里村欣三は日生の生まれ、の巻 [文学雑話]
今日から3月。 「弥生」の声を聞くと春が遠くないことを感じます。 「大辞林」 第三版にはこうあります。 さんいちどくりつうんどう【三・一独立運動・三一独立運動】 1919年(大正8)3月1日を期して始まり,1年以上にわたって,日本の植民地支配に反対して展開された朝鮮独立運動。独立万歳を叫んでデモ行進したので万歳(まんせい)事件とも呼ばれた。運動は都市から農村に拡大したが,軍隊を投入した日本により弾圧された。三・一事件。三・一運動。 この事件に対するの日本国内の反応は、概して植民地支配を是とする立場からの一面的なものだったようです。 ウィキペディアの記事をお借りしますと、こうあります。 発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。 そんな中にあって、民族の独立と国際連帯、平和・民主主義を希求する立場から、この運動を高らかに歌いあげた日本の詩人がいました。 つい最近もこの記事などで話題にした、高知の革命詩人槙村浩(まきむらこう)が、その人です。 彼は、その代表作「間島パルチザンの歌」の中で、独立運動に立ち上がった若い姉弟に仮託して、こう歌っています。 おゝ三月一日! 民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが 無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが 一九一九年三月一日を忘れようぞ! (中略) 日本の侵略と植民地支配の事実を指摘し、糾明する立場に対して、「反日」「売国」と悪罵を投げつけて威嚇する動きが、昨今高まっているようです。ヘイトスピーチと呼ばれる粗雑ででヒステリックな恫喝は、その最たるものでしょう。 戦前・戦中の日本の侵略・植民地支配の事実を知ることが、「民族の誇り」を失わせ、恥辱と自己嫌悪にさいなまれることにつながるという論も耳にすることがあります。 槙村浩(まきむらこう)の詩は、軍国主義日本の暴虐に身を賭してあらがい、近隣諸国の人々との友好をこそ、日本人民の願いだときっぱりと言明しているのです。ここに私達は、熱い誇りをおぼえてよいのではないでしょうか? |
槙村浩については↓これらの記事でも話題にしました。
●多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
上記の記事中紹介した槙村浩の略歴を、再掲します。
槙村浩は、明治末の1912年に土佐の高知市に生まれました。幼少期は、3歳のときに医学書をすらすら読む、小4の時、『支那論』を書き、高知を訪れた後 続の久邇宮邦彦に「アレキサンダー大王」について御前講義を行う、文部次官が来高してテストをして中学3年の学力があると評したなど、神童・天才ぶりを示 す数々のエピソードが残っています。 彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。 関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。 |
故郷の中学校を放校になった槙村が、岡山の私立関西中学(現在の私立関西高校)の転校し、そこを卒業したことは、岡山在住の私にとっては奇しき縁です。
昨日の日生への旅で、その関西中学に縁のある人名を目にしたのは、またまた奇しき縁でした。
その人名とは、プロレタリア作家の里村欣三(さとむらきんぞう)です。
昨日の記事でも紹介しました備前市加子浦歴史文化館の「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料のプリントに、里村欣三の略歴がありました。
里村欣三は本名前川二亮(にきょう)。明治35年3月13日岡山県和気郡日生町寒河I073番地に前川作太郎の次男として生まれる。前川家は寒河の旧家で、父作太郎は経木箱、寝具、鉄道の枕木等各種の卸業に携わり、中国鉄道の大株主でもあった。 二享は幼少の時より非常に本が好きで、押入に隠れ、ロウソクの灯で本を読み、叱られることが度々という文学少年であった。家が熱心な浄土真宗の信者であり、彼も幼くして母を亡くしたこともあって篤い信者であった。 大正7年地元の福河小学校を卒業すると家族の強い希望で幼年士官学校を受験するが、白紙答案を出し入学を拒否する。そして岡山市関西中学校へ進学。4年の 時に有名な関中ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器庫を開放、学生を武装させ学校に立てこもった。警官隊が出動し解散となったが、首謀 者二享ら3名は退校処分に。金川中学校に転校するも日々図書館通いですぐに退校。その後出郷し、郵便配達、電車の車掌等を転々とする。 徴兵年齢に達したことから姫路歩兵連隊に入営するが、自殺を装い脱走。満州へ渡り、里村欣三を名乗って各地を放浪する。大正12年帰国し文筆活動に入り、「世論と電車罷業」「真夏の夜と昼」を「文芸戦線」に発表。続いて発表した深川の貧民窟のルポルタージュ 「富川町から」で文壇の注目を集める。 (中略) 大正I4年プロレタリア文芸連盟の創設に参加、「苦力頭の表情」でプロレタリア作家としての地位を確立したが、厳しい左翼弾圧と自分の経歴を隠すため、官警の目を逃れ常に家を転々としながら、活発な作家借動を展開した。 昭和I0年、子女の学齢のこともあり、徴兵を忌避し逃亡していることを自首して出て裁判となったが、家族が失綜宣告で戸籍から抹消しており、「戸籍のない者 (幽霊)は裁判出来ない」との判決で、姫路師団に3ケ月人隊する。 (中略) 太平洋戦争勃発後は陸軍報道班員として井伏鱒二・海音寺潮五郎らとボルネオ・マレー・華北・フィリピンにと戦線を駆け巡り、その間数十編を越すレポート・小説を書き続けた。 |
彼がプロレタリア作家として注目を浴びた、代表作とも言える「苦力頭(クーリーがしら)の表情」を再読しようと、手許にある「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」を久しぶりにひもといてみました。
昨日の、故旧あいつどいし楽しき時間には、いろいろな話が弾みましたが、なかでも盛り上がったのは、自分自身の「老後」の話と、親の介護を含む家族の近況。
そのうち、ヨウジ先輩のご母堂が、90歳を超えてなお読書意欲旺盛で、池井戸潤や宮部みゆきといった旬の作家の本を何冊も読みすすめておられると聞き、大いに驚き敬服もし、萎えつつある読書欲をいたく喚起された次第です。
さて、「苦力(クーリー)頭の表情」について、文芸評論家の津田孝氏は、「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」巻末の解説で、こう述べています。
里村欣二は、一九二三年(大正十二年)以来、一九三五年(昭和十年)に自首するまで、平林たい子の「自伝的交友録」など、脱営者という伝聞もあったが、最 (中略) |
青空文庫から少し引用してみます。
――無鉄砲な男よ―― ふとこんな気がした。言葉も解らない、そして何の的のある訳でもないのに、何故こういう土地に乱暴に飛び出して来たかと思った。が俺にも無論その理由が解らなかった。 ――ただ気の向くままに―― おおそうだ。気の向くままに放浪さえしていれば、俺には希望があった、光明があった。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものの半年も辛抱することが出来 ないのが、俺の性分であった。人にコキ使われて、自己の魂を売ることが俺には南京虫のように厭だった。人の顔色をみ、人の気持を考えて、しかも心にもない 媚を売って働かなければならないことは、俺にはどうしても辛抱のならないことだった。だが、しかし不幸なる事に人間は霞《かすみ》を喰って生きる術《すべ》がない。絶食したって三日と続かない。とどのつまりは、やはり人にコキ使って貰って生きなければならない勘定になる。他人をコキ使おうッて奴には虫の好く野郎は一匹だってない。そこでまた俺は放浪する。食うに困るとまた就職する。放浪する、就職する、放浪する、就職する………無限の連鎖だ! ――生きるためには食わなければならぬ。食うためには人に使われなければならぬ。それが労働者の運命だ。どこの国へ行こうとも、このことだけは間違いッこのないことだ。お前ももういい加減に放浪をやめて、一つ土地で一つ仕事に辛抱しろ。どこまで藻掻《もが》いても同じことだ―― と、友達の一人は忠告した、俺もそうだと思った。――だがしかし俺にはその我慢がない。悲しい不幸な病である。俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒《のた》れるに違いない。 (中略) 仕事は道路のネボリであった。俺はシャツ一枚になってスコを振った。腹が減って眠が眩みそうであったが、一日の我慢だと思ってヤケに精を出した。苦力達は俺 の仕事に驚いた。まさか日本人に土方という稼業はあるまいと思ったに違いない。支那に来ている日本人は皆偉そうぶって、苦力を足で蹴飛ばしている訳だから。苦力頭が昼ごろ見廻りに来たが、その時も俺に見向きもしなかった。アバタ面を虎のようにひんむいて、苦力どもを罵っていた。 昼飯の時、苦力のひとりが俺にマントウと茶碗に一杯の塩辛い漬物を食えと云って突き出した。いくら腹が減っていても、バラバラした味気のないマントウは食えなかった。塩辛い漬物を腹一杯に食って、水ばかり呑んだ。 仕事を終った時は流石《さすが》に疲れた。転げそうな体をようやく小屋に運んだ。 苦力たちは、用意の出来ていた食物を、前の空地に運んで貪《むさぼ》りついた。一日十五六時間も働いて、日の長いのに三度の飯は腹が減るのは無理もなかっ た。俺は腹が減り切っていたが、マントウには手が出なかった、熱い湯を呑んで、大根の生まを噛《か》じった。そして房子に入った。土間の入口の古い机に倚《よ》って、酒を呑んでいた苦力頭が俺をみて、はじめてにっこりとアバタ面を崩して笑った。そしてブリキの盃を俺に突きつけた。俺は盃をとるかわりに腕を掴んで、 ――大将! 俺を働かしてくれるか有難い――と叫んだ。苦力頭は、俺の言葉にキョトンとしたが、感じ深い眼で俺を眺め、そして慰めるように肩を叩いて盃を揺ぶった。――やがて喰い物にも慣れる。辛抱して働けよ、なア労働者には国境はないのだ、お互に働きさえすれば支那人であろうが、日本人であろうが、ちっとも関ったことはねえさ。まあ一杯過ごして元気をつけろ兄弟! ――苦力頭のアバタにはこんな表情が浮かんでいた。俺は涙の出るような気持で、強烈な支那酒を呷《あお》った。 |
『文芸戦線』を舞台に次々と発表された里村の作品は、民族や国籍、地位や境遇の違いを越えて、人間同士、弱者同士の連帯・共感と、率直な厭戦・反戦の思いを、内面深くから歌いあげたものと感じられます。しかし、その里村は、従軍作家として戦線を巡り、中国戦線の体験をもとにした自伝的小説『第二の人生』、マレー戦線に取材した『熱風』などの戦争小説を書き、「転向」作家の道を歩むことになります。終戦を目前にした1945年2月、フィリッピン戦線で被弾し、戦死します。42歳でした。
次回に続く
去年の3月1日の記事「槙村浩と三月一日」と、後半の里村欣三に分けて
「こんな社会は二度とごめんだ」に収録しましょうか?
by momotaro (2016-03-06 07:21)
momotaro様
お目にとまり光栄です。
まったく依存はありません。
by kazg (2016-03-06 09:15)
kazg 様
ちょっとご無沙汰しております
少し古い記事に書かせて頂きます。気がついていただけますように
ご説明したい事がありますので、私のところには
メールボックスがありますので、一本空メール入れていただけますでしょうか。お願いいたしします。
それ以降はメールをいたしませんから
読み終わりましたらどうぞ削除してください
by majyo (2016-03-14 12:38)