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放縦といふべかんなる薔薇雫 [文学雑話]

昨日の記事で、佐佐木信綱が主催した「心の花」についての解説を引用しました。「新派和歌革新運動のさ中の時期」「新派と旧派の橋渡しの役」「正岡子規をはじめ根岸派の歌人たちにも場を提供した」「明治三十一年に『心の花』を創刊した佐佐木信綱は、伝統との折衷を残しながらも<広く深くおのがじしに>を提唱する。また、明治三十二年に根岸短歌会をおこした正岡子規は、伊藤左千夫や長塚節とともに、<写生>によって対象をリアルに見ようとする機連を培っていた。」などとありました。
しからば、と連想が働いて、本棚の奥から藤沢周平「白き瓶」を取り出して、ぺらぺらめくってみました。

白き瓶―小説・長塚節

白き瓶―小説・長塚節

  • 作者: 藤沢 周平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1985/11
  • メディア: 単行本



子規に師事し、伊藤左千夫らと「アララギ」派を率いて、写生、生活密着、万葉調の歌づくりに丹精を込めるとともに、散文分野でも客観描写を重視した「写生文」の執筆にいそしみ、長編小説「土」では漱石に激賞されるなど、きらめく才能を有しながら、結核のため、35才で夭折した長塚節の青春と文学修行を清新に描いた「評伝小説」の佳作です。
高校時代、私は、長塚節を「ナガツカブシ」と読み誤り、民謡の一種と勘違いしていたことがありました(汗)。それはお粗末に過ぎるとしても、どちらかと言えば地味で、大きく取りざたされることの少ない歌人であり小説家であることは確かでしょう。
しかし、この「白き瓶」によって、その印象は大きく塗り改められ、みずみずしく、清新で、繊細な感性と、澄み渡った理知の働きとをあわせもつ、真摯な求道者のような青年の姿が印象づけられたことでした。藤沢さんが引用して紹介される節の歌は、なんと秀作揃いでしょうか。
その節が、正岡子規に師事し始めたばかりの頃の様子が、こんな風に描かれています。

 節は真壁第二高等小学校を卒業するとき、二十八名の同窓の中で首席を占めた。また、県立水戸中学校(当時は茨城県尋常中学校と称した)にも首席で入学した明敏な頭脳の持主だったが、中途退学と言い、徴兵検査の不合格と言い、弱い身体のためには屈辱を嘗めた。病身それも神経衰弱持ちで医者通いをしたり、家の中でぶらぶらしていることは、村の中の聞こえもよくなかったのである。
しかし、ここ一、二年、節はようやく病気と緑が切れて、体力が充実して来たのを感じている。青白く.痩せていた身体に、肉がついた。今年は二月末のまだ寒い時期に筑波山にのぼり、三月の上旬には成田の新勝寺と香取神宮に参詣がてら観梅、さらに足を下総神崎の親友寺田憲の家までのばして帰郷した。ひとやすみして三月末には、今度は水戸の北方多珂郡諏訪村の梅林を見に行き、ついでに水木浜に出て遊んだりした。節はそういう旅を好んでした。
節は、東京根岸に住んで短歌革新ののろしを挙げた正岡子規の弟子である。取りあえずは旧派の歌人たちや、新興の短歌結社ではあっても子規の指導する根岸短歌会とは方向を異にする与謝野鉄幹のひきいる新詩社などを当面の敵として、
新しい短歌を創造して行く立場にいた。春先の旅行は、そのための歌材を得るための旅だったが、ほとんどが徒歩で、しかも諏訪村の梅林'を見に行った日は、春にはめずらしい風雪に会つたりしたのに、身体の方は何の異状もなかった。
(中略)
節は家の横を通り抜けて、裏の畑に出た。節は今年から佐佐木信綱が主宰する短歌文芸誌「心の花」に短歌、長歌の連載をはじめていた。「うみ苧(お)集」と題したその連載は、掲載がはじまったばかりである。ほかにも、一昨年からはじめている日本附録「週報」の課題詠、陸羯南(くがかつなん)の主宰する新聞「日本」の文芸欄に寄稿する短歌作品の創作を抱えていた。
(中略)
五月になって、 とかく鬱屈しがちだった節の気分が一ぺんに喜びに変るような事件が起きた。と言っても、それはまわりのひとにはさほど関係がなく、節自身の気持の中のことでしかなかったが、さきに寄稿しておいた短歌が、五月十八日の「日本」紙上に全首掲載されて、子規にほめられたのである。
「ゆく春」と題し、「四月の末に京に上らむと思ひ設けしことのかなはずなりたれば心もだえてよめる歌」と前書きした歌は、つぎの九首である。
青傘を八つさしひらく棕擱(しゅろ)の木の花咲く春になりにたらずや
たらの芽のほどろに春のたけ行けばいまさらさらにみやこし思ほゆ
荒小田をかへでの枝に赤芽吹き春たけぬれど一人こもり居
みやこぺをこひておもへば白樫の落葉掃きつつありがてなくに
おもふこと更にも成らず枇杷の樹の落葉の春に逢はくさびしも
春畑の桑に霜降りさ芽立ちのまだきは立たずためらふ吾は
草枕旅にも行かず木犀の芽立つ春日は空しけまくも
にこ毛立つさし穂の麦の招くがね心に思へど行きがてぬかも
おもふこと檐の左枝の垂花のかゆれかくゆれ心は止まず
桵(たら)芽の雅号で提出した九首を、子規は「日本」紙上に掲載して歌の横にびっしりと傍点を打つてほめ、 ことに第一首の「青傘を」、第六首の「春畑の」、第九首の「おもふこと」には秀逸を示す丸印をつけていた。
この「ゆく春」九首は、さらに七月発刊の「心の花」の中で、子規の病株歌話、左千夫の楽々漫草の中に、あらためて取り上げられて賞揚された。
子規は「ゆく春」について、この歌をほめる人でもいろいろとほめ方が違って、序の句が面白いという人もあれば、万葉調が面白いという人もある、と根岸派の歌人たちの評判を記した上で、序の句も面白いが結の句が十分に働いているところが見所だと、自分の見解を述べ、万葉の言葉を自由自在に駆使して一首の結びをつけた処は、他に一頭他を依きん出ていると思ふ」と激賞した。
他人の作品に点の辛い左千夫も、この作品を取.り上げた楽々漫草では、「奇想縦横声調温雅、何等の妙趣何等の風韻。而して又吾人の理想にかなへるの連作、従来同人の製作中絶えて其の此を見ざるの逸品なり」と、手放しでほめていた。
感激家の左千夫は、さらにつづけて「ゆく春」は明治三十五年の優作であるだけでなく、実に明治聖代の金玉かも知れない、このような佳作を得たのは、ひとり長塚節の名誉であるばかりでなく根岸短歌会の名誉
だなどと馬鹿ほめしたあげく、あまりほめすぎたと思ったのか、しかしながら今月号の「一本柳」の歌は駄作だ、とても同一作家の歌とは思えない、節の新しい作品の方はさんざんにけなしていた。
左千夫がけなしたのは、同じ号に載つているうみ苧集の中の下妻町砂沼周辺の風景をよんだ短歌のことだったが、 節には左千夫のけなしはほとんど気にならなかった。ほめてある個所だけを、繰り返して読んだ。

「心の花」が、新進の成長を応援する舞台となっていたことをよく描いています。
佐佐木信綱の名前は、その意外とも思える多彩な門人の名前とともに想起される場合があるかもしれません。たとえば、柳原白蓮と、九条武子。
以前、NHKの朝ドラで「花子とアン」を放送していたころ、こんな記事を書きました。仲間由紀恵さんが魅力的に演じた 「蓮様(れんさま)」のエピソードです。
白蓮あれこれ 思いつくまま

 「蓮様(れんさま)」こと葉山蓮子のモデルは、大正三美人のひとりと評された、柳原白蓮(1885~1967)です。

ちなみに大正三美人とは、この柳原白蓮と、教育者・歌人、社会運動活動家としても知られた九条武子(旧姓大谷武子)と、新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚して社交界で名をはせた江木欣々(えぎきんきん)の3人だといいます。2人目の九条武子は、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれ、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。佐佐木信綱の門下生で、当時の「麗人」という言葉はこの人のために使われたといわれます。
柳原白蓮と九条武子は、実際に交際があったようで、以前にも引用させていただいた「松岡正剛の千夜千冊」というブログの 1051夜 2005年07月27日の記事で、 近代美人伝「上・下」という本が取り上げられていますが、ちょうどそこに白蓮と武子に触れた個所がありましたので引用させていただきます。
新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/11/18

  • メディア: 文庫




新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/12/16

  • メディア: 文庫

それでは、いまあげた柳原白蓮と九条武子の例を出しておきます。
柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。 
そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だったこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、

  殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
  わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな
  おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞよ
  われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ

 こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」
という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやがて、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下に公開された。
 さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。

 やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろいろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
 時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。

 もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
 「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。

 これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってきた時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さんはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
 残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
 だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。

  ゆふがすみ西の山の端つつむころひとりの吾は悲しかりけり
  緋の房のふすまはかたく閉ざされて今日も寂しくものおもへとや
  百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
  夕されば今日もかなしき悔いの色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
  何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
  君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか

  ただひとり生まれしゆえにひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は

 3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。

 ここにもあるとおり、白蓮は、15歳(数えで16歳)で子爵北小路資武と結婚しますが、それは愛のない、「わが十六の涙の日記」にほかならず「親を恨みし反逆者」の日々だったのです。一子をなしたものの、5年で破婚し、実家に戻ります。
当時の心境を彼女はこう歌います。

ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身

「蓮様(れんさま)」が、問題含みの転入生として朝ドラに登場したのが、この時期のことでした。それ以後のドラマの展開は、ほぼ史実を踏まえているようです。
その後、明治44年27歳の時、九州の炭鉱王と称された伊藤伝右衛門(朝ドラでは嘉納伝助)と結婚、大正4年に処女歌集『踏絵』を発表します。

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前

誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな

年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに


贅を尽くした、何不自由のないとも言える筑豊での暮らしぶりは、旧伊藤伝右衛門邸の様子からもしのぶことができます。しかし白蓮にとっては、この結婚生活は、心の満たされるものであったようです。


そのような中で、のちに社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と出会い、決意の駆け落ち事件、世にいう「白蓮事件」を引き起こし、これがマスコミ各社のスクープ合戦となって一大センセーションを巻き起こします。
テレビドラマは、ただいまこのあたりを進行しているようですね。

天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ

ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ

当時、明治憲法下では、「姦通罪」の定めがありました。姦通は,妻が行った場合は,夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰されますが,夫が行った場合は,その相手が人妻でない限り処罰されませんでした。男尊女卑の時代の反映でした。
従って、二人の駆け落ちという決断は、いわば命がけの行動と言えました。
最終的には、伝右衛門は告訴することなく、離婚を認め、白蓮は龍介との間に一男一女をもうけ、安らぎの家庭を得る事ができたそうです。

その白蓮を襲う思いがけない悲しみについては、また、朝ドラの展開とあわせて、話題にするかも知れません。


ここで、思わせぶりに予告した「思いがけない悲しみ」についてはこの記事で触れました。

政変のニュース痛まし麦の秋

 NHK朝ドラ「花子とアン」で、白蓮さんが、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を、吉太郎に渡しますね。

「君死にたまふ事なかれ」

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや


堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ


あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる


暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ


 
皮肉なことに、後に世を賑わせた「白蓮事件」の当事者=白蓮さんと、駆け落ち相手の宮崎隆介氏との間に生まれた愛息の香織氏は、早稲田大学政経学部在学中
に学徒出陣し、1945年(昭和20年)8月11日、所属基地が爆撃を受けて戦死します。享年23。終戦のわずか4日前でした。

ドラマの進行に即して、この記事も書きました。
いまさらに君死に給うことなかれ

享年23。終戦のわずか4日前でした。

柳原白蓮は、その悲しみを、こう詠んでいます。

たった四日生きていたらば死なざりしいのちと思ふ四日の切なさ


幼くて母の乳房をまさぐりしその手か軍旗捧げて征くは


英霊の生きて帰るがあると聞く子の骨壷よ振れば音する


写真(うつしえ)を仏となすにしのびんや若やぎ匂ふこの写真を 


 この記事にも書きましたが、「蓮様」が、意に染まぬ結婚話への悩みを抱えて花子の実家を訪ねた場面で、軍人志望の吉太郎に、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を渡す場面がありました。


皮肉なことに、 吉太郎は憲兵として白蓮夫妻を排撃する立場になり、最愛の息子は、彼女がかくも厭うた戦争によって命を奪われます。無数の白蓮、無数の母たちの嘆きを、今
の世に再現させることがないように、「君死にたまふ事なかれ」を再録し、ちょっと現代語訳を試みてみました(グリーンの文字が原詩、灰色文字が訳詩)。


「君死にたまふ事なかれ」


あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや



ああ、わたしのおとうと!あなたのためにわたしは泣くわ。
あなた、しんじゃだめ!
すえっこのあなただから、
とうさまもかあさまもあなたをとてもかわいがったわ。
そのとうさまやかあさまはあなたに軍刀を握らせて、
ひとをころせとおしえたかしら?
ひとをころしてしねとおもって、あなたを二十四歳までそだてたかしら



堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり



じゆうなまち堺の商人の、
代々ほこりたかい旧家のあるじで、
あととり息子のあなたなのだから、
あなた、しんじゃだめ!
ロシアの旅順がほろびても、
ほろびなくてもかまわないわ。
あなたはしらないでしょうね!商人の
わがやの掟にはないことよ!


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ



あなた、しんじゃだめ。
へいかはいくさに、
ごじしんではおいでになりませんが、
おたがいにひとの血をながして、
あさましいけものの道でしね、とか、
しぬことがひとの名誉だ、とかは、
へいかの慈愛はふかいので、
もとより、どうしておぼしめしましょうかしら?



あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる



ああ、わたしのおとうと!
あなた、しんじゃだめ!
そのむかし、いとしいとうさまに、
さきだたれなさったかあさまは、
深いかなしみなげきの上に、
わが子をいくさに召し上げられて、ひとりでいえをまもりぬき、
安泰と聞くご治世なのに、
かあさま白髪が増えました



暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ



お店ののれんに隠れて泣く、
可愛い若いにいづまを、
あなたお忘れ?それとも愛してる?
わずかとつきの新婚ぐらし、はなればなれに引き裂かれた
おとめごころを思ってご覧。
この世にひとりのあなたをおいて、
ああ!他のどなたを頼りにしよう。
あなた、絶対、しんじゃだめ!

私のブログ記事で「花子とアン」を初めて話題にしたのはこの記事だったようです。
その御名はいづれも尊き薔薇(そうび)どの
 

ところでバラの花といえば、以前書いたこの記事のように、シェークスピア「ロミオとジュリエット」の、このセリフを想起させます。

ュリエット「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの? お父様と縁を切り、家名をお捨てになって!
もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし。そうすれば、わたくしもこの場限りでキャピュレットの名を捨ててみせますわ」


ロミオ「 黙って、もっと聞いていようか、それとも声を掛けたものか?」


ジュリエット「わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくても、あなたはあなたのままよ。モンタギュー ――それが、どうしたというの?
手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、他のどんな部分でもないわ。ああ、何か他の名前をお付けになって。名前にどんな意味があるというの?
バラという花にどんな名前をつけようとも、その香りに変わりはないはずよ。ロミオ様だって同じこと。ロミオ様という名前でなくなっても、あの神のごときお姿
はそのままでいらっしゃるに決まっているわ。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって、そして、あなたの血肉でもなんでもない、その名前の代わりに、このわ
たくしのすべてをお受け取りになって頂きたいの」


新潮文庫 『ロミオとジュリエット』シェークスピア作 中野好夫訳

ところで、昨年の定年退職以降の、生活習慣の変化の一つは、「朝ドラ」を観るようになったことです。「あまちゃん」の頃はまだその習慣はありませんでした
が、「ごちそうさん」を何となく観はじめ、「花子とアン」に続いています。今年は4月から、週三日のアルバイト生活に入っていますが、出勤時間には余裕が
あって、ほぼ欠かさず観ることが出来ます。朝観られなくても、録画というものもありますし。
その「花子とアン」で、はなが女学校の文化祭に「ロミオトジュリエット」のシナリオ・演出を引き受ける一場面がありました。
その一こま(第26話
「ロミオ・モンタギュー、あなたの家と私の家は互いに憎しみ合う宿命 …
その忌まわしいモンタギューの名前をあなたが捨ててくださるなら、私も今すぐキャピレットの名を捨てますわ」
「名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」
「ええ、バラはたとえほかのどんな名前でも、香りは同じ … 名前が何だというのでしょう?」


というシェークスピアのセリフが、はなには納得できず、

もしバラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、あんな素敵に感じられるかしら?私のお父が吉平ではなく権兵衛って名前だったら、お母は好きになってるかしら?」

と、思案します、とはいえ、にわかに書き直すいとまもなく、時間をせかされて、稽古を続けていたところ、ロミオ役の醍醐亜矢子の、名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」のセリフを受けて、ジュリエット役の葉山蓮子(白蓮さん)が、即興でセリフをこう改変したのでした。





「ロミオ様、それはどうでしょうか …
もし、バラがアザミやキャベツという名前だったら、同じように香らないのではありませんか?
やはり名前は大事なものです」

ネット情報によると、このセリフは、本家本元モンゴメリの「赤毛のアン」のエピソードらしい。「赤毛のアン」のシリーズはもちろん、大昔、好んで読みましたが、ディテールは忘れておりました。


「そうかしら」アンは思いに耽った顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇が薊
(あざみ)とか座禅草(スカンク・キャベツ)とかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ」(第五章「アンの生いたち )



名前は大事というのは、「アン」自身もこだわったことのようでした。


佐佐木信綱のお弟子さんは、これだけじゃありません。聞きかじりの知ったかぶり記事は、なおも次回に続くのダ!



今日は雨が残る一日でしたが、合間をついて、倉敷市の種松山公園を訪ねてみました。お目当ては雨に濡れたアジサイです。その画像はまたの機会に譲り、今日は、雨に濡れたバラをアップさせていただきます。3000本の薔薇が植えられているそうです。















































「名前は大事」といいながら、お名前がわかりません。

今日はこれにて。
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