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青空に背いて栗の花匂う [文学雑話]

ネット検索していますと、後藤人徳(本名後藤瑞義)さんのHP「人徳の部屋」に、近藤芳美著『現代短歌』の紹介があり、こんな文章が掲載されていました。
「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」
そこには、歌人近藤芳美が、五島茂から手渡された「立春、五島ひとみ追悼号」遺歌稿を読んでの感想がしたためられています。
一部を引用します。

ひとみ歌集は、昭和九年八歳の時の、
お日様きらきら光つて 病院にゐるマミイはスイスの景色を思い出す
にはじまる。何という美しい童画の世界であろう。そうして、何と云うめぐまれた揺籃の色と匂いの世界であろうか。一人の一生を、このように出発すると云うことさえ、僕らの時代には稀な事だと言えるのではなかろうか。
  スプーンはベビーのつばにぬらされてしつとり朝日に輝いてゐる
  母上はベビーに夢中になりたまい朝夕みつめておあきにならぬ
十二歳のころの作である。「ベビーのつばにぬらされて」などと云う大胆な可憐な把握に微笑を感じる。このような幼年期の作に流れているものは、一様なミルク色の明るい光線の世界である。〈中略)五島ひとみの作品が生涯が、このおような幼い日からはじまって居ると云うことは、うらやまれてよい事だ、そうしてこのような日々が、母五島美千代の『暖流』から『丘の上』世界に、例えば次のような作品世界に、も一つやわらかに包まれて居ると云う事も、僕には美しすぎると思うのである。
  ま夜中にかく母と二人あそびしこと大きくなりては思ひ出でざらむ
  母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘いひに来し
  ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し
その、いたいけな幸せな幼女は、やがて少女となり、自立への階〈きざはし)をのぼっていくのですが、世はあたかも、戦争一色に彩られていく時代でした。
  新しき銀笛ときどきさはりつつ立春の夕べに桃色の袋縫ふ
等の作になると、この稚さなさの中に、もはや作者がミルク色の光線の部屋の中にのみ生きているのではない成長を感じる。この歌と並んで「鼓笛隊の練習終へて友と二人赤き顔みあはせむずかしさいひ合ふ」等の歌があるが、時代と、時代の中に独立した生命として成長して行こうとする一人の少女像が今から見ると少し悲しいようにくっきり浮かうとする。
女学生らは出征兵らを送迎し包帯をまき、鼓笛隊として凛々しい痛々しい行進をしていた目であった。「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と云うのは波郷の句であったのだろうか。なにか清潔で、悲劇的な句だと思ったのだが、ひとみさんの少女の日がちょうどその時期であったのだ。

  何となくはしやぎたくなる気持おさへ早く大人になりたしなどと思ふ
  よどみきつた様な空気おそろし鏡に向ひ思ひきり濃く口紅をぬつて見る

十六歳、十七歳のころの歌である。昭和十七年、十八年のころである。多くの、女学生らしい戦争詠と共にこのような歌も作られて居る。身をくねらせくねらせ、成長して行かうとする一人の少女の姿勢と心理とであろう。前者のいはば一種の育ちのよい稚さと共に後者のどこかしんの強い野性めいた反逆も、この作者の、いまだ自覚にまで至らない内面の真実なのであろう。何かこのような不逞なものが、この少女の内深く、云わば生理としてひめられてあったのではなかろうか。 
世の少年少女たちが、「進め一億火の玉だ」とあおられ、多かれ少なかれ軍国少年・軍国少女としての自我形成を余儀なくされた時代でした。
so-netブログの大先輩落合道人様のブログ
「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
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 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年

 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
(余談ですが、落合道人様の過去記事を拝読していて、先日来話題にしてきた九条武子と柳原白蓮に触れた詳細な考察を発見。早く読んでおけばと悔いたところです。
九条武子の手紙(5)/白蓮と。
九条武子の手紙(4)/下落合への転居。 
九条武子の手紙(3)/関東大震災。 
九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
九条武子の手紙(1)/下落合のご近所。
近藤芳美の「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」をさらにたどります。
   すべてみなわりきれし如き瞳の光姿勢を正し挙の礼したまふ
同じく十八年の作品。素直な、時局の中の女学生としての作品の中に、この歌のおのづからなうたがひと批判とを、作者はどの程度自覚して居たのであろうか。「すべてみなわりきれし如き瞳」とわりきれない作者との心理の差が、本当はこの歌ではほとんど偶然に提示されたのではなかろうか。しかし、「学徒出陣」をこのように見て行く自然な知性の成長を、この環境と時代に於いて、僕は興味深く感じるのである。

 終戦後のひとみさんを僕は知っている。美しい、それで居ながらどこかすでに独立した知性を身につけた少女として僕の眼にうつって居たが、それだけにこの人は何か幸せを指の間から落としてしまう人ではなかろうかとの危懼を感じた。無論そのころ僕はこの少女がどのような心の成長の歴史をたどって来たかを知るはずもなかった。酔ったとき僕は、「恋愛をしてごらんなさい」と軽薄な忠告をこころみたことがあったが、ひとみさんは「恋愛をしたら性質がかわりますでしょうか」と笑って淋しそうであった。ひとみさんはお母さんの過剰な情感が心の重荷のようでもあった。そのような自己疎外をこのころ次のように歌っている。
  およびがたくしづかな面を眺めつつ己の空虚さをうめたくあせる
  どの人もどの人も何かもつてゐるといふ事に一日おされてゐる
  ついて行けないとわかりきつてゐながらせいいつぱいかりものの論ふりまく
  結局は妥協にすぎないのに 背水の陣とひとりぎめしてゐる
  浮上りそうな足ふみしめふみしめ全身で風雨にぶつかつてゆく
  風の圧力に抗し夜道いそぎ身内一ぱいざわざわ血の流れを体感す
昭和二十三年、二十二歳の作である。
格を外した作品はすでに作品としても独立し得る。言はば一人前の作品である。戦争中のどこかぎこちない女学生の短歌ではなくなって居る。自分を含めてすべてをつきのけようとする孤独な生き方である。そのむかうになにか信じえる人生の本物を手さぐりしようとしたのかそれに早く疲れてしまったのか。
どうしようもないくらさじりじりせばまりくるにまだ自分のものと信じ切れない
  何方にゆくか態度決定のとき迫れり感情にまけまいとせい一ぱいな自分

之らの作につづいて次の如き作品がある。之がひとみさんの場合のほとんど最後の歌であり、しかも荒涼とした一種の相聞歌である事を知る。
  栗の葉をかさかさならし風ふきすぎゆくこの自然の調和を不思議に思ふ
  何故こんなに気に入らぬ言葉のみいふ相手かと気づけばわが心に関りあり
  善良そうに口ゆがめて話しかけるこの人をつきのけたく心底の不満もちたへてゐる
  あてもなくもゆる心もち遠く感ぜられる人々とゐる
作品としてもこのあたりのものはすべてすぐれていると思う。
しかし、風がふきならして行く栗の葉の音、その自然の調和の一瞬に、不思議と思わなければならない、ここまで生き、疲れて来た心情を、僕は二十代の少女としてあまり痛々しすぎると思わないでは居られない。その次の歌もそうである。こんような歌を相聞歌としてほとんど最後に作って居る短い美しい少女の一生を、僕はも一度「マミイはスイスの景色を思い出す」のあたたかい童話的な日ざしの日からふりかえり思わずには居られない。

疲れ果て、前途を見失い、心の支えも見いだせない乙女の不憫さを思うとともに、残された者の、もはや手をさしのべることもかなわぬ喪失感に、ただ頭を垂れるしかない私です。

下の写真は散歩道の栗の花。数日前の撮影です。

独特の青臭い、はしたないまでに生気に満ちた、どこか隠微な匂いが周囲にみなぎっています。


梅雨とは思えない晴天です。気温もうなぎ登りで、三〇度を記録しました。
アゲハは元気です。

そんな中を、孫とジャガイモ掘り体験に挑みました。というのも、長雨と高温多湿で、葉は枯れ、芋も腐り始めていることに気づいたからです。
これは昨日の収穫。

ここのところジャガイモ料理が続きます。これは、私の作った粉ふきいも。この材料のジャガイモは、郷里の老父母が作ったもので、かなり大量にあります。もちろん食べ飽きることはありませんがね。

こちらは今日の作業の模様。







大きいものから小さいものまで、かなりの収量です、果たして腐る前に食べきれるかどうか?
今日はゼロ歳児の母も、たまたま立ち寄り、塩ゆでジャガイモ、ポテトサラダ、ジャガイモポタージュスープをみんなでたらふく食べました。

、ではまた。


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コメント 4

ChinchikoPapa

拙記事を取り上げてくださり、ありがとうございました。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。^^
by ChinchikoPapa (2016-06-18 21:14) 

kazg

ChinchikoPapa様
ご訪問ありがとうございます。無断での引用、リンク、失礼しました。こちらこそ、よろしくお願いいたします。
by kazg (2016-06-18 21:50) 

majyo

まだ半分以上残っています。枯れていないのです
いっぱい採れましたね。お孫さん喜んだことでしょう
by majyo (2016-06-19 21:39) 

kazg

雨のせいか、暑さのせいか、地上部が広範囲に枯れました。まだかかろうじて緑色の葉っぱや茎がのこているものもあったのですが、孫もつきあってくれたので、晴れた機会に一気に片付けました。はしゃぎながら作業しましたが、さすがに炎天下の作業、少しバテたようでした。男の子は、午後は、サッカーの練習にでかけました。元気なものです。
by kazg (2016-06-19 22:27) 

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