀物は豊作となり食べきれないほどになりましょう。漁師が目の細かい網を池沼に投げて根こそぎ漁獲するようなことを禁止すれば、魚や鼈(すっぽん)などは大いに繁殖して、食べきれないほどになりましょう。木こりが斧をふるって樹木を伐採する時期を制限すれば、材木は有り余るほどに取れるようになりましょう。穀物や、魚・鼈などの食糧が食べきれないほどになり、材木が有り余るようになりますれば、人民は衣食住の心配が消え、死者を弔うにも何の心配もなくなります。生活と葬儀の心配が無いことこそが、王道(仁政)の第一歩です。人々の五畝の宅地に桑の木を植えさせれば、五十歳の老人は、着心地がよくあたたかい絹の服を着ることができます。鶏や豚や犬の飼育に当たって、繁殖のタイミングを逃さないようにすれば、七十歳の老人は、美味しく栄養のある肉を食べられます。百畝の田畑に税をかけ過ぎないようにすれば、家族が飢えるということもなくなるでしょう。学校教育に力をいれ、親孝行と年長者を敬う道徳を教えれば、白髪の老人が道路で重い荷物を背負うこともなくなるでしょう。七十歳の高齢者も、絹の衣服を着て肉を食べ、一般の人民が飢えることも凍えることもない。そういう仁政を敷いて王になれない者を、私は、まだ見たことがありません。(後略)』 |
周知の故事成語「五十歩百歩」の元ネタとなった文章です。
孟子の比喩は秀逸で、なかなかのアジテーターですな。
戦争のお好きな恵王は、敵前逃亡の罪をよくご存じですから、50歩逃げるのも100歩逃げるのも、逃げた点では大差がないことを百も承知でいらっしゃる。隣国よりましだと自惚れているその政治が、結局悪政である点においては大差がないことを指摘され、グーの音も出ないのです。
孟子の描く善政のための処方箋は、紀元前の時代の具体策ながら、現代のアベさんにも聞いて欲しい思いで一杯です。
それはそれとして、今日思い出したかったのは、「數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也」の一節でした。
というのも、今日、目の前にあらわれ、至近距離で採餌を見せてくれたカワセミ、いったんはアップで捕らえたのに、ピントが合う前に逃げ去ってしまった猛禽(チュウヒだったかな?)、などなどのことを、惜しむ気持ちを和らげたかったのでした。「網の目」からこぼれてがっかりさせられた獲物たちも、やがてまた、より好適な形で目の前に姿を見せてくれるに違いないと思えば、心もいくらか穏やかでいられましょうから、、、、。
人はすべからく、あれもこれも、根こそぎ欲しがるような貪欲さはセーブして、意図的に目の粗い網を使うようにすべきであって、鳥撮りにおいても、せっかくの「獲物」を撮り逃がしたからといって決して悔しがる必要はない、、、なんてことを言い聞かせてみたかったのでした。でも、やっぱり悔しい(笑)。
そんな脈絡のない物思いのついでに、「一網打尽」、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉も連想されました。ハナシがとりとめもなく広がりそうで、収拾がつかなくなりました。粗(疎)い網を是としたところで、今日はオシマイ。
続きは後日といたします。
私も海で撮り逃がしてばかり、
そもそも網が破れているみたいですぅ。。。vv
by トックリヤシ (2015-12-20 09:28)
こんにちは。
綺麗な風景ですね。このような景色は大切にしたいです。ジョウビタキのメスは今シーズン未だにお会いできないでいます。^^;
by doudesyo (2015-12-20 10:28)
こんにちは。
鳥、撮りたいです^^。
水族館にも行きたいのですが、近くにありません。
by 海を渡る (2015-12-20 16:27)
トックリヤシ様
あんなハナミノカサゴのようなのが、何万回に一回でも撮れたら、網が破れていても構いません(笑)
by kazg (2015-12-20 17:40)
doudesyo様
そうなんです。水質汚濁で、全国ワースト○○位と指摘される児島湖です(最近多少は改善の様子も見られるようです)が、美しい景色だと思います。汚されたり破壊されたりしないことを願っています。ジョウビタキ、♂♀ともに、こちらではよく姿を見せてくれますよ。
by kazg (2015-12-20 17:48)
海を渡る 様
腰を据えて、海や夕景を撮りたいです。でも、なかなかそのエネルギーと辛抱がもちません。
隣県の、屋島の水族館は、近く閉鎖されるのでしたかね?残念ですね。
by kazg (2015-12-20 17:54)
イヤー勉強になりました。kazg語訳が秀逸ですねぇ。
日本の総理とそのお取り巻きにも勉強してもらいたいですねぇ。
by momotaro (2015-12-21 20:40)
momotaro 様
「kazg語訳」とはおこがましい限りで、しかも後半は気合いが途切れて、先人の訳の軽慮な引き写しのようになってしまった感があります。それはそれとして、国政の基本として耳を傾ける点なきにしもあらずかと思い、ご紹介した次第です。
by kazg (2015-12-22 05:13)