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たぐいなき一期一会や山法師 [折々散歩]

小三の男の子が、きょうも家庭療養中です。熱は下がって、明日は学校へ行きたいと言っています。 今日も散歩するいとまがなく、紹介するのは二三日前の写真です。
ツマグロヒョウモン。




若いツバメ。










コチドリでしょうか・










先日訪ねた鳥取県智頭宿(ちずしゅく)、智頭街道に米原(よねはらいたる)さんの生家を見つけ、思いもよらぬ邂逅と感じたのには、きわめて個人的な、ささやかなワケがありました。
というのは、先日、沖縄の女性暴行殺人事件に関連して話題にした瀬長亀次郎さんの著書「民族の怒り」の一節に、日本復帰直後、沖縄人民党の衆議院議員として活躍を始められたばかりの頃を振り返ったこんな記述がありました。

 一九七〇年十一月に、初の沖縄国政参加選挙がおこなわれた。
はげしい選挙職を祖国復帰民主勢力と共産党を先頭とする本土の民主勢力の支授で高位当選をかちとった私は、東京での歓迎集会でつぎのようなあいさつをしたことをおぼえている。
当選したその日から瀬長先生ということになって奇妙な感じがしております。先生と言われるとは、まったく夢にも思っていなかったのです。国会に行きまして日本共産党の皆さんの案内で委員会室、控室、議員会館などを見てまわりましたが、通るたびに守術さんがケイレイするんですね。 それでますますおかしなことになってしまった(笑)。
あの赤じゅうたん、ちっとも赤くないんですね。 あれを上がったり下がったりするだけで、実は選挙中の三日くらいのつかれを感じたわけなんです。国会はとんでもないところだ(笑)。
しかし、国政の最高機関といわれているところですから、なんとか議会制民主主義をかちとらなくちゃいかんとひしひし感じています。君は無所属だから発言はだめだよといって、勝手に発言を制限するようなことは許されない。 現実が悪ければ、現実をどう変えていくかということが問題でして、現実がそうだからあきらめろなんていうことにはならないと思います。
そういうやり方はアメリカと同じになるわけで、これは変えなければならない(拍手)。

国会がはじまると自民党は、まずアメリカのやり方で私の沖縄問題特別委員会入りを妨害してきた。残念ながらこの問題については一部の野党のなかからセクト的な態度が生まれ、自民党に攻撃を集中することはできなかった。それで「沖特委」入りは結局、ただひとつしかない共産党の議席をゆずつてもらうことになった。つぎに「無所属」だからといって発言を制限してきた。
私はこれにたいして、国政参加法の趣旨を踏みにじり国会法を無視した非民主的な委員会運営であるとして、つぎのとおり追及した。
「私は、 最初に議会制民主主義に関連してこの委員会の民主的連営についての意見をのべたいと思います。私の発言時間は一〇分に制限されています。私はかって祖国復帰運動をしたということでアメリカの軍事裁判にかけられまして、ニヵ年の懲役を言い渡されましたが、その時の法廷における最終陳述、すなわち被告としての私の発言は一〇分間でした。私は、いまそれを考えて非常にゾッとしております。国会は少なくとも国政の最高機関であります。 その国会の委員会でこのようなことがあってはならないと患います。
しかも議員の発言については、国政参加法の趣旨だけでなく、 国会法や衆議院規則でも明確に保障しており、発言を封じたり、制限したりしてはならないと考えます。」
冒頭に軍事法廷の話を持ち出したので山中総務長宮をはじめ各委員は一瞬びっくりした表情になっていた。 」
日本の支配的政治権力・保守政党の、あいもかわらぬ少数意見封殺・言論抑圧体質の「伝統」を、改めて痛感させるエピソードですが、それが、占領下の軍事裁判における最終陳述の扱いと同等であるとの喝破は、痛快です。
その文章の少し後に、「はじめて見た共産党の顔」という項が続きます。

 「みなさん、自民党や反動勢力は共産党のことを暴力団や赤鬼、青鬼みたいだと宣伝し、共産党と国民をひきはなそうとしています。みなさん、わたし、暴力団員の妻みたいに見えますか。」
「いや!あんたはチュラカーギーやさ!」(いや、あなたは美しい人だ)
これは、七〇年十一月におこなわれた沖縄の国政参加選挙での人民学校演説会のひとコマである。応援にかけつけてきた共産党小笠原貞子参議院議員の演説に聴衆は即座にユーモアと親しみをこめたヤジで応えた。
後に同党の副委員長も務めた、クリスチャンでもある、和服が似合うこの女性政治家の夫君は、北海道の高校教師で、私の所属していた教職員組合の上部組織「日本高等学校教職員組合」の委員長でしたので、いっそう親しみを覚えていました。国会では、その清楚な和服姿で、政府答弁などに対して舌鋒鋭い野次を投げかけることから「野次将軍」との別名もあったそうです。現今の国会では、稲田朋美、丸川珠代、森雅子、大西英男、西田昌司等々の方々が、「野次将軍」の称号を冠せられているらしいですが、彼ら彼女らの不規則発言は、胸が悪くなるような口汚いののしりとしか思えませんね。これは単なる立場の違い、趣味の違いという者でもないような気がします。言ってみれば人間観の違い、でしょうか?


瀬長さんの文章はさらに続きます。

 不破哲三日本共産党書記局長は、北部のある小さな村でこう切りだした。「仲泊のみなさん」、 いつのまにかこの地名を覚えてしまっていたのだ。よびかけられた村の人たちは一瞬びっくりしたようであったが、 すぐ親しみをこめた表情に変わった。
「みなさん、沖縄人民党と日本共産党は、親しい友人です。信頼し合った間柄です。喜びをわかちあい、苦しいときにはお互いに助け合い、共に前進するために協力しあっています。さきの総選挙のときは人民党をはじめ県民のみなさんに随分ご支援をいただき、おかげで共産党は大躍進することができました。本当にありがとうございました」拍手。
「みなさん、今度私たちはそのおかえし、ということでもありませんが、瀬長さんをお迎えにあがりました。どうしてもみなさんのお力で瀬長さんを国会に送り出してほしい。でなければ私たちが困ります。みなさんが困ります。日本国民全体が困ります。瀬長さんは沖縄の魂、心です。 いま沖縄のみなさんも合めて圧倒的な国民が日米共同声明に反対しています。
その意志表示としてぜひ瀬長さんを国会に送り出して下さい。」
(中略)
この国政参加選挙で共産党は、 衆参両議員全員とその秘書団が来県した。
当初、「共産党はどんな顔をしているだろう!」 と興味半分に、演説を聴きにきていた人たちも、 創立以来侵略戦争に反対し、人民のしあわせのために不屈にたたかいつづけてきた共産党、日米共同声明に反対し、沖縄全面返選、安保条約廃棄、祖国の真の独立のために私心のない努力をつづけている共産党の姿を知るなかで、 重大な関心と期待を寄せるように変わっていった。
選挙が終わる頃には、多くの県民が共産党を自分たちの信頼できる仲間だと思うようになっていた。 それこそ親しい友人になっていた。
(中略)山原健二郎衆議院議員は、沖縄で”やんばるさん〟とよばれた(沖縄の方言で山原をヤンバルと発音するが、それはそのまま沖縄本島の北部地方の呼称でもある)。
その"やんばるさん〟は県民に
仏桑華そこには咲くなそこは基地汝がくれないは沖縄のもの
という歌を送り、沖縄への深い愛情を示した。
日本共産党が、沖縄にはじめて公然とその顔をみせたことが、なぜ沖縄県民にこのように受けとられたのであろうか。これこそ、苦闘のなかで、ひとつひとつかちとってきた沖縄の民主主義の歴史がそこに象徴されているからである。
山原さんのことは、対面してお話ししたこともある数少ない代議士でもあるので、繰り返し書きました。特に、以下の記事では、「ヤンバルさん」と呼ばれた逸話(これはご本人から聞きました)も「仏桑華」の歌も話題にしました。

沖縄の方々の気持ちにより添うってどういうこと??
昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと


「沖縄の怒り」の続きです。

 国政参加選挙の時、沖縄では「共産党を見る会」というのが地域に作られた。共産党が戦前戦後を通じてはじめて「顔」を見せたのは、実に一九七〇年四月二十八日だった。 日本共産党国会議員団沖縄調査団(団長、春日正一議員団総会長、団員、林百郎衆議院国対委員長、随員二名)がそのときのメンバーだった。
それまでに共産党は、十一回にわたって渡航申請をしていたが、そのつど米軍当局によって不当に拒否されていた。
それが共産党はもちろん、本土の自覚的民主勢力と沖縄人民党を先頭とする沖縄県民のねばり強いたたかいによって、 ついに十二回日に渡航実現をかちとったのである。
日本共産党は、県民の熱烈な歓迎の嵐のなかで公然と活動を開始した。国政参加選挙における共産党議員団の来県は、 その大きな交流の場をっくったものだった。
そして、このことは、共産党だけに関係するものではなく、沖縄県民がみずからの力でかちとった民主主義の勝利を示すものであった。
一九七一年八月、沖繩人民党中央委員会と日本共産党中央委員会の共催による「人民大学」が沖縄でおこなわれた。
「マルクス・レーニン主義とは何か」「日本革命の展望」などをテーマにした、日本共産党書記局長不破哲三氏や幹部会委員米原いたる氏、茨木良和氏、新原昭治氏らの講演は、那覇市、コザ市、石垣市の教室で受講した約八〇〇人余の人びとに深い感銘をあたえた。{以下略)」
米原氏の名をここにみたことが、印象に残っていたのでした。
他愛のない雑話に、おつきあいいただきありがとうございました。
智頭宿の見学を終えて、バス駐車場へと向かう途中、何人かの方が足を止めて、同じ方角を見上げておられます。
「何ですか。」
「ヤマボウシです。こんなに立派な大木はみたことがありません。」


今日はこれにて。



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Sparky

「若いツバメ」にあらぬ妄想を掻き立てられました(笑)。おかげで、語源が平塚らいてうに関係しているのを初めて知りました(←もしかしたら、こちらのブログの過去の記事に載っているのかもしれませんね。その場合は、いいかげんな読者をお許しください)。
by Sparky (2016-06-02 19:02) 

kazg

Sparky 様
あらぬ妄想を期待しておりました(笑)、平塚らいてうに関係?へえ、そうだったんですか。驚きました。
by kazg (2016-06-02 23:20) 

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